サイバーパンクは鳴り止まない/#2 死なない男
雪国生まれの安喰にとってもシベリアの冬の寒さは桁違いの厳しさだった。
アジア経済圏陣営とヨーロッパ経済圏陣営の衝突地点のひとつであるノヴォシビルスクは、長期間の激しい戦闘のせいで街は破壊し尽くされ、かつてのシベリア最大都市は、廃墟と瓦礫だけの殺伐とした風景にかわっていた。
安喰がこの戦線に到着してからすでに二ヶ月が経っていたが、攻防は一進一退であり膠着状態がつづいていた。そうこうしているうちに北極のほうから寒波がおりてきて、いつしか摂氏マイナス三十度の冷気がノヴォシビルスク全体をつつんだ。
「こんなん人間が戦争やっとるとこちゃうで」
安喰は寒さにふるえながらボヤいた。
安喰が所属する部隊は、〈義勇軍〉といっても本質的には〝ならず者のよせ集め〟だったから、統制など皆無で、いま現在も本隊からはぐれ敵陣のド真ん中に迷いこんでしまい、四方八方から銃弾が飛んできている状況にある。
義勇軍は逃げまどううちに散り散りになってしまい、安喰が、以前は集合住宅だったとおもわれる廃墟のなかに逃げこんだときには、安喰もふくめ三人だけとなっていた。
だれもが恐怖と疲労でしゃべる気力ものこっていなかった。
(ワシはここで死ぬのかのう)
死ぬことに未練はなかったが、安喰はなぜだか死んだ母親のことをおもい出していた。
× × ×
安喰の母は病気がちな人だった。父は生まれるまえからいなかった。
雪国の寒さは母の病気に障るということで、安喰が十一歳のときに親戚をたより大阪に引っ越した。
貧しかった。いつも飢えていた。だからもともと血の気が多かった安喰は喧嘩にあけくれる日々をおくっていた。余計に腹が空いた。
だれ彼かまわず喧嘩を売っていた。そのうち本職のヤクザモンに喧嘩を売り、半殺しの目にあった。それが出会いだった。ヤクザの親分に顔をおぼえられ、かわいがられるようになった。飯を食わせてくれた。腹いっぱいになるまで食わせてくれた。
安喰が十四歳になったとき、母親が死んだ。親分が葬式を出してくれた。
安喰はその日からヤクザの使い走りになった。
× × ×
敵軍の攻撃が弱まるようすはない。
仲間のうちの一人がパニックになっていた。
「ロシア兵に捕まりたくねえ」この男も借金取りから逃げるために義勇軍にはいったクズだ。「ロシア兵に捕まれば生きたまま皮を剥がされる。そんな拷問には堪えらんねえ。俺はここで自殺する」
男はそういうと小銃の銃口を口に咥えた。男が引き鉄をひく直前に安喰が男を殴り飛ばした。
「でかい音を立てンな。ワシらの居場所がバレる。死にたきゃ舌でも噛み千切って死ねや」
男は床に這いつくばって泣いていた。
もう一人の男はまだ冷静さをたもっているようだ。
「しかし、やつらロシア兵は獰猛な肉食獣といっしょだ。弱った獲物はとことんまで追いかける。ここに籠っていてもいずれみつかるだろう」
「ほなら、どないせいっちゅうねん」
「俺らの部隊はオビ川をわたったとこまでは本隊といっしょだった。川をわたったところで戦闘になり、俺たちははぐれちまった」
オビ川とはノヴォシビルスクの中央をながれる大河だ。アジア経済圏陣営軍は極東から出発し、シベリア各地に根城をきずいていた軍閥の有象無象──〈ロシア〉という国家は第三次世界大戦より前に崩壊・分裂し、軍閥が各地を割拠するようになっていた──を掃討しながら西へ進軍していた。
「だからきっとオビ川までもどれば味方の部隊がいるはずだ」男は熱弁をふるった。
「その前にロシア兵にみつかるにきまってる」泣いていた男が異議をとなえる。
「いや、たしかにここにおってもジリ貧や。強行突破で血路をひらくしかない。お前はどうすんねん。ここに残るンか」
安喰は泣いていた男に訊いた。
「……俺はここにいる」
「さよか。ならここでバイバイや」
二人は男をおいて廃墟を出た。
× × ×
大阪はヤクザの激戦区だった。毎日どこかで抗争が起き、死人がでていた。
安喰はその強靭な体で武闘派として組織内でのし上がり、ドスで刺されても銃弾を撃ちこまれても〝死なない男〟として名を馳せていた。安喰が組に入って六年が経ち、安喰自身も二十歳になっていた。
さて、いったん話を逸れる。
安喰が生まれるよりもずっと以前、第三次世界大戦が勃発。世界中いたるところに核ミサイルが撃ちこまれ、人類は絶滅しかけた。
からくも絶滅をまぬかれた人類だったが、それまで人間社会の土台だった〈国家〉というシステムが急速に力をうしない、ほぼ消滅してしまった。
人類は弱肉強食のレベルからやり直さねばならなかった。力をもたない弱者らは手をとりあい、共同体をつくって自衛した。
大阪でも一般市民による自治体が形成された。
ヤクザ同士の抗争で一番の被害者は、一般市民だ。彼らは警察に代わる暴力装置として〈自警団〉を結成し、みずからを守った。
話を戻す。
親分には一人息子がいた。歳をとってから生まれた子供だったから親分は息子を溺愛した。しかし不幸なのは、その息子が手のつけられないほどの馬鹿だった、ということだった。
親分は数え切れないほどバカ息子の尻拭いをした。そしてその悪影響は子分にも及ぶようになった。
ある日、バカ息子は酔った勢いで一般人の男を殺してしまった。そしてそれは大阪自警団の知るところとなった。大阪自警団は組に「犯人を差し出せ」とせまった。
もはやどの暴力団組織よりも巨大になった自警団に刃向かえるヤクザはいない。自警団の要求を無視することはできなかった。
安喰は親分に呼び出され、こう告げられた。
「すまん、テツオ。務めにいってくれんかのォ」
つまり、バカ息子の身代わりになって出頭してくれ、といわれたのだ。
安喰は義理がある親分にたいして絶対の忠誠を誓っていた。安喰は即答した。
「わかりました」
「ほ、ほんまか。ほんまにええんか」
「もちろんです。ワシが親父の頼みを断るわけないやないですか」
「……すまん。ほんまにすまん、テツオ。ウウ……」
親分は涙をながして感謝した。
「泣かんといてください。で、こんなときに申し訳ないンですが、ワシから親父に言わなあかんことがありまして」
「な、なんや。いうてみイ」親分はなにをいわれるのか予想がつかず、怯えた。
「はい。ワシ、いま背中に墨を入れてる途中でして。今日中に残りの墨入れを済ましてきますんで、出頭は明日でもよろしいでしょうか」
「へ? ……な、なんや。そんなことかいな。ええ、ええ。ええで。しっかし、お前の関西弁、いつになってもエセのままやのう。ハハハ」
親分は泣き笑いした。
翌日、約束通り安喰は出頭した。
民間裁判所により懲役八年の実刑が言い渡された。
× × ×
安喰たちがさっきまで隠れていた廃墟に砲弾が撃ちこまれた。
廃墟は倒壊した。居残ったあの男はきっと死んだことだろう。安喰も判断が遅ければ死んでいた。生きるか死ぬかは紙一重だった。
安喰ともう一人の男は東にむかって走った。
遠くから尋常ではない悲鳴がきこえてきた。それはいつまでもつづいた。安喰の脳裏に、──もしかしたら本当に皮剝ぎの拷問がおこなわれているのかもしれない──という考えがよぎった。
銃弾の雨のなか、安喰は走った。
いっしょに走っていた男が目の前で頭を撃ち抜かれた。安喰は撃たれた男を気遣うよりも、──次は自分かもしれない──という思考にとらわれた。
安喰は無我夢中に走った。
目の前に人影がみえた。敵か味方かを判別するよりも早くアサルトライフルの引き鉄をひいた。
突然足がうごかなくなり、安喰は地面を穿った溝のなかに落ちた。
安喰が落ちたのは塹壕だった。
見ると、右脚の太腿から出血していた。どうやら撃たれたらしい。それで足がうごかなくなったのか、と安喰はおもった。
安喰は左目がみえていないことにも気づいた。
右手で左目にふれると、ぬめっとした感触があった。手には血が滴っていた。
アサルトライフルのマガジンを確認する。残弾はゼロだった。
人の声がきこえた。ロシア語だ。
安喰は恐怖にかられた。這いずりながらでも逃げようとした。
なにが「死ぬことに未練はない」だ。街で息巻いていた虚勢は戦場ではなんの役にも立たなかった。本当の意味で死の覚悟などできていなかったことを思い知らされた。
安喰は後ろから迫る死者たちの手から必死に逃げようとした。ロシア兵の気配がすぐそこまできている。
〝死〟へ引きずりこまれてたまるか──安喰はなりふりかまわず、無様で、死に物狂いだった。
× × ×
刑期を終えて出所したとき、出迎えはなかった。
組の事務所にいくと、親分はすでに亡くなっており、あのバカ息子が跡目を継いでいた。
二代目は安喰の顔をみると迷惑そうな顔をした。自分の代わりに刑務所に入った男にたいして労いの言葉もなく、こう言ってのけた。
「いまさらなにしにきたんや」
「親父に線香をあげにきたンです」
「フン、とっとと済ませ。……しっかしアレやな。お前のエセ関西弁、ほんまキッショいなァ」
気がつくと二代目を半殺しにしていた。
安喰はその足で台湾に飛び、すでにはじまっていた第四次世界大戦の義勇軍に志願した。
× × ×
様子が変だ。
すぐそこにあったロシア兵の気配が消えた。しかし近くで小銃を撃つ音はする。注意してきくと遠くからも銃声が──だれかとやり合っているのか。
安喰のなかで希望の光が灯った。味方の部隊かもしれない。たすけにきてくれたのかもしれない。
安喰は塹壕のなかで身をまるめて、銃撃戦がおわるのも待った。
銃声は止んだ。しばらくして人の声がきこえてきた。日本語だ。
安喰はさけんだ。
「おーい! ここだあ!」
一人の兵士が塹壕のうえにあらわれた。兵士は警戒を解かず、小銃をこちらにむけている。
「味方だ! 日本人だ!」
「両手を頭にのせて地面に伏せろ」兵士はいった。
「だから味方だって──」
「両手を頭にのせて地面に伏せろ!」有無をいわせない物言いだ。安喰は命令に従った。
安喰が伏せると兵士は塹壕をおりてきた。銃はかまえたままだ。兵士は左手をのばし、安喰の首にあったドッグタグをつかんだ。身元確認ができると兵士は銃を下ろし、安喰を抱き起こした。
「歩けるか」と兵士。
「ああ」
「足を撃たれてるな。肩をかそう。ほら」
兵士は、安喰を持ち上げ、尻を押して、安喰を塹壕から出した。そのあとは安喰を支えながら歩いた。
兵士は無線でやりとりしながら本隊と合流しようとしていた。ここはまだ敵陣のなかなのだ。
遮蔽に隠れながら進路をクリアリングし、次の遮蔽まで進む。それをくりかえした。
安喰はこの兵士をみて感心した。
(この男は訓練された兵士だ。戦場を経験してきた兵士だ。本物の兵士だ)
二人はなんとか合流地点までたどりつき、安喰は車両に担ぎこまれた。安喰を救った兵士はなにも言わず立ち去ろうとした。
「ま、待ってくれ!」兵士を呼び止める。「礼をいいたい。名前は」
「……」兵士はしばらく逡巡していたが、「本多──本多ミチロウ」といった。
安喰を乗せた車両が発車する。安喰は敬礼で本多に感謝をつげた。本多も敬礼を返した。
その後、安喰は後方部隊までつれていかれ、廃ビルのなかに設けられた野戦病院に収容された。
安喰の左目は完全に潰れており、サイボーグ化すれば視力がもどること、その医療費は保険適用可能なことなどをおしえられた。そして負傷除隊をつげられた。
安喰は野戦病院のベッドのうえで日本へ帰る便がやってくるのを待っていた。
一週間ほど経ったときだった。一人の兵士が野戦病院に担ぎこまれてきた。患者らの話によると、PMCの部隊がひとつ壊滅したらしく、運びこまれてきた男はその部隊のただ一人の生き残りで、かなりの重傷だ、ということだ。
安喰はいやな予感がした。
(まさか、あの男やないやろな……)
数日後、重傷の元PMCの男は集中治療室から一般病棟へ移された。一命はとりとめたようだ。
安喰は、まさかとおもいながらも、病室をおとずれた。入口のネームプレートには『本多倫朗』とあった。いやな予感があたってしまった。
安喰は病室に足をふみいれた。ベッドに横たわっていたのは、左腕と両脚をギプスで固定され、顔の上半分を包帯でぐるぐる巻きにされた男だった。そして男の右腕は、肩から下の部分が欠損していた。
ベッドの男は人の気配をかんじたようだ。
「だれかいるのか」
「あ、す、すンません。ワシは安喰っちゅうもんです。アンタ、本多ミチロウさんですか」
「……はい、そうですが」
「じつはワシ、前にアンタに助けてもらったモンなんです。ノヴォシビルスクで」
「……そう、なんですか。すみません。あまり覚えていなくて」
「はは、かまわんかまわん。ワシはただあのときのお礼をしたくて。あンときはホンマありがとうございました。おかげで命がたすかりました」
「い、いえ、そんなこと、ありません」
「本多さんはきっとワシみたいな奴をたくさんたすけてきたんでしょうね。イチイチ覚えとらんくらいに」
「あ、すみません……」
「いやいや、皮肉で言ったんちゃいますからね。ワシはホンマに感謝してるんや。ありがとう、本多さん」
本多はなにか言いたげな様子だった。
(なんやろ?)安喰は待った。
「安喰さん? でしたっけ」
「はい。安喰です」
「ひとつお願いしたいことがあるんですが、よろしいでしょうか」
「はいはい、どうぞ。ワシにできることならなんでも」
本多は一回咳払いをしてから話しはじめた
「誰にきいてもおしえてくれないので、安喰さん、あなたに訊きたい。正直に答えてください」
「はい」
「右腕の感覚がないんです。私の右腕はありますか」
安喰は迷った。おそらく他の者は「大丈夫。ちゃんとある。今は麻痺してるだけだ」とかなんとかいって励ましたのだろう。しかし、本多の誠意にはこたえたい。安喰は正直にいうことにした。
「残念やけど、右腕はもうないで」
「……そうですか。おしえてくれてありがとう」
× × ×
「そのあともワシは毎日ミッチャンのとこにいって一人でしゃべりまくってた。そうしなきゃアカンちゅう使命感みたいなもんをかんじてたんやな」
「それは本多さんにしたらいい迷惑だったでしょうね」ベッドのうえの蒲田がこたえた。
安喰と蒲田は、先の『マシロ・コーポレーション事件』において負傷したため、入院中の身だった。
「どういう意味やねん、ソレ」
安喰は今、病室で安静にしている舎弟の蒲田のベッド横に椅子をもってきて座っていた。
「そのまんまの意味ッス」
「おま──」
病室の入口のほうから声がした。
「おいおい、なんで重傷のお前のほうが病院の中ほっつき歩いてるんだよ」
「あ、本多さん。こんちわ」蒲田が挨拶する。
「おお、ミッチャン。なんや、見舞いにきてくれたんか」
「なんや、じゃねえよ。病室で寝てろよ」
「医者もおおげさやねん。ちょっと胸の骨にヒビがはいっただけやのに」
「バカ。お前、折れた肋骨が肺に刺さってたんだぞ──って、しかしほんと頑丈な体してるな。あのサイボーグ女の蹴りをまともに喰らって、それだけの怪我で済むなんて。ふつうなら内臓破裂で死んでるぞ」
「ハハハ。ミッチャンも知ってるやろ。ワシはなかなか死なん男なんやで」
「……フン、ま、たしかにそうだな」