101.「これからも、一緒に行こう」――伊織が握るハンドルと、江の島の光。そして、新入社員「山村仁」が踏み出す第一歩。
家の前には海が広がっている。
その海岸沿いを、ゆっくり歩いてみることにした。
あの事件から数カ月。
伊織はようやく、杖を頼りにではあるが、自分の足で歩けるようになった。
絵里奈が仕事を辞めてまで寄り添い、支えてくれたおかげだ。
とはいえ、まだ無理はできない。
少し調子に乗ると、すぐに足がもつれて転びそうになる。
長い療養で、筋肉はすっかり落ちてしまっていた。
玄関のドアを開けて、外に出る。
海からの風が心地良い。
隣には、絵里奈が穏やかな表情で、ぴたりとついている。
「今日は、あそこまで歩こう」
「うん、行こう」
ゆっくりとだが、伊織は自分の足で歩き始めた。
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優子は、デスクの上に積み上がった履歴書を眺めていた。
中途採用者の書類審査の最終承認をしなければならない。
あの事件で、かつて社長だった三枝が辞任し、木崎が社長になった。
片桐は専務となったが、役員や役職者で退職していった者も多く、数ある部門のほとんどの長も兼任している。
片桐は、相変わらず、朝から深夜まで会社にいて仕事をしていた。
木崎は、関連会社やマスコミ対応に追われていたが、数カ月も経つ頃には、段々と騒ぎも沈静化してきた。
独特の軽妙なしゃべり口調と、暗さを感じない性格が功を奏して、株主達からの信用も回復してきた。
それに伴い、人材もまた集まりつつあった。
積み上がった書類の中には、絵里奈が立ち上げた、北関東エリアの分の履歴書も含まれている。
来年度に、追加で店舗を作る事が決まっていたため、中途採用を募集したのだ。
その中に、山村仁と書かれた封筒があった。
優子は、封筒から、履歴書と職務経歴書を取り出して、目を通し始めた。
年齢は若かったが、応募の基準である学歴を満たしていない。
職務に関しては、異業種からの転職であり、さらに短期間で転々としていた。
書類1次審査で不合格になったのだろう。
合格でも、不合格でも、必ず優子はすべてに目を通すようにしていた。
だから、デスクには履歴書が積み上がっているのだ。
山村、という姓には、どこかで聞き覚えがあった気がするが、思い出せない。
不合格のまま処理しよう、と思った矢先、備考欄の文字が目についた。
是非とも御社で、働かせて下さい。
学歴はありませんし、経験もありませんが、やる気だけはあります。
大山支店で、色々勉強したいです。
死ぬ気で頑張りますので、何卒よろしくお願いします。
なぜ大山支店なのか。
優子は首をかしげた。
絵里奈に確認しようかと一瞬思ったが、すぐに思い直す。
まずは試してみればいい。
だめならだめで、仕方がない。
そう腹を決めた優子は、その書類を二次審査の面接へと回すことにした。
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それから、さらに数カ月が過ぎた。
伊織の右足は、多少のぎこちなさはあるものの、動くようになり、遂に一人で歩けるようになっていた。
執筆しながらのリハビリだったが、絵里奈の献身的な支えが大きかったのだ。
そして、今日は朝からドライブに行くと決めた日だった。
かつてのように、絵里奈を後部座席にエスコートし、伊織は、運転席に乗り込んだ。
ハンドルに手を添えると、まだ右足にわずかな緊張が走った。
それでも、エンジンが静かに唸りを上げると、胸の奥に小さな達成感が灯る。
絵里奈は後部座席でシートベルトを締め、前かがみになって伊織の横顔を覗き込んだ。
「無理しないでね。ゆっくりでいいから」
「分かってるよ。今日は、ただ走りたいだけだから」
車はゆっくりと海沿いの道へと滑り出した。
朝の光が海面に反射し、細かい粒のようにきらめいている。
窓を少し開けると、潮の匂いと冷たい風が車内に流れ込んだ。
由比ヶ浜を過ぎる頃には、車内の空気はすっかり柔らかくなっていた。
伊織は慎重にアクセルを踏み込み、速度を少しだけ上げる。
右足はまだ完全ではないが、痛みはない。
「ねえ、どこまで行くの?」
絵里奈が聞く。
「決めてない。でも、江の島のあたりまで行けたらいいなって思ってる」
「いいね。じゃあ、途中でどこか寄ろうよ。海の見えるカフェとか」
「そんな余裕、俺にあるかな」
「あるよ。だって、もうこんなに運転できてるんだもん」
バックミラー越しに目が合う。
その瞬間、伊織の胸に、ふっと温かいものが広がった。
彼女の言葉は、いつだって自分を前へ押し出してくれる。
国道134号線に入ると、視界が一気に開けた。
右手には青い海、左手には古い家並みや小さな店が続く。
休日の朝らしく、サーフボードを抱えた若者たちが歩道を歩いている。
「ねえ、あそこ。新しい店できてる」
絵里奈が指差す。
「ほんとだ。前は空き家だったよな」
「帰りに寄ってみようよ。テラス席があるみたい」
「……うん、そうしよう」
その「うん」は、以前よりもずっと自然に出てきた。
自分の中で、ようやく「未来」という言葉が現実味を帯び始めているのを感じる。
江の島が近づくにつれ、潮の香りが濃くなった。
橋の手前で車を停めると、伊織は深く息を吸い込んだ。
「ここまで来れたな」
「来れたね。すごいよ、伊織」
「……ありがとう。ずっと支えてくれて」
絵里奈は、後部座席から身を乗り出し、そっと伊織の肩に触れた。
その手は、あの日からずっと変わらず温かい。
「これからも、一緒に行こうね。ゆっくりでいいから」
「うん。ゆっくりでいい」
海の向こうに、冬の陽光が淡く広がっていた。
二人の時間は、ようやく静かに、確かに前へ進み始めていた。
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面接会場の前の廊下は、昼下がりの静けさに包まれていた。
優子は、面接官用の資料を整えながら、ふと時計を見る。
次の面接者は、山村仁。
あの履歴書の備考欄の文字が、まだ頭の片隅に残っている。
ノックの音がした。
「どうぞ」
扉がゆっくりと開き、若い男が緊張した面持ちで入ってきた。
黒髪は少し伸び気味で、スーツは新品だが、どこか着慣れていない。
背筋は伸ばそうとしているが、ぎこちない。
それでも、目だけは真っ直ぐだった。
「や、山村仁です。本日はよろしくお願いします!」
声が少し裏返った。
優子は、思わず小さく笑みをこぼす。
「どうぞ、お掛けください」
仁は深く頭を下げ、椅子に座った。
膝の上に置いた手が震えているのが分かる。
「緊張してますか?」
「はい。すみません。でも、絶対に受かりたいので」
その言葉に、優子は履歴書の備考欄を思い出す。
“死ぬ気で頑張りますので”
あれは、誇張ではなく、本気の言葉だったのかもしれない。
「では、まず簡単に自己紹介をお願いします」
仁は息を吸い込み、言葉を選びながら話し始めた。
「高校を出てから、いろんな仕事をしました。でも、どれも長く続かなくて」
「…それは、何故ですか?」
「…怒られると、つい言い返してしまい、そして人間関係が、特に上司との人間関係がこじれて、しまい…」
そこまで言うと、仁は口をつぐんだ。
「なるほど。弊社を希望した理由は?」
「は、はい。…あ、あの、実は…正直に言っていいですか?」
「もちろん」
「あの、絵里奈さんが、水原…絵里奈さんが勤めていた会社で、働きたいと思ったからです」
優子は、やはり首をかしげる。
何故、この子は絵里奈のことを知っているのだろう。
優子は直球で質問してみた。
「…何故、あなたは水原さんの事を知っているのですか?」
「…あの、えーと、父の…」
「父?」
「は、はい。父の、えっと、再婚相手の方で、その、父から絵里奈さんの会社がすごくいいところだと聞いてまして」
思い出した。
山村は、絵里奈の夫、伊織の旧姓だ。
「ああ、なるほど、そういうことだったんですね」
「はい。あの、父と絵里奈さんにはまだ言ってません」
その言葉は、飾り気がなく、まっすぐだった。
優子は、書類だけでは分からない熱を感じ取っていた。
北関東エリアは、少しずつではあるが、毎年伸びている。
若い人材は必要だった。
「そういうことであれば、絵里奈から紹介してもらえばよかったのに」
「い、いえ、あの、そ、そうですよね…」
あの伊織の息子。そう言われれば、声は似ている。
だが、仕事は仕事だ。
伝えるべきことは伝えなければならない。
「山村さん、あなたは、応募資格を満たしておりませんし、異業種からの転職になります」
「あ…はい…」
「一応、社内で検討はしますが、結果に関しては、保証はできません」
「です、よね…」
「最後に、何か質問はありますか?」
「……もし、受かったら、大山支店に配属してもらえるんでしょうか」
優子は、少しだけ微笑んだ。
「配属は、会社の判断になります。ただ、あなたの気持ちは、よく伝わりました」
仁は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、よろしくお願いします」
面接室を出ていく背中は、どこか、まだ頼りない。
優子は、静かに息を吐き、書類に目を落とす。
そして、ペンを取った。
面接通過。




