Chapter2-4 囚われのモニカ 12
それから、どれくらいの月日が経っただろうか。
モニカはふと、自分の意識を取り戻した。
「…………」
デムロムの館、その地下牢の一室にモニカは閉じ込められていた。
独房と言ったほうが正確だろうか。
粗末なベッドとトイレ、それ以外には何もない部屋だ。
「…………」
ここに戻ってから、自分がいったい何をさせられていたのかを、ぼんやりと思い出す。
人を殺す訓練だ。
あれだけ躊躇っていたのに、いざやってみると、なんということはなかった。
どんな人間が来ようと、モニカが首を切りつければ、泣きわめいてすぐに動かなくなる。
男だろうが女だろうが老人だろうが子どもだろうが、皆同じだった。
――どうしてあのとき、こんなことすらできなかったのだろう。
暗闇の中で、モニカは考える。
たしかあの頃は、人を殺すことがとんでもないことだと思っていて。
でも、ケイトは死んだのだ。
モニカの一番大切だった人は死んだのだ。
ならば、人を殺すことなど大したことではない。
モニカにとって、ケイトより価値のある人間など存在しないのだから。
「おや、起きていたんですね」
突然、鉄格子の向こう側に気配が現れる。
べリガルだ。
憎いはずの仇を目にしても、もう何の感情も感じない。
精神が摩耗しているのを感じていた。
「……なんの用だ。まだ殺し足りないのか?」
「いいえ、モニカ様。今日はモニカ様に、残念なお知らせをするために参りました」
「はぁ?」
べリガルの様子が少しおかしい。
いつも暗い色を映していた瞳の光はどこか虚ろで、覇気がない。
嬉々としてモニカに人殺しを強制していた狂人の気配が薄れている。
「本日、デムロム家の時期当主が正式に決定しました。……デムロム家の長男が、跡取りです」
「……ふーん。そうなんだ」
正直、モニカとしては、どうでもいいことだった。
今更デムロム家に戻ったところで、自分と他の家族の間にある壁の隔たりは大きすぎる。
関わりたくもなかった。
「わたくしは何度も抗議しました。モニカ様には目を見張る才がある。モニカ様こそ、次の時代のデムロム家を支配するにふさわしいお方だと」
「……アタシはそんなこと頼んだ覚えはねぇけどな」
「それでも、あなた様はデムロム家を継ぐべきでした。力を持たなければ、いかなる理想も実現することはできないのですから」
「…………そうかも、な」
べリガルの言葉に、モニカは首肯する。
たしかにその通りだ。
力がなければ何もできない。
それをモニカは、嫌というほど味わってきた。
ふとべリガルの顔を見ると、驚いたような顔をしている。
「どうした?」
「いえ……。モニカ様がわたくしの言葉を肯定したのは、初めてだと思いまして」
「なんだよ、それ」
しかし、言われてみればその通りだ。
モニカにとって、べリガルの言葉は毒でしかなかった。
ゆえに耳を貸すはずもなかったが、べリガルの野望が潰えた今、彼もまたモニカと同じような場所に落ちてきたのかもしれない。
「こうなってしまった以上、彼はわたくしの言葉に耳を貸すことはないでしょう。わたくしたちが取れる手段は、ひとつしかありません」
「なんだよ? 用済みになったアタシを殺しに来たのか?」
べリガルの目的が達せられることはもうない。
やけを起こしたべリガルが、心中でもしに来たのか。
モニカはそう思ったが、べリガルはゆるゆると首を振った。
その唇を、酷薄に歪めながら。
「この屋敷にいるデムロム家の人間を、皆殺しにするのです。そしてモニカ様、あなたがこのデムロム家の当主となる。残された道は、それしかありません」
「……正気か、べリガル」
否。正気なわけがない。
べリガルは狂気に呑まれている。
「それしかないのですよ、モニカ様。もはや、我々に残された道は、それしかない。モニカ様の父――現当主は、あなたを非常に危険視しておられる。明日にも、処刑が執行するとのことです」
「……そうか」
愛されてはいないと思っていた。
だが、ここまでとは思わなかった。
モニカは家族から愛されていなかった。
今更気にしても仕方のないことだ。
モニカのほうも、家族を愛してなどいなかったのだから。
「わたくしとモニカ様が力を合わせれば、この館を落とすくらいのことは容易です。モニカ様の力は、既にわたくしをも凌駕している。さぁ、ともに新しい支配者となりましょう」
「……わかった。いいぜ、べリガル。乗ってやるよ」
微笑を浮かべながら、モニカは頷く。
それはべリガルが見たこともない、これ以上ないほど柔らかい表情だった。
「……ああ、よかった。本当によかった。さあ、こちらに来てくださいモニカ様。いま鍵を開けますからね」
べリガルは瞳の端に涙を浮かべながら、地下牢の鍵を開く。
彼にとっても、ここまでモニカに近づくのは久しぶりだった。
もう何年も切っていないせいで、髪は目を覆い隠すほどに伸びてしまっている。
少し背も伸びただろうか。
身体のラインも、幼い少女のものから少し丸みを帯びたものに変わってきた。
モニカの成長を喜ぶ彼は、この館の中で彼女を真に思いやっている唯一の人間だった。
しかし、彼は気づかなかったのだ。
彼女は、べリガルのことを許してなどいないということを。
「さぁ、どうぞ。このごろあまり使っていなかったかもしれませんが。それとも、ナイフのほうがいいですか?」
「いや、これでいい」
「そうですか」
べリガルはモニカに長剣を手渡した。
モニカは久々に持った長物の感触を確かめている。
その刀裁きに一切の曇りがないことを確認したべリガルは、満足気に微笑んだ。
「それでは参りましょうか。栄光はすぐそこにあります。もう少しだけ頑張りましょう」
「ああ、そうだな」
モニカの返答を後ろに聞きながら、べリガルは計画を伝える。
「デムロム家に恨みを持つ賊の侵入を許し、皆殺しにされたことにしましょう。唯一生き残ったモニカ様が賊を打ち取り、失意の中、次期当主の座を手にする……そんな感じでどうでしょうか?」
モニカからの返事はなかった。
代わりに、べリガルの胸から、一本の長剣が突き出していた。
「ああ、いいぜ。でも、アタシが思いついた筋書きは少しだけ違ってな」
べリガルは茫然とした表情で、振り向く。
彼のすぐ後ろに、モニカが立っている。
その右手から伸びた長剣は、べリガルの背中に吸い込まれているように見える。
「賊じゃなくて、デムロム家に仕える男――べリガルに皆殺しにされたことにする。唯一生き残ったアタシがべリガルを打ち取り、次期当主の座を手にする……そんな感じでどうだ?」
「――ああ。それは……それは、素晴らしいですね……」
べリガルはモニカから、一切の殺気を感じなかった。
ここまで完璧に殺気を隠せる人間を、べリガルは知らない。
彼が育てた少女は、もうとっくに化け物になっていたのだ。
モニカが長剣を引き抜くと、べリガルは床に倒れた。
刺された背中から大量の血が溢れ、地下牢の床を汚していく。
モニカが殺すことを夢にまで見た男の生命が、流れ落ちていく。
「それ、で……よいのです……」
粛々と涙を流しながら、べリガルはモニカを見る。
その顔は、まるで憑き物が取れたかのように安らかだった。
「超えて、いきなさい……。すべて、を……」
モニカは何も言わなかった。
ただ、かつての師匠が息絶えるのを、何も言わずに見ていた。
「……じゃあな」
完全に事切れた男を残し、モニカはその場から姿を消した。
その翌日、デムロム家の次期当主が正式に発表された。
現当主の息子、その長男の名前が。
同時に、長年言及が避けられてきたモニカについても、正式に死亡が発表された。
彼女は長年の闘病の末、病死したと伝えられた。
それは、モニカのデムロム家からの実質の破門を意味していた。
「……ま、どーでもいいや」
広場の掲示板を眺めるモニカは嘆息した。
そしてそのまま、民衆の中へと消えていった。




