13.氷の薔薇
翌月の本社会議。
絵里奈は朝、支店に立ち寄ってから新幹線に乗り、東京駅へと向かった。
駅に着くとタクシーに乗り込み、行先を告げる。
車窓から見える街並みは冬の光に包まれていて、彼女の心を少し落ち着かせた。
やがて本社ビルのロータリーに到着し、タクシーを降りる。
エントランスの自動ドアを抜けると、社員たちの視線が一斉に自分へ向けられているのを感じた。
探るような眼差し。噂はすでに広まっているのだ。
「水原GM」
背後から声を掛けられ、振り返ると片桐常務が立っていた。
「片桐常務、おはようございます」
前回の会議後、正式に通達が下り、絵里奈は北関東エリア二店舗を統括するゼネラルマネージャーとなった。
支店長はまだ兼務だが、副支店長が昇格すれば少しは楽になるはずだ。
「今日の会議の後、時間あるか?」
片桐の目は真っ直ぐで、何を聞きたいのかは明らかだった。
「午後は支店に戻りたいので、少しだけなら」
「では、会議が長引かないようにしよう」
片桐は短く言い残し、去っていった。
***
会議まで少し時間がある。
絵里奈は化粧直しのため女子トイレへ。
個室に入ると、外から女性社員たちの声が聞こえてきた。
「先月の昼休み、見た?」
「見た見たー」
「メルセデスの男、超かっこよかった」
「写真あるよ」
声は次第にひそひそ話に変わる。
「その後がもっとヤバかったんだって」
「…あの氷の薔薇が、ね」
彼女たちは笑いながら去っていった。
絵里奈は、頃合いを見計らって個室から出て、洗面台の鏡で最終チェックをする。
耳元に光るイヤリングを見るだけで、絵里奈は幸せな気持ちになる。
伊織が傍にいる感じがするのだ。
氷の薔薇。
いつからか、そう陰で呼ばれるようになったのは、優子から聞いて知っていた。
綺麗だと思って触れようとすると、冷たくて、鋭く、棘が刺さる。
いい呼び名よ。上等じゃない。
誰も触らないで。
私に触れられるのは、伊織だけ。
絵里奈はチェックを終えると、イヤリングにそっと触れた。
銀色の輝きが揺れるだけで、伊織の存在を感じられる。
そのまま会議室へ向かった。
***
会議は予定通り昼前に終了。
昼休み、食堂でコーヒーを飲んでいると優子がランチプレートを持ってやってきた。
「どう?社内の雰囲気」
「声は誰もかけてこない。片桐さんくらい」
午後に片桐に呼ばれていることを伝えると、優子は苦笑した。
「直球投げてくるわよ。彼氏のこと聞かれたらどうするの?」
「ん〜、どうしようかな」
優子はサンドイッチを頬張りながら続ける。
「片桐常務、最近開き直ってる。戦略会議で絵里奈を本社に戻そうって言ってた」
「どうなったの?」
「木崎専務が私情だって叱って、喧嘩になったの」
優子はその会議の様子を語った。
***
片桐は「水原支店長を本社に戻すべき」と主張。
木崎専務は「地元を知り尽くした彼女でなければ拡販はできない」と反論。
部長たちは沈黙。
やがて新店舗の支店長は別の人物に決まったが、絵里奈のGM就任には誰も異を唱えなかった。
「片桐、お前私情を挟んでるんちゃうか?」
木崎の一喝に、会議室は静まり返った。
片桐は顔を紅潮させ、拳を握りしめて立ち尽くす。
優子が場を収め、会議は終了した。
***
「そういう経緯があったのね」
優子の話を聞き終えた絵里奈は静かに呟いた。
昼休み終了のアナウンスが響き、午後一時。
二人は同時に席を立ち、食堂を後にした。
***
午後一時を少し過ぎた頃、絵里奈は常務室のドアをノックした。
「どうぞ」
中から声がする。
ドアを開けると、片桐がデスクから立ち上がり、ソファを指し示した。
「用件は」
絵里奈は、座らずに立ったまま、片桐に向かって言った。
「…今回のGM就任の件なんだが…」
「人事部長から、いきさつを聞きました」
「そうか」
「片桐常務からすれば、頼りないゼネラルマネージャーだとは存じますが、
北関東エリアは私の実家もある地域です。
新店舗の地域も、知らない土地ではありません」
片桐は、黙って聞いていた。
絵里奈は続けた。
「それに、北関東エリアには、もう何年も携わっております。ぜひこのまま、継続して携わっていきたいと強く願っております」
「そうか」
「…そのお話では無かったのですか?」
「あ、いや…まあ、そうだ」
「でしたら、これで失礼します」
絵里奈は、踵を返す。
「ま、待ってくれ」
片桐が言う。
「先月、水原GMを本社ビルまで迎えに来た者がいると聞いた」
絵里奈は、片桐に背中を向けたまま、顔だけを横に向けた。
「それが何か?」
「その、水原GMにとって、その人は…その…」
相変わらず、歯がゆい男だった。
昔から変わっていない。
それを、奥ゆかしいと思った時期もあり、惹かれたこともある。
片桐に求められた時は、身体を重ねた時もあった。
その時に気づいた。
片桐は、私を見てはいないことを。
私に似た、別の誰かの面影を見ている。
入社した時も、離婚後の会社復帰後も、世話になってきた。
その分は、仕事の実績で返したつもりだ。
だから今となっては、上司と部下の関係以上に絶対になり得ない。
「業務と何か関係が?」
「い、いや、何でもない」
「では、失礼いたします」
絵里奈は、片桐の方を振り向き、うやうやしく礼をしてから、退出していく。
ドアの前に立つと、絵里奈は片桐に背中を向けたまま言った。
「銀狼。そう呼ばれているそうですね」
片桐の呼吸が止まった気配が、背中越しに伝わった。
「彼は、私のフィアンセです」
絵里奈は、常務室のドアを開けて、出ていった。




