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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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100/107

100.「次は、海まで一緒に歩きたい」――潮騒に溶ける誓いと、絵里奈の温もり。不自由な身体さえ愛おしくなる、鎌倉の穏やかな夜。

鎌倉での生活は、ゆっくりとしたリズムで流れていった。

朝、海の光がカーテン越しに差し込むと、伊織はゆっくりと上体を起こす。

右足はまだ思うようには動かないが、左足と腕の力で姿勢を整えることはできるようになってきた。


「おはよう」


キッチンから絵里奈の声がする。


「おはよう」


伊織はその声に、自然と微笑みがこぼれた。


朝食を終えると、リハビリの時間だ。

理学療法士が週に数回来てくれるが、それ以外の日は絵里奈がサポートする。


「じゃあ、今日もいこうか」

「うん。頼む」


右足の可動域を少しずつ広げる運動。

体幹を鍛えるトレーニング。

歩行器を使って、数歩だけ前へ進む練習。


「痛くない?」

「大丈夫。……いや、ちょっと痛いけどな」

「正直でよろしい」


そんなやり取りが、日常の一部になっていった。


リハビリが終わると、伊織は書斎として使っている部屋へ移動する。

窓の外には、海が広がっている。

パソコンの前に座り、深く息を吸い込む。


「……さて、続きを書くか」


指は完全に動くのだが、リハビリしながらの長時間の執筆は難しい。

それでも、少しずつ、少しずつ、物語は前へ進んでいく。

キーボードを叩く音が、静かな部屋に心地よく響く。


時折、絵里奈が温かいお茶を持ってくる。


「休憩しなよ」

「あと一段落だけ」

「それ、さっきも聞いた」


そんなやり取りも、二人の生活のリズムになっていた。


夕方になると、海風が窓を揺らし、波の音が近くなる。

伊織は書く手を止め、窓の外を眺める。


「……ここに来てよかったな」


絵里奈は隣に立ち、静かに頷いた。


「うん。いい場所でよかった」


伊織は小さく笑った。


「また、俺の運転でデートしよう」

絵里奈は照れたように目を伏せ、そっと彼の肩に手を置いた。

鎌倉の家には、波の音と、二人の呼吸と、ゆっくりと進む物語だけがあった。


----


こんな穏やかな日々は、初めてだった。

絵里奈はそう思った。

夕暮れの光が部屋の奥まで伸びてきたころ、絵里奈はふと、伊織の横顔を見つめた。

集中しているときの彼は、昔と変わらない。けれど、変わったところもある。

無理をしなくなった。

頼ることを覚えた。

そして、頼られることを、彼女自身が自然に受け止められるようになった。


「ねえ、伊織」

「ん?」

「今日さ、少しだけ、立てたとき、ちょっと泣きそうになった」


伊織は手を止め、驚いたように彼女を見る。


「そんな大げさな」

「大げさじゃないよ。だって、あの瞬間、あなたが前に進んでるって、ちゃんと見えたから」


絵里奈は照れたように笑い、視線を海へ向けた。

波は絶えず寄せては返し、同じようでいて、二度と同じ形にはならない。


「俺も、そう思ったよ」


伊織はゆっくりと椅子を回し、彼女の方を向いた。


「前に進めてるって。まだ遠いけど、ちゃんと進んでるって」

「うん」

「だからさ」


伊織は少しだけ照れたように、けれど真っ直ぐに言った。


「次は、海まで一緒に歩きたい」


絵里奈の胸が、きゅっと温かくなる。


「じゃあ、目標ができたね」

「うん。達成したら、ご褒美くれよ」

「なにそれ」

「なんでもいい。絵里奈がくれるなら」


彼女は呆れたように笑い、でもその笑みはどこか柔らかかった。


「じゃあ、ちゃんと歩けるようになったら考える」

「よし、やる気出た」


二人の間に、静かな笑い声が落ちる。

外では波が寄せ、風が家の壁を撫でていく。

鎌倉の暮らしは穏やかで、ゆっくりで、けれど確かに前へ進んでいた。


----


動かないのは、右足だけ。

それが、どうにもはがゆい。

意外と出来ることは多いが、常に転倒のリスクはつきまとう。

特に、浴槽の出入りは、常に絵里奈もサポートしてくれる。

ついでに、毎日一緒に入るのだが。

絵里奈は、相変わらず年齢を感じさせない。

今でも、伊織は魅了されているのだ。

柔らかく包み込まれると、また、それが活力にもなる。


----


絵里奈はベッドの高さを確かめると、そっと車いすの横にしゃがみ込んだ。


「伊織、左側に向けるね」


声は柔らかいのに、手つきは迷いがない。何度も繰り返してきた動きなのだと、伊織はその指先の温度で思い出す。

右足は今日も重い。

思い通りにならないことへの苛立ちは、もうとうに通り過ぎた。

今はただ、身体の一部が別の時間を生きているような感覚だけが残っている。


「ゆっくりでいいよ」


絵里奈が言う。

その言葉に合わせるように、伊織は左手でベッドの縁をつかみ、体を左へひねった。


絵里奈は背中に手を添え、重心が崩れないように支える。

その支え方が絶妙で、押しつけがましくなく、けれど確かにそこにある。


お尻がベッドの端に触れた瞬間、絵里奈が小さく息をついた。


「うん、そのまま……はい、座れたね」


右足がまだ宙に残っている。

伊織が手を伸ばそうとすると、絵里奈が先に動いた。


「これは私がやるよ」


そう言って、彼の右足首を両手で包み込むように支え、シーツの上へそっと導く。

まるで壊れ物を扱うような慎重さではなく、もっと日常的で、もっと親密な、慣れた触れ方だった。


「横になろうか」


絵里奈が肩に手を添える。

伊織はその手の温度に導かれるように、左側へ身を倒した。

背中がベッドに沈み、天井が視界に広がる。

絵里奈は彼の右足の位置を整え、最後にシーツを軽く引き寄せて整える。


「痛くない?」

「大丈夫」


伊織が答えると、絵里奈はほっとしたように微笑んだ。

その笑顔を見ていると、動かない右足の存在さえ、少しだけ軽くなる気がした。


絵里奈がベッドに身を移すと、伊織は自然と腕を伸ばした。

求めるというより、確かめるような動きだった。


絵里奈はその腕の中に身を滑り込ませ、胸元に頬を寄せる。

二人の間に何も隔てるものが無かった。


肌の温度がそのまま伝わってくるような近さ。

呼吸が触れ合い、胸の上下が静かに重なる。


絵里奈は伊織の肩に手を置き、指先でそっと円を描く。

その触れ方は、長い年月を共に過ごした夫婦だけが知っている、言葉よりも深い慰めだった。


「ここにいるよ」


声に出さなくても、触れ合うだけで伝わる。

伊織は絵里奈の背に腕を回し、ゆっくりと引き寄せた。


力は弱いのに、その抱擁には揺るぎない確かさがあった。

右足の重さも、今日の疲れも、絵里奈の体温に溶けていく。


二人の体がぴたりと寄り添うと、部屋の空気がふっと静まった。

まるで世界が二人の呼吸だけで満たされているようだった。


絵里奈は目を閉じ、伊織の胸に耳を当てる。

鼓動がゆっくりと響き、そのリズムが自分の心臓と重なっていく。

「あなたと生きている」という確かな実感だった。


伊織は絵里奈の髪に顔を埋め、静かに息を吸い込む。

二人はしばらく言葉を交わさず、ただ寄り添っていた。

触れ合う温度だけが、互いの存在を確かめ続けていた。


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