Act.56 [そして新しい物語が始まる]
それはこれまでの未来には無かった始まり。
幾つもの未来の分岐を経ても、その現在には至る事が無かった。
幾千、幾万の“もしも”がある未来において、その約束は決して結ばれる筈が無かったのだ。
だが、その約束は今、確かに結ばれた。
――さぁ、新しい未来の道が今始まる……。
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「うん、分かった」
――そう言って真剣な表情で頷く少女を見つめ、リドは心の中に安堵が広がるのを感じた……。
伝えた覚悟。しかしそれは彼女の表情を暗く染めた。
輝く瞳から光が失われ、失望の色に染まる。
何が彼女の心を凍らせたのか、分からない。
だが、どうしてもこの覚悟だけは王や将軍ではなく、“ルイ”に受け取って欲しかった。
自分の事を彼女がどう思っているのか知らない。でも嫌われてはいないと確信はあった。
リドは思う。
公爵令嬢として周囲に守られ安寧に包まれた日々があるにも関わらずルイはその箱庭から飛び出す事を望んでいた。
女としての幸せも、貴族としての安定も振り払い、ただ何かを望んで突き進む彼女。
辛い現実に自ら望んで飛び込み、その中で必死に抗うその姿は、決められているだろう未来を変えようともがいているようにも見えた。
だからこそ、リドは彼女を守りそして支えたいと思ったのだ。
同じ祝福者だからとか、公爵令嬢だからとか、そんな事は関係なく。
もし、ルイがただの平民で祝福者じゃなくてもリドは絶対同じ想いを抱くだろうと確信している。
だから、だから、どうか受け入れて欲しいと言葉を重ねる。
他でもない。“ルイ”にこの覚悟を、思いを、受け取って欲しいのだと。
強張り、血の気が引いて冷たい指先に額を当て俯く。
伝わればいいと。神に祈る気持ちで希う。
それからどれ位の時間が経ったのか。
あまり時間は経ってないはずなのに、リドには長く感じられた。
握った手に込められた力。握り返された手に顔を上げる。
そして、リドは見た―― 一筋の涙を零しながらも頷いてくれた一人の少女を。
輝きを失くしたその瞳には喜びと覚悟の色が宿る。
真っ直ぐ前を見つめた決意の表情。
凛として立つルイにリドは何度目かの想いを抱いた――。
*
「リド、剣を」
「っああ!」
手を離し、一歩だけ下がるルイはリドの持つ剣を望む。
「ルイ、ありがとう」
「ううん、私こそありがとう、だよ」
鞘の部分を持ち、ルイに剣の柄を差し出す。
万感の思いを込めて感謝の言葉を口にすれば、ルイは柔らかい笑みを浮かべた。
緊張からか深呼吸を繰り返すルイは手に力を込め、そして――剣を抜く。
しゃらり、刃が抜かれ茜色を反射する黒い刃。
美術品のように美しい刀身を見つめルイは息を飲む。それはその剣に込められた闇の力を感じてか、思ったよりも軽い剣を見てか、定かではない。しかしルイの瞳は疑問と問い掛けに一瞬だけ揺らいだ。
だが、一回だけ眼を閉じ、そしてリドを見据えた時には揺らぎなど幻だったかのように強い光を湛えていた……。
ルイを取り巻く空気が変わるのをリドは肌で感じる。
自分よりも小さな身体の筈なのにその存在感は自分がちっぽけに思えるほどに強く、大きい。
この国、ジゼルヴァン王国の三大公爵家が一つ。武を司り、国の剣を担う将軍家。
民の盾であり、国の守護の要であるアウスヴァン公爵家の次代は覇気すら纏わせ、その小さな唇を開く――。
「『――汝、リカルド・ルーガ……その覚悟を持って、騎士の忠誠の儀を望むか?』」
「はっ!」
頭を下げ、首をさらけ出す。
右手の拳は地面に付き、跪くリドは強く、強く思いを込めて返事を返した。
今や形骸化した儀式を本当のものとする為に……。
「『その覚悟、決して違える事は許されない。引き返す事の出来ぬ茨への道……今ならまだ間に合うが?』」
「いいえ。覚悟はとうに出来ております」
「『……ならば汝に問いかけん』」
忠誠の儀式に必要なのは固い決意と命を懸ける覚悟。そして魔法の力が込められた武器。
それ故に忠誠の儀式を受ける者は神に認められると一つの加護を得るのだ。
だが、その代償は重く、進む道は険しい。だからこそ、今や形式だけとなった儀式だった。
しかしリドは本当の儀式を望む。
リドの肩に黒い刀身が当てられる。
震えること無く堂々と当てられた刃は鋭く、少しでも動けば簡単にリドの首を切り落とせるだろう。
それは脅しであり、断罪の刃。リドの覚悟に少しでも怯えがあれば、問われる言葉に嘘を吐けば、即座に首を跳ねるという審判の剣。
奇しくもそれは祝福の紋章が刻まれた左側だった……。刃の重さを感じながらもリドは頭を垂れる。
「『――汝、何事にも謙虚であり、如何なる者にも誠実であるか。
礼儀、礼節を守り、人を、仲間を裏切ることなく。真実を、己の心を、欺く事は許されない。
弱者には常に優しくあり、強者には常に勇敢に――。己の品位を高め、覚悟を胸に堂々と奮い立つか。
汝、民を守る盾であり、主の敵を穿つ矛。――騎士であるその身。誰に誓うか?
《ルイシエラ・ロトイロ・ヴァイス・アウスヴァン》が見届ける――答えよ!』」
それはまるで絵画の一場面のように荘厳で厳かな雰囲気の中、覚悟の審判は為された。
女神ルーナ像の目の前。証人は礼拝堂に住まう精霊だけ。
二人だけの儀式に息を飲んでリドはゆっくりと顔を上げる。
強い意思を秘めた赤紫の瞳を同じくらい強い意志を込めて見返す。
言葉はもう、決まっている――。
「――俺の《暁の光》に、誓います。朝の訪れを知らせる朝焼けの耀きに。闇を振り払い、この世界に再び平穏と光ある夜明けをもたらすことを我が名、我が魂の全てを懸けて――今ここに誓う事を宣言する!俺の名は――《リカルド・ヴァナルガンド・ルーガ》神殺しの名を受け継ぐ者!今ここに忠誠の証を!」
その瞬間――剣は目映い光を放つ。
「っ!」
熱い。
リドは刃が当てられた左肩が熱を持つのを感じた。
だが、その熱さに顔を歪めてもその瞳はルイだけを見つめていた……。
刀身の光が線となる――描かれるのは花咲く蕾と照らす太陽と月の印。そしてそのトワイライラの紋章を取り囲む様に茨の意匠が足されては刻まれる。
光は刀身を伝い、リドの左肩に吸い込まれるように移動する。
忠誠の証は確かに刻まれた。黒い刀身に白い線で描かれた紋章は同じくリドの肩にも刻まれたのだろう。
すぅと微かな燐光を空中に残して光は消えていく……。
それを最後まで見届けルイは剣を下ろす。
「『――誓約は確かに見届けた。汝、騎士の誓いを穢す事なかれ。その魂の誓いを違える事なかれ。その行い、その心、神は全てを見通し、常に審判を下す。忘れるな。汝が誓いし心。曇らせること能わず、背を向ける事、赦されはしない』」
「はっ!」
「『――忠誠の儀を今ここで見届けた事を宣言する!』」
ルイの声が礼拝堂の中に響き渡る――。
そうして忠誠の儀式は無事に終わりを迎えた。
忠誠の証が刻まれた肩が痛むのか、痛みに耐えるように顔を歪めるリドを心配そうに顔を覗き込むルイ。
だがその時――祭壇に置かれた物が一際強い光を放った。
「えっ?!」
「ルイ!」
剣に灯った光など目じゃないくらいに眼孔を刺すほどの強い光。
それはルイの指輪から放たれた光だった……。
余りの眩しさに目を瞑る。リドは咄嗟にルイの手を引き、庇うように懐に抱き込んだ。
――それからどれくらいの時間が経ったのか、祭壇から目を背けていた二人は弱まった光にそっと目を開ける。
「な、何で?」
「分からない」
何回か瞬きをするが、余りに強い光を見たせいか視界にはまだ光がちらついていた。
恐る恐る指輪に近づく二人。
「これ……」
「何で、指輪にトワイライラの紋章が?」
熱を持っているのか、ゆらゆらと立ち上る陽炎の中、赤の揺らめきに抱かれたその指輪の石には花開く蕾と太陽と月の紋章――狭間の神トワイライラの証が刻まれていた。
忠誠の儀式では、儀式を受けた者に刻まれる筈の紋章。
誓約の神でもあるトワイライラの印が確かに指輪には刻まれていた。
「これ……」
「ルイっ!」
何かに導かれる様に、ふらふらと指輪に近づくルイ。慌ててリドが制止の言葉を叫ぶがルイは聞こえていないのか、そっと指輪を手に取った。
その瞬間、今度は優しい金色の光に包まれる指輪。
トワイライラの紋章の上に重ねて浮かび上がるのは、欠ける三日月と零れ落ちる雫。それらを囲む月桂樹の葉の紋章――女神ルーナの印。
「何が起こっているんだ……?」
「……祝福、された……?」
「ルイ?」
ぽつり、指輪を持って呟くルイ。
しかし、ルイは指輪に向けていた目を今度はリドに向けて見つめる。
どこか夢現に揺らぐ瞳。
だが、その手はそっとリドへと差し出された。
「リド……指輪を」
「?持てば良いのか?」
差し出された手の上には今だ女神ルーナの紋章が浮かぶ指輪が。リドは疑問符を浮かべながらも指輪を受け取った。
そして今度は緑色の光を灯して浮かび上がるのは――芽吹く葉に空昇る太陽。交差する二本の剣が描かれた大地の神イカリスの紋章。
この世界を守り、支える三柱神の紋章がそれぞれ浮かび上がる。
何故?と疑問だけが尽きない。だが、その指輪は確かに三柱神の力が込められていた。
「ルイ、これは……?」
「私も、分からない。でも三柱神から祝福を、受けたのは分かる、けど……」
なんで?と口の中で問い掛ける。
再び手の中に戻った指輪を見てルイは首を傾げる。
先程の忠誠の儀式がきっかけなのか、リドの言葉がきっかけなのか、どちらにせよ分かるのは三柱神の力が込められた事。そして先程まであった疲労感が無くなった事だった。
ルイは指輪を見つめ、暫しの考えに没頭するが――それを止める鐘の音。
「あっ!」
「もうこんな時間か!」
カーンカーンと鳴り響く鐘の音は夜の訪れを知らせる音色。
いつの間にか礼拝堂は夕暮れではなく夜の色に包まれていた。
月明かりに薄暗い室内。その鐘の音で時間を知り慌てる二人。
明らかに門限は過ぎている。折角、汚れた服を着替えたのに、こんな時間まで帰らないとなればどちらにせよ外出禁止されるのは目に見えていた。
どうするか、少しばかり逡巡に目を合わせる二人は取り敢えず問題を先送りにすることを決めた。
「ルイその指輪も持っていくのか?」
「うん、一応」
忘れ物はないか、と確認している中、大事にハンカチにくるむものを見てリドが問い掛ける。
指輪はもう光ってはおらず、それぞれの紋章が重ねて描かれたまま沈黙している。
ポケットが無い服なのかルイはハンカチに包んだ指輪を手に持ったままリドの後を追いかける――。
ぱたんと軽い音を立てて閉まる礼拝堂の扉。
残されたのは月明かりに照らされた銅像と……いつの間にか姿を現した闇の精霊。
しかしその姿は風の精霊王を彷彿させるかのような成長した青年の姿。
全身に闇を表す漆黒を纏わせ、彼は唇を開く。
『――新しい道が今、開かれた』
《――そうね》
ぽつり、誰にも聞こえぬ深い声に美しい声が相槌を打つ。
――闇の精霊王たる青年は背後の銅像を見上げた。
『これは貴女が?』
それは女神ルーナの銅像。後ろに背負うステンドガラスからは月明かりが礼拝堂を照らしていた。
だが、青年が眼を向けるのは銅像の隣、薄く透けた姿で浮かび上がる美しい女性――女神ルーナは意味深に笑う。
《いいえ、これはあの子が望み、掴んだ未来。私の力が及ばぬ事よ》
『そうか……』
《あの子達が心を重ねなければ、覚悟を決めなければ道は途中で無くなっていたかもしれない。これは奇跡なんかよりももっと奇跡な事》
『それはもはや運命とも言えるかもな』
不遜に告げる闇の精霊王にクスクスと現世に顕現した女神は笑い声を立てた。
《お陰で貴方の力も取り戻せたわね?》
穢れた闇に侵され、浄化を受けてもなお、ただの精霊としか成れなかった闇の精霊王は無表情に淡い笑みを浮かべる。
――リドに授けた剣は彼の王の魂を削って作り上げられたものだった。
形こそはリドの魂を使ったが、それでも力の大本は彼の命を削って作られている。その為、闇の精霊たる彼はあと少しの命だった。
それを後悔する事は無いし、彼は死ぬ覚悟を持ってリドに力を授けた。
だが、リドが忠誠の儀式を受けた後、力が蘇るのを感じた。
契約を成したわけでも無いのにも関わらず、ただの闇の精霊となってしまった彼はその頂点である王としての力を取り戻したのだ。
それもまた、奇跡とも言えるだろう。
『あれはあの子に幸をもたらすか?』
《それはあの子次第、でもあの子には彼が側で見守ってくれているから――大丈夫よ》
『ああ、始まりの男か』
《彼には頭が上がらないわ――ヴァンの血の絶やさず見守る守り人として、彼らを導き、支えてくれているのだから》
『あいつが望んだ事だ――例え半身がいなくてもその子らを、子孫たちを守る事をあいつは望み願った』
《そうね。だからこそヴァンの血を引く者は道を踏み外す事が無い。彼の辛さと望みを知っているから……》
女神は天空に目を移す。
脳裏に描かれるのは美しい黒髪の少女とその側で生涯離れること無く、支え共に生き抜いた青年の姿。
青年は年を経ても彼女を想う心を曇らせること無く、今もずっと想っている。そしてこれからも――……
願わくば、この新しい未来が彼女の、彼らの幸福を掴むための道であることを――女神ルーナは微笑みを残して空中に消えていく。
『……無理をするからだ』
闇の精霊王たる彼は消えていった女神を見つめ言葉を放つ。
女神ルーナはその力を著しく損ねている。それは穢れた闇が世界を覆い始めているせいで。
それを食い止めようと力を使った闇の精霊王も、穢れた闇に侵されたのは計算が狂ったが、それでも奇跡が彼を再び王として成すのならばやる事がある。
『――忘れるなリカルド・ルーガ、彼女もまた俺達の希望なのだと……』
とうに去った少年の後ろ姿を見据えるように闇の精霊王は言葉を紡ぐ。
『あの子らの未来に幸多からん事を――』
その言葉を最後に闇の精霊王もまた姿を消していく――
新しい未来の訪れを喜びながら……。
――カチリ、カチリ、音を立てても進まぬ秒針。
止まった時計を見上げ男は琥珀色の液体を飲み込んだ。
目の前には所狭しと並ぶ数多の時計。
様々な形状と音を立てる時計達は全てが同時に時を刻む針の動きを止めた――
『新しい刻が始まった……?』
ぽつり、暗闇に包まれた部屋に深い声が静寂を破る。
《ほぅ、それはどんな刻だ?》
男の声に尋ねる声。
男にも女にも、年寄りにも若い声にも聞こえる声は男に一つの疑問を投げ掛けた。
しかし男は無言を貫く。
不思議と暗闇に浮かび上がる時計達。
くつり、喉を鳴らし男は嗤う。
『――見に行く価値はあるか』
くつり、くつり、喉を鳴らして笑う。嗤う。
琥珀色の液体が注がれるグラスを手で遊び、男は――魔を束ねる一人の男は時計を眺めて呟いた……。




