Chapter 2-5 聖女さま、舞い降りる
アレクは白銀の少年とその護衛達に連行され、館の地下へ向かっていた。
「…………」
逃げ出すタイミングがなかったわけではない。
むしろ多すぎたぐらいだ。
だが、アレクの第六感が告げていた。
こいつに背を向けたが最後、死の運命から逃れることはできないと。
「モンブルムの貴族もロクなもんじゃないけど、ランデアの貴族もなかなかいい趣味してるよねぇ。だいたいの館に地下牢があるじゃないか。君の実家にもあったのかい?」
酷薄な笑みを浮かべながら、少年が問いかける。
その顔は、まるで最初に会ったときとは別人のような邪悪さに満ちていた。
「……この国の地下牢は、領地で罪を犯したものの管理は、各領地の貴族が行うべきという考えのもと作られるものだ。決して道楽のためにあるわけではない」
アレクが反論する。
たしかにこの国の貴族の屋敷は、地下牢を備えているものが多い。
だがそれは少年の言うような趣味や道楽のためではなく、自分の領地で起きた問題は自分の領地で解決するべきという考えのもと作られたものだ。
「それは建前の話だろ? デムロム以外のところもいくつか見てきたけど、ひどいもんだったよ。汚らしい虫けらどもが欲望を満たすためだけに存在する檻さ。吐き気がするから全員バラしてやったけどね」
「……?」
ばらすというのは、いったいどういう意味なのだろうか。
アレクは気になったが、それを今聞けそうな状況でもない。
「さて。着いたよ。ここが今日の君の宿だ」
そう少年が言って指さしたのは、独房のような場所だった。
鉄格子がはめられており、中にあるのは小さなベッドとトイレのような場所だけ。
それ以外にはなにもない。
「さて。それじゃあ早速だけどフレッドくん。『聖女』っていうのは何者なのかな?」
「な、なんのことだか本当にわかりません。私には、まるで心当たりなど……」
「なるほど。それじゃあ、お仕置きだ」
少年がそう言うと、アレクの身体が吹き飛んだ。
そのまま、独房の壁に思いきり叩きつけられる。
「がぁ……ッ!?」
肺から空気が抜け、呼吸することができなくなる。
咳き込むように息を吐きだし、なんとか気道を確保した。
「言い忘れてたけど、嘘を一回つくたびに一回お仕置きが待ってるからね。死なないうちに正直に話したほうがいいよ」
少年が気軽な様子で言うが、アレクはそれどころではない。
どう考えても、体格に見合わない威力の蹴りだった。
あんな小さな子どもから繰り出されたとは、到底思えない。
「で、どうなのかな? 『聖女』っていうのは何者なの? 早く教えてくれないと死んじゃうよ? 大して頑丈じゃないんだからさぁ」
嬉々とした様子で、少年はアレクの胸倉を鷲掴みにする。
その表情はただの少年のそれではなく、同じことを何度も何度も行ってきた凌辱者のそれに他ならなかった。
「し、知らない……」
アレクは少年から顔を逸らし、それだけ答えた。
それを言った瞬間、少年の顔がさらに嗜虐的に歪む。
「なるほど。どうやらまだまだお仕置きが必要みたいだね」
しゃがみ込み、アレクの右手の小指を持った少年は、それを思いきり捻じ曲げた。
ボキリという何かが折れた音が、狭い室内に響く。
「あああぁぁぁぁあああああッ!!!!」
「うるさいなあ。ちょっと指を折ったぐらいで大げさなんだよ。これだから温室育ちの坊ちゃまは……」
激痛にのたうち回るアレクを、少年は冷めた表情で見つめる。
あまりにも耳障りだったのでもう一度蹴ると、叫ぶ元気がなくなったのか静かになった。
「ぐ……は……っ」
「知っていることを話さないと、もっとひどいことになるよ? 次は薬指、中指、人差し指、親指。右手が終わったら次は左手だ。その次は足。腕、折れる部分がなくなってきたらその時はまた考えるけど」
少年が発する言葉に、しかしアレクは少し安心していた。
彼が行う拷問は、ベルのそれと比較するとあまりにもぬるい。
今すぐ喋らなければ問答無用で命を奪う、彼女のそれとはかけ離れている。
折れた小指は痛むが、耐えられないほどではない。
今のところは、だが。
「なんか、まだ僕はやれるぞ、って感じだね。いいね。とてもいい。それでこそ、嬲り甲斐があるってもんだ」
少年は舌なめずりをして、アレクの薬指を掴む。
そのまま薬指もあらぬ方向に捻じ曲げられた。
ついさっき聞いたばかりの音がもう一度響き、アレクを激痛が襲った。
「ああああぁあぁああっ!!」
「なにか勘違いしてそうだから言っとくけど、このまま何も喋らなかったら、ずっとここで暮らし続けることになるんだよ? そこんとこわかってる?」
少年が子馬鹿にしたようにアレクに語り掛けるが、アレクは何も反応しない。
「ふーん。まあいいけど。それじゃあせいぜい、壊れないように頑張って――」
「――あなたは、アレク殿下!? アレク殿下ではありませんか!?」
少年の言葉を遮るように、男の声が地下に響く。
アレクが入れられていた地下牢の向かい側。
誰もいないと思っていた場所に、初老の男性が入れられていた。
どうやら、アレクの叫び声を聞いて目を覚ましてしまったようだ。
ボロ切れのような布を纏い、ぼさぼさの髪と髭を無造作に伸ばしている。
記憶にあるのとは随分違うものの、その顔には見覚えがあった。
あったが、アレクのほうからその名を口にするわけにもいかない。
「……申し訳ありませんが、どちら様でしょうか?」
「リッツバーグ・デムロムでございます! いや、お忘れになっているのも無理はない。お会いしたのは随分と昔のことですから」
初老の男――リッツバーグは、アレクに朗らかな笑顔を向ける。
彼こそが現デムロム家当主、リッツバーグ・デムロムである。
姿が見えないのでデムロム陥落時に殺されたのかと思っていたが、ここに幽閉されていたらしい。
まずい、とアレクは思う。
リッツバーグは、完全にアレクの正体を見破っている。
それが少年に伝われば、それはそれは喜ぶことだろう。
そして残酷にも、アレクの祈りが届くことはなかった。
「……アレク殿下? お前は今そう言ったのか?」
粘ついた視線を向ける少年が、リッツバーグに詰め寄る。
少年が胸倉をつかみ上げると、彼の顔が恐怖に歪んだ。
アレクは彼が口を割らないことを祈るが、とてもそんな余裕があるようには見えない。
「は、はい! ランデア第一王子、アレク・クロード・ランデア様でございます!」
「――ふぅん。そうなんだ」
少年はニヤリと笑い、男を掴んでいた手を離した。
リッツバーグは咳き込み、床に伏せたまま動かなくなる。
そんな彼には一瞥もくれず、少年はアレクを見た。
「いやぁ、まんまと騙されたよ。ゴミでも生かしとくもんだね」
「な、なにをおっしゃっているのですか? 私が本当にランデアの第一王子だとでも言うのですか?」
「もうそれ以上しらばっくれても意味ないよ。そいつは仮にもランデア四大貴族の当主だった男だ。自国の王子の顔の見分けぐらいはつく」
少年の言葉を聞き、アレクは観念するしかないことを悟った。
「大門近くで待機している奴らは反逆者どもだ。速やかに全員処刑しろ」
「はっ」
護衛たちは頷くと、主人の命令を速やかに実行するために消えていった。
その場には、アレクと少年、倒れるリッツバーグだけが残された。
「うそつきめ。そこまでしてこのデムロムを取り戻したかったのか? ない知恵を振り絞ったにしては頑張ったほうだと思うけど、ボクには及ばなかったね」
アレクの頭を踏みつけながら、少年は嘲りの声を上げる。
「ぐっ……」
――どうすればいい。
アレクは考えを巡らせる。
「そんなに必死に考えなくてもいいんだよ。お前の仲間たちもすぐに捕らえられる。一緒に仲良くバラバラに解体してやるからさ。首だけはペリゴールの奴に見せびらかすために、大事にとっておいてやるよ」
笑顔でさらっと恐ろしいことを言う少年に、アレクの中の違和感は看過できないものになった。
「……お前は、何者だ?」
「え? だからモンブルム帝国第三軍大将、ゲールだって」
「いや、違うな。お前も偽名だろう、それ」
「――へえ」
アレクがそう言うと、少年は感心したような表情を浮かべる。
その顔がすべての答えだった。
「なんでわかったの?」
「モンブルム帝国での皇帝の地位は絶対的なものだ。たとえ大将と言えど、どこで誰が聞いているかわからないのに呼び捨てにするなど考えにくい」
「なるほど。それは確かにそうだね」
何を考えているのか、少年はうんうんとうなずいている。
「……それに、お前からは軍人の気配がまったくしない。多くを率いる人間というのは、それが所作の細やかな部分に出るものだ」
「うん。どうやら、これ以上隠し通すのは難しいみたいだね」
少年は楽しげな様子で居住まいを正し、名乗った。
「ボクは『第五使徒』レオン。神がこの世界を平定するために遣わせた超人さ」
「使徒?」
その単語自体は知っている。
だが、その単語を自称する存在を、アレクは知らない。
「君が知らないのも無理はない。ボクたちが目覚めたのはつい最近のことだからね」
少年――レオンが何やら喋っているが、アレクにとってはそんなことはどうでもよかった。
なんとかして、ここから無事に脱出する方法を考えなければならない。
「…………」
正確に言えば一つだけ思いついていたが、無謀に過ぎるような気がする。
レオンが『聖女』にこだわる理由はわからないが、これを利用する手しか思いつかない。
「――僕とゲームをしないか? 『第五使徒』レオン」
「ゲーム?」
「ああ」とアレクは頷く。
「僕の仲間の中に、『聖女』と呼ばれる存在は確かにいる。今頃、僕を探しているはずだ」
アレクが言うと、レオンは破顔する。
「やっぱり知ってたんだね。よかった。自分から話してくれる気になって嬉しいよ」
「そこで、だ。君は僕を処刑することを、デムロム中に大々的に伝える。そして、人ができるだけたくさん集まれるところで、君が僕の処刑を行うんだ」
「……ふむ」
「そうすれば、君が会いたがっている『聖女』は、僕を助けるために間違いなく君の前に現れる。現れなかったら、そのまま僕を処刑すればいい」
アレクの提案に、レオンは黙ったまま思案している。
内心で冷や汗を流しながら、アレクは祈るしかなかった。
どうか、自分の予想が当たってくれていますようにと。
そして、その予想は当たった。
「わかった。お前の口車に乗ってやるよ、アレク王子」
にんまりと笑いながら、レオンはアレクの提案にそう返した。
「ただし、今向かっているボクの部下たちが、君のお仲間たちを捕らえられなかったら、だけどね。どちらにせよ、ボクにとっても悪い話じゃない。ランデア第一王子アレクの処刑を明日の朝一番に行うと、街中に通達を出そう」
その返事に、アレクは自分が安堵するのを隠し切れなかった。
「いやぁ、それにしても、ペリゴールの魔の手から逃れ続けてきたアレク王子も、ここまでのようだね」
「……何が言いたい」
笑顔でアレクに話しかけるレオンに、薄ら寒いものを感じたアレクは、思わずそう問いかけていた。
「だって、君が信頼している『聖女』たちなら、君を助け出せると思ってるんだろう? 知らないっていうのはとても幸せなことだよね」
それは、自分の力に絶対の自信を持っているからこそ出る言葉だった。
「最後まで希望を持って、最期の瞬間を迎えるといい。君の希望が絶望に変わるその瞬間――あぁ、楽しみだなぁ……」
笑いながら、レオンは地下室から退室していく。
後にはアレクと、伏したままのリッツバーグだけが残された。
「……はぁ。ようやく行きおったか」
寝転んだまま微動だにしなかったリッツバーグが、のそりと起き上がる。
寝たフリを決め込んでいたようだ。
……正直、アレクは彼になんと声をかけるべきか決めあぐねていた。
国が他国に蹂躙されるのを許し、自分の家の領地を失うきっかけを作った、ランデアの王族。
それが今のアレクの立ち位置だ。
恨まれていて当然と言える。
だが、それでも、アレクは彼に頼まないわけにはいかない。
「リッツバーグ殿。ランデアを、デムロムの街を、みすみすモンブルムに侵略された王族の私がこんなことを言うのは、筋違いにも程があることは重々承知の上で、お願いします。私たちに協力してください」
「…………な、なにを」
アレクが頭を下げると、リッツバーグの目に動揺の色が浮かぶ。
王族であるアレクが、臣下の貴族に頭を下げるなど、本来あるはずのない、あってはならないことだからだ。
「リッツバーグ殿が知る限りの『第五使徒』レオンと、『解放軍』の兵士たちの情報が知りたいのです。私たちはこのデムロムを、最後にはランデアを必ず取り戻します。どうか、お願いします」
アレクが手を伸ばすが、リッツバーグはそれを見ても身体を動かすことはなかった。
その瞳には色濃い憎悪の色が漏れ出ている。
しかし、その色はすぐに消えた。
「……たしかに、王家がもっとしっかりしてくれていれば、デムロムが陥落することもありませんでした。ですがそれは、今あなた様を攻め立てても仕方のないこと。このリッツバーグ、謹んでご協力させていただきます」
「――! ありがとうございます、リッツバーグ殿!」
アレクが彼の手を握ると、少し気まずそうに眼を逸らした。
決して許してはいないが、最低限の協力はしておこうといったところか。
それでもアレクにとってはありがたい。
「しかし、アレク様も思い切ったご提案をされたものですな。あれが気にしていた『聖女』というのは、それほどの人物なのですか?」
あれ、というのは、レオンのことなのだろう。
あれほど怯えていたのに、いざ本人がいなくなると急に元気になる。
「ええ。私が知る限り、最も強い人間です。彼女なら、必ず私のことも助け出せると、信じています。それに……」
「それに?」
「ここでレオンの暴力に耐えていたところで、事態は好転しない。何か行動を起こさなければ、何も変わらないですからね」
「なるほど。どうやらしばらく見ないうちに、とてもご立派に成長されたようだ」
リッツバーグは瞳を閉じ、何か思案している様子だ。
「ですが、ワタシの知る情報はそう多くはない。今ここに来るのはあのクソガキだけですから、外の情報はわからないのですよ」
「そうですか……。今はポルダ攻略のため、デムロムに滞在している『解放軍』の数が極端に少なくなっています。我々はその情報を入手し、今が好機と見てデムロムの奪還を狙っているのです」
「なるほど、そうでしたか。……そういえば、少し前に『解放軍』の大将だったゲールという男から、あのクソガキに軍の指揮権が移ったらしいのです。それからゲールの姿は見ておりませんので、もしかすると、その時に」
どうやら、ゲールという男がデムロムを陥落させたのは間違いないが、今は行方がわからないらしい。
デムロムをレオンに任せ、自分はポルダ攻略に向かったのだろうか。
帝国では戦功が特に重視されると聞くので、ありえない話ではない。
すでに首都を落とした国の辺境の都市を落とすより、隣国を落とすほうが皇帝の覚えもよくなるだろう。
「可能性はありますね。……ん? ということは、あの少年が最初からデムロム攻略に参加していたわけではないと?」
「もちろんです。あんな化け物が最初からいたら、我々はもうとっくに皆殺しにされていますよ……」
リッツバーグはそう言うと、急に青い顔になった。
何を思い出したのかは知らないが、それもアレクが知っておかなければならないことの一つだ。
「リッツバーグ殿。あなたが知っている限りの彼の情報を教えてください。あの脚力といい、物言いといい、ただの少年であるはずがない」
アレクの脳裏には、アレクが知る中で最も常識から逸脱した自称聖女の顔が浮かんでいた。
「自称聖女じゃなくて聖女です!」と、頭の中でベルが喚く。
脳内でまでうるさい奴だと、アレクは少し笑ってしまった。
「あ、アレク殿下?」
「ああ、申し訳ない。それで、リッツバーグ殿にそこまで言わせる『第五使徒』レオンとは、いったい何者なのですか?」
「……あれの名前や、あれがなぜあんな力を持っているのかはわかりません。ひとつだけ言えるのは、奴は直接触れずに人間をバラバラにして殺すことができるということだけです」
リッツバーグの言っていることが、よくわからなかった。
その表情は怯えきった人間のそれであり、嘘をついているようには見えない。
「触れずに人間を殺せる、とはどういうことです? リッツバーグ殿も、実際にその目で見たことがあるのですか?」
「ありますよ。何度もね。何度見ても慣れるような光景ではありません。今思い出しただけでも……うっ……」
リッツバーグが口元を押さえる。
何回か吐くような動きをしたが、胃に何もないのか吐きだすことはなかった。
「……にわかには、信じられませんが」
「風が、吹くのです。それが通り過ぎると、人間の身体が、まるでバランスの悪い積み木が崩れるみたいに……」
リッツバーグの話はあまりに荒唐無稽で、要領を得ない。
幽閉された生活が長くなり、気が触れてしまったのではないか。
そう思いかけるが、再び脳裏に例の聖女の姿が思い浮かぶ。
少女とは思えない腕力で敵を屠り、祈りをささげる彼女の姿が。
「……それは、おとぎ話に出てくるような、魔法のようなものなのですか?」
「理屈はわかりませんが、起きている現象はそうとしか説明がつかないものです。直接見ていないのであれば、信じられないのも仕方のないことだと思いますが……」
「いえ、信じます。リッツバーグ殿が、そのような嘘をつく理由がない」
結局、アレクが出したのはそういう結論だった。
すでに気が触れている可能性はあるが、それは言わないでおく。
それに、アレクも感じていたのだ。
あの少年が、ただ者ではない気配を。
それからアレクは、リッツバーグと色々な話をした。
『解放軍』がやってくる前のこと。後のこと。
幽閉されてからの生活のこと。
リッツバーグの妻や子供が、既にレオンの手にかかって殺されていることも。
それもすべて、ランデアに、ランデアの王家に力がなかったから起こったことなのだと、心に刻む。
彼と話しているうちに、いつの間にか、アレクは眠ってしまっていた。




