ヒロインになれない
両親が亡くなった。流行り病だった。一人残された私はまだ幼くて、領地は父の弟が治めることになった。悲しんでいる私に叔父様は出ていく必要はないと言ってくれた。
深い悲しみの中にあっても、それがいつまでも続くわけではない。あるとき、思い切って庭を散歩しようと部屋を出た。住み慣れたはずの廊下に置かれた見慣れない調度品、自分を訝しげに見る使用人、庭園に出ると庭師が忙しなく低木の植え替えをしていた。それは、お母様がとてもいい香りがすると話してくれた花をつけるもので、私は庭師に訊ねた。「奥様が植え替えるように仰ったので」そう言われて驚いた。ああ、もうここは私の『家』ではないのだ、そう思ったら足が勝手に元来た道を駆け出していた。つんのめって何度も転びかけたが、なんとか部屋にたどり着けた。私の居場所はもうここにしかないと分かって、ベッドに潜り枕に顔を押し付けた。
それ以来、私は部屋を出ることをやめた。元々世話係であった乳母と僅かな侍女、それに淑女教育のための家庭教師だけがこの部屋を訪れ、このことに叔父様はなにも言わなかった。
そうして、私は結婚適齢期に差し掛かっていた。
叔父様の呼び出しは突然で、侍従に連れられて入った執務室では奥のデスクで書類に目を通している叔父様と手前の応接セットの二人掛けソファを広々と使いティータイムを楽しむ少女がいた。
「旦那様、マルグリット様をお連れしました」
「下がれ」
叔父様はこちらを一瞥することもなく侍従にそう告げ、残された私はどうしたらいいかわからず、ただその場でじっとしていた。
「マルグリット、お前の嫁ぎ先が決まった」
「えっ」
驚いている私に、少女――従妹のマリアンネが澄ました顔で父親の代わりと言わんばかりに続きを口にする。
「お父様が国王陛下からハイドリヒ辺境伯様とクライネルト家の縁談を賜ったそうなのだけど、辺境伯領って凶暴な獣がたくさんいる恐ろしい森と隣り合っているという話でしょう。そんな場所に嫁ぐなんて、わたくし怖くって。そこでわたくし気付きましたの、お従姉様もクライネルトの一員なのだから、お従姉様が嫁いでも構わないのではないかと。だって、お従姉様は社交界にも出ていらっしゃらないし、このままでは行き遅れてしまうのではないかとわたくし心配で……。辺境伯様がお相手ならお従姉様もご不満ではないでしょう。だからお父様に相談しましたの」
演技がかった調子でころころと表情を変え、最後には優雅な笑みをたたえ得意げに話すマリアンネを拒む言葉を私は持ち合わせていなかった。
静かに瞼を閉ざし、彼らの申し出をおとなしく受け入れた。
――大きな揺れを感じて目を開く。前後に大きく揺さぶられたことで強かに打ち付けた後頭部がずきずきと痛んだ。
いつの間にか眠っていたようだ。
揺りかごのように揺れていた馬車は止まっている。外からは慌てたような人の声と足音、引かれたカーテンの隙間から様子を伺おうとしたところで、扉を叩く音とともに馬車の車輪が石畳の隙間に嵌まった旨を告げられた。私の返答も聞かずに扉の向こうの人物の気配はそこから離れていった。
やることのない私は再び目を閉じる。
あの日からあっという間に時は過ぎ、ハイドリヒ辺境伯領に向かう馬車に揺られていた。馬車も護衛も国王陛下が手配してくださったらしい。国王陛下が直々に設けた縁談だからここまで手厚くしてくださったのだろう。辺境伯様がなかなか伴侶を迎えないことに痺れを切らしてこの縁談話が持ち上がった、と社交界でも噂になっているらしく家庭教師の子爵夫人が話してくれた。土壇場で逃げられないようにという念押しの意味もありそうだ。
辺境伯様は姿絵で見たところ、美丈夫であったが引き結んだ口元や鋭い眼差しが私には恐ろしく感じた。
大丈夫だろうか。これまで人付き合いらしい人付き合いをしてこなかったから辺境伯様だけでなく、屋敷の人たちとうまくやっていけるかも不安でしかない。勉強はしてきたけれど、実践経験はない。それでも……、膝のうえに置いた手でドレスのスカートをぎゅっと握りしめる。
やがて、再び大きく揺れた馬車はゆっくりと進み始めた。今度は頭を打つことはなかった。
いくつかの街に用意されていた宿に泊まり、昼食などで小休憩を挟みながら進んでいたものの、上等で柔らかな座面とはいえ、ずっと馬車に揺られていれば腰もお尻も痛くなる。辺境伯領に入った頃にはこれからの不安よりも、早くこの馬車生活から解放されたいという気持ちの方が強くなっていた。
ようやく辺境伯邸に到着し、馬車が止まる。扉が開かれ、外からの光に目が眩む。差し出された手を取り、ステップに足を乗せたところで足の踏ん張りが利かず、体がよろめいた。落ちると思った瞬間、反射的に引っ込めようとした手はそのまま強く引かれ、固いけれど地面とは違う感触と背中に回った太い腕、抱き寄せられたのだと思い至るまでに時間を要したのは両親が亡くなって以来このような接触がなかったからだろう。
助けてくれたのは一体誰だろうと顔を上げる。姿絵で見たハイドリヒ辺境伯様が眉間に皺を寄せ、こちらを見下ろしていた。バクバクと暴れていた心臓は潰れるかと思うほど縮こまり、震える唇を動かして感謝を伝えようにも言葉が喉につかえて出てこない。気を失えていたらどれほど良かっただろうか。それはそれで失礼なことでしかないが、明らかに怯えた姿を見せることにはならなかった。
そのような私を、彼は不愉快に感じたのか眉間の皺がさらに深くなった。かと思えば、ふわりと体が浮いて、抱き上げられたことに感情も思考も追いつかない。しがみついているわけでもないのに、落ちるなどと微塵も感じさせない安定感があった。
「部屋はどこに用意している」
低くハリのある声に、近くに控えていた貫禄のある侍女が「こちらに」と答え、先導するように踵を返し屋敷の方へ足を進めた。背筋を伸ばしてはいるが少し丸みを帯びた彼女の背中がクライネルトの屋敷でずっと一緒にいた乳母の姿と重なって、少しだけ視界が滲んだ。
連れてこられた部屋は、庭園が望める白木の出窓が印象的だった。ここまで抱えてきてくれた辺境伯様は私をその出窓のカウンターに降ろし、部屋で待機していた幾人かの侍女になにかしら指示を出してそのまま部屋をあとにしようとする。扉を出る寸前で、慌ててカウンターから降り、彼を呼び止めた。
「あ、あの! ここまで運んでくださってありがとうございます……! 至らないところも多くございますが、これからどうぞよろしくお願いいたします!」
両手でスカートをつまみ、深く頭を下げた状態では辺境伯様の表情はわからない。
「ああ。長旅で疲れただろう、この者たちに世話を申し付けたから休むといい」
低い声はやはり厳しく感じられるが、その言葉は優しいものだった。
顔を上げると、既に辺境伯様の姿はなく、ここまで案内してくれた初老の侍女に勧められるまま入浴をし、ワードローブから落ち着いた深緑のドレスを選んで身にまとう。お茶を用意してくれるという提案を断り、少し一人になりたいと伝え、甲斐甲斐しく世話をしてくれた者たちに部屋を出てもらった。
一人きりになって部屋を見渡す。白を基調とした室内に大きな天蓋付きのベッド、猫足の鏡台は繊細な細工が施されており、ベッド脇のサイドテーブルには淡い色味の花が生けられた花瓶と真っ白な陶器のジャグに持ち手のないカップが置かれている。何もかも見慣れない部屋。同じ国内だというのに、空気も匂いも何もかもが違って感じる。不思議とよく知っているのに違和感を覚えるあの家よりずっと気持ちが軽く感じられた。出窓から庭園を見下ろすとお母様が好きだった低木が植わっているのが見えた。
少しだけ休もうとベッドに横になって、次に目を覚ましたとき、外は明るかった。タイミングよく現れた侍女が言うには、少し休むだけのつもりが、昨日は夕食も取らず眠っており、今はもう翌日の昼過ぎらしい。
「長い馬車旅でお疲れだったのでしょう。若様がわざわざ起こす必要はないと仰ったのでゆっくりとお休みになっていただきました」
鏡台の前に導かれて、髪を梳いてもらう。昨日、部屋まで案内してくれた女性だ。「お腹が空きましたでしょう」という言葉にすかさずお腹が返事をした。鏡に映った顔はみるみる赤くなって、ベッドメイクを行なっていた若い侍女は「すぐにお食事をご用意します」と部屋を出ていった。
部屋で食事を済ませたあとは屋敷内を一通り案内してもらい、庭園のガゼボでお茶をするとあっという間に日暮れになった。夕食は食堂に用意してもらったが、辺境伯様の姿は見えなかった。
翌日からは、辺境伯様との婚礼に向けてドレスの採寸や小物の選定、儀礼作法の勉強が始まった。ここまでくると流石に実感が伴ってくる。本当に結婚するのだ。少しだけ気持ちが浮き足立つのを感じた。叔父様の決めた従妹の代わりだけれど、まるで物語のようではないか。辺境伯様も厳しそうな印象だが、決して冷たい人間ではなさそうだった。家令の者たちも優しく接してくれる。私はここで幸せになれるのかもしれない。
そう思えていたのは婚礼の当日まで。誓いの儀も領民へのお披露目もつつがなく終わった。本来は華々しく行われるであろう宴会はなく、儀礼的であっさりとしたものだった。
残るは初夜のみ。身に纏う薄い布は頼りなく、寝室で夫となった辺境伯様を待つのは緊張を伴った。当たり前だが、これから行われる行為も知識はあれど初めてだ。大丈夫大丈夫と心の中で唱える。
ほどなくしてガウン姿の辺境伯様が現れた。
腰掛けていたベッドから立ち上がって頭を下げる。
「不束者ではございますが、妻として、ハイドリヒ辺境伯家の一員として尽くしていきますのでどうぞよろしくお願いいたします」
「ああ。世継ぎさえ産んでくれれば構わない。パートナーが必要なときは同伴してもらうが、それ以外はこちらも看過しない」
殴られたような衝撃というものを初めて感じた。
愛のない結婚であることは確かだが、愛されることを望まなかったわけではない。せめて、運命共同体の情だけでももらえると思っていた。
子を成す行為も含めて、彼にとってこの結婚は政務に過ぎないということなのだろう。
涙は出なかった。
気が付けば朝で、下腹部の鈍い痛みと重だるさが昨晩、成せたことをものがたっていた。
彼もご両親を早くに亡くしているから私の悲しみを理解してくれるだろうと分かち合える相手だろうとそう勝手に期待していた。こっちに来てからのことを考えればわかる、彼は私とは違う。暖かい家臣に囲まれて、私のような孤独を感じることなんてなかったのではないか。
ああ、ここでも私はひとりぼっちなのか。
嫁いできて数ヶ月、体調不良の診察で身重になったことを告げられた。この子が男の子なら、私はもう用済みとなるのか。そう考えると素直に喜べなかった。




