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Chapter2 断章1

本日よりChapter2に突入します。

引き続きお付き合い頂けますと幸いです!


 落ち葉を踏みしめる音が、断続的に響いている。

 その足取りは軽やかで、しかし僅かながらの緊張感も含んでいた。


 幼いベルにとって、『森』を一人で歩くことは綱渡りに等しい。


 大人十数人が手を繋いで、ようやく手が届くであろう太く黒い幹。

 黒い落ち葉で覆われた地面。

 陽の光はほとんど射さず、日中でも森の中は薄暗い。


 その闇の中に、何が潜んでいてもおかしくはない。

 この場所を構成する全てが、ここで人が生きることのできない要素だ。


「今日のルートは……っと」


 地面を観察しながら、川へのルートをいくつか頭の中で思い描く。

 それは毎日繰り返す作業。

 水汲みという、師匠からベルに与えられた仕事の一つだ。


 『森』で生きていくために、水は欠かすことができない。

 ベルは毎朝、水を近くの川まで汲みに出かける。

 ただし、その道順はいつも違う。

 いつも同じルートを通っていると、奴らに待ち伏せされるからだ。


 地面と木の幹を見て、痕跡を確認する。

 少なからず存在する痕跡に、致命的なものがないかどうか。

 その中にひとまず大きな脅威がないことを悟ったベルは、最初に想定していたルートで足を進める。


 痕跡がないからといって、油断はできない。

 できるだけ音を立てないように、歩みを進める。


「……ふう」


 特に何が起こることもなく、ベルは川辺へとたどり着いた。

 森の黒色は川辺では和らぎ、僅かに生える緑色の植物と砂利が、この場所だけは『森』とは違うことを感じさせる。

 流れる水は透き通っており、人が飲むにも支障がないことをベルは知っていた。


 腰にぶら下げていた水筒を、水流に逆らうように水の中に入れる。

 同じように、次々と水筒の中を水で満たしていく。


「……」


 全ての水筒を満たし終えると、ベルは改めて辺りの様子を伺う。

 川のせせらぎ以外に、聞こえる音はない。

 近くには何もいないようだった。


「……大丈夫、かな」


 周囲の安全を確認したベルは、自身の衣服に手をかける。

 布切れを素早く脱ぎ去ると、冷たい川の水の中に足を踏み入れた。

 水浴びは、ベルにとって数少ない楽しみのひとつだ。

 家の近くには水場がないため、川が唯一の水浴び場となっている。


「あー、気持ちいい……」


 透き通った川の中で、束の間の休息を楽しむ。

 少しだけ一休みしたら、すぐに食糧を探しに行かなければならない。

 日が沈むまでに見つけることができなければ、明日まで断食を覚悟しなければならないからだ。


 夜の『森』を出歩くのは自殺行為に等しい。

 ベルのような無力な少女にはなおさらだ。


 水と食料。

 それさえあれば、なんとか生きることはできる。

 逆に言えば、それが調達できなくなったときがベルの終わりだ。


「……あ、やばい」


 ベルの本能が、今すぐこの場所から離れるように警鐘を鳴らしていた。

 下流の方から、ものすごいスピードで迫ってくる生き物の気配がある。


 臭い消しを兼ねた水浴びだったが、嗅覚が発達した生き物は、水の中に溶け込んだ臭いすらも嗅ぎ取ることができるという。

 今まで水浴びの直後に襲われたことはなかったが、たまたま水辺のそばを歩いていたのだろうか。


 水浴びが裏目に出たのは初めてだ。

 川から上がり、手早く着替えを済ませる。

 水で満たされた水筒を取ろうとしたが、


「――ッ!?」


 濃い獣の臭いが、ベルに咄嗟の行動を取らせた。


 身体を勢い良くひねり、前に飛び出す。

 直後、ベルがいた場所を巨大な獣の顎が地面ごと抉り取っていた。

 バリバリと音が響き、水筒たちがその役目を終えたのがわかった。


「グォォォオォォオオ!!」


 獲物を仕留め損ねたのが不満なのか、黒い獣が咆哮する。


 体長はおおよそベル四人分といったところだろうか。

 全身が黒い体毛に覆われており、四本の足でその巨大な身体を支えている。

 ベルの身体など一口で飲み込んでしまいそうな大口の端から、大量の涎が地面に垂れていた。


「たしか師匠は、『大噛』とか呼んでたっけ……」


 おぼろげな記憶の中から、目の前の猛獣の名前を絞り出すベル。

 こういった生物と遭遇したときの対処は、師匠から嫌というほど教えられている。


 『逃げるか、うまくやり過ごせ』だ。


 幼いベルではまるで歯が立たない。

 地面に赤黒いシミを作り、獣の血肉になるのがオチだと、そう言って笑っていた。

 今ベルの前には、それが洒落にならないほど現実味を帯びて近づいている。


 ――冗談じゃない。


 ベルはじりじりと後退する。

 大噛もベルとの距離を詰めるように、ゆっくりとベルのほうに近づいてくる。


 彼女の背後には川しかない。

 獣には、ベルの逃げ道が川の中にしかないことがわかっている。


 だから、待っているのだ。

 獲物が川に飛び込むために、一瞬だけ空中にとどまらざるを得ない、その瞬間を。

 ……だから、一度隙を見せてやる必要がある。


「ッ!?」


 ベルが川のほうを振り返った瞬間、大噛は獲物に向かって襲い掛かった。

 その速度は、とても人間の少女に追い抜けるものではない。

 大噛が獲物を仕留めるために放った必殺の攻撃はしかし、なんの感触もないまま再び地面を抉った。


「おわっ! 今のはちょっと危なかったよ!」


 そんなのんきな声を上げるベルは、大噛の顎の上に乗っている。

 猛獣の目が驚きで見開かれた。

 どうやら獣にも、そういった感情はあるらしい。


 水の中に飛び込むフリをしたベルは、わずかに横に跳び、そのまま大噛の顎の上に乗ったのだ。

 とはいえ、大噛が硬直しているのは一瞬にすぎない。

 状況を打開するため、ベルはすぐに次の行動に移った。


 左手で大噛の体毛を掴み、右手を大噛の左目に突っ込む。


「グォォォォオオォォオオオ!!」


 体感したことのない激痛に、大噛は悲痛な叫び声をあげる。

 頭を振り回され、上下左右の感覚が分からなくなる。


 それでもお構いなしに、ベルは大噛の眼球を引っこ抜いた。

 何本も管のようなものがくっついていたが、関係ない。


「グォォォォオォオォオオオオオッ!!」

「おっと」


 頭を地面に勢いよくぶつけようとしたので、慌てて飛び降りた。

 大噛は狂乱しながら、顔に張り付いたものを振り落とそうと、自分の頭を思いきり地面にたたきつける。


 まだ混乱しているが、落ち着きを取り戻し、自身を傷つけた怨敵を仕留めんと追いかけてくるのは間違いない。

 逃げるなら今のうちだ。


 そう判断したベルは、再び森の中に姿を消した。

 大噛の怨嗟の叫びだけが、美しい川辺に響いていた。





「……つかれた」


 家に着くなり、ベルは床にへたり込んだ。

 帰りは帰りで気を遣いながら帰ってきたため、いつもより疲労の色が強い。


 そして、大噛の眼球をそのまま持ち帰ってしまった。

 垂れるものは移動中に粗方垂れ終わったようだが、千切れた管のようなものは相変わらずぶら下がっている。


 さすがに師匠にも、大噛の眼球を食べられるのか聞いたことはない。

 師匠は毒がなければだいたい何でも食べてしまうので、聞いたところであまり参考にならないかもしれないが。


「戻ったか」

「うん。ただいま、師匠」


 部屋の中から、師匠の声が聞こえてきた。

 どうやらまたいつもの実験を行っているらしい。


「師匠。大噛の眼球って食べられますかね?」

「大噛の眼球? なぜだ?」


 師匠の声は訝しげだ。

 突然の質問に戸惑うのも無理はないだろう。

 そんなことを聞いてどうするつもりなのかと思ったに違いない。


「えーっと。たまたま手に入ったので」

「……ベル。お前、また無茶なことをしたな?」


 適当に答えると、師匠の声色が変わった。

 しまったと思っても、もう遅い。


「…………そ、そんなことないですよ?」

「声が震えてるぞ。まったく、あんまり危険な橋を渡るもんじゃない」

「ご、ごめんなさい……」


 ベルはおとなしく頭を下げる。

 まだ優しく言われているうちに反省の態度を示しておかないと、後で余計恐ろしいことになるからだ。


「大噛の眼球か……私も食べたことはないが、火を通せば食べられないことはないだろう。ただ、味の保証はできないぞ」

「やはり、火は通したほうがいいんですか?」

「ほとんどの生肉はそのまま食うと腹を壊す。そして脱水は容易に命を奪う。お前のような子供は特に注意が必要だ」

「眼球も例外ではないということですね。わかりました」


 師匠の言うことはだいたい正しい。

 もう少し小さいとき、あまりにお腹が空き過ぎて石を当てて仕留めた鳥をそのまま食べたら、大変なことになったことがある。

 それ以来、ベルは肉はしっかりと下処理をして、火を通して食べることにしている。


「そういえばベル、水は汲んできたのか?」

「……あ。ごめんなさい。大噛に全部食べられちゃいました……」

「そんなことだろうとは思ったよ。仕方ない。今日は私が行ってこよう」


 「よっこらしょ」などと言いながら、師匠が部屋から出てきた。


「……師匠」


 水筒をいくつか持って、家から出ていこうとする師匠を、ベルは慌てて呼び止めた。


「ん? どうかしたか?」

「……わ、わたしにも実験を手伝わせてください」


 ベルはそう言って頭を下げる。

 師匠は黙り込んで、そんなベルの様子を見つめていた。


「ベル。いずれお前にも手伝ってもらう日が来る。だが今はまだ、その時じゃない」


 師匠の手が、ベルの頭を撫でた。


「そんなに焦らなくてもいい。ベルはまだ子供なんだ。それに、まだ手伝ってもらうような段階にも到達していないというのが正直なところさ。恥ずかしい限りだけどね」

「……実験は、あまりうまくいっていないんですか?」

「ダメだな。手がかりなどまるでない」


 師匠は窓から、外を見つめる。

 その瞳には、いったいどんな光景が浮かんでいるのか、ベルには知る由もない。


「……だが、必ず存在するはずだ。必ず……」


 師匠はそう呟く。

 それは自分自身に言い聞かせているようで。


「ベル。力をつけたら、お前にも手伝ってもらう」

「は、はい!」

「何年かかってもいい。だが、最後には必ず探し出す」


 師匠は強い意志の籠った声で、言った。




「――元の姿に戻る方法と、この森から出る方法を、な」

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