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Chapter2-3 囚われのモニカ 5


「…………」


 モニカは窓の外を眺めながら、ただじっと待っていた。

 いつものように、少年がひょっこりと顔を出すのを。


「…………っ」


 思考が乱れる。

 身体の震えが止まらない。

 誰かに話を聞いてもらいたかった。


「……おそいな」


 いつも来なくていい時に来るのに、来てほしい時に限ってなかなか姿を見せない。

 もしかしたら、今日は来ないのかもしれない。

 ほとんど毎日来るのだが、たまに来ない日もある。

 そんなことを考えていると、窓の外が静かに揺れた。


「あ……」

「よう。今日も来たぜ……って、どうした? 顔色悪いぞ?」


 ケイトがモニカの顔を覗き込む。

 心の底から心配しているようなその姿を、モニカは初めて見た。


「熱はなさそうだけどな……」


 額に手を当てられ、体温を確かめられている。

 誰か他の人に、心の底から心配されることなどないと思っていた。

 でも、自分のことを心配してくれる人が、目の前にいたのだ。


「……きいてくれる?」

「ああ」


 ケイトは頷く。

 モニカが今まで見た中で、一番真剣な顔をしていた。


「……明日から、人を殺す訓練を始めるって、言われた」


 モニカが言うと、ケイトは目を見開いた。

 その瞳に映る感情がどういうものだったのか、モニカにはわからない。


「……なんだよ、それ」

「罪人を、処刑するの。殺しに慣れておかないと、いざという時に躊躇っちゃうんだって」


 何をするにしても、最初は難しいものだ。

 だから練習をして、本番に備えるというのはモニカにも理解できる。

 そう。それが人殺しでさえなかったら。


「みんな、当主を継ぐ人は、やってきたことだって。アタシの父も、祖父も……」


 この国の貴族の歴史は血塗られている。

 そういうことなのだ。

 貴族である以上、次期当主である以上、血塗られたレールから逃れることは許されない。

 決して許されないのだ。


「もしアタシが、あの人の言われるがままに人を殺してしまったら、アタシが、アタシじゃなくなるんじゃないかって……」


 何かが変わってしまうのではないかという直感があった。

 それはもう、昨日までの自分とは違ってしまうのだろうという、直感が。


「こわい。こわいよ……」


 モニカの両手に、雫が零れ落ちる。

 そこで初めて、モニカは気づく。

 自分は、恐怖におびえていることに。

 言葉に出さなければ自分の本心もわからないほどに、モニカの心は凝り固まっていた。


「…………」


 ケイトは押し黙ったまま、静かにモニカを見つめている。

 その瞳に宿るのは、強い怒りだった。


 どうして、モニカがこんな目に遭わなければならないのか、ケイトにはわからない。

 わからないが、それが間違っていることだということだけはわかる。

 だから、彼が言うべきことはひとつしかなかった。




「モニカ。一緒に行こう」




「……え?」


 ケイトが何を言っているのか、モニカにはわからなかった。

 一緒に行くというのは、つまり。


「ここから、逃げるってこと……?」

「そうだ。なんでモニカがそんなことしなきゃいけないんだ? そんなもん、勝手にやりたい奴らだけでやってりゃいいじゃねぇか」

「でも……アタシは、デムロムの娘で……次期当主候補で……」


 それが、モニカ。

 彼女が存在している意味だった。


 だが、ケイトは首を横に振る。

 彼女の言葉を否定するように。


「ちがう。ちがうんだよ。モニカはモニカだ。モニカがどう生きるのかは、誰にも決められちゃいけねぇんだ」


 ケイトはモニカの顔を覗き込む。


「……なぁ。逃げてもいいんだぜ。モニカ」

「…………」


 ちがう。

 逃げることなど許されない。

 家が、両親が、師匠が、ありとあらゆる人たちが、許しはしない。


「オイラがモニカと同じ立場だったら、とっくにその重圧に押しつぶされてると思う。領主の跡取りなんてすげぇよ。とてもオイラじゃ務まらねえ」

「…………」


 ちがう。

 とっくに押しつぶされているのに、それが見えていないだけだ。

 モニカ自身も、自分に跡取りが務まるなどとは思っていない。


「でも、よ。もう十分頑張ったじゃねえか」

「…………」


 ちがう。

 頑張ってなどいない。

 だってそれは、当たり前のことなのだ。

 デムロム家の跡取りという、この街で最も恵まれた環境に生まれた自分が背負わなければならない、義務なのだ。


「モニカ。家は絶対じゃない。子どもは家の所有物じゃない。モニカの人生は、家が、生まれが決めるものじゃない。モニカの人生は、モニカが自分で決めないといけないんだ」


 ちがう。

 家は絶対だ。

 子どもは家の所有物だし、モニカの人生は家に縛られるものだ。

 決して、モニカ自身が決められるものではない。

 決められるものではない、はずなのに。


「アタシが、自分で……?」


 ケイトの言葉が、モニカの心の奥深くに、呪いのようにこびりついて剥がれない。


「そうだ。なんかねぇのかよ。モニカが本当にやりたいこと」


 ケイトにそう言われ、モニカは思案する。

 でも、何も思い浮かばなかった。

 モニカが生まれてからこれまでの時間は、すべてこの館の中で完結している。

 本やケイトの話以外では、ここしか知らない。


「……あ」


 そうだ。

 見つけた。

 モニカが、本当にしたいことを。


「……ケイト」

「ん?」




「アタシ、外の世界が見たい」




 それが、モニカの望み。

 どうしようもなく偽りのない、彼女の本心だった。


「そっか。わかった」


 ケイトは静かに頷いた。


「……でもね、ダメなの」


 自分にはできない。

 決して叶わない望みであることを、モニカは知っている。

 自分が自分でなくなってしまう前に、外の世界を見てみたいと思ったのは確かだ。

 でも、自分がデムロムの娘である以上、それは――。


「わかってる。やっぱりダメだよな。うん。モニカは絶対に、自分ではその選択肢を取れない」

「ケイト?」


 ケイトの眼差しは、モニカが今まで見た中で、一番深い、深い色をしていた。




「だから、オイラが無理やり連れだすよ」




「……え?」

「モニカは今夜、賊に襲われて誘拐されるんだ。モニカが自分で逃げたいなんて思ったわけじゃねぇ」


 ケイトは、今夜モニカの身に降りかかるであろう災厄を、少しおどけながら話す。

 本当はわかっている。

 それが、彼なりの優しさなのだと。

 家に縛られて縛られて、がんじがらめになっているモニカの代わりに、彼がその絡まった糸を無理やり千切ろうとしてくれているのだと。


「……ホントに、いいの?」


 いいのだろうか。

 自分では何も決められず、課せられた使命さえ放棄して。

 ただ、ケイトの優しさに甘えてしまって、本当にいいのか。

 そんな想いを乗せたモニカの問いにしかし、ケイトは笑った。


「当たり前だろ。大丈夫、心配すんな。しばらくはオイラがつきっきりで色々教えてやる」

「……うん」

「食べものとか、頑張ってぶんどらないとな」

「……うん!」

「おわっ!?」


 モニカは、目の前にあるケイトの身体を抱きしめた。


「ありがとう、ケイト……」


 モニカの頬を、一筋の線が流れ落ちる。

 でもそれは、かなしみではなく、深いよろこびの色に満ちていた。


「ったく、調子狂うぜ……。いいから早く準備してこいよ。オイラも手伝ってやるから」

「うん!」


 モニカは強く頷くと、持っていくものを物色し始める。

 そんな彼女の様子を、ケイトは静かな決意を秘めた眼でじっと見つめていた。

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