BLACKサラリーマン光太郎
八重樫某は、骨の折れる音を聞いた。這いつくばった姿勢のまま恐る恐る振り向いてみると、右膝があらぬ方向を向いているのが見えた。
声ならぬ声をあげても、誰も姿を見せなかった。日付が変わろうかという時分である。くだらぬ喧嘩に巻き込まれたくないと思っている人間が多いのは仕方ないとしても、ここが繁華街の路地を少し入ったところにある人気のまばらなところだとしても、猫1匹見当たらないのは流石におかしい。
ジャリ、と路面を踏みしめる音に恐怖にかられながら視線を上げると、そこには闇色の人型の異形がいた。
「どうした、もう逃げないのか?」
その異形は、人間の言葉をしゃべった。流暢な日本語であった。
八重樫某は痛みに震えながらなんとか口を開いた。
「て、てめえ、な、なんなんだよ? 俺が何したっていうんだぁ!?」
異形は足を止め、口を開いた。物理的に開いたわけではないが、八重樫某はそのようなことを気にしてはいられなかった。
昼間、嫌なことがあったゆえ、安酒場で安酒を決め込んでもう一軒行こうと思ってぶらぶら歩いていたら、何者かに引きずり込まれ、気がつけばこの異形に両肘と右膝を破壊されていたのである。
「なんだ? まだ分からないのか?」
異形は心底疑問に思っている声を出し、首をかしげていた。
「そうか、この格好ではわからないか」
ようやく理解したのか、右拳を左の掌に打ちつけた。やけに人間っぽい仕草であった。
「これなら分かるか?」
そう言いながら、異形は姿を変えた。そう、人間へとーー。
「て、てめえはーー」
「最近いるらしいのよね、クレーマー狩り」
「だから、気をつけないといけないわね、私も」
「ところで、これ、先週おたくで買ったヤツなんだけどね」
「え? 先々週に異物混入騒ぎがあって既に撤去していた?」
「あらやだ、勘違いしていたわ。先々週におたくで買ったのよぉ〜」
近くでかなり声のでかいおばさんが話しているのだろう。八重樫某の耳にも入ってきていた。
「八重樫様、しかしですね、いくら賞味期限がきれていたのを食べて腹を壊したから弁償しろと言われましても、当方でも流石にそれはちょっと……」
「あんだぁ? 賞味期限が切れそうなヤツを売っていたてめえのところが悪いんだろうが」
八重樫某はこうやってクレームをつけ、金品を巻きあげて暮らしていた男であった。
最初はクレームをつけることでその会社やら店やらが良くなればいいと思って正義感からくる行動であったが、気が付けば金品をまきあげる事が目的となっていたが、本人はそれを否定していた。
「てめえごときじゃ話にならねえ。てめえ、なんつったか」
「南光太郎です」
「太陽の子だかなんだか知らねえが、てめえみたいな若造じゃ話にならねえ。言っただろ、俺はここの社長の親友なんだよ。てめえ、社長の顔に泥塗る気か?」
「塗ってみたいですね、出来るものなら」
「あんだぁ?」
「も、申し訳ありません」
「社長の親友様になんてくちききやがるんだ?」
「社長の名前はご存知でしょうか?」
「ああん? えーと、アレだよ、アレ。ホラ、なんつったか」
「山田太郎?」
「そうそう、それそれ」
「申し訳ありません、当百貨店の社長はそのような名前ではありません」
「う、うるせえ、ど忘れしただけだ! なんにせよてめえごとき若造じゃ話にならねえ! 上のもんを呼ばんかい!!」
この若造じゃ話にならねえ、正義の味方みてえな名前しやがって……‼︎
八重樫某の記憶に昼間、百貨店でクレームをつけた時の記憶が蘇ってきた。
上の者が出てきて結局一銭も巻きあげられなかった事には、腹がたって仕方なかった。
「てめえ、何だ、俺に対する復讐か?」
「いいや、お前みたいな虫けらに復讐する気など起きるわけがない」
「じゃあ、何なんだよ? 正義の味方じゃねえのか、てめえ?」
その瞬間、唯一無事だった左足が嫌な音を立てた。見れば、膝から先が90度曲がっていた。ありえぬ方向に。
「ガキの頃から正義の味方だなんだ言われていじられ続けて来てね。俺のことを正義の味方だのなんだのいうヤツはぶん殴ってきたよ、昔から」
顔色一つ変えずに他人の四肢を壊す人間がいるのか? 目の前に立つ男が人間には見えなかった。人の形をした化け物にしか八重樫某には見えなかった。
恐怖が八重樫某の精神を支配していた。なんとかして逃げたいが、物理的にはもう逃げられない。
「て、てめえ、日本の警察なめんじゃねえぞ、てめえなんかすぐに捕まるからな。たとえ俺を殺したとしてもだ!!」
結局、誰かが警察を呼んでくれるだろう、と自分で逃げることを放棄するしかなかった。
「心配するな、お前は殺さない。ベッドの上で一生後悔し続けるんだな、くそみたいな人生を送ったことを。真っ当に生きなかったことを」
目の前の男がいつの間にか闇色の異形へと姿を変えていたことにすら気づかず、八重樫某の意識は闇に閉ざされた。
翌日、「サン……サン……」とつぶやく涎や尿を垂れ流すボロボロになった八重樫某が路地裏で発見されたがまともに話すことは出来ず、近辺で頻発するクレーマー狩りの被害者の1人として扱われることになるが、それはまた別の話である。
繁華街から少し離れたところにある屋台で、1人のスーツ姿の男が出された料理に舌鼓をうっていた。南光太郎である。
「ああ、やはり一仕事終えた後に飲む酒は美味い」
虫けらを1匹駆除した後の酒は特に、と心中で続けたがそれは誰の耳にも届かない。
「そうか、美味いか」
「ところであいつ、本当に社長の親友なんですか?」
「バカを言うな。俺の名前も知らぬ人間が親友なわけあるか」
肩を並べて酒を飲んでいるのは南光太郎が勤める月影百貨店の社長である月影信彦であった。
「まあいい。これからも頼むぞ。クソみたいなクレーマーのいない世界を作るためには、クレーマーを撲滅するのが1番だ。我々”英雄病”患者にはその力がある」
”英雄病”ーー特撮ヒーローやアニメの主人公や悪役、ライバル役と同じ名前をつけられた人間のうち、極一部のみが発病する病であり、その患者は人ならざる力を振るうことが出来た。もっとも、本当に病気なのか、特殊能力なのかは誰にもわからない。
「ま、しばらくはクレーマー狩り、続けますよ。サラリーマンって皮をかぶり続けて人に頭下げ続けるのも嫌だし、クレーマー狩りであろうとなんだろうと、サラリーマンの皮を脱ぎ捨てるのは本当に気持ちがいい。ストレス解消にもなりますからね」
やがて彼らは別々の方向に向かって歩き始めた。家路についたのである。
異形の力を持っていようと明日も仕事であった。ああ、悲しきサラリーマン人生よ。