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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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106/107

106.「今のほうが、ずっと惹かれる」――鎌倉の潮風と、五十路を過ぎた二人の熱。若さよりも深く、静かに身体の奥へ染みる愛の余韻。

「絵里奈…」

伊織は、寝室のベッドで絵里奈を、ただただ抱き寄せていた。


もう五十は過ぎた。

それでも、絵里奈の身体は、美しかった。

近くに立つだけで、わずかに香りが揺れる。

肌そのものを見せつけるわけではないのに、衣服の下にある温度や、呼吸に合わせて変わる輪郭の柔らかさが、自然と想像を誘ってしまう。


肩にかかる布が、動くたびにほんの少しだけ形を変える。

その下にある肌の質感を、直接見たわけでもないのに、指先が覚えてしまいそうな気がする。


年齢を重ねた身体には、若さの鋭い光ではなく、触れればゆっくりと沈み込んでいきそうな、深い温もりの気配があった。

歩くたび、腰のあたりに生まれるわずかな揺らぎが、視線をそっと引き寄せる。

それは意図したものではなく、ただ彼女が生きてきた時間が、自然と身体の動きに滲み出ているだけなのに。


絵里奈の身体は、成熟した官能を纏っていた。

静かで、控えめで、けれど抗いがたい。

その美しさは、見つめるほどに、胸の奥で熱を帯びていく。


伊織の手がそっと絵里奈の腕に触れた。

その瞬間、触れられた場所だけが、ゆっくりと熱を帯びていく。


まるで、そこから身体の奥へと温度が流れ込んでいくようだった。

指先が肩へ、そして鎖骨のあたりへと滑っていく。


ほんのわずかな圧なのに、絵里奈は呼吸の仕方を忘れそうになる。

触れられた場所が、ひとつずつ確かに目覚めていくのがわかった。


伊織の顔が近づくと、彼の吐息が頬に触れた。

その温かさが、思っていた以上に深く響く。

胸の奥がきゅっと締めつけられ、次の瞬間には、ゆっくりとほどけていく。


彼の手が背中に回ったとき、絵里奈は自分の身体がわずかに震えるのを止められなかった。

その震えを、伊織は何も言わずに受け止める。

ただ、手のひらでそっと支えるように触れてくる。


その触れ方が、あまりにも優しくて、けれど確かで、絵里奈は目を閉じた。

触れられた場所が、ひとつずつ熱を持ち、その熱が身体の奥へと広がっていく。

行為そのものよりも、触れられた瞬間の温度と、その余韻のほうが、絵里奈にはずっと鮮明だった。


----


すべてが静かになったあと、絵里奈はしばらく動けなかった。

身体のどこかに、まだ伊織の手の温度が残っている。


肩のあたり、背中の奥、呼吸の深いところ。

そこに触れられた記憶だけが、ゆっくりと脈を打っていた。


窓の外では、潮の匂いを含んだ風が、古い木枠をかすかに揺らしている。

鎌倉の夜は、都会のように騒がしくない。


静けさが深く、まるで家そのものが二人の余韻を包み込んでくれているようだった。

畳に落ちる灯りは柔らかく、その光の中で、絵里奈の肌はまだ少しだけ熱を帯びていた。

自分の身体がこんなふうに反応することを、五十を過ぎた今でも、どこか信じられない気持ちで受け止めていた。


隣で伊織がゆっくりと息を整えている。

その呼吸のリズムが、さっきまで触れ合っていた距離を思い出させる。

胸の奥が、もう一度だけ静かに震えた。

外から聞こえるのは、遠くの波の音と、庭の竹が風に触れられるかすかな音だけ。

その音が、二人の間に残った熱を冷まさず、むしろそっと深めていく。


しばらくの沈黙のあと、伊織が隣でゆっくりと息を吐いた。

その音が、静かな鎌倉の夜に溶けていく。


「大丈夫?」


低く落ち着いた声が、暗がりの中でそっと響く。

絵里奈は、まだ整いきらない呼吸を胸の奥で抱えながら、

小さくうなずいた。


「大丈夫…ちょっと、まだ落ち着かないだけ」


伊織が微かに笑う気配がした。

その笑い声が、古い木の家の天井に柔らかく吸い込まれていく。

外では、遠くの波がゆっくり寄せては返していた。


「無理させてないかと思って」

「そんなこと、ないわよ」


言いながら、絵里奈は自分の肩に残る温度を意識する。

触れられた場所が、まだじんわりと熱い。


「伊織こそ、疲れてないの」

「疲れてたら、こんなに落ち着いてない」


彼の声は穏やかで、どこか照れを含んでいた。

しばらく二人は黙ったまま、開け放した障子の向こうから吹き込む潮風の音を聞いていた。

鎌倉の夜は、こういうときだけ妙に優しい。


「ねえ」


絵里奈は、少しだけ勇気を出して言った。


「こうしてると、若い頃より、ずっと安心する」


伊織はすぐには答えなかった。

代わりに、そっと絵里奈の手を探し、指を絡めてくる。

その温度が、言葉よりも先に胸に届く。


「…あの頃は、求めすぎてたね」

「…そうかもね、伊織は、特に」


絵里奈は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

波の音が、まるで二人の会話に合わせて寄せてくるようだった。

指を絡めたまま、しばらく二人は黙っていた。

沈黙が気まずくないのは、 さっきまで触れ合っていた温度が、まだ身体のどこかに残っているからだ。


「こんなふうに、ただ隣にいるだけで満たされるなんて、あの頃の俺は思いもしなかった」

「ふふ、私は覚えているわよ…いつも、この後かっこつけてタバコ吸ってた」

「え、そうだっけ?」

「で、いつも、この一服がうまいとか言うのよ…」

「…本当に恥ずかしいね」


伊織はすぐに否定しなかった。代わりに、絡めた指を少しだけ強く握った。

絵里奈は、その指を離して言った。


「私、もう五十を過ぎて、いろいろ変わって昔と違うでしょ」

「絵里奈」


名前を呼ぶ声が、波の音よりも深く響く。


「全部含めて好きだよ。今のほうが、ずっと惹かれる」


胸の奥が熱くなる。

潮風が障子を揺らし、古い家の木の匂いがふっと漂った。


「そんなこと言われたら、泣いちゃう」

「泣いていいよ」

「やだわ、そんな簡単に泣けない」

「じゃあ、泣きそうになるくらいでいい」


絵里奈は小さく笑った。

その笑い声が、夜の静けさに溶けていく。


「ありがとう」

「何度でも言うよ」

「何を」

「愛してる」

絵里奈は目を閉じた。

その言葉が、触れられた場所の余韻と同じ温度で、静かに身体の奥へ染みていく。


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