お嬢さんのらくだ
お嬢さんは、もう長いこと砂漠に帰っていません。
お嬢さんにとっての幸せは、砂漠にはもうありませんでした。
だからといって、砂漠のことをもう全く考えることがなくなったわけではありませんでした。
お嬢さんは、砂漠に一頭のらくだを残してきていたのです。
「らくだよ」
つぶやきます。
「ここは私の眠る土地。砂漠はあなたの眠る土地。」
さらさらと、お嬢さんは、砂を弄びました。
ざあざあと、遠くから波音が響いてきます。
足元はすっかり砂に埋もれています。
ここにも砂はありますが、やはり何かが違います。空気が、海の匂いに染められています。何とも言えない匂いです。
海の底には美しい世界が広がっていて、海の向こうには知らない世界が広がっていて。それは、ここからそう遠くないのです。
砂漠はひたすらに、乾いていました。からからに、熱い砂、じりじりと、照りつける太陽。身を切り裂く嵐に耐えて震える日々。お嬢さんは、その黒く長く美しい髪を、暑苦しいからと言って、何度ナイフで切り裂こうとしたことか。
それを止めてくれたのが、らくだでした。
「お嬢さん、その美しい髪を切ってはいけないよ」
例の、眠るような夢見るような瞳で、そう言ったのです。
「いけない?」
「いけない」
らくだは、その日からお嬢さんにいろいろなことを話してくれるようになりました。砂嵐の孤独、こぶの秘密、オアシスの噂・・・。
お嬢さんは、隊商の長であるお父様ですら、知らないことを次々に知っていきました。その内容は、初心なお嬢さんを時々赤面させてしまうようなものもありました。
「ほんとう?」
「ほんとう」
らくだはお嬢さんの問いかけにいつも静かに答えました。
ある日のことです。遠くから、どたばたと激しい、こちらに何十人も駆けてくる足音が聞こえてきました。
「嫌な予感がするね」
らくだは、お嬢さんにしか聞こえない声で囁きました。
「何かしら」
そういうお嬢さんの胸をめがけて青い矢が飛んで来ました。が、その直前で、まるでらくだは馬のように身軽に飛びました。お嬢さんは、無事でした。
矢は、らくだのこぶの一つに突き刺さりました。
「らくだ、お前」
「こぶが一つダメになったから、私はもうだめだ。お嬢さんを運べない」
「そんなこと、言わないで」
「私は、いつも知らない誰かに祈っていたような気がする。誰でもいいから、お嬢さんを幸せにしておくれ、このらくだとしての体を犠牲にしても構わないから、と」
らくだはお嬢さんに、下りるように促し、そしてばたりと倒れました。
「らくだ」
「さあ、お行き。あのらくだに乗って。あれもらくだだ。私とは違うらくだだが、それでもらくだであることには違いはない。海の近くの町で、私の代わりに海を見ておいておくれ」
お嬢さんは、向こうにいるらくだに乗りました。若く、足の速いらくだでした。あっという間に、その場所から離れながらお嬢さんはまるで全てを夢の中のことのように感じていました。
お嬢さんは、それから海の見える町で、月の晩には必ずらくだのことを思い出しては涙を流したのでした。月の晩というのは不思議と涙を呼び起こすものですから。