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薔薇の氷 -Relight-  作者: 水原伊織


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1.再会

※この物語はフィクションです。実在する人物・団体とは関係ありません。

伊織は会社から一度帰宅し、駅へ向かって歩いていた。

冬の夜気は冷たく、街灯の下で吐く息が白く揺れる。

徒歩十五分ほどの道のりは、もう習慣のように足が勝手に進む。


金曜の夜だけは、駅構内や駅前の居酒屋で一杯やって帰る。

それがささやかな楽しみだった。

四十はもう過ぎている。

結婚も早く、二十一歳で長男が生まれ、以来二十数年、会社と家を往復する日々。

定時で帰れる緩い会社に勤めてはいたが、末娘が就職した直後、妻から離婚を切り出された。


愛情が消えたわけではない。

だが、一度離婚を切り出されてしまえば、維持はできない。

一人暮らしになっても生活は変わらず、趣味のバンドも仲間の多忙で自然消滅した。


伊織には、もう何も残っていなかった。

漫然と日々を過ごし、死に向かっている自覚だけが胸に居座っていた。


----


その夜も、駅構内の居酒屋に入った。

カウンターは満席で、仕方なく四人掛けのテーブルに座る。

周囲のざわめきと油の匂いが漂う中、瓶ビールを口に運ぶ。

旨いはずの酒も、今はただ酔うためだけのものだ。


「いらっしゃいませ!」店員の声が響く。

やがて店員が近づいてきた。

「大変申し訳ありません。混み合っておりますので、少しの間だけ相席をお願いできますか?」

「じゃあ、俺、出ますよ」

会計ボタンに手を伸ばす。

「いえ、ほんの少しで結構ですから」

店員は入口へ走り去った。

伊織は瓶の残りを注ぎながら思う。


俺がヤクザみたいな格好なら、声なんて掛けないだろう。


そう苦笑しつつ、飲み干して帰ろうとしたその時――


 


「…ひょっとして、伊織くん?」


 


顔を上げると、スーツ姿の女性が向かいに座っていた。

年齢は同じくらいだろう。

働いている気配を漂わせる整った姿。

だが、誰だか思い出せない。


「え、あ…はい。伊織ですが」

なぜか敬語になる。

「変わってないね」

彼女は微笑む。

眉をひそめる伊織に、彼女は続けた。

「覚えてる? 私のこと…」

じっと見つめる。

細い目元、すらりとした体つき。かなりの美人だ。

だが記憶は曖昧だ。


「…申し訳ありませんが…」

「そうよね、私、変わったもの」


切なげな表情。

伊織の胸が高鳴る。

二十年以上忘れていた感覚だった。


差し出された名刺に目を落とす。

瞬間、記憶が蘇る。


「…絵里奈……さん」


胸が苦しくなる。

初めて付き合った彼女、伊織が初めて大好きになった人だった。

しかし、そんな彼女を傷つけた記憶が、伊織の人生に影のように残っていた。


過去の記憶が一気に押し寄せる。


----


若い頃、アルバイト先のオーナーに頼まれ、名義を貸して金を借りた。

軽い気持ちで絵里奈にも同じことを頼んだ。

だがオーナーは自殺し、借金は二人の名義に残った。


その頃、絵里奈は留学先にいた。

伊織は国際電話で事情を伝え、「後のことは自分がなんとかする」と思っていた。

だが、やがて絵里奈から国際電話で、別れを告げられた瞬間、全てがどうでもよくなった。

自分はもう死んだも同然だと感じた。

伊織自身の借金は、毛嫌いしていた母が父の遺産の一部を使って返済してくれた。

絵里奈の分も頼もうとしたが、すでに別れを告げられた後で、言葉にはできなかった。


やがて帰国した絵里奈から連絡があった。

だが伊織の心には「自分から別れた男に何を言いに来るのか」という思いが強く、

彼女の言葉を聞き流すだけだった。

結局、請求は絵里奈に届く。

その現実を知りながら、伊織はオーナーと同じように彼女を裏切ったのだ。


その数年後、実家に届いた通知。

家庭裁判所に赴き、調停で減額・分割払いが決まり、伊織は家庭を守るために沈静化を選んだ。

だが絵里奈の「深く傷ついた」という言葉は、伊織の心に棘のように残った。


---- 


沈黙する伊織に、絵里奈が問いかける。

「どうしたの? 黙ったままで?」


伊織は意を決して言った。

「…あの時は、本当に申し訳ないことをしました」

立ち上がり、深々と頭を下げる。

「ちょっと、いきなりやめて」

慌てて制する絵里奈。


「座ってよ」

背筋を伸ばして座り直す伊織。

「まだ覚えていたの?」

「あなたのことを思い出したら、同時に浮かんできました」

「払い込みが終わったら、終わりだったはずでしょ?」

「そうなんですけど、時々思い出しては後悔してました」

店員が席の空きを告げるが、絵里奈は「ここで大丈夫」と制し、追加注文をする。

伊織の動悸は止まらない。

懐かしさ、後悔、別の感情が入り混じり、身体がついていかない。


「ねえ、何飲むの?」

「瓶ビールで」

「ジョッキじゃなくて?」

「はい、瓶で」

やり取りの合間に、絵里奈は問いかける。

「今は何をしてるの?」

伊織は二十年の出来事をかいつまんで話す。

ひとつ話すたびに「それで?」と促され、答え続ける。

最後に再び謝罪し、もう一度償いたいと申し出た。


「そんなに言うなら、いいわよ。でも、私に何をしてくれるの?」


微笑みを浮かべる絵里奈。


「…何でもします。出来ることなら」

「何でも?」

「はい。何でも」


死ねと言われれば死ねる気がした。

今の自分には何もない。


「ふうん…あなたって、そんな人だった?」


「え?」

「昔の伊織くんはね、開き直って『俺は悪くない!』って言うタイプだった」

「…そうでしたか」

「二十年経てば変わるのね。

顔は変わらないけど、中身は別人みたい」


絵里奈の言葉は、古傷をひとつひとつ抉るようだった。


「タバコ吸った後すぐキスしてくるし」

「…」

「すぐセックスしたがるし、ゲームばっかりやってるし」

「…はい」

「車の運転も荒いし、そのくせ気が小さいし」

「はい」

「気が短くて口も悪いし、とにかくだらしなかった」

「仰る通りです」


頭を下げ続ける伊織。


「…でも、浮気はしなかった」


その一言に、絵里奈の切なさが滲んでいた。


「…浮気したのは、私」


その夜、二人は二時間近く語り合った。

近況を交わし、最後に絵里奈が言った。


「じゃあ、伊織くん。

これから、たっぷり償ってもらうからね」


「はい、分かりました」


ラインを交換し、その夜は静かに終わった。



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