後悔の形をしたまま
思い切って、彼に会いに行くことにした。
共通の友人が教えてくれた住所。
都心から電車で一時間ほどの静かな町だった。
昔の彼なら、こんな場所に住むことはなかっただろう。
高層マンションの最上階、夜景の見える部屋――
それが、私の中にある“成功者の彼”のイメージだった。
でも今は、駅から少し離れた古びたアパートの一室。
インターホンの前に立つと、心臓が異様に速く打っていた。
指先がかすかに震えていた。
ピンポン、と鳴らす音が、やけに軽く響く。
数秒の沈黙の後、ドアがゆっくりと開いた。
「……あ」
彼は、私を見るとほんの一瞬、目を見開いた。
でもすぐに、かすかに笑った。
「また会うとは思わなかったな」
私は、なんて言えばいいのかわからず、口ごもった。
でも、彼が先に言った。
「入る? 中、散らかってるけど」
私は黙ってうなずいた。
部屋は質素だったが、どこか落ち着いていた。
机の上には読みかけの本と、安物のマグカップ。
昔のような派手さはなかったが、妙に彼らしく見えた。
「ごめん、急に押しかけて」
「いや、来てくれて嬉しいよ。正直……びっくりしたけど」
私たちはしばらく、何を話すでもなく、お互いの存在を確かめるように、そこにいた。
時計の秒針の音が、部屋を満たしていた。
「この前、偶然会ってから……ずっと考えてたの」
私がようやく口を開くと、彼は視線をテーブルに落とした。
「俺も、考えてたよ。いろいろ」
「……後悔してる?」
思わず口に出た言葉だった。
自分でも驚いた。
彼は少しだけ笑った。苦いような、あたたかいような。
「うーん……あのとき振られたこと? それとも、成功して失ったこと?」
「どっちも、かな」
しばらくの沈黙。
「正直に言うと……お前に振られてなかったら、今の俺、なかったと思う。だから、あのときのことは後悔してない。……でもな、いま会ってみて思った」
彼は私を見た。
「後悔って、タイミングがずれると、形が変わるんだなって」
私はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「どういうこと?」
「今こうしてお前が来てくれて、ちょっと嬉しい。でも、これが5年前だったら、たぶん俺は“お前に見返してやった”って、そう思ってただけだったと思う」
彼は静かに笑った。
「でも今は……ただ、会えてよかったって思ってる。あのときの俺に、会いに来てくれたみたいで」
その言葉に、胸の奥がじんとした。
なぜだろう。ずっと探していた何かが、ようやくそこにあった気がした。
私は、ゆっくりと言った。
「私も、あのときの私に、ちゃんと会いに来たのかもしれない」
その日は何も特別なことはなかった。
抱き合うことも、涙を流すこともなかった。
ただ、話して、笑って、静かな時間を過ごした。
でも、帰り道。
私はひとつだけ、確かに感じていた。
あの後悔は、もう“消えなくていい”ものになったんだ。
なぜなら、後悔の形をしたままでも、あの日の選択は、今の私をここまで連れてきてくれたのだから。