「ごめん」でも、「あのときは」でもない言葉を、見つけたかった。
あの夜、帰り道でふと思い出した。
彼の声、仕草、よく笑う顔。
そして、あの時私が選ばなかったもの。
彼は、「俺、絶対に成功するから」と言った。
それがただの夢物語ではなかったと、私はずっと後で知った。
でも、私はそのとき、安定した未来しか見えていなかった。
目の前の可能性より、確実な道を選んだ。
そしてそれは、たしかに私を守ってきた。
平凡だけれど、穏やかで、手の届く幸福。
でも――
彼と再会したあの瞬間、私の中にあった“選ばなかった人生”が、今の私に問いかけてきた。
「それでよかったの?」と。
再会してから一週間、私は夜になると妙に眠れなくなった。
スマホを手に取って、彼の名前を検索する。
ネット上には、過去の栄光だけが残っていた。
投資家として成功し、多くの事業を立ち上げ、賞も取っていた。
けれど、3年前を境に更新が途絶えていた。
彼の現在についての情報は、驚くほど少なかった。
「連絡先、聞けばよかったな」
口に出して、苦笑する。
どうするつもりだったんだろう。
同情? 懺悔? それとも……ただ、話をしたかっただけ?
いや、違う。
私は、“あのときの彼”にもう一度会いたかったのだ。
私に夢を語ってくれた、あの真っ直ぐな目をした人に。
でも、彼はもう、そこにはいなかった。
それが、何よりも苦しかった。
数日後、思い切って、昔の共通の友人に連絡を取ってみた。
「彼と、偶然会ってさ」
それだけ伝えると、相手は電話越しに沈黙した。
「……ああ、そうなんだ。最近、いろいろあってね」
「いろいろ?」
「うん。ビジネスがうまくいかなくなって、人間関係も崩れて、実家の会社も巻き込んで……全部手放したって聞いたよ」
「そう、なんだ」
思ったより、冷静に聞いている自分がいた。
けれど、胸のどこかで、古い痛みがゆっくりと目を覚ましていた。
「でも、あいつ……ずっと、お前の話だけはしてたよ」
「え?」
「『あのとき、あいつに見捨てられてよかった』って。笑いながら言うんだけど、あれ、笑ってなかったと思う」
その言葉が、私のなかにぽとんと落ちた。
静かに、でも確かに、水面に広がる波紋のように。
彼も、後悔していたのだろうか?
あの時の選択を、違う形で抱えていたのだろうか?
私はスマホを見つめながら、もう一度だけ、彼に会いたいと思った。
今度は、「ごめん」でも、「あのときは」でもない言葉を、見つけたかった。