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殺人日和のバレンタインデー

作者: 丸木堂 左土

「明日が何の日か、知っているかい?」


 放課後、夕日が差し込む部室の中で、僕等はいつものように将棋を指していた。

 季節は、まだ春の兆しすら見えない二月の冬。空気は未だ身震いを起こすほど冷たく、油断すると歯の根が合わなくなるほどに寒々しい。地球温暖化が懸念されている近年ではあるが、そんなもの本当にあるのかと疑いたくなってしまうほどであった。

 防寒対策として、部屋の中央に白の円柱ストーブを置いているものの、残念ながら成果は乏しい。ないよりマシ、程度の範疇を頑なに出ようとしなかった。室内の気温は、低温のまま定温していた。

 ハァと白い息を吐いて、冷えた指先を擦り合わせる。対局開始からずっと将棋盤に焦点を合わせている眼球は、ショボショボとして重たい。脳も絶えることなくフル稼動しているので、もはやオーバーヒート寸前。それに加え、肩や腰もギシギシと軋んで痛かった。

 それでも、意識だけは将棋から離れない。

 現在の戦況は、お世辞にも重畳とは言えなかった。自陣はなんとか守りの体を成しているものの、中身はスカスカで非常に頼りなく、直ぐにでも崩れてしまいそうな砂上の楼閣。持ち駒は金ひとつだけで、攻撃の要である飛車も角も既に敵の手におちてしまっている。

 序盤の猛る獅子の如き勢いは、もう消え去っていた。斎藤カナヱの柳のような柔軟な受けにより、攻撃は全ていなされ、気が付けばこの有様だった。まるで、幻想にでも魅入られた心境である。

 あまりにも絶望的なシチュエーション。通常の対局であったら、もう既に投了しているであろう劣勢っぷり。実際に先ほどから頭の中にも、参りましたの五文字がちらついていた。が、ここで諦めてしまうのは些か早計というものだろう、と僕は考える。

 たしかに、今は防戦一方を強いられている。が、逆を言えば、現在の苦しい状況さえ耐え凌げば、必ず機は訪れるとも云えるのだ。

 相手だって、己の攻めがうまく噛み合わなければ、面白くないに決まっている。そして、その手の苛立ちは必ず疎漏を誘発する。畢竟、反旗を翻すチャンスが生まれる。

 ニヤリ、と口角の片側を上げた。失着からの大どんでん返し。それこそが、勝負事における一番の醍醐味と云えよう。そのような逆転の搦め手が決まれば、さぞかし気持ちがいいだろうよ。

 と、そういう訳で、僕がこうして一縷の望みに託して、次の一手へと考えを張り巡らせる重要な時であったのだ。対局者である斎藤カナヱが、唐突にそんな質問を投げかけてきたのは。

「えっ?」

 急に現実に引きずられてしまって、僕は反射的に対面を見た。そこには、一人の美しい女学生が座っている。

 目尻の上がった吊り目。艶やかな黒髪のボブカット。常時貼りつけている安っぽい笑顔。僕と同程度の身長。白い手。白い足。我が校の制服である黒いセーラー服。黒のカーディガン。標準よりも少し短いスカート丈。黒のニーソックス。

 これらの外観特徴を視認し、目の前に居座る人物を斎藤カナヱだと認定する。彼女は相変わらず薄っぺらな微笑を浮かべていて、何を考えているのかサッパリ汲み取れなかった。

「明日が何の日であるか解るかい、と訊いたのだよ」

 覚えの悪い生徒を相手にした時のような口調で、斎藤カナヱはこちらに向かって再度言い聞かせてくれる。ああ、彼女はそんな質問をしたのか、と僕も理解に至る。

「さぁ、わかりませんね」

 いまは将棋に集中したいので、必然、返事はおざなりになる。対する斎藤カナヱは無言であった。彼女が何も言わないのを確認し、僕は将棋を続行することにした。

 長く思索に耽る。意味もなく将棋盤の縁を撫でたり、両手をいじくったりしてみせて、うまく時間を稼いだ。僕等の行う将棋には、持ち時間なる制度は導入されていないが、それでも限度がある。

 そして数分にも及ぶ試行錯誤の末、僕は虎の子の金を使って崩壊しつつある玉周辺の囲いを強化することにした。今はまだ攻める時でなく受ける時、己の冴えない直感が、そう忠言しての選択だった。

 駒台の金を指で挟んで、四角形のマス目に打ちつけるように召喚すると、二月中旬の乾燥した空気とも相俟って、駒はパシンと小気味の良い音をたてた。

 自然と、笑みがこぼれてしまう。やはり、高価な駒はいい。大衆デパートなどで市販されている安物の駒では、この音は出せまい。こればかりは、質の良い道具類を用意してくれた斎藤カナヱに感謝しなくてはならない。

 さて、と僕はうら寂しくなった駒台に目をやった。これで持ち駒は全て消化した。後は、盤上の駒のみで勝負するか、相手の駒を奪い取って手数を増やすかの二択しかない。

 ふぅ、と不意に向かいから吐息の漏れる声。

「いやはや、先輩の質問に刹那の思考も許さないとは……嘆かわしいねぇ。最近はタヌキ君も、随分と生意気になってきたじゃないか。出会った頃の初々しさが、今では懐かしく思えるよ」

 僕の返した答えに納得がいかないのか。斎藤カナヱは大仰な仕草で溜め息をつき、異邦人のように両手を広げてみせた。相変わらず、いちいち演技過多が目立つ人である。

 そんな彼女を尻目にして、僕は小休憩に入ることにする。

 難しい局面を切り抜けた達成感からなのか、妙な脱力感がじんわりと体の中を浸透していた。凝り固まった肩を左右の手でほぐしつつ、疲れた眼球を休憩させるために、ぐるりと視線を半周させる。

 視聴覚準備室を無理やり開拓して拵えた部室は、普段と同じく非常に雑多な様子であった。リノリウムの床には大樹の根っこのように黒いコードが這っていて、用途不明の機材は四方に散乱している。

 中には壊してはマズイ高価な機材もあるので、本来なら早急に整理整頓しなくてはならないのだが、僕も斎藤カナヱも基本的に物ぐさ太郎なので、未だに実行へ移したことはない。

 もしかしたら、どちらが先に折れるのか無意識に勝負しているのかもしれないな、とくだらない想像をしてみる。

 それから、しばらくの時間が経った。

 先程も述べたように、僕らの行う将棋に持ち時間はない。なので、互いに自由に長考してよいのだが、いくらなんでも長すぎる。

 僕は彼女に向かって、次手を催促する言葉を幾らか投げかけたのだが、それでも斎藤カナヱは動かなかった。さきに無碍な扱いを受けたことを、少しばかり根に持っているのかもしれない。

 業を煮やし始めた僕は、彼女を満足させるために、親切にも具体的な返答をひとつ返してやった。

「えーと……わかった。アレですね。明日は斎藤先輩の誕生日なんだ。だから、そんな思わせぶりな問いかけをしてきた。そうでしょう?」

「残念。私の誕生日は八月なんだ」

 あらら、どうやらハズレてしまったらしい。まあ、思い付きで言ってみただけだし、それも当然か。

 僕の出した浅薄な解答に失望されたかとも思ったが、斎藤カナヱの反応は予期していたよりも芳しかった。左手を顎の辺りに添え、面白そうにコクコクとしきりに頷いている。

「けれどもタヌキ君。誕生日という発想は強ち的外れでもないよ。いいところを突いているし、かなり惜しいニアミスでもある。愚鈍なキミにしちゃあ、結構がんばったじゃないか」

 そして彼女は、僕を労うように二、三度拍手してくれた。

 いやーそれほどでもないっすよー、とこちらも謙遜まじりに照れてみたが、よくよく考えるとあまり褒められていない気がする。ていうか、馬鹿にしてるだろ。

「じゃ、冬のクイズ大会は僕の予選敗退により終了ということで。では、斎藤先輩。早く次の手を指してください」

 くだらぬ問答はここらで終了。停滞していた対局を再開させるために、僕は将棋盤に手の平を向けた。が、返って来たのは苦い笑いだけ。

「つれないねぇ、タヌキ君。キミはもうすこし、先輩との付き合い方を考えたほうがいいぜ。そんなツンケンした生き方じゃあ、きっと将来苦労する」

 あなたにだけは言われたくない。喉元まで出かけた言葉を咄嗟に引っ込める。これ以上彼女の機嫌をそこねるのは得策ではないと思ったからだ。

 斎藤カナヱは笑顔を携えたまま、話を続ける。

「しかしながら、キミの言うことにも一理ある。何事にも云えることではあるが、一辺倒になってしまう、というのはいかんことだからね。それではキミの望みどおり、将棋のほうも進めるとしようか」

 そう言うやいなや、斎藤カナヱは流れるような動きで駒台の飛車を手に取ると、盤上のマス目にそれを召喚した。元から次手は決まっていたのか、そうでないのかは解らないが、一連の清流の如き動作に、僕は思わず目を奪われる。

 けれども、駒が盤に打ち付けられる鋭い音を聞いて、思考は即座に将棋へと切り替わった。全ての神経を盤上へと集中させて、素早く飛車の位置を確認する。そして、僕はおや? と首を傾げたのだった。

 何故か、飛車はいかにも取ってくれという言わんばかりの場所に置かれていた。他の駒との位置関係も調べてみるが、飛車を取ることによる弊害は何も見当たらない。飛車はただ孤立無援の状態で、ポツンと盤上に佇んでいる。

 数回、目を瞬かせた後、机の下で小さくガッツポーズをつくった。遂にこの時が来たのだ、と感慨深い情動が押し寄せてくる。

 してやったり。肉は切らせようとも骨までは断たせない粘りの戦法が漸く効いてきたのだろう、斎藤カナヱが珍しく平凡なミスをした。意味の解らない問いかけに気を取られていたのも一因ではあろうが、何はともあれ、この隙を突かないわけにはいかない。

 僕は内心ほくそ笑みながら、待ったをかけられる前に、さっさと間抜けな獲物に飛びかかろうと手を伸ばした。

 が、

「すいません、長考します」

 寸でのところで思いとどまる。すーはーと一回大きく深呼吸をし、今いちど将棋盤を見つめなおした。

 ウマイ駒にゃあ裏がある。それが、今まで数え切れないほどの喫してきた敗北の中で学んできた教訓の一つであった。

 同じ轍をそう何度も踏むわけにはいかない。僕は眼前の将棋盤を脳内に投影し、幾つかの筋道を立てると、どれが最善のルートなのかをシミュレートし始めた。

 しかし、それに水を差す人物が前方に一人。

「おいおい後輩君。将棋に洒落込むのは構わないが、クイズのほうまで止まっちまうのは感心しないなぁ。解答権はまだまだあるのだから、臆さずチャレンジしてくれよ」

 手持ち無沙汰で暇しているのだろう、対面に座る鬱陶しい先輩さんは、飽きもせず謎の突発的クイズコーナーを進行させ続けている。

「…………」

 正直、集中力が散漫になるのであまり話しかけて欲しくなかった。けど、無視したら無視したで面倒そうだし、非常に悩ましい。

 溜め息を一つはさむ。

 仕方がないか。僕は指でコツコツとこめかみを叩き、将棋からクイズへ脳の思考をシフトすると、おもむろに口を開いた。

「明日は、市教研です」

「違う」

「代替休日」

「間違いだ」

「期末テスト開始日」

「ハズレ」

「僕の誕生日」

「不正解」

「クリスマス」

「ノー」

「エイプリルフール」

「……なぁ、タヌキ君。キミ、もしかしてテキトーに物言ってないかい?」

「はい」

 だって面倒くさいし。かといってエスプリの効いた冗談も言えない僕には、どう捻ったってテキトーな答えしか出せない。無茶振りにはトコトン弱かったりするのだ。なので、僕は早々に白旗を振った。

「ごめんなさい、斎藤先輩。自分の知能じゃあ、これより上は望めないです。降参します。僕には無理です」

 そう言い終えて、両手をあげて万歳した。斎藤カナヱは若干呆れ気味に僕を見る。

「やれやれ、張り合いのない後輩君だ。暖簾に腕押しとは正にこのことだね」

 これ見よがしに肩をすくめてみせる。

「ま、タヌキ君もあまり乗り気じゃないみたいだし、もったいぶらず答え合わせといこうか」

 彼女はさして残念な風でもなく、あっさりと解答を告げた。

「明日は、一九九一年の二月十四日。つまりは、聖ヴァレンチヌスの殉教日。バレンタインデーの日だよ」

 バレンタインデー、と声に出して復唱する。言われてみたらたしかに、そのようなイベントもあった気がする。

「ちなみに、女性が男性にチョコレートを贈るという風習は、国際的に見ても日本だけらしいぜ」

 そんな豆知識も披露してくれたので、へーそうなんだ、じゃあグローバルな僕には関係ない行事っすねーと自虐的な相槌を打っておく。

 思いの外、バレンタインデーへの食いつきが悪かったせいだろう。斎藤カナヱは怪訝そうに首を捻っている。

「うーん。ちょっと反応が良くないねぇ。日本在住の男性は皆、バレンタインデーという日を待ち望みにするものではないのかい?」

「正直、微妙なとこですよ。盛り上がる男子、盛り上がらない男子。せいぜい半々ぐらいじゃないですか。少なくとも、待ち望んでいる側のほうがマジョリティというわけではない」

「ふむ、そうなのか。知らなかったよ。いやあ、生憎、私は世俗にはとんと疎いものでね。世の流れというものがイマイチわからんのだよ」

「世俗に疎いって……山籠りしてる仙人じゃあるまいし、そんなことはないでしょうに。クラスの様子とか見てれば、自然とわかるじゃないですか、世間の様子とか流行とかって」

「それが、クラスのほうには全く顔を出していなくてね。なにせ私はほら、部室登校児だからさ」

 保健室登校みたいなことをのたまいやがる不良な先輩さん。なんだよ部室登校児って。寡聞にして聞いたことがないぞ、そんなの。

「ま、世間のことは大概キミから聞けばいい訳だし、別に不便しちゃあいないけどね。困りはしないさ」

 後輩をたたせるような感じで話をしめてくれたが、僕には気になることが一つあった。

「けど、斎藤先輩。僕が心配するのは大きなお世話かもですが、進級に必要な出席日数と取得単位は大丈夫なんですか? うちの学校って、案外そういうの厳しいじゃないですか」

「ほお、キミが他人の心配をするなんて珍しいね。怖いなぁ、明日は槍でも降って来るのかな? しかし安心してくれたまえタヌキ君。そのあたりのことについては、もう既に手を打ってあるのだよ。だから問題ない」

 手を打ってどうにかなるものなのだろうか。単位とか出席とかって。まあ、斎藤カナヱなら何をやってもおかしくはないし、別段不自然ではないけれど。

 それはさておき、と彼女は話題の方向転換をはかった。

「今は進級の話よりも、バレンタインデーの話をしようぜ。聞きたいなぁ。キミの甘酸っぱいバレンタインデーのエピソードとかをぜひ」

「甘酸っぱいエピソードですか……」

 正直、彼女の言葉には苦笑いを浮かべるしかなかった。自分は、その手の話に最も疎い人間であるからだ。色恋沙汰に、希望も願望も抱いたことがなかった。

「斎藤先輩には悪いですが、その期待には副えそうにないです。バレンタインデーなど僕にはからっきし関係のない行事ですからね。卑下慢じゃないですが、僕はいままで異性からチョコレートを受け取った経験なぞ一度だってありません。義理チョコも、お返しが面倒なので全部断ってますし」

「はっはっは。いかにもタヌキ君らしい立ち振る舞いだね。その他人に借りをつくらない生き方の徹底振りには、もはや好感さえ持てるよ」

 けどさ、と斎藤カナヱは意味深に言葉を区切って、三日月みたいに口をゆったりと歪めた。

「今年ばかりは、ちっとばかし無関係と決め込む訳には、いかないんじゃないのかい?」

 何故か、背筋が凍った。嵐の前の静けさとでも言うべきなのか、部屋の静寂がやけに喧しく感じる。

 一体、斎藤カナヱは何を言っているのだろうか。頭の中ではクエスチョンマークばかりが浮かび、疑念で雁字搦めになる。訊かなくては、と思ってしまった。

「……どうしてでしょうか?」

 嫌な予感をひしひしと感じつつも、止せばいいのに恐る恐る訊ね返してしまう。案の定、返って来た答えには、僕が最も聞きたくない単語が含まれていた。

「だって――キミにはS子ちゃんがいるじゃないか」

 S子ちゃん、という言葉を皮切りに、僕の住む世界が止まった。

 寒風が窓を叩く音も、石油ストーブがゴォゴォと唸る怒号も、吹奏楽部の吹くトロンボーンの拙い音色も、己の心臓の鼓動さえも、全てが停止し、すっかり聞こえなくなってしまった。まるで、五感の内の聴覚だけが、すっぽりと抜け落ちてしまったかのようであった。

 視界がぐらぐらと揺れ、うまく定まらない。眼球が、洗濯機みたいにぐるぐる回転している。不安定な世界の中で、斎藤カナヱの作り物めいた笑顔だけが、ハッキリと顕在していた。

「……っ」

 いつの間にか、呼吸を忘れているのに気付く。僕は喘ぐようにして酸素を取り込み、しぼんだ肺胞を必死で膨らませた。

「……さあ、どうですかね」

 動揺を悟られたくなくて、顔を背けて素っ気無く返事した。そんな即席の演技など、斎藤カナヱには全く通用しないと理解しててもだ。

「はっはっは。どうですかね、じゃないだろうよタヌキ君。クリスマスのあの一件以来、キミはしばらくS子ちゃんとは会っていないみたいだけど、それでも明日、彼女がどのように行動に走るか、考えずとも安易に想像がつくじゃないか」

「……僕には、つきません」

「あらあら、そうなのかい。ようし、それならば不肖ながらこの私が明日を予見してやろうじゃないか」

 彼女は、本当に嬉しそうに笑っている。

「そうだなぁ……明日、つまりバレンタインデー当日、S子ちゃんは前日に用意した手作りのチョコレートを、タヌキ君とふたりっきりの場所で、頬を朱に染めながら渡してくる。そして、タヌキ君はいらないいらないと首を振ってチョコレートの受領を拒否しつつも、なんだかんだでしっかりと受け取ってしまう。そして、次第に二人はパーソナルなラブラブ空間に包まれてゆく。ま、おそらくこんなところかな。我ながらそこそこ的を射た予想だとは思うけれど、キミはどう考える?」

「……ハズレでしょうね。そのような甘甘な場面を展開させる訳がないでしょう、この僕が」

「展開させるさ」

 斎藤カナヱは、断言した。

「規定事項だぜ、それは。だって、S子ちゃんとタヌキ君だもの。多少の紆余曲折はあるかもしれないが、結局はいつもどおりに収束しちまうさ。キミと彼女をつなぐ鎖は、キミが思っているよりも、ずっと堅牢だ」

 もう、限界だった。僕は諌めるような強い口調で彼女を糾弾した。

「止めましょうよ、こんな話。S子さんのこととか、正直どうでもいいじゃないですか。少なくとも斎藤先輩には、これっぽっちも関係のない話でしょう。出歯亀精神も、そこまでいくと只の悪趣味ですよ」

 それはそうだ、と囀りながら斎藤カナヱは存外あっさり引き下がった。が、その前に追い討ちをひとつかけるあたりが、いかにも彼女らしい。

「だけどさ、そう思うのならタヌキ君。さっさと次手を指してくれないかね。こちとら、いいかげん待ち飽きているのだよ。そもそもキミの言うどうでもいい話に興じてたのは、キミの指す手が遅いのが原因ではないか。まるで、私が望んでこの話をしているみたいに言われるのは、非常に遺憾なのだがね」

 この女。怒りで肩が震える。わざとやっているのだろうが、それでも感情的になってしまうのは僕が子供だからなのか。歯軋りのしすぎで、歯がぎちりと妙な音を立てていた。

 脳内で練磨していた作戦は、まとめて吹っ飛んでしまった。僕は乱暴に自陣の桂馬を動かし、独りぼっちの飛車を強奪する。

「おやおや、急に指し手が雑になったね。今までの石橋を叩いて渡る慎重さはどこへいったのやら」

 彼女は蔑むような視線で僕を射抜き、つまらなそうに笑った。

「ま、でも、今のタヌキ君じゃこんなものか。私も飽きてきたし、ここらで長い対局に終止符でもうちましょうか」

 斎藤カナヱは駒台から新たに角を召喚すると、高らかに宣言した。

「これで詰みだ」

 その言葉を聞いて、僕は瞬時に脱力した。己の敗戦を確認する気力もなく、だらりと頭を垂れる。

 今は、敗戦の悔しさよりも斎藤カナヱへの不愉快さが勝っていた。お前なんか死んでしまえ、と童のような悪態をついてみたくなる。

 なんか、すごい疲れたな。

 僕はパイプ椅子を軋ませ、前足を浮かせて一本立ちになると、天井を仰ぎ見た。蛍光灯の白い光が、疲弊した目にひどく響いた。眩しいというよりも痛いといった感覚が先に襲ってくる。

 堪らず、目を閉じた。視界が赤く染まる。瞼の裏の血管が、透けて見えているのだ。鮮血のような色鮮やかな赤色には、不思議と人を惹きつかせる魅力があり、魅入ってしまった。

 しばらくの間、そうしていた。

 斎藤カナヱは駒を片付けているのか、かちゃかちゃと木材が擦れ合う音が耳に届いた。その音をバックグラウンドミュージックにして、僕はぼんやりとしている。

 その時だった。

 ふと、脳裏にある考えがよぎった。

 天啓のような閃きに、僕は目を見開いて、即座に体勢を戻した。斎藤先輩、と彼女を呼びかける。

「頼み事が一つあるんですけど、いいですか」

「頼み事? ふむ、言ってみたまえ」

「S子さんを殺してください」

 その言葉を契機にして、室内の雰囲気が剣呑なものに変わった。喩えるなら、今までは球体のような、なだらかな空気だったのが、今では剣山のような刺々しい形に変わってしまったイメージ。見ているだけで痛々しく、伸ばした手を引っ込めてしまう。そんな辛辣な空気。

 しかし僕はそんな空気をものともせず、ズケズケと切り出していく。

「斎藤先輩なら、出来るでしょう?」

「うーん、どうだろうね。まあ、出来るか出来ないかって言われたら、出来るとは思うけど」

「なら、やってください」

「おいおい、中々どうして、随分簡単に言ってくれるじゃないか。キミは日本の殺人事件検挙率を知っているのかい? なんとビックリ九十七パーセントだぜ。私みたいなパンピーが殺人を犯したところで、直ぐにお縄についちまうさ」

「つきませんよ」

「ほお、自信満々に断言するね。ならば、その根拠のご教導を願おうか」

「はい」

 僕は乾いた唇を舌で湿らせ、空咳を何度かした。これで話す準備は完了だ。僕は慎重に言葉を選びながら、詭弁を弄していく。

「一見、九十七パーセントという数値を聞くと、日本で殺人犯すのは、とてつもなく難しいように思えます。が、実はそうじゃないのです。この高い検挙率は言わば見かけ。実質はもっと低い。殺人事件における一番の動機がなにか知っていますか? 答えは、ずばり激情によるもの。まあ、所謂カッとなって殺ってしまったってやつですよ。この手のケースは、加害者が我にかえった後に慌てて救急車を呼び、被害者の死亡が確認され、そのまま牢獄に収監。というある意味自首のような形で終わるパターンが最多です。一見、間抜けにも見える幕切れですが、日本の殺人事件はこれがダントツに多い。そもそも初めから明確な殺意を抱いていなかった殺人なんて、検挙されてしまって当然でしょう? この種の殺人は、本来なら検挙率にカウントするべきではないのです。なのに、警察は自らの優秀さを示す為に指折り数えている。これが、見かけの検挙率上昇の一因になっています」

 次第に、舌の調子が良くなっていくのを感じつつ、

「さて、次は計画殺人について話しましょう。突発的でなく、対象者を予め決めて決行する計画殺人は、ちょっと聞いたところ上手くいくように思えます。が、これもそうじゃない。いくら緻密に練って計算した殺人でも、結局は机上の空論にしか過ぎないからです。実際の殺人では、思ってもみないような不測のトラブルが多々起こるものですし、いざ対象者を殺すとなった段階に怖気づいてしまって、その際に不手際、具体的に言えば、不留意証拠を残す可能性などが生まれます。特に、日本人は完璧を求めやすい。一度でも予想外のことが起きてしまうと、後は全てが崩れる。まあ、悪く言えば頭でっかちで、融通の利かない杓子定規な人種なんですね。フレキシブルな対応がとにかく苦手なのです。そして、これが検挙率のマジックと云われる最大の所以なのですが」

 軽く息継ぎ。

「本当に上手くいった殺人は、そもそも殺人事件とすら扱われません。だって、殺人が露見していないのだから、普通に考えれば当たり前のことです。仮に警察が動き、事件扱いになったとしても、せいぜい行方不明がいいところですよ。少なくとも殺人事件とは結び付けられません。結局のところ、日本は無理やり治安のいい国にされているだけなのです。実際には、もっと沢山の殺人事件が起きていますよ。ただ、それが表に出ないだけでね」

「なるほどなるほど」

 斎藤カナヱは、興味深そうに幾度か頷いた。

「まあ、タヌキ君の三百代言はいつも通りのことだから無視するとして、しかし、キミの云う殺人事件についての考察は面白いね。まるで、実体験のように語るじゃないか」

「実体験ですから」

 実際に、僕は体験しているのだ。

 目の前で殺人が行われて、きちんと警察に通報して、全てを話し切ったというのに、それが事件として成立しなかったのを目の当たりにしている。

 重箱の隅をつつくように調査すれば、証拠などいくらでも出てきそうなのに、警察がそうしなかったことも。日本の警察は優秀ではあるが、熱心ではないのだ。

「話が逸れましたね」

 回顧を打ち切り、話の軌道修正を計る。

「つまり僕が言いたいのは、斎藤先輩なら殺人を行う能力が十二分にあるということです。貴女なら、もはや華麗とさえ称されるほどの、美しい殺人を完遂出来るでしょう。何よりもあなたは、あの斎藤家の人間なのだから」

 僕はそこで、額を机に当てるようにして、深々と頭を垂れた。恥も外聞もない、ありのままの自分で、なんの飾り気のない純粋な懇願をする。自分の誠意が少しでも彼女に伝われば、と思った。

「対価ならいくらでも払います。斎藤先輩が望むことならなんでもやります。S子さんが居る限り、僕の未来に平穏は訪れません。彼女がいなくならないと、僕は一生、不幸なままなのです。だから、お願いします。S子さんを殺してください」

 緩やかに時間は流れる。僕は机の木目をじっと見つめたまま、顔を上げない。期待と不安で綯い交ぜになった胸中は、靄がかかって苦しかった。

 息をするのも躊躇ってしまうような沈黙が、しばらく続いた。そしてその沈黙を打ち破ったのは、了承の言葉でも拒否の言葉でもなく、斎藤カナヱの押し殺した笑いだった。

「はっはっは。いやぁ、いいね。面白い。非常に面白い三文芝居だったよ。まるで、どこぞのB級サスペンス映画の一幕みたいなノリだったね。滑稽、滑稽」

 対岸から発せられる愉快そうな笑い声を聞いて、僕は即座に顔を上げた。

 斎藤カナヱは笑っていた。軽くお腹をおさえて、笑っていた。今のやりとりを、ジョークとして捉えていた。なんでもない日常の、とりとめのない会話の一つであると認識していた。

 その事実に、茫然とする。

「それにしても、驚いたよ。キミが突然マジな顔して、S子ちゃんを殺して欲しいだなんて語りだすものだから。いやはや、凄かった。演技だとわかっていても鬼気迫るものがあったね。もしかしたら、タヌキ君は役者に向いているのかもしれない」

 待てよ。今のは演技などではない。正真正銘、心の底からの嘆願だ。そのことは、お前にも充分伝わっただろう。だから、そんな風に流してくれるなよ。なあ、斎藤カナヱ。

「さて、今日はもう遅いし、これでお開きにしようか」

 僕は叫びのような声を上げた。

「先輩、僕は決して冗談のつもりじゃ――」

 その先は言えなかった。斎藤カナヱがぐいと手を突き出して、僕を制したからだ。

「あいや待たれい、タヌキ君。わかっている、キミの言いたいことはよおく理解しているよ。だけどね。私は人生の先輩として、キミにひとつ教えなければならない。興を削ぐようなことを言ってしまうと思うが、我慢して拝聴してくれよ」

 彼女は聖女のような慈しみに満ちた声色で僕を諭すと、童女のような満面の笑みで言う。

「人を殺すってのは、とってもいけないことなんだぜ」

 その言葉を聞いて、頭が沸騰しそうになった。拳を強く握りすぎて、皮膚に爪が食い込む。もし僕の理性が少しでも生きていなかったら、すぐにでも飛び掛っていたかもしれない。

 人を殺すのがいけないことだって? どの口が言いやがる。絶対に、お前だけは絶対に、言っちゃいけない台詞だろう、それは。人殺し以上に邪悪なモノを持ってる、お前だけは。

 そう糾弾したい想いをグッとこらえて、舌打ちしてしまいそうな口元をキュッと引き締めた。顔を下げ、膝を掴み、こらえる。顔面が醜く変形しているのがわかった。おそらく僕は今、とんでもなく醜悪な表情をしてるだろう。

 呼吸を整え、気を鎮め、昂ぶった感情を沈下させる。歪んだ表情を元に戻し、僕は漸く顔を上げた。

「……たしかに、斎藤先輩の言うとおりですね。すいません、今言ったことは、ぜんぶ忘れてください」

 悲愴の滲む声色で、やっと告げる。斎藤カナヱは満足気に頷くと、席を立った。

「そいじゃ、そろそろ私は退散させていただくよ。もうじき完全下校時刻だしね。戸締り云々は頼むよ」

 はい、と力のない了承を返す。僕の気持ちを慮ってくれたわけではないだろうが、早々に立ち去ってくれるのはありがたかった。今は、とにかく独りきりになりたかった。

 斎藤カナヱは立ち上がると、机の上に置いてあった通学鞄を手に取った。そして僕の背後を通り過ぎ、出入口の戸に手をかける。

「あ、そうそう」

 引き戸を開ける前に、彼女が言う。

「なあ、タヌキ君。人を殺す上において、一番大事なことってなんだと思う?」

 またその話か。ウンザリしつつも、馬鹿正直に返答してしまうのは、彼女を憎みきれてないせいなのだろうか。

「そんなの決まってます、死体の処理ですよ」

「正解。人間ってのは、殺すの自体は簡単なんだが、殺した後がとても面倒なんだ。人間の死体は犬猫とは違って、非常に大きいし、非常に重いし、非常に固いし、非常に臭いしで、デメリットを数えれば枚挙に暇がない。生ゴミみたく、袋に詰め込んで朝に出せば収集車が持って行ってくれる、という訳でもないしね。では、タヌキ君。最も安全で、かつ簡単に死体を処理できる方法があるのだが、キミには解るかい?」

 僕は即答した。

「山に埋める、ですよ」

 死体の処理については、僕も昔に考えたことがあった。そして、脳内で何度も検証を繰り返した結果、出した答えが山に埋めるというものだった。

 というか、埋める以外に死体を始末する方法が無いのだ。人間の身体というのは、とにかく形に残りやすい。仮に死体を焼いたり、動物に食べさせたりしても、必ず骨が残る。死体を完全に消去するというのは、不可能に近い。

 山に埋める以外の方法として、なるべく死体を細かく分割して海に捨てるというのがあるが、しかしそれだと、身体の一部が波で打ち上げられる可能性があり、あまりオススメが出来ない。消去法で出した結論ではあるが、山に埋めるのが一番確実な方法なのだ。

 しかし、斎藤カナヱは百点満点を出さない。

「悪くない発想だ。完璧なアリバイ工作と、警察犬の嗅覚を誤魔化せる深い穴でもあれば、それも良いのかもしれない。しかし、それよりもずっと簡単な方法があるのだよ。よく思考してみたまえ。キミなら絶対に正解に辿り着く」

 それよりも、ずっと簡単な方法だって?

 僕は今一度、様々な可能性を探ってみるが、答えなぞ出るはずもなかった。本当にそんな方法があるのかも疑わしい。

 斎藤カナヱは、僕をからかっているだけではないか。そう邪推する僕の気持ちを知ってか知らずか、彼女は残念そうに笑っていた。

「わからないか。ま、それならそれでいいさ。これは明日までの宿題にしておこう。なあに、タヌキ君ならちょいと考えれば直ぐ思いつくさ。明日はよい解答を期待しているよ」

 嗚呼、あと——と、戸を引きながら、最後に追伸を付け足す。

「自分で言うのもなんなのだが、私は非常に気まぐれな人間でね。己の主義主張なんざ、風見鶏よろしく風の吹くまま変えちまうのさ。だから、キミのイカレタ頼み事も一応記憶しておくよ。狭量な奴だと思われるのも、心外だしね」

 アディオス、と、からかうように最後にそう言い残して、斎藤カナヱは今度こそ部室から消えていった。

 彼女の足音が遠ざかり、気配が完全に消えた瞬間、僕は握りこぶしで思い切り机を叩いた。机上にあった駒箱が落ちて、地面に五角形の木片が散らばるが、気にもならない。いつもの冷静さは、とうに失っていた。

 僕は席を立つと、稼動するストーブを沈黙させ、窓を全開にした。即座に鋭利な冷気が顔を刺してくるが、火照った頭にはこれくらいが丁度いいだろう。徐々にクリアになっていく思考の中で、僕は先程の自分の行動を鑑みる。

「何をほざいてんだ、僕は」

 自分で自分を律した。

 僕だって、まさか本当に斎藤カナヱがS子さんを殺してくれるとは思ってなかった。彼女は、己の享楽でしか動かない。絶好の玩具である僕とS子さんの関係を、みすみす壊すような真似は安易にしないだろう。

「なら、なぜ殺してくれと言った?」

 投げ出された疑問は、白い息と共に中空を彷徨う。答えは考えるでもなく理解していた。僕は、疲れていたのだ。とても、疲れていたのだ。



 人気のない昇降口で、S子さんが僕のことを待っていた。彼女と会うのは、クリスマスのあの一件以来だから、かれこれ一ヶ月半振りの再会となる。

「あ、タヌキさん」

 彼女は僕の姿を認めると小走りで近づいてきた。僕は、駆け寄ってくるS子さんを無感動に観察する。

 長い黒髪。定規で引いたみたく一直線に切り揃えた前髪。不必要なまでに整っている容姿。不健康な白い肌。僕よりも高い身長。長い手。長い足。豊満な乳房。我が校指定の黒いセーラー服。小麦色のカーディガン。標準よりもかなり長いスカート。黒いタイツ。くたびれたスクールバッグ。大きく名前が書かれた白の上履き。

 普段と変わらない外見的記号を視認。普段と変わらない忠誠心に似た何かを確認。

 僕は彼女のことが嫌いだった。大嫌いだった。

「ご、ごめんなさいっ」

 前にやってくるなり、S子さんは勢いよく腰を折り曲げて謝罪した。へんに身長があるせいで、妙な迫力があった。自ずから、たじろいてしまう。

「クリスマスの時は、本当にすいませんでした。まさか、タヌキさんがあんなに怒るとは思わなくって、けど、わたしもどうしようもなくって、あの、とにかくすいません」

 クリスマス。S子さんの口からその言葉を聞くと、当時の生々しい記憶がありありと甦った。

 いま回想しても苦々しくなる、血塗られた降誕祭。たしかに、S子さんはあの時ああするしかなかったのかもしれない。けど、それでも、僕は彼女のことを許してやる気にはなれなかった。ああいうのは、理屈じゃないのだ。

 S子さんは顔を上げると、僕の顔色を窺うような不快な視線を送ってきた。僕は目を逸らし、もう終わったことですから、とだけ言った。

「ところで」

 これ以上クリスマスの話はしたくなかったので、強引に話題をずらす。

「どうしてS子さんは、僕のことを待っているのですか? 以前に約束しましたよね。待ち伏せしたり、後をつけたりするのは、金輪際止めてくださいって」

 僕の指摘に、S子さんは大いに慌てた。両手をバタバタと振りながら、すぐさま反論する。

「や、やだなぁ、タヌキさん。約束ならしっかり守ってますよ。もう昔のように、ストーカーじみた真似は、決して……」

「どうして目が泳いでいるんですか」

「あはは……もう、タヌキさんったら。眼球が遊泳する訳ないじゃないですか。おかしなこと言いますね……あはは」

 非常に疑わしい。彼女は本当に僕のストーカーを卒業したのだろうか。ここ最近、妙な視線を感じなかったかどうかを思い返してみる。

「そ、それに、今日、わたしが待っているのには、確固たる理由があるのです」

 己の切り札を晒す時のような自信を滲ませて、S子さんが言う。

「その、明日、バレンタインデーですから」

 バレンタインデー。まさか実際にその名を聞くことになるとは。苦虫を噛み潰したような気分になる。予定調和。そんな言葉が思い浮かぶ。

 斎藤カナヱのせせら笑う声が聞こえてくる。

 ――ほおら、やっぱり私の云うとおりになったじゃないか。

「あ、あの、実を言いますとですね、わたし、家ではよく、その、お菓子とか作ってまして、だから、そういうのには多少の自信があるといいますか……」

 顔を真っ赤にして、人差し指をつんつんと突きあわせながら、なんだか訳のわからないことを言っている。

「あ、でも、そんな偉そうなこと言えるほど大した腕前でもないんですけど、けど、その、いちおう食べてもらえるくらいには大丈夫というか……だから、つまりですね、明日、チョコレート、つくってきますね」

 はにかんだ笑顔を共にして、勝手に宣言しやがった。なに勝手に物を進めてんだよ。彼女の態度に、僕はひどく苛立つ。

「いりませんから」

「えっ……」

「だから、チョコとかいりません。ぶっちゃけ迷惑です」

 そう言うや否や、S子さんは眉をハの字にして、大きな瞳を潤ませた。口元をわなわな震わせ、声にならない言葉を吐き出す。

「えっ、でもっ、あ」

「明日は、絶対にチョコを持ってこないで下さい。わかりましたね?」

「わ、わたし」

「わかりましたね?」

「……け……けど」

「わかりましたね?」

「………………」

 何度も念を押した結果、S子さんは、了承とも否定ともとれる曖昧な頷きを返した。僕は彼女のどっちつかずの対応に一抹の不安を感じながらも、とりあえずそれでよしとすることにした。

 無言でS子さんの横を通り抜け、下駄箱の中から黒のローファーを取り出す。上履きを脱いでいる時、自分の口から無意識に呟きが漏れた。

「S子さん、もう、やめにしませんか? こういうの」

「えっ?」

「僕に執着するのを、です」

 上履きを下駄箱にしまい、僕はS子さんと真正面から向き合う。斎藤カナヱとのやり取りで生まれた熱が、どうやらまだ抜けきっていないらしい。僕は声を低くして、問いかける。

「S子さん、前に言いましたよね? 僕が幸せになれば、自分も幸せになるから、僕にはずっと幸せでいて欲しいって」

「はい、言いました。けど、それが……」

「なら、死んでください」

 さすがのS子さんも、動揺を隠し切れなかったらしい。潤んだままの瞳を大きく見開いて、茫然として僕を見つめる。

「僕にとっての最大の幸福は、貴女が死ぬことです。貴女が死ねば、僕は無上の喜びに浸れる。だから、僕の幸せを願うのなら死んでください」

 完全下校時刻をとうに過ぎた校舎内は、耳鳴りがするほど静かだった。そのおかげか、僕の語りにも独特の幻想感が生まれていた。僕とS子さんの居る空間だけ、現実から切り取られてしまったかのような錯覚に陥る。

「い、いやっ」

 短い悲鳴が、静寂に切り込みを入れた。S子さんは頭を抱え、左右に首を振る。

「た、たしかに、タヌキさんの幸せは、わたしの幸せです。それは、間違いありません。だけど、すいません。死ぬのは、死ぬのだけは、堪忍してください」

 明確な拒絶。死ぬのは嫌だという当たり前すぎる主張。その反応を見て、僕はひどく安堵していた。

 結局、S子さんも僕のことを愛してるだなんだの言っているが、一番可愛いのは自分なのだ。

 普段、タガの外れた恋慕の情を見せ付けられているせいで感覚が麻痺していたが、S子さんだって普通の人間なのだ。命は惜しい。僕につくすといっても、限度がある。僕は、あくまで次点。己の命を賭してまで、寵愛を受けようとはしまい。

 しかしS子さんは、そんな僕のささやかな安らぎさえも奪っていった。

「だって、わたしが死んだら、もうタヌキさんと関われないじゃないですか」

 最初、彼女の言っている意味がわからなかった。聞き間違いなんだと思った。けれど僕は、S子さんの目を見て全てを悟った。

 あの目だった。サインペンで塗りつぶしたみたいに、光を失った瞳。黒いというよりも暗いといった表現が当てはまりそうな、狂恋病特有の症状。彼女は今、狂気の領域に片足を踏み込んでいる。

「わたしも、できればタヌキさんの願いを叶えてあげたいです。いえ、他のお願いなら、何がなんでも叶えてあげたと思います」

 S子さんは機械的な口調で話し出す。

「だけど、わたしが死んでしまったら、タヌキさんとはもう一生、喋れないし、触れられないし、視れないし、聴けないし、嗅げないし、味わえません。そんなの地獄です。死に地獄です。タヌキさんを知覚できない死体なんかに、わたしはなりたくありません」

 彼女は、ゆっくりと歩き始める。一歩、また一歩と、徐々に距離をつめてくる。僕は金縛りにあった時のように、指一本動かせない。

「ねぇ、タヌキさん。そうやって、わたしを拒絶しないでください」

 底の見えない深淵を連想させる、あの瞳で僕を捉えながら、近づいてくる。

「わたしのことを、好きじゃなくてもいいですから。嫌いでもいいですから。わたしのことが気に喰わなかったら、殴ったり、蹴ったり、犯したり、何をしてもいいですから。欲しいものがあるなら、お金でも物品でも、幾らでも差し上げますから。して欲しいことがあったら、わたしの力の及ぶ範囲なら、いえ——たとえ及ばない範囲のことであったとしても、必ずそれをやり遂げてみせますから。タヌキさんの言うことなら、先ほどの命令を除けば、どんなことでも聞き入れますから。だから、わたしのことを、見捨てないでください。わたしは、死ぬのはちっとも怖くありませんが、タヌキさんとの関係性が失われるのだけは、とてもおそろしいです」

 息があたる距離。このままじゃ、吸い込まれる。彼女の瞳に、吸い込まれてしまう。

 耳元で囁かれる。

「だから、だから——ずうっと、わたしと関わっていてください」

 耐え切れなかった。

 僕は一切の加減も無くS子さんの頬を殴った。

 肉をえぐる感触と共に、彼女の身体は紙切れのように吹っ飛ぶ。下駄箱に背中をぶつけ、糸の切れた人形のようにへたり込んだ。

 眩暈がした。息が荒い。興奮してるせいか、視界が赤く染まっている。落ち着くことなど、到底出来そうにない。気が昂ぶりすぎて、身体が異常なまでに震えている。

 今ので、はっきりした。

 S子さんは死を怖れていない。彼女にとって最も恐ろしいのは死ではなく、僕との関わりが消えうせることなのだ。極端に云ってしまえば、それ以外の事象は全てどうでもいいとさえ思っている。

 何もかもが、僕中心。

 己の価値観も死生観も、全部が僕を基準としている。自分のことなど、はなから勘定に入れていない。彼女にとっての世界とは、僕一人を指す。

 気持ち悪い。

 純粋に、そう感じた。

 目の前にいる女が、途轍もなく気持ち悪かった。

 人間なら、いや、生き物なら、なによりも自分の命を最優先にするのが道理であろう。他者を自分より上に据え置くなど、もってのほかだ。そんなこと、あってはならない。あっちゃいけない。

 では、なんなのだ? 目の前にいるコイツは、なんなのだ? 生物じゃなければ、一体なんなのだ?

「ふふふ……」

 S子さんは、笑っていた。

 口端から血を垂れ流しつつも、ぬるい幸せを噛み締めるように笑っていた。いつまでも、口元を綻ばせていた。僕が完全にS子さんを拒絶しなかったのを、喜ばしく感じているのだろう。

 正常ならば痛々しく映るはずのその姿は——なぜか、妖艶と感じるまでに美しかった。

 なら、もういちど殴ってやろうか。

 舐められている気がして、僕は拳に力を込めて腕を引いた。だが、そこで止まってしまう。振りかざした拳は、いつまでも振り下ろされることはない。

 だらりと腕を下ろす。

 やっぱり、無理だ。彼女のへらへらした笑顔を見て、改めて痛感する。自分では手を下すことが出来ないと理解した。

 正直に告白すれば、僕は、S子さんに負い目のようなものを感じていた。

 彼女が狂ってしまった原因が、自分にあるせいだろう。最後の最後で、どうしても甘さが出てしまう。今みたく、中途半端な反発で終わってしまう。

 だから、誰かがやってくれなくちゃ駄目なのだ。誰かが殺してくれなくちゃ駄目なのだ。そうでないと、先に僕が壊れてしまう。けど、そんな人物はどこにもいなかった。頼みの綱である斎藤カナヱは、気まぐれすぎて頼りにできない。

 じゃあ、僕は一生このままなのだろうか?

 怖かった。恐怖を紛らわす為に、強く舌打ちをした。虚勢を張って自分を誤魔化すしかなかった。こんな女なぞ怖くない、と思い込むしかなかった。

 早く、この場から離れたい。

 僕はローファーを履き、せめてもの抵抗として、床に臥せているS子さんの身体を蹴り飛ばしてから、学校を出た。

 その間、彼女はずっと——嗤っていた。


 走る。

 何か恐ろしいものから逃げるように、僕は走る。

 校門は既に閉まっていたので、脇の出入り口を使って校外に出た。

 そこまで来て漸く、安心らしきものが得られた。

 僕はホッと胸を撫で下ろす。

 空は、完全に赤みを失っていた。漆黒の帳で周囲を包み隠し、今日という日を終わらせる準備をしている。

 もう、終わるのだ。二月十三日が、終わるのだ。そして明日の、バレンタインデーを迎える。

 二月十四日。明日は一体、どんな日になるのだろうか。拭いきれない不安を皮膚で感じながら、僕は暗くなった空を見て思った。

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[一言] やっぱりこういう作品大好きです!
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