102.「愛している、絵里奈。ずっと一緒にいよう」――鎌倉の潮騒と、初めて結ばれたあの日のメロディ。一年後の夜、ようやく辿り着いた永遠の約束。
新田に襲撃を受けたあの日から、気づけば、もう一年が過ぎていた。
鎌倉の家の二階の窓から見える海は、どれだけ眺めても飽きることがない。
伊織はベッドの上で、腕の中に絵里奈を抱き寄せながら、その変わらない景色を見つめていた。
「まさか、こんなふうに絵里奈と過ごせる日が来るなんてな…」
ぽつりと漏れた言葉に、絵里奈が眠たげな目を上げる。
「どうしたの、急に…?」
夕方からずっと抱きしめていた温もりが、静かに胸に沁みていく。
夜になって、ようやく二人はこうして息をつけている。
「病院のベッドで寝ていた時にさ」
「…うん」
「若い頃の、自分の、夢を見たんだ」
「…私が、留学する前の頃?」
「…そう。…あの時は、なんというか、いまさらだけど、ごめん」
「ふふ、ほんと、いまさらね」
「見るに堪えなかった」
「…あの時の伊織ってさ…」
「…」
「なんだが、ほっとけなかったんだ…」
「そうなんだ」
「でも、すごく不安だったよ」
「…だよね」
「帰ってきてから、お金のことで、何回か会った時、怯えてなかった?」
「…そうかも」
しばらくの沈黙の後、絵里奈が語り始めた。
「新田の事…言った方がいい?」
「…うん。もう終わったことだけど、聞いてみたい」
「…今、振り返るとさ、あの時のあいつは、まるで若い頃のあなたみたいだったの」
「…俺みたい?じゃあ、ロクなやつじゃない」
苦笑いしながら、伊織が言う。
「多分、どこかで、私もあなたの面影を求めていたのもしれない…」
「あの頃の俺のどこが良かったんだろ?」
「ふふ…あるよ、一途なところ」
「…ああ、そうだった。もてないからね」
「そうだったんだ…伊織」
「ああ…モテたことなんてない」
「うそばっかり…」
「ほんとだって…」
絵里奈が伊織を見つめ始める。
伊織がふと、枕元のリモコンに手を伸ばす。
鎌倉の家に来てから、寝室のベッドで音楽を聴きながら眠りにつくことが好きになった。
あえて、昔ながらのCDコンポを用意していた。
CDは今でもネットで、いくらでも買えた。
「この曲…」
「俺、覚えているよ」
「私も…」
アコースティックギターのイントロから始まり、艶っぽい声のボーカルが入ってくる。
この曲を聴きながら、若い頃の伊織と絵里奈は、初めて結ばれた。
「…痛かったの、今でも覚えてる…」
「俺も、あの日は忘れたことない」
「ほんとに?」
「ほんとだって…」
笑いながら、囁き合う。
「でも…」
「でも?」
「本当に、こうして絵里奈のそばにいれる。生きていてよかった」
「伊織…」
何度言っても、言い足りなかった。
「愛しているよ、絵里奈。ずっと一緒にいよう」
「…私も、愛してるわ、伊織」
二人は見つめ合い、自然と唇を重ね合わせた。
夜は更けていく。
二人の鼓動を乗せて。
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優子は、篠崎の事務所を一度訪ねて以来、月に一度か二度、そこを訪ねるようになった。
約束をきっちり取り決めるわけではない。
「近くで打ち合わせがあるから」
「たまたま時間が空いたから」
そんな理由を口にしながらも、互いに、それが本当の理由ではないことを分かっていた。
事務所の中は、少しずつ生活の匂いを帯びていった。
最初は段ボールと机だけだった空間に、本棚が増え、安物のソファが置かれ、観葉植物がひとつだけ置かれた。
「これくらいなら、枯らさずに済むわよ」
優子が笑いながら選んだものだ。
「ちゃんと水、あげてます?」
「……ぎりぎり、枯らしてません」
「ぎりぎりって、どういう状態よ」
そんな他愛もないやりとりに、二人の距離は少しずつ、でも確実に縮まっていった。
話題の中心はいつも仕事だった。
会社の動き、佐伯の処分、新田の件。
新田の件の時には、直接調べてもらったりもしたのだ。
「中にいると見えないこと、外に出るとよく分かるんですね」
「たとえば?」
「怖がり方、ですかね」
「怖がり方?」
「誰が、何を守りたくて動いてるのか」
優子は、苦笑するように小さく息を吐いた。
「それ……聞きたくなかったかも」
「すみません」
「でも、分かるわ。最近、社内見てると特に」
そんなふうに、世界の見え方や違和感を重ねるような会話が増えていった。
気づけば、話題は仕事から少しずつずれていく。
休日の過ごし方、好きな食べ物、子どもの頃のこと。
以前、同じ会社にいた頃には、あえて踏み込まなかった領域だ。
「優子さん、意外とインドアなんですね」
「失礼ね。意外とって何よ」
「もっとこう、予定をびっしり入れてそうなイメージでした」
「ふふ。そう見える? ほんとはね、休みの日は誰にも会わないで、だらだら過ごしたいタイプよ」
「なんか、ちょっと安心しました」
「なにそれ」
「いや、あんまり完璧だと、隣に立つ勇気が出ないので」
その言葉に、優子は思わず黙り込んだ。
照れくささと、嬉しさと、少しの切なさが混じり合って、言葉がすぐには出てこない。
「完璧なんかじゃないわよ」
「そう見えてました」
「見せてただけよ。そう見えるように」
優子は、机の端に置かれた書類に視線を落とした。
自分の声が、思っていた以上に正直で、少しだけ怖かった。
「今は?」
篠崎の問いは、静かだった。
急かすことも、追い詰めることもない。
優子は、顔を上げた。
窓の外の夕暮れが、事務所の中をゆっくりとオレンジ色に染めていた。
「今は……がんばってちゃんとしてるところ、そんなに見せなくてもいいかなって思える。
少なくとも、ここでは」
「それは……光栄です」
篠崎の言葉もまた、少しだけ震えていた。
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伊織と絵里奈が鎌倉に移住してから半年が過ぎた頃。
篠崎の事務所の観葉植物は、予想外に元気に葉を伸ばしていた。
「そういえば、伊織さん達、鎌倉に移住したんですよね?」
「ええ…絵里奈も一緒」
「…水原さんは、仕事辞めたんですよね?リハビリのために」
「そうなんだけど、一応休業扱いになってる」
篠崎は、机の上の書類をそっと閉じた。
その仕草には、どこか安堵と少しの心配が混じっているように見えた。
「連絡とってるの?」
「いえ、最近は。邪魔しちゃいけませんし」
「そうね、私もそうだけどね」
篠崎は、観葉植物の伸びた葉を指先でそっと触れた。
「会社は、もう大丈夫そうですね」
「まあ、あれだけ炎上してたのが嘘のように、ね」
「世間は、飽きっぽいですから」
「そういう海斗は?」
「ぼちぼちです」
仕事も、少しずつ軌道に乗り始めていた。
紹介で入る案件が増え、夜遅くまで資料に向かう日も多い。
それでも篠崎の表情には、以前会社にいた頃とは違う色があった。
「大変そうね」
「はい。正直、しんどいです」
「後悔してる?」
「してないです。怖くはありますけど」
「怖い?」
「失敗したら、全部自分の責任だから」
そう言いながらも、篠崎の目はまっすぐだった。
恐れを認めながら、前を見据えるような目だ。
「でも、不思議なんですよね」
「なにが?」
「怖いけど、嫌じゃないんです。自分の人生ですから」
優子は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「やっぱり、変わったのね、あなた」
思わず漏れた言葉に、篠崎は照れたように笑った。
「優子さんのおかげですよ」
「どうして?」
「ここで、何言ってもちゃんと聞いてもらえるって思えるから。だから、怖くても、正直でいようって思えるんです」
「そんな大層なこと、してないわよ」
「……俺にとっては、大層なんです」
視線が触れ合う。
もう、以前のように目を逸らすことはなかった。




