105.「やっと、終わったんだな」――下巻の重みと、本社の夜明け。木崎と片桐が守り抜いた城に、新しい風が吹き抜ける。
鎌倉の午後は、どこか柔らかい。
縁側から差し込む光が、絵里奈の髪を淡く照らしていた。
伊織は、湯飲みを置く絵里奈の横顔をじっと見ていた。
もう車いすはない。
歩くたびにまだ少しぎこちなさは残るが、それでも自分の足で立てるという事実が、日々の空気を変えていた。
変わったのは自分だけではない、と伊織は思う。
絵里奈もまた、どこか、手持ちぶさた、になっていた。
介助という役割がなくなった。
もちろん、二人きりで過ごす時間が増えて、やりたいこともできるし、旅行やドライブにも行ける。
昼まで抱き合っていることもあるし、至福の時間は続いている。
だが、それでも、手に余る時間。それをどう扱えばいいのか、まだ掴みきれていないような表情。
時折、見せるそんな表情を見て、伊織は言った。
「絵里奈」
呼ぶと、彼女はゆっくりこちらを向いた。
「ん?」
「…仕事に、未練は無いの?」
絵里奈は、瞬きを一度だけして、少し驚いたように目を見開いた。
「え?」
「仕事を辞めてまで、ずっと、俺のことを優先してくれてたけど、でも、もう大丈夫だ。俺は自分で歩けるし、生活もできる」
「伊織…でも」
「もし、絵里奈がまた、かつてのような仕事をしたい思いがあるなら、と思ったんだけど」
絵里奈は、膝の上で指を組んだまま、しばらく黙っていた。
縁側の外で、風が竹を揺らす音がする。
「…このままでもいい気もするし、でも、あの日々も懐かしい」
「そうだよな…」
「ありがとう、伊織…」
ソファベッドに座る伊織の横に来て、伊織に寄り添う。
「ただ、今はまだこうしていたいの…」
「うん、そうだね」
柔らかな風が空いた窓から吹き抜けてきた。
伊織は、絵里奈の肩を抱き寄せ、そっと唇を重ねた。
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北関東エリアの営業所は、朝から電話の音が絶えなかった。
仁は、まだ慣れないヘッドセットを耳にかけ、メモ帳を握りしめている。
「山村くん、クライアントの資料、昨日の修正入ってる?」
「はいっ、いま印刷します!」
慌ててプリンターに走るが、紙を逆にセットしてしまい、裏面に印刷される。
「あれっ? す、すみません!」
先輩が苦笑しながら紙を取り替える。
「焦らなくていいよ。広告は段取りが命だから、まず落ち着こう」
仁は深呼吸し、もう一度資料をセットし直した。
午後になると、北関東エリアの主要クライアントとの企画会議が始まった。
仁は端の席で、必死に議事録を取っている。
「来季のキャンペーンは、地域密着型でいきたいんですよ」
「SNSの動線を強化して、店舗誘導につなげましょう」
「競合の動きもチェックしておきます」
飛び交う専門用語に、仁のペンが追いつかない。
(SNS動線……? 競合分析……?)
だが、彼は諦めず、わからない単語に印をつけていく。
あとで、先輩に聞くためだった。
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数日後、仁は初めてバナー広告のラフ案を任された。
デザイナーに渡す前の“叩き台”だ。
「山村、キャッチコピー考えてみて」
「えっ、僕がですか?」
「うん。まずはやってみよう」
仁は、真っ白な紙に向かって唸った。
(キャッチコピーって……どう書くんだ?)
悩んだ末、震える字で書いた。
「地域の皆さまに、もっと笑顔を」
先輩は紙を受け取り、少し驚いたように目を細めた。
「……悪くないよ。素直で、まっすぐで」
「ほ、本当ですか?」
「うん。広告ってね、技術より“伝えたい気持ち”が先にあるんだよ」
仁は胸が熱くなった。
ある日、仁は初めてクライアントに電話をかける役を任された。
「お世話になっております! 北関東エリアの山村です!」
声が裏返り、先輩が吹き出しそうになる。
「えっと、その……資料の件で……あの……」
途中で言葉に詰まり、先輩が横からメモを差し出す。
(落ち着け……落ち着け……)
なんとか電話を終えると、仁は深く頭を下げた。
「すみません、僕……」
「大丈夫。最初はみんなそうだよ」
「でも、もっと上手くなりたいです」
「その気持ちがあれば十分」
仁は、また一つ成長した。
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ある日、鎌倉の出版社から一通の封筒が届いた。
差出人は、伊織の担当編集者。
絵里奈がポストから封筒を取り出すと、
紙の質感だけで“ただの連絡”ではないとわかった。
縁側で日向ぼっこをしていた伊織のもとへ歩き、封筒を差し出す。
「伊織、これ」
伊織は、ゆっくりと封を切った。
中には、刷り上がったばかりの見本誌が一冊。
『風の墓標 下巻』
深い群青色の表紙に、風に揺れる草原のシルエット。
上巻とは対照的に、どこか“夜明け前”の静けさを思わせるデザインだった。
伊織は、表紙を指先でなぞりながら、小さく息を吐いた。
「……やっと、終わったんだな」
「うん。終わったね」
絵里奈は、隣に腰を下ろし、伊織の横顔をそっと見つめた。
「風の墓標」は、伊織が事故に遭う前から書き続けていた長編だった。
上巻の刊行後、彼は倒れ、車いすでの生活になり、そして長いリハビリを経て、ようやく歩けるようになった。
そのすべての時間が、下巻の文章に静かに染み込んでいる。
「書きながら、何度も投げ出したくなったよ」
「知ってる。隣で見てたから」
「でも、書き終えられたのは、絵里奈がいたからだ」
絵里奈は、少しだけ目を伏せた。
「私は何もしてないよ。伊織が書いたんだよ」
「いや。俺一人じゃ、絶対に無理だった」
その言葉は、照れも誇張も無かった。
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本社の朝は、相変わらず慌ただしい。
だが、かつての混乱と違い、今は、前に進むための忙しさがあった。
木崎は、プロジェクターに映し出された資料の数字を見つめながら、腕を組んで唸っていた。
「北関東エリア、伸びてきとるな」
片桐が資料をめくりながら、淡々と答える。
「ええ。水原GMが不在でも、みなそれぞれの役目をきちんと果たしているようです」
「せやな。…ようここまで、やってくれたわ、絵里奈ちゃん…」
木崎は、ペンをくるくる回しながら、どこか寂しそうだった。
三枝の辞任後、役員の多くが責任を取って退職した。
その穴を埋めるため、片桐は複数の部門長を兼任し、木崎は社長として外部対応に奔走している。
「片桐、昨日も帰ってへんやろ」
「帰りましたよ。午前3時に」
「帰ったうちに入らんわ、それ」
木崎は呆れたように言いながらも、片桐の机に置かれた大量の資料に目をやる。
「……無理すんなよ。お前が倒れたら、ほんまに会社止まるで」
片桐は、少しだけ目を伏せた。
「わかっています。でも、今は踏ん張りどころですから」
「踏ん張るのはええけどな。人間、倒れたら終わりや。優子にも言われたやろ?」
片桐は、苦笑した。
「……あの人は、よく見てますからね」
午後の会議では、株主向けの報告資料が並べられた。
「木崎社長、今回の数字なら、株主総会も乗り切れます」
「せやな。あとは、俺のしゃべりでなんとかするわ」
「あなたのなんとかするは信用できません」
「ひどいなあ。俺の話術は株主に人気やで?」
「それがまた腹立つんですよ」
二人の軽口に、周囲の社員が小さく笑う。
だが、その裏には確かな手応えがあった。
売上は緩やかに回復し、新規クライアントも増え、北関東エリアの数字は予想以上に伸びている。
会社は、確かに前へ進んでいた。




