離れないように
おちる。
おちる。
真っすぐに落ちている感覚。
真下へと落ちているようだ。
いや、真下、という認識があっているかすら定かではない。
地面に叩きつけようと速度を増して落ちていく。
よく見ると周りは真っ暗で、しかしうっすらと模様があるのが見て取れる。
模様といえば聞こえはいいが、実際はぐねぐね、ぐちゃぐちゃとマーブルの模様のようだ。
笑顔の裏にあった、本当の気持ち。
なんて汚い。
汚れている。
地面はまだ見えないようだ。
頭から落ちている。地面があるなら救いようがない。
ゴールはまだ見えない。
おちる、
堕ちる。
以前もらった透明な白い布を頭にかぶせたまま、彼に抱きしめられている。
夜のなかでも目立つ白いヴェールは、たまたま通りがかった人たちに幽霊と間違われた。
(幽霊か…。)
つんと袖を引っ張られる感覚に顔を上げると、彼は口を動かした。
『あっちへ行こう、あそこなら誰も来ないさ』
指さした先はこの時間に見ると近寄るのをためらってしまう森だった。
「…そうね」
言われるがままついて行くと、彼は慣れているのかどんどん奥へ進んでいく。
奥へ行くほどおどろおどろしい雰囲気は高まるばかりで、恐怖心が揺れる。
やがて彼は立ち止まり、私のほうを振り向いて柔らかくほほ笑んだ。
とても幸せそうな顔だ。
(…この人の幸せを、奪ってはいないだろうか)
この夜の森は、私の心の中みたいだ。
湿った空気が、うねった巨木が、真っ暗な空間の中でもはっきりとわかる。
幽霊だなんて、冗談に聞こえない。私はまるで彼に憑きまとう亡霊ではないか。
『おいで』
音のない声が聞こえる。
ふらりと、引き寄せられるように彼の腕の中へおさまる。
壊れないように、そっと背中に手をまわした。
彼はぎゅうっと離さないように抱きしめてくれる。
「……」
(私は…)
ふと耳元で空気が揺れた。
顔を上げて、口元に視線を移し、もう一度、とお願いする。
『あ、い、し、て、る』
一言一句、私が聞き間違えないように彼は言葉を紡いだ。
柔らかい髪色に、木々の隙間を通り抜けた月の光が反射して、天上の人のように見えた。
「…一つ、お願いがあるのです」
びくりと、彼の体が揺れる。
先ほどまで幸福に満ちていたその顔に、曇りが生じる。
口を開けて何かを言おうとして、しかし言葉にならず開いた口は閉じられた。
「この世から私を、…消してほしいのです」
曇った空に雨が降ったようだった。
美しい曲線を描いて、彼の頬を滑り落ち、着物の衿口にシミを作った。
ぐっと閉じられた口が開き、また言葉にならず閉じられる。
私はそれ以上何も言わず、じっと彼の言葉を待った。
数瞬ののち、彼は口を開いた。
『…わかった』
言われた言葉を理解した時には、私の体は後ろに倒れ、彼が馬乗りになっていた。
夜露に濡れた草が優しく体を支えてくれた。
私が折れないことを彼はよく知っている。
諦めから浮かべる、ゆるい笑み。けれど彼は多分、どこかでまだ希望を信じている。
「—————首を、」
彼の手に自分の手を添え、自らの首まで誘導する。
「首を、絞めてください」
ほんの少し、彼の顔に戸惑いが浮かぶ。
たどり着いたその手は、まるで壊れ物に触れるように首に添えた。
「私が逝ってしまうまで、離さないでくださいね」
精一杯の笑顔をうかべ、声に出す。
もしかしたらと、どこかで諦められなかったのか涙がでてくる。
彼も同じらしく、今ではぼろぼろと私の顔に落ちてくる。
『僕もすぐに行くから、待っていてくれる?』
添えられた手に力が込められた。
「ぁ、駄目、ですよ…!」
彼の未来をこれ以上奪えない!
ゆっくりと気道が狭まっていく。
『僕の未来は君のものだ。…君のために使わせて』
泣き顔に、すべてを受け入れた彼の笑顔が混じっていた。
「…ごめ、なさいっ」
目前に迫った恐怖に口が勝手に動く。
「っ幸せに、…できなか、…った…」
涙が止まらない、溢れる一方だ。
彼は、そんなことはなかった、と言うように首を振った。
『…きれい、だよ』
かすかにわかる動き。
『僕は、幸せだ。こんなに、きれいなお嫁さんをもらえたんだもの』
あまりにも幸福そうな顔で、軽い接吻を息を吸い込めない口に落とされた。
「っ…。…わか、っり、ました。向こっで、…待っています」
それを聞いた彼の手にさらに力が加わった。
「このさきも、ずっと、…お慕いして、おります…」
もう、息ができない。こんなにも苦しいんだ。
『よる、…よる、あいしてる。…どうか』
優しい声で私の名前を呼ぶ。
わたしを示す名を―—―———
(ああ、幸せ者だなあ)
『よる…、よる…?』
どれくらい彼女の首をしめつけていたのだろうか。
手は夜風の冷たさとずっと力を入れていたせいで痺れていた。
『すぐ、逢いに行くよ』
君がいない世界は、太陽を失ってしまったのと同じなんだ。
息絶えてしまった最愛の恋人にもう一度口づけをする。
まだ体温の残るその体は、すぐにでも目を覚ましてくれそうにすら思った。けれどそんなことはあり得ないと解っている。
(僕が、してしまったんだな)
腰に下げていた短いほうの刀を取り出した。
自分でするのはさすがに恐ろしい。
しかし、彼女がいないことよりはましである。
『愛している、夜涙』
勢いをつけて腹につきたてた。激痛が走った。
それだけでは足りないので横へ凪いでゆく。
血があふれ出ているのを確認し、刀は投げ捨てて彼女の横にたおれこんだ。
赤い綺麗な着物に薄く透けた真っ白のヴェール。
彼女の冷たくなり始めた手を自分の手と繋がせて、目を閉じた。
―———次に目を開けるときには、彼女と会えるように祈りながら―———
お久しぶりでございます。
しばらく前に書いていたのですが、全文消えてしまいまして…、本日やっと投稿できた経緯があります。
次話は現実世界へ戻ってきますので、今度は彼の名前が出てきます。
今話を読んでくださった方、ありがとうございます。
またよろしければ次話もよろしくお願いいたします。