Act.7 幕間[灯された燈火]
その小さな手は温かい、生きる意思に満ちていた。
掴む力は想像以上で、その手に刻まれた宿命は予想外な事ばかり。
願わくば、この子に幸運をもたらす証になりますように――夜空を見上げて神に祈った。
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それはアウスヴァン公爵家の屋敷の中でも最奥の部屋。
国一番の魔術師による術が部屋を密かに守護し、最強の番人が目を光らせる。そこにはネズミ一匹、虫一匹さえも侵入できない程に厳重に守られた部屋があった。
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「ルシィの具合はどうだ?」
パタンと軽い音を立てて閉まる扉。
部屋には天蓋に包まれた一つのベッドが鎮座しており、その脇に陣取るのは一人の女性。
薄紫の神秘的な髪に紺碧の瞳はミステリアスでどこか空気に融けてしまうほどの儚げな雰囲気を醸し出していた。
だがいつもは穏やかなその表情はどこか焦燥した様子。
そんな女性に足音を忍ばせ近づくのは鮮やかな緋色を纏う美丈夫だった。
燃え盛る炎のような髪に黄金の瞳はまるで彼の気性を表しているかのよう。
男は女性に足早に寄り添うと、そっとその手を背に伸ばした。「大丈夫か?」との一言を添えて。
女性の名前は《スーウェ・セシル・アウスヴァン》
男性の名前は《ガウディ・ヴァルバロス・アウスヴァン》
二人はベッドに横たわる少女、ルイシエラの両親だった。
ルイシエラ――前世での名前をルイという少女は一週間もの長い時を自分の部屋にて安静を言い渡され大人しく過ごしていた。
ルイは生まれた時から大人しく、余り手の掛からない子供だった。まだ生まれてから一年という歳月しか経ってないが、それでも大人顔負けの理解力はこちらが舌を巻くほど。
利発で聡明、人の機微に敏く、注意したことはきちんと聞き、同じ過ちは冒さない。唯一の悩みはお転婆過ぎることだが、それでもきちんと自分の立場を弁えての行動だった。そんな子供がまだ一才だというのが驚きだ。普通ならば我が儘で手に余るだろう年頃なのにも関わらず彼女の一端の大人のような振る舞いに屋敷の人間は驚きの連続だった。
しかし普通ならば彼女のような存在は忌避されるだろう。そんな事態が簡単に想像つく。生後一年といえばまだ言葉も単語だけだったり我慢なんて出来ないような子供。それなのにも関わらず彼女は幼児言葉でもきちんと言葉を文章として自分の意思を口にするのだ。そんな子供を“異常”だと思う者は大勢いるだろう。事実、誇り高き騎士の武門。アウスヴァン公爵家の使用人の一部にそんなルイを化け物と恐れる者がいた。(勿論全て解雇済み)
しかしガウディやスーウェにとってはそんなのは些末な事。気にするまでもない。ただルイが健やかで元気に笑ってくれればそれで良いのだ。だが、世界はそう優しくは無かった。
全ての事象には理由があり、過程があるため事象は起きるのだ。
屋敷を揺るがす程の魔力を感じた。今日の昼頃だった。
一休みにルイに会いに行こうと向かっていた矢先の出来事だった。
部屋を荒らしていたのはルイ自身が持つ強大な魔力。まだ制御出来ないということもあり暴風となり吹き荒れた魔力は部屋を半壊にまで至らせた。静まった部屋の中にはぐったりと倒れたルイただ一人。
騒ぎを聞いて集まった者が思ったことはただ一つ。
「恐れていたことが起きてしまった」と。
ルイの魔力はアウスヴァン公爵家の長い歴史の中でも群を抜く強さであることは分かっていた。歴代最強と謳われるガウディを凌ぐほどに濃い深紅の髪がそれを表していた。それに加え母親であるスーウェは魔術師を多く輩出する魔術師の国【タナシュト公国】の中でも特別な魔女。
その地では既に滅んだとされていた目に見えない【精霊】を意のままに操ることの出来る【精霊術師】一族の最後の一人だった。
それだけでもその小さな身体に収まりきれない魔力がいつかは暴走するかもしれない未来を予想させる。
身に余る魔力は一度暴走すれば周りを巻き込み破壊しつくし、身体に留まれば身体が破裂する。
魔力が多い子供には制御が出来ないが故にそんな病気も存在していた。
それに加え屋敷の信頼できる一部の人間は承知の事だが、ルイのその右手には生まれた時から【女神ルーナの祝福】が刻まれていた。
満ち欠ける三日月に雫の涙。それらを取り囲むのは月桂樹の葉の形の紋章。
それは天空の支配者を、時空の管理者を表す印。
「……まだ、熱が下がらないの」
「薬を与えてもか?」
「ええ、精霊の子達が言うにはルシィは【選ばれた】のだと」
「選ばれた。か」
女神の祝福だけでも大事にも関わらず「選ばれた」との言葉。
客観的な意見としては祝福を貰えた事は喜ばしい事だろう。
神の祝福を授けられた者はいつの時代も一握りの人間だけでありそれらは総じて巨万の富を築き、その家に脈々と受け継がれる幸福を齎す。と言われている。
普通ならば諸手を上げて喜ぶことだが……ガウディはほんの少しも喜ぶ気持ちが浮かばなかった。それは妻であるスーウェもそうだろう。宝物を箱につめるかのように大事に過保護に育ててきたのがその証拠だ。
「うぅ」
「ルシィ!?」
「ルイシエラ!」
小さく呻く声にベッドに駆け寄る。
「あぅ…けほっ」
「スーウェ」
「分かっているわ」
ガウディの呼び掛けに応えスーウェは水で濡らした手をルイの額に添える。
苦しげに表情を歪めるルイに代われるならばその苦しみを代わってやりたいと思うが、現実は無力にただ見つめることしか出来ない。
「さぁ皆――力を貸してちょうだい」
ふわり、スーウェの魔力が広がるのを感じた。ざわざわと騒ぎ出すのはスーウェの発する魔力によって引き寄せられた【精霊】と呼ばれる自然そのものの力。
彼らに明確な意識は無い。だが彼らは同じ属性魔力に引き寄せられる性質を持つ。
スーウェが行使するのは熱を下げる術。精霊術師としての技をスーウェは遺憾なく発揮する。――筈だった。
「なっ」
ばちんっと弾かれたのはスーウェの手か魔法そのものか、定かではないがスーウェは信じられないといった表情でルイを見つめた。
「スーウェ?どうし――」
『――悪いけど、今はそっとしておいてくれないか?』
ガウディの言葉を遮り聞こえた言葉。
それは穏やかに聞こえつつも逆らえない圧力が見え隠れする。
『こんばんは。と言った方がいいかな?人間』
二人が声の方を振り向けば、そこに居たのは一人の青年。
薄緑の髪に鮮やかな翡翠色の瞳。誰もが振り向き魅了されるだろうその美しく整った容姿を持つ青年はニヤリと口端を上げ笑っていた。
「そんな……貴方は風の精霊王!?」
「!」
スーウェの悲鳴にも似た言葉にぎょっと目を見張る。
精霊の王と言えば人知を超えた存在であり、神獣と並び立つ偉大で恐ろしい者だ。そんな精霊の王、特に風の王には不吉な噂ばかりが纏わり付く。曰くその者は破壊の化身。曰くその者は狂気の存在。その殆どの噂が破壊と虐殺の日々を語るものばかり。
そんな者が何故ここに?と浮かべた疑問を察してか風の精霊王――名をルイにより名付けられた【翡翠】は少しだけ表情を和らげる。
それは自らの恐れを自覚しながらも懸命に子を守ろうとする母親を見てか。はたまたそんな二人を守ろうと牽制する父親を見てか。定かではないが翡翠はただその瞳に今まで感じたこともなかった感情を乗せて親子を見つめた。
『ルイの事なら心配はいらないよ。僕の力で魔力は循環させているから』
「何故この子の事を?」
隙なく身構え問い掛けたのはガウディ。
スーウェは普通の人より精霊という存在に近いこともあり、その王の登場に恐怖に襲われ身動きが取れなくなっていた。
『……別にただの気紛れだよ』
少しだけ拗ねた口調の翡翠。
ガウディは噂とはまるで似ても似つかぬ翡翠に驚きを隠せなかった。
「この子をどうするおつもりですか」
「スーウェ」
ふるりと震えるのも隠さずスーウェは声を上げた。
顔は青ざめ緊張に強張る身体。しかしスーウェは我が子を守りたい一心で必死に言葉を紡ぐ。
「この子はただの人の子です。この子だけは渡さないっ!」
「スーウェ!」
ガウディの一喝が部屋に響いた……。
それと同時にスーウェが発した魔力が散り散りに、ガウディはスーウェを抱き締めその視界から翡翠を外した。
「あ、あなた……」
「……謝罪を。誇り高き風の王よ」
ガウディが守ったのは一体どちらだったのか。
落ち着けとスーウェを包み込むように抱き締め、その金色の瞳は射抜くように翡翠へと向けられた。
まるで何かを見極めるように。見定めるように。
『流石は【紅蓮の獅子】と言った所かな?別に構わないよ。彼女の気持ちも……理解できるしね』
「どうやら噂はただの噂だった。という事ですか」
肩を竦めスーウェの暴挙を許す翡翠だがガウディの言葉には少しだけ寂しげに表情を変えたのだった。
『答えは否、だよ。噂は本当さ。ただ僕は……知っただけ』
知った?何を?と疑問を浮かべたのを察してか翡翠は何かを振り払うように僅かに頭を振る。
『それよりも姿を現してはどうだい?水の王』
そんな言葉に反応してか空気がざわりと震えた。
『あら?本当に貴方、風の王かしら?別人みたいだわ』
ぴちゃん、と水音が部屋に鳴り響く。
スゥと空中より現れたのは鮮やかな蒼。キラリと煌めいたのは宝玉のように美しい星の青玉。
そこには青を纏った美女が水に揺蕩うように空中に浮かび、全てを魅了する笑みを浮かべて翡翠を見下ろしていた。
『……まさか炎の申し子たる“アウスヴァンの当主”が相反する水の精霊王と契約を交わしているなど皆夢にも思わないだろうね』
うっすらと浮かべた笑みは誰に向けてか。
翡翠は火の属性持ちを表す赤を纏う男を見つめた。本来水と火の関係は相反するもの。相容れる事は不可能だ。しかしその2つを許容し、尚且つ操る事の出来る使い手。それが騎士であり、古から続く誇りと意志を受け継いだアウスヴァン公爵家の現当主ガウディなのである。
精霊との【契約】
それは気紛れな意思を持つ精霊とのただ一つの約束事。
一つの代償を引き換えに一つの恩恵をもたらすそれは精霊の意思により望まれる。だからこそ精霊との契約は特別で尊いものだと言われていた。
精霊がその人間の心を認め、自らの力を預けても良いと信頼されてこそ契約は成される。
『心配なんて、貴方本当にどうしたのかしら?』
『別に……人嫌いなキミとは違って僕は人が好きだからね』
『その人を破滅に追いやる【狂気の王】が随分と変わったこと……それは“あの子”のお陰かしら?』
あの子、と水の精霊王が指すのはベッドに横たわる一人の少女。
まだ苦しげに魘されているルイを見て翡翠は少しだけ表情を変える。
『そうだね。否定はしないよ……彼女は僕に教えてくれた。僕に気付かせてくれたから……だから僕は彼女に捧げるんだ』
『捧げる?――まさか!?』
「それはっ!」
翡翠の言葉に驚愕の表情を浮かべる水の王。
あり得ない。と顔に浮かべるがそれよりも早く翡翠の顔に痣のよう鮮やかな紋章が浮かんだ。
それは精霊が契約したことを表す紋章。【契約印】と呼ばれるそれが翡翠の顔右半分を埋め尽くすように現れたのだ。
水の精霊王と契約を交わしているガウディもその紋章の意味に思い至り自分の血がざぁと音を立てて引くのを感じた。
翡翠に刻まれた紋章は契約印の中でも特別なもの。
それは精霊の王が【王たる証】を懸けて忠誠を誓うことを表す。しかしそれは諸刃の剣。その契約に掛かる代償は計り知れない。
『そんなっ貴方自分がどういう事をしたか分かっているの!?まだ理解できない幼子になんということをっ』
非難する水の王。善と悪の区別さえ分からぬ幼子相手に契約を交わしたとなるとそれは大罪だ。だが翡翠はニヤリと笑い、鼻で笑った。
『良く見なよ。これがどういう事なのか……お前なら分かるだろ?』
『何を……いえ、これは……そんな!貴方正気?』
最早それは悲鳴だった。
『至って正気さ。だからこそオレは“捧げた”のさ。――このお姫様に』
ポゥと仄かな明かりがルイを包む。
「どういう事だ《アクヴァ》」
人間二人を置いてけぼりな精霊王達だけの会話にガウディが問い掛ける。
アクヴァと呼ばれた水の精霊王は信じたくない目の前の現実から逃避するように頭を振りガウディを見下ろした。
『嗚呼 ガウディ、貴方の子は厄介な相手に見初められたわ』
「は?」
『風の王は貴方の子に全てを捧げてしまった……力も命も…自らの魂さえ』
「……それは」
『貴方の子に代償を求められる事は無いけれど……嗚呼可哀想なルイシエラ』
嘆く声は眠るルイに向けて、生温かいその目は風の王を向いていた。
『貴方ほどの王がまさか――ロリコン――だったとは……』
「……」
『……人聞きの悪いことを言わないでくれないか?』
ぴしりと固まったのはその場の空気か、人物か。余りの爆弾発言にガウディは無表情になり翡翠の顔は引き攣った。
ゆらり、ガウディはスーウェを離し自らの武器へと手を伸ばす。
不穏な空気に慌てたのは翡翠のみ。スーウェは顔を俯かせその手を広げ魔力を解放し、ガウディは慣れた動作で武器を構えた。アクヴァは呆れた表情で翡翠から一歩離れ、避難する。
気が付けば部屋を取り囲む複数の気配。しかしそれすらも殺気を漲らせ翡翠を狙っていた。
「俺の子に」「私の子に」
「「手を出すな!!」」
心の叫びを叫んだ二人。
そうして向けられた攻撃は屋敷を半壊するまでに至ったのだった。
*
嗚呼――声が聞こえる。
《もう我慢しなくていいんだよ……》
そう言って笑ったのは一人の少年。
強張った顔に触れた手はまるで宝物を触るかのように優しく繊細だった。
真っ白な病室が夕焼けにオレンジ色に染まる。
眩しさに目を細めて彼を見つめた。
別に我慢、していた訳ではなかった。
ただ怖かったのだ。本当の気持ちを口に出した瞬間、離れてしまわないかって。
病院から、病室から出られない程の弱いポンコツな身体。
両親を恨んだことは無いけれど、どこか心の中では責めていたのかもしれない。なんで私の身体はこんなに弱いの?と。自分自身を。自分の身体を。
思い通りに動かない身体を引き摺り病院内を徘徊していた事もあった。何かに追われているような恐怖心があって、病室から逃げたくて熱があるのにも関わらず外に飛び出した。……結果は肺炎併発して死の淵をさ迷いましたとも。
私は周りに迷惑ばかりかけていた。だから、何かをしなきゃ見放されてしまうって思って必死に出来ることを探してさ迷う。
私は結局、病院から出られないから両親や弟の見舞いがないと私は一人ぼっちで。だから……。
《怖がらなくていいんだ》
そんな時に友人に勧められるままにやったゲーム。
所謂、恋愛シミュレーションゲームで一人の主人公の女の子が攻略対象の男の子と苦難を乗り越え、過去を克服し恋人同士になるまでを仮想体験するゲーム。
【乙女ゲーム】とも呼ばれるそれに私がのめり込むのもそう時間は掛からなかった。
私好みの美麗なイラストに格好いい攻略対象の男の子達。
その中でも攻略の難易度が高い一人の男性を私は本気で好きになった。
それは主人公が自分に与えられた役目を果たせるかどうか、葛藤する場面。
役目の大きさに恐怖し、もし出来なかったら?と周りの仲間に見捨てられる事を恐れていた主人公。異世界トリップなんてもので一人きりで知らない世界に来てしまい、頼れる人がいない世界で一人怖がる主人公にその男性は穏やかな声で告げたのだ。
《怯えなくて……大丈夫だよ》
スチルと呼ばれる一場面を切り取り描かれたイラスト。
穏やかな目とほっと安心するその笑顔。どきりと鳴った心臓の音は誤魔化しきれない程に私の顔を真っ赤に染めた。
どこか主人公と自分を重ねていた私がいた。
一人ぼっちになるのが怖くて役目を果たそうとする主人公。
嗚呼、私と一緒だと。
確かに私は我慢、していたんだと思う。恐怖を押し殺して、周囲には良い子だと振る舞い、良い姉を演じようとした。
我が儘や文句は口に出さないようにしていたし、お医者様の言葉に従ってベッドで過ごす毎日。
でも時折不安がどうしても誤魔化せない程に大きくなり、病室を飛び出す。どこか遠くに行きたくて。そんな時に言われた幼馴染みの男の子の言葉に私は確かに思ったんだ。
やっと一人ぼっちじゃないって。
だから『翡翠さん』も――――
ずきり、頭が痛む。
瞬いた閃光と共に真っ赤に染まる視界。
様々な単語が頭を巡る。
【アヴァロン】【精霊】【魔法】【三柱神】【女神ルーナ】【ジゼルヴァン王国】【祝福】【アウスヴァン公爵】【暁の神子と闇】
単語が点となり頭に散らばる。点は線となり最後の単語に行き着いた……。
【払暁のファンタジア】
それは私が大好きだったゲームのタイトル。
そして私が生まれ変わった世界そのものだった……。