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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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102/107

102.「愛している、絵里奈。ずっと一緒にいよう」――鎌倉の潮騒と、初めて結ばれたあの日のメロディ。一年後の夜、ようやく辿り着いた永遠の約束。

新田に襲撃を受けたあの日から、気づけば、もう一年が過ぎていた。


鎌倉の家の二階の窓から見える海は、どれだけ眺めても飽きることがない。

伊織はベッドの上で、腕の中に絵里奈を抱き寄せながら、その変わらない景色を見つめていた。


「まさか、こんなふうに絵里奈と過ごせる日が来るなんてな…」


ぽつりと漏れた言葉に、絵里奈が眠たげな目を上げる。


「どうしたの、急に…?」


夕方からずっと抱きしめていた温もりが、静かに胸に沁みていく。

夜になって、ようやく二人はこうして息をつけている。


「病院のベッドで寝ていた時にさ」

「…うん」


「若い頃の、自分の、夢を見たんだ」

「…私が、留学する前の頃?」


「…そう。…あの時は、なんというか、いまさらだけど、ごめん」

「ふふ、ほんと、いまさらね」


「見るに堪えなかった」

「…あの時の伊織ってさ…」


「…」

「なんだが、ほっとけなかったんだ…」


「そうなんだ」

「でも、すごく不安だったよ」


「…だよね」

「帰ってきてから、お金のことで、何回か会った時、怯えてなかった?」


「…そうかも」


しばらくの沈黙の後、絵里奈が語り始めた。

「新田の事…言った方がいい?」


「…うん。もう終わったことだけど、聞いてみたい」

「…今、振り返るとさ、あの時のあいつは、まるで若い頃のあなたみたいだったの」

「…俺みたい?じゃあ、ロクなやつじゃない」


苦笑いしながら、伊織が言う。


「多分、どこかで、私もあなたの面影を求めていたのもしれない…」

「あの頃の俺のどこが良かったんだろ?」

「ふふ…あるよ、一途なところ」

「…ああ、そうだった。もてないからね」


「そうだったんだ…伊織」

「ああ…モテたことなんてない」


「うそばっかり…」

「ほんとだって…」


絵里奈が伊織を見つめ始める。

伊織がふと、枕元のリモコンに手を伸ばす。

鎌倉の家に来てから、寝室のベッドで音楽を聴きながら眠りにつくことが好きになった。

あえて、昔ながらのCDコンポを用意していた。

CDは今でもネットで、いくらでも買えた。


「この曲…」

「俺、覚えているよ」

「私も…」


アコースティックギターのイントロから始まり、艶っぽい声のボーカルが入ってくる。

この曲を聴きながら、若い頃の伊織と絵里奈は、初めて結ばれた。


「…痛かったの、今でも覚えてる…」

「俺も、あの日は忘れたことない」

「ほんとに?」

「ほんとだって…」


笑いながら、囁き合う。


「でも…」

「でも?」

「本当に、こうして絵里奈のそばにいれる。生きていてよかった」

「伊織…」


何度言っても、言い足りなかった。


「愛しているよ、絵里奈。ずっと一緒にいよう」

「…私も、愛してるわ、伊織」


二人は見つめ合い、自然と唇を重ね合わせた。

夜は更けていく。

二人の鼓動を乗せて。


----


優子は、篠崎の事務所を一度訪ねて以来、月に一度か二度、そこを訪ねるようになった。

約束をきっちり取り決めるわけではない。


「近くで打ち合わせがあるから」

「たまたま時間が空いたから」

そんな理由を口にしながらも、互いに、それが本当の理由ではないことを分かっていた。

事務所の中は、少しずつ生活の匂いを帯びていった。


最初は段ボールと机だけだった空間に、本棚が増え、安物のソファが置かれ、観葉植物がひとつだけ置かれた。


「これくらいなら、枯らさずに済むわよ」


優子が笑いながら選んだものだ。


「ちゃんと水、あげてます?」

「……ぎりぎり、枯らしてません」

「ぎりぎりって、どういう状態よ」


そんな他愛もないやりとりに、二人の距離は少しずつ、でも確実に縮まっていった。


話題の中心はいつも仕事だった。

会社の動き、佐伯の処分、新田の件。

新田の件の時には、直接調べてもらったりもしたのだ。


「中にいると見えないこと、外に出るとよく分かるんですね」

「たとえば?」

「怖がり方、ですかね」

「怖がり方?」

「誰が、何を守りたくて動いてるのか」


優子は、苦笑するように小さく息を吐いた。


「それ……聞きたくなかったかも」

「すみません」

「でも、分かるわ。最近、社内見てると特に」


そんなふうに、世界の見え方や違和感を重ねるような会話が増えていった。

気づけば、話題は仕事から少しずつずれていく。

休日の過ごし方、好きな食べ物、子どもの頃のこと。

以前、同じ会社にいた頃には、あえて踏み込まなかった領域だ。


「優子さん、意外とインドアなんですね」

「失礼ね。意外とって何よ」

「もっとこう、予定をびっしり入れてそうなイメージでした」

「ふふ。そう見える? ほんとはね、休みの日は誰にも会わないで、だらだら過ごしたいタイプよ」

「なんか、ちょっと安心しました」

「なにそれ」

「いや、あんまり完璧だと、隣に立つ勇気が出ないので」


その言葉に、優子は思わず黙り込んだ。

照れくささと、嬉しさと、少しの切なさが混じり合って、言葉がすぐには出てこない。


「完璧なんかじゃないわよ」

「そう見えてました」

「見せてただけよ。そう見えるように」


優子は、机の端に置かれた書類に視線を落とした。

自分の声が、思っていた以上に正直で、少しだけ怖かった。


「今は?」


篠崎の問いは、静かだった。

急かすことも、追い詰めることもない。

優子は、顔を上げた。

窓の外の夕暮れが、事務所の中をゆっくりとオレンジ色に染めていた。


「今は……がんばってちゃんとしてるところ、そんなに見せなくてもいいかなって思える。

少なくとも、ここでは」

「それは……光栄です」


篠崎の言葉もまた、少しだけ震えていた。


----


伊織と絵里奈が鎌倉に移住してから半年が過ぎた頃。

篠崎の事務所の観葉植物は、予想外に元気に葉を伸ばしていた。


「そういえば、伊織さん達、鎌倉に移住したんですよね?」

「ええ…絵里奈も一緒」

「…水原さんは、仕事辞めたんですよね?リハビリのために」

「そうなんだけど、一応休業扱いになってる」


篠崎は、机の上の書類をそっと閉じた。

その仕草には、どこか安堵と少しの心配が混じっているように見えた。


「連絡とってるの?」

「いえ、最近は。邪魔しちゃいけませんし」

「そうね、私もそうだけどね」


篠崎は、観葉植物の伸びた葉を指先でそっと触れた。


「会社は、もう大丈夫そうですね」

「まあ、あれだけ炎上してたのが嘘のように、ね」

「世間は、飽きっぽいですから」

「そういう海斗は?」

「ぼちぼちです」


仕事も、少しずつ軌道に乗り始めていた。

紹介で入る案件が増え、夜遅くまで資料に向かう日も多い。

それでも篠崎の表情には、以前会社にいた頃とは違う色があった。


「大変そうね」

「はい。正直、しんどいです」


「後悔してる?」

「してないです。怖くはありますけど」


「怖い?」

「失敗したら、全部自分の責任だから」


そう言いながらも、篠崎の目はまっすぐだった。

恐れを認めながら、前を見据えるような目だ。


「でも、不思議なんですよね」

「なにが?」

「怖いけど、嫌じゃないんです。自分の人生ですから」


優子は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「やっぱり、変わったのね、あなた」


思わず漏れた言葉に、篠崎は照れたように笑った。


「優子さんのおかげですよ」

「どうして?」

「ここで、何言ってもちゃんと聞いてもらえるって思えるから。だから、怖くても、正直でいようって思えるんです」

「そんな大層なこと、してないわよ」

「……俺にとっては、大層なんです」


視線が触れ合う。

もう、以前のように目を逸らすことはなかった。

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