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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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101/107

101.「これからも、一緒に行こう」――伊織が握るハンドルと、江の島の光。そして、新入社員「山村仁」が踏み出す第一歩。

家の前には海が広がっている。

その海岸沿いを、ゆっくり歩いてみることにした。


あの事件から数カ月。

伊織はようやく、杖を頼りにではあるが、自分の足で歩けるようになった。

絵里奈が仕事を辞めてまで寄り添い、支えてくれたおかげだ。


とはいえ、まだ無理はできない。

少し調子に乗ると、すぐに足がもつれて転びそうになる。

長い療養で、筋肉はすっかり落ちてしまっていた。


玄関のドアを開けて、外に出る。

海からの風が心地良い。

隣には、絵里奈が穏やかな表情で、ぴたりとついている。


「今日は、あそこまで歩こう」

「うん、行こう」


ゆっくりとだが、伊織は自分の足で歩き始めた。


----


優子は、デスクの上に積み上がった履歴書を眺めていた。

中途採用者の書類審査の最終承認をしなければならない。

あの事件で、かつて社長だった三枝が辞任し、木崎が社長になった。


片桐は専務となったが、役員や役職者で退職していった者も多く、数ある部門のほとんどの長も兼任している。

片桐は、相変わらず、朝から深夜まで会社にいて仕事をしていた。


木崎は、関連会社やマスコミ対応に追われていたが、数カ月も経つ頃には、段々と騒ぎも沈静化してきた。

独特の軽妙なしゃべり口調と、暗さを感じない性格が功を奏して、株主達からの信用も回復してきた。

それに伴い、人材もまた集まりつつあった。


積み上がった書類の中には、絵里奈が立ち上げた、北関東エリアの分の履歴書も含まれている。

来年度に、追加で店舗を作る事が決まっていたため、中途採用を募集したのだ。


その中に、山村仁と書かれた封筒があった。


優子は、封筒から、履歴書と職務経歴書を取り出して、目を通し始めた。

年齢は若かったが、応募の基準である学歴を満たしていない。


職務に関しては、異業種からの転職であり、さらに短期間で転々としていた。

書類1次審査で不合格になったのだろう。

合格でも、不合格でも、必ず優子はすべてに目を通すようにしていた。

だから、デスクには履歴書が積み上がっているのだ。


山村、という姓には、どこかで聞き覚えがあった気がするが、思い出せない。

不合格のまま処理しよう、と思った矢先、備考欄の文字が目についた。


是非とも御社で、働かせて下さい。

学歴はありませんし、経験もありませんが、やる気だけはあります。

大山支店で、色々勉強したいです。

死ぬ気で頑張りますので、何卒よろしくお願いします。


なぜ大山支店なのか。

優子は首をかしげた。

絵里奈に確認しようかと一瞬思ったが、すぐに思い直す。

まずは試してみればいい。

だめならだめで、仕方がない。

そう腹を決めた優子は、その書類を二次審査の面接へと回すことにした。


----


それから、さらに数カ月が過ぎた。

伊織の右足は、多少のぎこちなさはあるものの、動くようになり、遂に一人で歩けるようになっていた。

執筆しながらのリハビリだったが、絵里奈の献身的な支えが大きかったのだ。

そして、今日は朝からドライブに行くと決めた日だった。

かつてのように、絵里奈を後部座席にエスコートし、伊織は、運転席に乗り込んだ。


ハンドルに手を添えると、まだ右足にわずかな緊張が走った。

それでも、エンジンが静かに唸りを上げると、胸の奥に小さな達成感が灯る。

絵里奈は後部座席でシートベルトを締め、前かがみになって伊織の横顔を覗き込んだ。


「無理しないでね。ゆっくりでいいから」

「分かってるよ。今日は、ただ走りたいだけだから」


車はゆっくりと海沿いの道へと滑り出した。

朝の光が海面に反射し、細かい粒のようにきらめいている。

窓を少し開けると、潮の匂いと冷たい風が車内に流れ込んだ。


由比ヶ浜を過ぎる頃には、車内の空気はすっかり柔らかくなっていた。

伊織は慎重にアクセルを踏み込み、速度を少しだけ上げる。

右足はまだ完全ではないが、痛みはない。


「ねえ、どこまで行くの?」


絵里奈が聞く。


「決めてない。でも、江の島のあたりまで行けたらいいなって思ってる」

「いいね。じゃあ、途中でどこか寄ろうよ。海の見えるカフェとか」

「そんな余裕、俺にあるかな」

「あるよ。だって、もうこんなに運転できてるんだもん」


バックミラー越しに目が合う。

その瞬間、伊織の胸に、ふっと温かいものが広がった。

彼女の言葉は、いつだって自分を前へ押し出してくれる。


国道134号線に入ると、視界が一気に開けた。

右手には青い海、左手には古い家並みや小さな店が続く。

休日の朝らしく、サーフボードを抱えた若者たちが歩道を歩いている。


「ねえ、あそこ。新しい店できてる」


絵里奈が指差す。


「ほんとだ。前は空き家だったよな」

「帰りに寄ってみようよ。テラス席があるみたい」

「……うん、そうしよう」


その「うん」は、以前よりもずっと自然に出てきた。

自分の中で、ようやく「未来」という言葉が現実味を帯び始めているのを感じる。

江の島が近づくにつれ、潮の香りが濃くなった。

橋の手前で車を停めると、伊織は深く息を吸い込んだ。


「ここまで来れたな」

「来れたね。すごいよ、伊織」

「……ありがとう。ずっと支えてくれて」


絵里奈は、後部座席から身を乗り出し、そっと伊織の肩に触れた。

その手は、あの日からずっと変わらず温かい。


「これからも、一緒に行こうね。ゆっくりでいいから」

「うん。ゆっくりでいい」


海の向こうに、冬の陽光が淡く広がっていた。

二人の時間は、ようやく静かに、確かに前へ進み始めていた。


----


面接会場の前の廊下は、昼下がりの静けさに包まれていた。

優子は、面接官用の資料を整えながら、ふと時計を見る。


次の面接者は、山村仁。


あの履歴書の備考欄の文字が、まだ頭の片隅に残っている。

ノックの音がした。


「どうぞ」


扉がゆっくりと開き、若い男が緊張した面持ちで入ってきた。

黒髪は少し伸び気味で、スーツは新品だが、どこか着慣れていない。

背筋は伸ばそうとしているが、ぎこちない。

それでも、目だけは真っ直ぐだった。


「や、山村仁です。本日はよろしくお願いします!」


声が少し裏返った。

優子は、思わず小さく笑みをこぼす。


「どうぞ、お掛けください」


仁は深く頭を下げ、椅子に座った。

膝の上に置いた手が震えているのが分かる。


「緊張してますか?」

「はい。すみません。でも、絶対に受かりたいので」


その言葉に、優子は履歴書の備考欄を思い出す。

“死ぬ気で頑張りますので”

あれは、誇張ではなく、本気の言葉だったのかもしれない。


「では、まず簡単に自己紹介をお願いします」


仁は息を吸い込み、言葉を選びながら話し始めた。


「高校を出てから、いろんな仕事をしました。でも、どれも長く続かなくて」


「…それは、何故ですか?」

「…怒られると、つい言い返してしまい、そして人間関係が、特に上司との人間関係がこじれて、しまい…」


そこまで言うと、仁は口をつぐんだ。


「なるほど。弊社を希望した理由は?」

「は、はい。…あ、あの、実は…正直に言っていいですか?」

「もちろん」

「あの、絵里奈さんが、水原…絵里奈さんが勤めていた会社で、働きたいと思ったからです」


優子は、やはり首をかしげる。

何故、この子は絵里奈のことを知っているのだろう。

優子は直球で質問してみた。


「…何故、あなたは水原さんの事を知っているのですか?」

「…あの、えーと、父の…」

「父?」

「は、はい。父の、えっと、再婚相手の方で、その、父から絵里奈さんの会社がすごくいいところだと聞いてまして」


思い出した。

山村は、絵里奈の夫、伊織の旧姓だ。


「ああ、なるほど、そういうことだったんですね」

「はい。あの、父と絵里奈さんにはまだ言ってません」


その言葉は、飾り気がなく、まっすぐだった。

優子は、書類だけでは分からない熱を感じ取っていた。

北関東エリアは、少しずつではあるが、毎年伸びている。

若い人材は必要だった。


「そういうことであれば、絵里奈から紹介してもらえばよかったのに」

「い、いえ、あの、そ、そうですよね…」


あの伊織の息子。そう言われれば、声は似ている。

だが、仕事は仕事だ。

伝えるべきことは伝えなければならない。


「山村さん、あなたは、応募資格を満たしておりませんし、異業種からの転職になります」

「あ…はい…」

「一応、社内で検討はしますが、結果に関しては、保証はできません」

「です、よね…」

「最後に、何か質問はありますか?」

「……もし、受かったら、大山支店に配属してもらえるんでしょうか」


優子は、少しだけ微笑んだ。


「配属は、会社の判断になります。ただ、あなたの気持ちは、よく伝わりました」


仁は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。本当に、よろしくお願いします」


面接室を出ていく背中は、どこか、まだ頼りない。


優子は、静かに息を吐き、書類に目を落とす。

そして、ペンを取った。


面接通過。


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