Act.66 幕間[複雑な親心]
大切な人が居た。
大事な仲間たちが居た。
無情な現実に掌から零れ落ちる命に絶望の叫びを繰り返した。
嗚呼――それでも己は生きなければならない。
それが何より絶望をより濃くする。
進め、進め、前へと進め
後ろを振り返るな、前へと進め
呪いの様に言い残しては消える声。
同じように消えて行きたいとどれ程想い願ったか……。
見上げた月は変わらずそこで“世界”を照らしているというのに――。
**********************
それは朝焼けが世界を照らし出す時刻。
行方不明だった愛娘が見付かってから早三週間。
長く深い眠りについているルイの目覚めを今か今かと待ちながらアウスヴァン公爵家の当主ガウディは自室で一人の男と相対していた。
「……俺は間違っていたのか……?」
灰色の髪の毛をオールバックに纏め片眼鏡を掛けた老執事。
一片の隙も見当たらぬその姿に時の経過など見受けられない。
ガウディがこの世界に生を受けてからも変わらぬ姿を保ちアウスヴァン公爵家に仕える老執事――ゼルダは今の主を見つめ少しだけ苦笑を浮かべた。
「本当にそう思いですか?」
「否、しかし……」
「お嬢様の事を想っての発言ならば、今のお言葉は聞かなかった事に致しましょう」
仕方ない、と肩を竦めるゼルダはガウディの為に温かい紅茶を淹れて差し出した。
「余り思い詰めるのも良い事ではありません。ご心配なのは分かりますが、少しお休みになられて如何ですか?」
ルイは未だ目覚める兆しすら無い。
禁忌と呼ばれる古の魔術を使い延命治療を行っているが、それでもルイの身体が危機的状況であるのは変わり無いのである。
これで落ち着けと言うのは酷ではあるが、それでもルイが見つかってから三週間、ガウディは碌に睡眠も取っていない。目覚めを待ってほぼ徹夜同然でいる己の主にゼルダは休息を促すがガウディは首を振って拒絶した。
「そんな――」
「ご当主」
「うっ」
暇は無い。と続ける言葉を低い声で遮られた。
ガウディにとっては誰より信頼する執事の、そして己の師とも言える男の声はガウディの心に真っ直ぐと突き刺さる。
――分かってはいるのだ。
こうして心配でやきもきして待つよりもきちんと休息を取って万全の状態で娘の目覚めを待った方が良い事は。
寝不足でいる方が逆に娘に心配を掛けてしまうだろう事は。だけど……
「――大丈夫です。お嬢様はきちんとお戻りになられますよ」
「何を根拠に」
「これでもお嬢様が生まれた時から側に居りますからね」
事実、ゼルダはガウディよりも側にいた時間が長い。
ガウディも出来るだけルイの側に居るように空いた時間を見つけてはルイの元に通っていたがそれでもどうする事も出来ないことは多々ある。
僅かに浮かんだ嫉妬にじろりと睨む。
「俺だとてルイシエラの側に居たかった」
「それが出来ないからこそ我々が側に居るんです」
公爵家の当主としての役目、国の将軍としての役割。
国の重鎮として、古くから受け継がれる誇りの継承者としてガウディには数多の制約がある。
ただ娘を愛する父親としてだけでは居られないその立場はとても煩わしく思えた。
「俺はあの子を……政治の道具にするつもりは無い」
「分かっております。しかし、周りはそれを良しとはしないでしょう。我が国も、そして他の国々も」
世界中に名を轟かせるアウスヴァン公爵家。
建国の祖、初代ジゼルヴァン国王の兄たる血筋であり、女神ルーナとは縁深い血脈。
代々穢れを祓う炎を受け継ぎし勇猛なる騎士の家系はいつも世界中から注目の的だ。
そんな公爵家の一人娘であるルイシエラにもその目は向く。
女神ルーナの紋章を刻まれし祝福者。
強大なる魔力を受け継ぎ、その眼は全てを見通すと謳われる魔眼。
狂気の王と呼ばれる風の精霊王を従えし稀有なる姫君。
例え病弱だという欠点があっても彼女の利用価値は計り知れない。
しかも女という性別はそれに付加価値さえ付けるのだ。
これでルイシエラが男であれば話はまた違ってくるのだが……。
アウスヴァン公爵家と繋がりたい。稀有なるその力が欲しいと欲深い人間がルイシエラを求め。
そして女性の身であるためにやがては嫁いでいくだろうルイシエラの代わりに次代の公爵を産む役割を得ようとガウディ自身も狙われているのは公然の事実だった。
スーウェはルイシエラの出産の時、無理をし過ぎた為に次の子は望めぬと宣告されている。
ルイシエラが無事に産まれただけでも奇跡なのだ。
後妻や愛人の話が尽きぬ事はガウディ自身が憎々しく思っている。
「俺ではルイシエラを守る事は出来ぬのか……」
ルイシエラは神の祝福を受けし、女神ルーナの愛し子。
祝福者であるが故にその身を襲う禍から出来るだけ守りたいと願い思ったからこそ、屋敷に軟禁状態である事は否めない。
ルイシエラが自由に外に出れるのは屋敷の庭と裏手にある神域の森のみ。
自分が今のルイシエラと同じ歳の頃には領地中を飛び回っていた事を考えると随分と窮屈な思いをさせているのは理解している。
しかし、そう簡単に外の世界に出すのは余りにも事情が事情だった。
「それが貴方様の本心でしょうか」
カタン、と音を立ててティーポットを置き、ゼルダはガウディを見つめる。
その目はどこか悲しそうな色を滲ませるが、優しささえも宿っているようにも思えた。
「そう、だな。そうかもしれない、な」
その目が直視出来ずガウディは俯いた。
机の上に組んだ拳を見つめ、在りし日を思い出す。
嗚呼、昔、初めて弱音を吐いた時もゼルダは同じ目をしていた……と。
己の力の強さに、逃れられぬ運命に、その背負うべき“罪”の重さに弱音を吐いた時。ゼルダは同じ目をしてガウディを見つめていた。
「――あの子は、ルイシエラは、余りにも“知り過ぎている”……俺が教えたもの以上のものを。……我ら“ヴァンの一族”に関わる物事をあの子は知っている」
「それは女神ルーナからの“教え”なのではありませんか?」
「そう、だと思った。そう思いたかった。しかしそれにしてはあの子は“魔人”について詳しく、まるで……未来を知っているかの様な行動をする」
女神ルーナからの“教え”
それは“神託”などと呼ばれる事もあるが祝福者が神から知識を授けられる事を指す。
だがルイシエラが女神ルーナと邂逅したのはたぶん、祝福の覚醒を行った三歳の時のみ。
その時に知識を教えられたのだとしてもルイシエラの行動は不可解な点が数多くあった。
神だとて全ての知識を授けられる訳ではない。
古参である風の精霊王が側に居たのだとしても……彼女は余りにも全てを知り過ぎているのだ。
ガウディの中には一つの可能性が浮かんでいた。
しかしそれはガウディ自身が、国の守護の要である彼が決して認めてはいけない事柄。
今までは見て見ぬ振りをしてきたが、もう無視できない程にルイシエラの行動と知識は普通の祝福者とは異なる。
「俺は……将軍として、あの子を殺す決断はしたくない」
「ご当主……」
「だからこれからも何も知らないつもりだが……しかし、そうした所で俺はあの子を守れるのだろうか……?」
それはずっとガウディが抱えていた不安だった。
――ガウディ達が住まうジゼルヴァン王国には建国以来続く三つの公爵家がある。
世界最強の武威と誇りを受け継ぐアウスヴァン公爵家。
世界の知識と技を継承するティリスヴァン公爵家。
そして――世界の歴史と真実を語り継ぐヴァン公爵家。
この三つがジゼルヴァン王国の三大公爵家だ。
それぞれがそれぞれの役割と“罪”を持ち、脈々と続く血と誇りは神でさえ変えることの出来ぬ宿命を持つ。
そんな三大公爵家の中でも筆頭であるアウスヴァン公爵家はとても、とても特別な存在だ。
それはジゼルヴァン王家と系譜を同じくするが故に、そして最も“ヴァンの一族”の特徴を受け継ぐが故に。
【ヴァンの一族】とは神の一族とさえ言われている。
神々がまだこの世界に大勢存在した神代の時代の遺物であり、世界最大の大罪を背負う一族。
神の力の片鱗を宿し世界の調停を担う監視者。
今やもう知る者すら数少ない伝説の一族の血は確かにアウスヴァンの中に流れている。
「我らは決して間違ってはいけない。もう二度と、だ。だからこそ……俺はあの子を外に出す事は出来なかった」
ガウディだって馬鹿ではない。
言葉にされずとも状況を見て察する事ぐらい出来る。
己の子が――“転生者”である事ぐらい。
だが、だからこそ外の世界に出す事は尚の事出来なかった。
転生者が引き起こした様々な悲劇を知るが故に。
歴史に埋もれた真実以外を知るが為に。
本当ならば世界を守る為に殺さなければならないのだから……。
「ティリスヴァンは黙認してくれるだろう。ジゼルヴァンも然り。だが――ヴァン公爵家だけはこの事を許しはしないだろう」
「……仰る通り。かの家は“審判”の役目を担いますから」
「あの家から既に監視者が何人も来ている……全員追い返しているが、これからも全てを跳ね除ければ奴らもやがては勘付く」
それはガウディが、そしてアウスヴァン公爵家の暗部がひっそりと行っていた。
女神ルーナの祝福者を監視する為に秘密裏にヴァン公爵家から向かわされて来た奴らを他の暗殺者と一緒に処理して来た。
ルイシエラが何者であるか、それを知られない為の苦肉の策。
噂を否定する事なく沈黙を守っているからこそまだ猶予はあったが、それももう限界に来ている。
「あの子が、幸せになれるのならばどんな罪をも背負うと思っていた。健やかに育ち、辛い事も苦しい事も無いように、ただ――何気無い日々を笑って過ごせるのならばと……」
例えルイシエラが転生者であろうが、祝福者であろうが、ガウディにとっては可愛い可愛い我が子だ。
血を分けた愛する愛娘なのだ。
しかしそんな日々を許さないと言わんばかりにあの子を襲う数々の事件。
やっと健やかに過ごせるのだと思った矢先に彼女の最も近しい理解者は長い眠りにつき、不安定な心を持ったまま最悪の光景を見せられ、魔人と関わり、心許した者も今は遠く離れた場所にいる。
そんな中で得た絆はかけがえの無いものだが……それはあの子を本当に助けるものなのだろうか?
そして、ルイシエラは人知れず姿を消しては無残な姿で帰ってきた。
闇に染まった魔獣に背負われながら……生死の境を彷徨う我が子にできたのは禁忌の魔術による延命のみ。
長い眠り付いた彼女がいつ目覚めるのか、それは誰も分からない。
ガウディがルイシエラの存在をひた隠しにして来た罪は既に決まっている。
だが、それであの子を本当に守れるのか?
これから先、あの子には辛く苦しい未来が待っている。誰もが想像すら出来ないような非情な現実が……ならば寧ろ今ここで……
「……余り思いたくは無いが、それでも、どうしても、神を恨み憎む感情が止まらないのはどうすれば良い……?」
「ガウディ様」
「どうしてあの子なのだと、何故あの子で無ければならないのだと……神を憎む俺はアウスヴァン失格なのだろうな……あの子だって寧ろここで死ん――」
「――ガウディ!」
「っ」
つらつらと懺悔の様に言葉を吐くガウディにゼルダの怒鳴り声が落ちる。
敬称も敬語も無い言葉はいつものゼルダとは真逆の感情を露わにしていた。
「いい加減にしろ」
「っ、だが」
「私は言ったはずだ。言葉とは呪いの呪文。吐く言葉はよくよく考えろと」
顔を上げたガウディは目の前のゼルダを見て息を飲む。
「心の中で思うならば止めはしない。だが言葉にするなと私は言ったはずだが?」
そこは憤怒を宿した瞳でガウディを睥睨する一人の男。
「――お前も闇に堕ちたいのか?」
それはアウスヴァンに仕え、そしてアウスヴァンを導く役目を負う者。
「ガウディ……お前の気持ちは良く分かる。親として我が子を守りたいと思う気持ちは決して間違ってはいない。だが、それでただ嘆く事しか、お前は出来ないのか?」
灰色の瞳の中に揺らぐ鮮血の光。
「違うだろ?私はお前をそんなやわな男に鍛えた訳では無いはずだ。――お前は何者だ」
見据えられた瞳にガウディは動けなかった。
初めて見るゼルダの激情に瞬きさえも出来やしない。
心から震える手を握り、ガウディはただ己が師を見つめる事しか出来なかった……。
低い、とても低い声は唸る様にガウディに問い掛ける。
「答えろ――“紅蓮の名を背負う者”よ」
「っ俺は!」
「その名を戴いた時を思い出せ。なんの為にお前はその座を、その役目を継承した?」
神々により定められた誓約に従いアウスヴァンの名を継承した時。ガウディは一つの誓いを捧げた。
「“大切な者達を守る為に”……お前はそう言ったな。その為には手段を選ばない、とも。」
ガウディは強大すぎる力にも臆することなく常に立ち向かって来た。
周囲に恐れられる力を己の意志で捻じ伏せ、自分自身さえも燃やしかねない焔を水の精霊王という偉大な存在を従える事で制御してみせた。
どんな絶望的な状況でも己の焔で切り開き、照らし出すガウディを人々は【紅蓮の獅子】と恐れ敬った。
そんな彼が唯一零した弱音。
アウスヴァン公爵家という名ばかりでは無く、その志を、誇りを、そして罪を背負う重圧に彼は自分の進む先を惑った。
だが、零した瞬間、ガウディを襲ったのは一つの固い拳だった。
『ふざけるな』
そう拳を振り抜いたのは目の前の男。
いつもは立派な執事然として主を立て、影に日向にガウディに生きる術を教え、支えてくれた師匠は今の様に敬語も無く言葉少なにガウディを叱った。
「『己の心を偽るな』」
「っ!」
過去と現在の言葉が重なる。
「『考えに縛られるな。周りに惑わされるな。大事なのはお前が何を望むかだ』」
「俺はっ」
「『その答えはもう、お前の中にあるはずだ』」
すとん、と心の中にゼルダの言葉が入り込む。
その言葉に余計な事は排除され、心の中に残るのはただ一つ――
「俺は――俺はあの子に生きて欲しい。辛く苦しい現実に絶望を抱き、その生に意味を見出だせなくなったとしても、それでも俺はっ生きていて欲しいんだっ!」
――その時、ガウディの身体に刻まれた紋章は熱を帯びる。
「っつ!?」
腕に刻まれた精霊王との契約印が、そして神との誓約に刻まれた心臓の刻印が仄かに熱を帯びて浮かび上がる。
服の上からそれを感じガウディは驚きに肩を揺らした。だが疑問が浮かぶよりも早く感じる――その目覚めを……。
「が、ガウディ様!ルイシエラ様の居られる地下室が!」
バンッ!と慌ただしく開け放たれた扉から飛び込んできたのは地下室を監視させていた暗部の者。
焦燥と驚きの表情を浮かべる部下にガウディは考えるよりも早く部屋を飛び出す。
「お、お待ち下さい!ガウディ様!」
大きな体では想像も付かない程に素早い動きで廊下を駆けていくガウディに慌てて部下も追いかけて行った……。
そんな一瞬の出来事で一人部屋に残されたゼルダは呆れたように軽くため息を吐いた。
「やれやれ、相変わらず猪突猛進なのは否めませんね」
先程までの怒りなど無かったかのようにいつも通りのゼルダに返る声など無い。
飲まれることなく冷めてしまった紅茶を下げ、ゼルダは部屋の壁に掛けられた一枚の絵を見上げた。
「――まったく、誰に似たのやら」
くすりと笑みを浮かべるゼルダ。
その目が見つめる絵には一つの家族の光景が描かれていた。
肖像画は苦手だと頑固な男の所為で書き手を探すのに苦労して、仕方無く無名の絵描きに描いてもらった一枚の絵。
そこには幼いガウディと一人の少年と二人の男女。
ガウディに似た髪色の男は豪快に大口を開けて笑い、それに苦笑した様子の女性はガウディによく似た目元をしていた。
中庭で、四人で地面に座り込んだ場面を切り取ったかのような絵。
小さなガウディは一人の少年を膝に乗せてご満悦の表情。そんな少年は少しだけ唇を尖らせて不満そうな顔。
それは遠く昔の光景。
今はもう二度と見ること叶わぬ光景を閉じ込めた絵を眺めゼルダは寂しげに目を伏せた。
既にこの世にいない故人を偲び、ゼルダは暫しの間沈黙する……。