表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ウンエントリヒ・リーブリヒ・ルスト短編版

 その世界には争いというものが無かった。

 戦争なんていう事も、狩りという行為さえその世界では全く見られない。

 それは、何かを得るために他から奪うという精神を取り払った世界のこと。

 その世界に存在する生き物達は生きる為に必要最低限である食事も全く見られない。野に生える草も、海に漂う微生物も、宙を漂う気体さえも吸収することなく存在していた。

 故にその世界には死という事象と老朽化も無い。

 故にその世界には生命の誕生という概念は無い。

 だからこそ、増えることも減ることも無いその世界は無限に同じ時間を繰り返す。

 石ころは原初からそこに転がっていて、永遠に動くことはなかった。

 だからなのか、その世界に存在する生き物達は動きもしなければ考えもしない。

 ただ、前を見つめてその世界の一部として存在し続ける。

 まるで模型の世界のようだ。

 朝と夜はやって来るのに時間は動かなかった。

 風が吹いて地面は層を積むのに世界は変化しなかった。

 その世界は無限の時間と永久の虚空で静寂の歴史を繰り返した。

 それはまるで、誰かがその世界に転がる石ころを蹴って、世界の針を動かすことを望んでいるように思えた。



 そこまで想像して、感嘆の言葉を吐く。

「なんて綺麗な世界だ……君もそう思わない?」

「……綺麗?」

「そうさ、美しいだろ? その世界に行けば面白いことがたくさん見つかる……いや生まれるのかな。だから退屈なんて事は起きないし、きっとこの世界には得られない物が見つかるさ」

「……そう、……行ければいいね」

「うん、だから悲観しないで、僕は君に……」

「……私に?」



「死んで欲しくないんだ……」




 第一話。退屈死。



 椅子とテーブルと朝食。どこにでもある朝の風景のようなこの場所は居間のようです。しかし、天井からぶら下がる鉱山採掘やトンネル工事などの暗い場所で多用される裸電球が時間を濁らせます。

 テーブルに立て掛けてあるカレンダーは月ごとにめくる仕様で、平日にバツの印が書かれた日にちが並びます。バツの印が終わった日にちなのだと考えると今日は平日の木曜日のようです。

 そんな居間に置かれたテレビに映るニュース番組では今日も死者の報道が絶えません。

 画面右上に表示された見出しには、『孤独死続出!!』と赤字で太く書かれています。

「な、なんてこった……」

 その赤字を見ていた『ブラット・ウン・クラオト』はフォークに突き刺したパンケーキを取り零した。

 パンケーキは椅子に座るブラットの膝に落ちて跳ね、回転し、白の絨毯の上にバターの塗られた面から落ちてしまう。

 そして、バターは固形の形状を保ったまま中央に飾られていたので床の絨毯と接触した際に、パンケーキの温度で溶かされたバターは絨毯に染みわたっていった。

「なんで……こんなことしたんだよ……」

 そんなパンケーキに目もくれず、ブラットはテレビの画面を見つめる。どうやら、報道している内容に興味を抱いている様子だ。

 その内容といえば、アパートの一室で寝たまま死んでしまった遺体や、家族を残してどこかのお山で遺体として見つかったとかいうもの。

 そして、その最近の死因は孤独死によるものだと精神専門家の先生が語る。

『そうですね、一番の原因は流行や目立った事件が昔より少なくなったことにあると思います』

「確かにな……」

『ていうかね、最近は出生率が少なっているから男女の出会いの場とかもっと増やしたら解決すると思います、うん』

「お、おおぅ……そうだな」

 その先生の意見にブラットは共感を抱いているのかフォークを握る手を拳に真剣に聞き入ります。

 その顔には少しニヤついた笑みが広がっていますが、きっとやましいことではないのでしょう。

『そういえばね、私の嫁さんは私より九つも下なんですけどね、とっても積極的でね、心のオアシスっていえばいいのかな、ふふっ』

「はぁ!? こいつ朝から何いってんの!?」

『あのね、私が言いたい事はね、寂しさを抱かないってこと、だからね、そんな存在というかね、関係をね、つくってみれば――』

 そんな先生の意見を最後まで聞かず、ブラットはテレビのチャンネルを切り替えた。

 ブラッドの表情は少し赤みを帯びて、微熱を放っていました。

 切り替わった番組は釣り番組をやっていました。

 魚を釣るとき、まず餌を針に付けるためにミミズなどが映し出すことがある。それと、魚の鱗や姿は爬虫類を彷彿するのであまり朝の番組では好まない方が多いのだが、ブラットはそんなことを気にする性格ではないよう。

 絨毯に落ちたパンケーキを、そのままフォークで串刺しにして口に運びます。

 普通、落ちた食べ物は三秒内とかもう食べないとか人それぞれですが、ブラットの場合はあまり意味を持たないようです。

「……孤独、か」

 毛玉が混じったパンケーキを喉に押し込み、窓の向こうに広がる壁を見ます。壁は暗く、太陽による光はブラットの存在する居間に差し込んできません。しかもよく見ると壁は鏡面で、ブラットの部屋の中を監視するように鮮明に映し出していました。

 そして、ブラットはその鏡面に映る自分を見つめていました。窓に映る自分ではなく、壁に映る自分。そっちの方が彩度がよく見えやすかったからでしょう。顎を撫でてヒゲを気にしています。

「まぁ、孤独なんてもので死ぬわけないし……ていうか、腹減ったらなんか食べればいいし、家族が嫌なら縁切ればいいし、寂しかったら……」

 そこで、ブラットは目頭を手で押さえ上を向きました。

 彼は寝てしまったようです。寝言は、

「うぅ……そ、そんなの、なくたって……俺は……」

 でしたね。



 居間からいきなり部屋の外に出るブラットは太陽の光を浴びて背筋を伸ばします。

 彼の顎の髭は綺麗に剃られ、前髪は目が隠れるほどに伸びています。

 着ているのは黒のジャージで、チーターが体を精一杯に背筋を伸ばしたデザインをしたロゴを掲げたメーカーのジャージです。チャックを腹の真ん中でとめています。

 先ほどの場所は居間ではなく一室の部屋、彼の住んでいる場所なんだという事が分かりました。

 表札に書かれた部屋の名前はニ九一号室。隣にはすぐ階段があり、ブラットはそちらに向かいます。

「……ん、ん、ふぅ~ん……ん……」

 背筋を伸ばして深呼吸を繰り返したブラットは両耳にイヤホンを装着し、口元を覆うように白いマスクをかけます。

 鼻は出しっぱなしです。

「ふんふん、ふぅん、ふんふん、ふぅん」

 どうやら、鼻歌を歌うためだけにあえて鼻を露出させたようです。その鼻歌を周りに響かせながら階段を降りていきます。

 階段は日光が差し込まない窓がついた大きな踊り場がありました。

 ブラットはその踊り場でくるっとターン、わざとらしく壁に肩をぶつけて跳ね返るように右左とステップを刻みながら一階に到着しました。

 その先には出口があり、箒を持ったおばあさんがいます。その容姿は五十を過ぎた感じでしょうか。丸メガネを鼻に掛けた優しそうな面構えをしています。

「おはようございます、うふふふ」

 なんだか嬉しそうに挨拶をするおばあさんを通りかけるブラットは小さく頭を下げて、小走りで駆け出します。

 それを見たおばあさんは少し困った顔をして掃除を続けました。そのおばあさんの胸ポケットには『おばけ出荘――大家――』と書かれたプレートを付けていました。

 ブラットの部屋を貸してくれている大家さんはこのおばあさんのようです。

 どうやらブラットには大家であるおばあさんの挨拶よりも急用な用事があるようです。

 そして、おばけ出荘を小走りで出たブラットはおばけ出荘が見えなくなる角を曲がるとホッと息をつきました。

 お化けが出たんでしょうか? その顔には安堵の色。

 安心したのか、ブラットはマスクを取ってしまいました。手を拳に……いえ、なにか棒状の物を掴んでいるように丸をつくって、空気を持ちながら口元に持っていきます。

「ぶっ、ぺっぺっ、つつん、ぶっ、ぺっぺぇ~」

 そして、ボイスパーカッションを始めました。なにか棒状の物はマイクでした。エアマイクでした。

「あれは午後九時半のことでした風が寂しく空が泣いていた僕も寂しく泣いていたそんな午後九時半のことでしたいきなり鳴き出した非通知の着信その日その時間の僕は心が泣いていたから出なかった――」

 息継ぎ無しで歌うそれは何かの曲のようです。しかもラップのようです。歌詞の意味が孤独なのは今の自分の気分に合わせているのでしょうか?

「あーそーそー泣いていたんだ、鳴いていたんだ、電話の向こうの僕は、あーそーそー鳴いていたんだ~」

 サビに入り、周りを通りかかる人たちはそんなブラットを一瞥します。ブラットは自分の世界に入っているのか、歌うことをやめませんでした。むしろ目を瞑って前を見ています。

 ちなみに歌はあまり上手くありません。コブシが強く演歌向きでした。

 公園にいた鳩たちがその歌声に驚いて羽ばたき、散歩中の子犬が尻尾を立てて牙を剥き出します。

 だからなのか、ブラットの通った道の跡は小話と赤ん坊の鳴き声が響きます。

 そんな調子で駅にやってきました。

 駅内は人が多くて、スーツ姿の男性や学生服姿の学生などが見られます。

 俗に言う通勤ラッシュというやつです。黒ジャージ姿のブラットはマスクを口元も鼻さえも覆いかけ、その人の群れに混ざります。

 電車は数分ごとに来るようでとても利便性があります。

 電車内でのブラットは珍しく静かにしていました。独り言を言うこともなければ歌うこともありません。ただ、目を瞑ってつり革に掴まって立っていました。

 電車は一回目の停車をし、たくさんの人を吐き出してたくさんの人を取り込みます。それは多くもなく少なくもなく、適度に人を循環させます。スーツ姿の男性が貴人服姿の女性に、制服姿の学生が私服姿の大学生に変わったように見えます。

 そんな入れ替わりの時に、ブラットの目が開きます。

「………………っ!」

 開いた目は右へ左へ右往左往し、右に固定します。

 その目線の先には女の子がいました。年は一六ぐらいでしょうか? 背が低いです。

 ブラットはその女の子を見つめて自身のマスクに隠れる顎を撫でました。まだヒゲを気にしているようです。

「…………ふむ…………」

 どうやら、ブラットは女の子の事が気になるようです。それなら、女の子の方に注目してみましょう。

 女の子は背が低く、服装は赤色の派手なスカートにオレンジとかパールグリーンなどの綺麗な色を印刷したシャツと髪飾りにこれまた派手な金色のラメが輝くピン。茶系の深い色合いの革製の手提げバッグ。

 そして、その顔には化粧のチークが頬を赤く染めていた。

「…………だよなぁ」

 やがて、ブラットが乗って三回目の停車駅。

 ブラットは頭を掻く。どうやら何かに焦っているようだ。

 女の子はここが降りる駅ではないのか電車内に留まります。

 やがて、電車のドアは閉まりブラットは崩折れた。目頭を押さえて床のプラスチック板を叩き出します。

 周りの人たちはそれを奇異の目で見ていました。

 もちろんあの女の子もです。



 そして、ブラットが乗って一〇回目の停車駅。

 女の子がやっと降りました。ブラットも後を追うように降りていきます。

 どうやら、女の子とブラットの降りる駅は同じのようです。でもそれは当前なんでしょうか、この駅はとても大きい駅でとっても大きい街なんですから。

 どれほど大きいかというと、出口が四つ以上もありました。東西南北の他に地名に称した名前の出口。

 その数ある出口の中から女の子が選んだのは西口。女の子は改札機にICカードをかざして通貨。その後を黒ジャージ姿の男がICカードをかざし、

『ピッピー!』

「えぇ!? あ、金か……」

 どうやら、黒ジャージ姿の男はICカードにお金をチャージすることを忘れていたようです。なんて間抜けな人なんでしょう。

 そんなことより、女の子は西口を出て横断歩道を渡り、パチンコ屋の看板を見上げ、ゲーセンでクレーンゲームの商品を眺め、地下デパートに足を運び、チョコクレープを一つ買って、とおっても大きな公園の噴水近くのベンチで休みます。

「………………」

 公園のベンチは木製で、女の子は無言で口を動かします。

 口を動かした後は、手に携帯端末を持ちタッチして操作するタイプのゲームで遊んでいます。

 女の子は電車からこの公園に車で終始無言でした。

 横断歩道では自分より背の高い人たちを見上げ注意しながら、パチンコ屋の前は楽しそうな騒がしい音が聞こえ気になり、ゲーセンでは何か自分にもチャンスがある物を探し確実な成功を物にするために彷徨い、地下デパートのスイーツを堪能する。

 そんな行動を取った女の子はどこにでもいる普通の女の子です。

 でも、その顔にはどこか寂しそうな色があります。

「あ、ああああ」

 そんな女の子の隣に誰かがやってきました。その声は男のものでひどく震えていて気持ち悪いです。

「あ、あの、君、ひま?」

 その声はやっと形を帯びて言葉になりました。でも、女の子はゲームに夢中なのかタップを止めません。

「お、俺はブラットっていうんだ……あの、君、今ひま?」

 そこで、女の子は自分に話しかけている人がいることに気づき顔を上げます。

 ブラットと名乗った男は黒ジャージ姿、髪をオールバックに決めているのに冴えない男性でした。

 年は二〇。彼女も付き合った歴も無し。手持ちの携帯端末に保存されてあるアドレスは五件ほど。あとは、

「私? ですか?」

 部屋のエロ本を捨てることが出来ずにベットの下、物置の下敷きにして有効的活用を試みている男性でした。

「そ、そう、君君。君、ひま?」

 同じ台詞を三回も言ったブラットはたくさんの汗を流す。周りをキョロキョロと見回して周囲を警戒している。

「……え、えと…………」

 女の子はどう対処した方がいいのか困っているようで、噴水の水を眺め始めました。

「ふ、噴水、好きなの?」

「……いえ、あの……少し聞いてもいいですか?」

「え? う、うんいいよ、なんでもいいよ、うん」

「変な人ではないですよね?」

 変な人。今、女の子から見てブラットは変な人のようだ。

「そ、そんなんじゃあ、ないよ」

「……本当ですか?」

 女の子はブラットを信用しなかった。ブラットは落ち着きがないのかゆらゆらと地震が起きているように揺れる。

「あ、え、えと、なんか、なんかさ、誰かと話したくて、ほ、ほらこの公園いま、だ、誰もいないからさ……」

 そこまで言い切ったブラットはしゃがんで女の子目線より下に着く。

「誰もいない? ……この変態が……」

 女の子は小さく呟いてベンチを立った。ブラットを置いてどこかに言ってしまうようです。

「えぇ!? ちょ、ちょっと待って! 一発芸! 一発芸見てよ! いくぜ! ハッハッハッ!!」

 そう言って、振り返らない女の子に向かって、

「ぶっ、ぺっぺっ、つつん、ぶっ、ぺっぺぇ~ぶっぺぇ~ちっつん、ぶぅぶぅ、いぇ~ん」

 ボイスパーカッションを始めました。

 しかも、今回は気合を入れているのか地面を転がったり、逆立ちをしたり、噴水に飛び込んでたりします。

 しかし、そんなブラットの努力も虚しく、女の子は振り向きもせずに公園を出て行ってしまいました。

 噴水に飛び込んで側転で暴れたブラットはびしょ濡れで、女の子のいたベンチに座ります。

「……あれ? もしかして今日の俺すごく調子いい?」

 それから、ブラットは上着を脱いで踊りの練習を始めました。

 ブラットの踊りは極端に言えば乱暴です。前転と後転を主軸とした側転と逆立ちの連続披露。しかし、それだけだと客は飽きるのです。

 なので、応用を取り入れることにしました。

 ジャンプして足のかかとを頭の位置まで持っていきそのまま一回転するバク転。

 足をくねらせて絡まり、転んだように見せかけて背中を使って回るブレイクダンス。

 その足をさらにくねらせて、腕と膝、体全体を使ってとにかく回り続けるカフカスダンス。

「こっ! これだっ!! 船で例えれば足は舵で腕は帆! そして、俺は船長だぁ!!」

 噴水をカフカスダンスもどき、強いて言うならコサックダンスで回り続けるブラットは吐き気を催す。

 朝のパンケーキという重すぎる朝食が彼の胃をかき混ぜ続けたのだ。仕方ない。

「ぶぇうわぁぁぁああああ!!」

 そして、吐き気に耐えられなくなったブラットはとうとう噴水に飛び込んだ。

「ゴパッゴパッオウエェー」

 なんと、ボイスパーカッションの練習までして、ブラッドは青ざめた顔を上げた。

 オールバックに決めた髪は水を吸って顔面に張り付き、その顔はまるで妖怪のようだ。

「おじさん、なにしてるの? バカみたい」

 そこにはあの女の子がいた。手にはタオルを持っていて、ブラットに差し出している。

「え、えと……受け取れない、ですよ、ははは」

 お前今吐いたもんな。



「私の名前は陽子、おじさんのその……ブラッド? それって本名なんですか?」

「ブッ、ブラットだよ、そんなかっこいい名前じゃないし……意味もあんまり……外国で住んでたから本名、一応……」

「ふうん」

 陽子と名乗った女の子は携帯端末をいじりながら興味なさげに呟きます。

「………………」

「………………」

「きょ、今日て、てて、天気いいよね」

「そうね」

「この服もすぐ乾きそうだなって、ははは……」

 水に濡れた体と黒ジャージを自然乾燥で乾かしながらブラットは乾いた笑いをします。

「おじさん」

「え! なに!?」

「おじさんはなんで私に話しかけてきたんですか? ていうかナンパ? 一人でよくそんなことができますね」

 陽子にはそれが疑問でした。

 ブレットの言葉といえばひどく震えた自信のない声、喋るのに適していません。

 ブレットの恰好といえば黒ジャージ姿でオシャレとは程遠い恰好、ナンパに適していません。

 ブレットの周りといえばたった一人、友達がいません。

「そ、それは、えーと……なんでだろ、はは……」

「変態……」

 しかし、陽子がここにいる理由はブレットの一発芸にありました。

「でも、面白いからいいです、お話したいんでしたっけ? 暇なので付き合いますよ」

 ブレットが一発芸と称した奇行を見ずに公園を出てしまった陽子は服屋さんでウィンドウショッピングをし、ファミレスで軽い食事をし、公園に再び戻ると、ブレットが噴水で未だ踊り続けていたのですから。

 気になっちゃうのも当然です。

 タオルは近くのお店で調達してきました。そうです、あの服屋さんです。

「ほ、ホント? よかった、それじゃあ近況でも話そっか」

「近況ですか?」

 陽子にはもう少しブレットの踊りを見てみたいという気持ちもありました。

「まずは、俺から。今日の朝食はパンケーキだったんだ、バターをつけたね、とても美味しんだけどやっぱりはちみつが一番だね、ただかけるんじゃなくて塗るんだ。それを二つのパンケーキで挟む。ちょうどハンバーガーみたいにね、あ! 間にバターを入れればもっと美味しい、あとあればだけどチョコクリーム……」

「うわぁ、どうでもいい」

 陽子は少し引き気味の顔をします。今日のブレットの朝食といえば毛玉ケーキを思い出すますね。

「そ、それじゃあ君は? 最近なんか楽しいことあった?」

「私? …………さっきたべたクレープ、美味しかった……」

「そう、クレープね! 何クレープ? 俺はバターとはちみつがのっかったやつが好きだな」

「そんなのはたぶんないわ、チョコ味よ」

「あ、チョコね、チョコは美味しいよね、カカオは少なめ? 多め?」

「は? 普通のチョコよ」

「普通のチョコって……板チョコをパンケーキに挟むんだね、その発想は無かったな……」

「クレープつってんだろ、パンケーキなんかどうでもいいわ」

 ブレットから出てくる会話は陽子に取って理解できないものがほとんどでした。

 それから、ブレットがパンケーキとクレープの違いについてやっと理解できたところで話題は変わります。

「それじゃあ、最近買った物の話でもしよっか」

「まだ続けるの?」

 陽子はクレープの話題でお腹いっぱいでした。もう口を動かすことにも疲れています。

 対するブレットといえば、生乾きのジャージを手に持って広げ始めています。

「このジャージ、かっこいいだろ」

「ええ」

「この間発売した新作でさ、デザインもさる事ながら速乾性や柔軟性に優れててすごく動きやすいんだよ、さらに言えば軽量だし、床に膝とか背中を擦りつけてもなかなか破けない、ていうか破けないね基本、チャックで閉まるのもいいよな手軽で、あ! 黒色の理由? そりゃもちろんかっこいいからだね」

「そう」

「それでさ、これとは違う他社の製品なんだけど……」

 ブレットのジャージ自慢話はまだ続くようだ。陽子はその話に耳を傾けず、聞いているふりをした。

 他社の製品で使われている生地がパルプ材で経費削減しているからいいジャージが作れないという話にうなづきながら思考を広げる。

 そもそも、このおじさんはなんで自分に話しかけてきたのか。

 聞く所によるとおじさんは特に理由も無しに話がしたいだけだそうだけど、その姿は必死なようにも見える。

 それこそ、やらされているように。

 第三者が私に話しかけるようにおじさんを動かしたように思える。

 だから、私は最初こそ無視をした。でも、おじさんは公園で、一人で、遊んでいた。

「それでさ、ジャージの一番の魅力はアイロンをかけなくてもシワができないことってさっき言ったんだけど――」

「おじさん」

「え! なに!?」

「おじさんは、どうしてそんなに楽しくできるの? どうして、そんなに、笑ってられるの?」

 それが分からなかった。今の陽子にはブレットの気持ちが理解できない一番の原因だった。

「え? うん? 楽しいって? 俺が?」

 そんな陽子の気持ちはブレットにはあまり上手く伝わらなかった。

「あ! ご、ごめん。少し話過ぎちゃったのかな、それじゃあ君の、えーと、最近買った物の話だっけ? 聞かせてよ」

「……私の買ったもの……」

 ブレットにそう言われて陽子は手に握るタオルを見つめた。

 それは公園で遊ぶブレットを見て買った物。

「なんでこんな物買ったんだろ……」

 自分のために買った物じゃない物。

「このタオル……あげます、遠慮しないでもらってください」

 思えば、このタオルはブレットがびしょ濡れだから、話すきっかけを作るために買った物だった。

「え? あ、ありがと、いい生地だね! マイクロファイバー最高だよ!」

 タオルをもらったブレットはその触り心地に興奮していたが、陽子の心は沈静していた。

 もう、こんなことを繰り返して何週間。このおっきな街で陽子はずっと一人だ。

 携帯端末に映る画面に注目していた視線を横目に、タオルを顔に巻くブレットを見つめる。

 そのタオルの隙間から覗く暗闇から言葉が漏れる。

「あ、あのさ、ここからが本題なんだけど、いいかな?」

「……本題?」

「そ、そう、えーと、こんなこと急に言われてショックかもしれないけどさ、その」

 ブレットはとても言いにくそうにしている。

 そんなブレットの口調とタオルから漏れて口ごもった言葉は、聞き手にとってとても迷惑だった。

 だからなのか、陽子は耳を傾けてしまった。


Derデア Todトードって顔に書かれてるんだ」



 時刻はお昼すぎ、陽子は近くのファミレスでブレットの話を聞いていました。

「その、ちょうどほっぺのあたりに、そう書かれていて、一応聞くけど、化粧じゃないよね?」

「……なにも書かれてないけど……化粧でそんなことはしてない……」

 陽子は洗面所で自分の顔を凝視したが、そんな英文字は一文字たりとも書かれていなかった。

 いつもの自分の顔を鏡で見て、普通の私だと思います。

「ふざけてるんですか?」

「いや、そうじゃないよ、でもそれ、危ないから……」

 ブレットの言葉通りだと、陽子のチークで赤く染められた頬にはインクで刻まれているようにその英文字が浮かび上がっていると言います。

 その英文字は陽子には見えていないようです。だから、陽子には人をからかっているようにしか思えない。

 実際、陽子から見たブレットは意味不明の生物だ。人間じゃなく宇宙人なのかもしれない。

「でも、その意味って……」

 それでも、陽子とブレットの二人がこのファミレスで話をするに至ったのは、その英文字の意味でした。

「死、……死んでる状態……ていうのかな、その……」

「おじさんそれ本気で言ってるの?」

 バンッと机を叩いて立ち上がる陽子。その音と行動に他のお客が注目する。

 恋愛小説やドラマだと男が失礼なことを言い、それに女が怒って勘定もせずに店外に出てしまう雰囲気。しかし、言葉が哲学的で陽子も店内に留まることにより目立ってしまうのだ。 

「あの、あんまり深く考えないで欲しいんだ、えーと、まずは君のことを聞かせて欲しい……ダメかな?」

「……なにそれ、ていうかおじさんにそんなことを教えたくない」

 現時点で陽子が知っているブレットの事と言えば、踊りとパンケーキとジャージが好きな変態だということ。なるほど、宇宙人と思われてもしょうがない。

「ご、ごめん! 俺はブレット、一応留学生……」

「留学生?」

「あ、うん、ゲームプログラマーを目指す専門校なんだけど……」

 ゲームプログラマー。パソコンやゲーム機に繋がったコントローラーのボタンを押すと画面の中にいるキャラクターを動かすことができるシステムを作る人のことをそう呼びます。

「踊ってたのに?」

「踊りは趣味だよ……」

 陽子はブレットの留学先をダンスの専門校と思っていたようです。

「それで、半年前にここら辺に引っ越してきたんだけど、一人だと色々怖いよね」

「そうなの?」

「え! 怖いよね?」

「おじさんが怖いわ」

 身を乗り出して同意を求めるブレットは確かに怖かった。思えば陽子は今年で一六になり、ブレットはニ〇。ふとしたきっかけがあればブレットが獣になる可能性も少なくない。

「それが俺です……」

「そう、おじさん日本語上手ね、髪も顔も日本人だし」

「そ、それは、なんでだろ? まぁそこら辺は置いといてさ、君はじゃなくて、陽子ちゃんは――」

袖下そでしたよ」

「……袖下さんは、どんな人?」

 陽子は少し俯きためらいながらも口を開き始めます。目線は窓の向こうに広がる人の群れ。

 ランチタイムのこの時間は街の人口も増える。さっきの公園も平日でなければ噴水で遊ぶ子供の姿があっただろう。

「私振られたの」

「ふ、ふられ? え?」

「もう、彼と合わせる顔なんてない、同じ町にいるだけで嫌なの」

 どうやら、陽子には好きな男の子がいて告白したようです。結果は無残でしたが。

「それって、死んじゃうようなこと?」

「この前ね、私が留守の間に彼がお家を訪ねてきたみたい、私はこの街にいたから会えなかったけど。変な話よね、私から告白して彼が振って、最初は私が彼を追いかけていたのに、いつのまにか追いかけられてる……」

 だとすると、その彼の行動はとても律儀だ。

 陽子が起こした問題を彼は自分なりに決着をつけようとしているのだから。

「私、彼に迷惑かけてる」

 だから、そう思ってしまう。

「それが死ぬのにどうつながるんだ? ん~?」

「もちろんこのままじゃよくないことは私も分かってる……だから置き手紙を用意したわ、でも彼は私に会って直に話したいんだって……中身も開けず破った手紙を残して……バカじゃないの……私、彼に会ったら絶対また期待する……」

 陽子にとって彼は憧れだった。付き合うなら、結婚して一生を共にするなら彼が理想のようで、彼が陽子を追いかけている理由。その意味をポジティブに考えてしまうようです。

「彼は素敵な人だわ、彼を好きな人だってたくさんいたわ、私はそのうちの一人。たくさんの中のたった一人で、告白なんてことをして、彼を困らせている私なんかほっといてくれればいのに! 構ってくれなくていいのに! どうして来るの? どうして……どうして……」

 その言葉は泣き言に変わっていた。この時まで貯めてきた感情を爆発させたようだった。

「まってまって、え、えーと、だれか死んだ? いつ死ぬの?」

「誰も死んでなんかいないわよ! バカ!!」

 そう言って、陽子は机に突っ伏してしまった。泣き顔で化粧が崩れた顔を見られたくなかったのだろう。

「…………えーと…………ごめんなさい」

 怒鳴られたブレットは素直に謝り、陽子の寝姿を無言で見守った。



 午後、太陽が東にやってくると世界はその有り様を変える。

 つまりは暗くなる。朝を始めた太陽が沈み、夜を始める暗闇が動き出す。

「じゃあ、えーと君が、その」

「……一人で街を歩いてること?」

「そう、それ。その理由は好きな男の子に会いたくないからなんだね」

 ブレットがそう指摘すると陽子は首をふる。

「じゃあ……もういっそのことさ、会えばいいじゃ――」

「それができたらもうとっくにしてるわよ!」

 また怒鳴られる。ブレットには繊細な心の事など分かる訳もなく、陽子の地雷を踏んで作って踏んでしまう。

 その度に、ごめんなさいとブレットは口ごもり反省するのだ。そうして理解を深めていく。一ミクロンずつ。

「その男の子ってジャージ着る?」

「着ないわ、ジーパンがよく似合うイケメンよ」

「じゃ、ジャージをプレゼントするんだ!!」

「おじさん、もう、黙ってよ、お願い」

 そう言われて、ブレットが黙る。黙りながら着ているジャージの袖口をこすり合わせる。

 もじもじもじもじ。

 そんなブレットを見て、陽子は頭を抑えながら視線をむける。

「そもそも、なんでおじさんが私と彼の事を考えてくれるの?」

 さきほどから、自分の事を語った陽子にブレットは積極的と消極的を忙しく繰り返しながら、陽子と彼の問題の解決案を提案していた。

「だって……だって……」

「だってなによ……」

「黙ってよって、言われたし……」

「さっさと言えよ」

「死んじゃうかもしれないからさ、ダメだよ、それだけは絶対……」

 それは、年が離れて会ったばかりの男女がファミレスで話し合うに至った理由。

「それって、私が彼に会いたくないから、悲観して自殺しちゃうってこと?」

 陽子はそう推理した。

 ブレットには見えているという陽子の頬に刻まれた英文字の意味は『死んだ状態』。

 その言葉を汲み取るならここでこうして話すことも、ここに存在するわけもない。

「うん、たぶん、……わかんないけど……」

 そこで陽子はようやく理解した。

 なるほど、このおじさんはきっとおかしいのだと。

 このおじさんの言っていることが未来を指すというのなら私はこのあと死んだりするのだろう。

 有り得ないが。

「分かったわ、でも私は死なない、そんなことする訳ない」

 だから、ブレットの妄言にこれ以上付き合う義理は無かった。

「と、とりあえず気をつけて、その……」

 ブレットはまだ何か言いたげなことを言っている。

「なによ」

「それ、危ないから、死なないで……」

 そんなブレットの言葉をうんざりだと、陽子は駅に群がる人ごみに紛れていった。

 その人ごみを追い越して、「それでも」と誰に聞こえることもなく小さく呟く。

「ありがとう」

 陽子は後ろで手を振っているブレットにそう言った。

 



『次のニュースです』

 この部屋に朝は来ない。いや、朝の光が差し込まず、部屋の中を照らす裸電球が朝も昼も夜も一定に同じ明るさを演出するのだからそう感じてしまうのだ。

 せめてLEDや白色の照明を用いればこの部屋の雰囲気を変えてくれるだろうに。

 椅子とテーブルと朝食。いつもの朝の風景にいつものようにブレットがいた。

 その風景の中でテレビを見つめ、はちみつを塗ったパンケーキを口に運ぶ。

『昨晩未明、一六才の女の子が自室で首を吊ったそうです』

「また、分かってもらえなかった……」

 テレビにもいつものように死者の報道。

 それも、ブレッドの住んでいる町の隣町の事件のようです。

『これも最近流行りの孤独死でしょうか? 困ったですね。近日、精神専門家の先生による講習があるそうです』

「どうすれば、聞いてもらえるんだろう……」

 パンケーキからはちみつが垂れてテーブルの面を汚します。

『もう、いい加減にしてもらいたいですよねぇ? きっと流行っているのがいけないんですよ、だから決めたんです、直に私が話を聞かせて、勇気というかね、生きる希望を持っていただけたらな、とね』

「……生きる、希望……」

 窓の向こうの、鏡面に映る部屋。

 ブレットには見えていました。自分の顔には。


そうですね、僕から言えることは、もう一度最初から読んでみてはいかがですかな、ていうことかな。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ