Act.52 [初めての喧嘩]
昔、昔、遥か昔のお話――
世界を創った三人の神々は世界を守護し、見守るために自らの力を授けた獣を世界に遣わせました。
神の力の片鱗を宿す獣は[神獣]と呼ばれそれぞれが気に入った地を住処とし世界に根付きます。
そしてそんな神獣の一体。
神をも殺せる力を授けられた[銀狼]は人に寄り添い人と共に生きる道を選んだのです。
長い、長い年月は人にも神獣にも等しく平等に訪れます。
そんな移り変わりゆく世界と時代に人はいつしか銀狼の事を忘れていきました。その血を引くもの以外は――共に助け合い、生きていた仲間を忘れてしまったのです。
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私は目の前のその姿に目を瞠った。
前世でよく見た昔の人狼の絵姿に瓜二つなリド。その瞳は綺麗な夕焼け色の筈が赤が薄まり金色に底光りする。
無意識に名を呼び、一歩踏み出した瞬間――ぞわりと怖気が背筋に走った。
「ガアァアアア!!!」
「っ!」
リドが叫び、考えるよりも早く横に飛ぶ。
受け身も考えずに地面を滑る身体に押し潰され散っていく花弁を目の端に映しながらも私の視線は彼から離れることは無かった。
「グルルルルっ」
「リド!」
さっきまで私の居た所に振り下ろされた拳。
リドだってまだ子供なのにも関わらずその力で地面はヘコみ、花が潰され、小さなクレーターが出来ていた。
もし避けれなかったと考えるとゾッとし嫌な汗が背中を伝う。
躊躇うこと無く振るわれた暴力に、手加減の無い力に、冷や汗どころではなく身体の芯から恐怖に震える。
でも、でもっ!震えるな足!!動けっ身体!
怯えるくらいだったら少しでも動け!と恐怖に支配されそうな心を叱咤し私はリドの首元にしがみ付く。
「グルァア!!」
離せと言わんばかりに形振り構わず暴れるリド。
リドの背は私よりも幾分か高いため暴れると同時に私の足は地面から離れ宙を舞う。
ぶんぶんと振り回される自分の身体。遠心力に飛ばされそうになるのを必死で堪える。
ビリビリと布を引き裂く音が聞こえるのはリドの爪か何かに服が引っ掛かったのだろう。どこか見た事のある布の切れ端が視界の端をチラつく。
それでも絶対離すもんか!と腕に力を込めた。
「リド!大丈夫っ大丈夫だから!」
声を掛けつつも顔を上げリドの瞳を覗き込む。そんな血走る瞳に怯える自分の姿が見えた。
――恐ろしい、怖い、と心の小さな私が震える。その力が、その本能が、獰猛な牙が怖い。狂暴な本性が恐ろしいっ。
でも!それでも!彼は私の大切な人なんだ!!
「リカルド!目を覚まして!飲まれては駄目っ思い出して!」
必死に手を伸ばして首元から無理矢理頭を抱き込み抑え付ける。
「私を思い出して!皆を思い出して!貴方は独りじゃないんだよ!」
自分自身を、受け入れてくれた人々を、仲間を、忘れないで、獣に心を奪われないで!
どうしてリドがこんな姿になってるかなんて知らない。
なんで理性を無くしてしまったのか知らない。
それでも!彼を助けられるのは自分だけだと確信を持って彼の頭を抱き込む。
「リド、リドっ私の大切なリカルド!どうか、お願いだからっ自分を――消してしまわないで!」
もしかしたらこの獣だってリカルドの心の一つかもしれない。
とても恐ろしい獣だけど、それでも彼も同じリドならば私は受け止めよう。
怖いと思うならば共に居よう、寂しいなら手を繋いであげる。悲しいならその涙を拭いてあげる。
だから、どうか心を分けないで。獣のリドも人としてのリドも同じリカルドなんだから。
「リド!」
お願いだからっ!と抱き締めた手に力を込める。
するとそれに反応するかのように光る祝福の紋章――。
――祝福を――……
「っ!?」
――共鳴を……
頭の中で聴こえた声に従って右手をリドの首元に当てる。
――思い出して……貴方は女神の愛し子――
「っリド、大丈夫っ絶対助けるから!」
鳴り響くように微かに反芻を残して消えていった声。
無数の疑問は置いといてリドを〝視る〟
リドを取り巻く魔力。それは暴れ、身体からも揺らぎながら立ち上る。
それはリドの明るい橙色の魔力とレイディルの銀色の魔力が混じり合いながらも反発していた。
もしこれがリドの変身の原因ならばっ!
どうすれば良いかなんて考えない。ただ本能に、身体の意志に身を任せる。
私の紋章に反応してか、リドの首元の紋章も毛並みの間から光を漏らしつつ浮かび上がった。
それに紋章同士を重ね合わせ目を瞑る。
深呼吸をして集中――。
ドクドクといつもより早い鼓動。右の手の平に感じるリドの温もり。
そして視覚を閉じたからこそ頸動脈から感じる脈の拍動。
ドクドクドクと私の鼓動とリドの鼓動が重なり合った――その時。
ぶわりと霞がかる意識。それはまるで私自身が傍観者になったかのような意識。
勝手に動く身体。言葉を発する口。それは私のようで私ではない感覚……。
そして紡がれたのは――日本語だった。
【――リカルド・ルーガ。戦いの神の、愛し子よ……未だ目覚めの時は来たれず。今はまだ、眠りの時。さぁ――眠りなさい……必要なその時まで】
「ガルルルルっ」
ゆっくりとリドと目を合わせ互いの額を重ね合わせる。
先程まであんなに暴れていたリドは嘘のようにただ大人しくされるがままだった……。
仄かに明滅を繰り返す紋章。
段々と静まっていく呼吸と鼓動。
その頃には私の意識は元に戻り、いつの間にか私は「私」になっていた。
それはまるであの翡翠さんが眠りについたあの時と同じ感覚――
疑問は次々と思い浮かぶが今はそれ所ではないと意識の端に追いやる。
見つめるのは狼の顔をしたリドの瞳。いつもよりも光を反射し底光りするその瞳を見つめ、目を伏せる。
暴れないといっても一向にリドの姿は変わらず、吐く息は強い。
「リド……帰ってきて」
ぽたり、彼の鼻先に私の涙が零れ落ちた……。
そして次の瞬間――私は目の前の光景に息を飲む。
それはまるで光の繭が解けるように。
彼の身体を覆っていた魔力が引いていき身体に収まっていくのが視えた。
毛並みは肌に、鋭い爪は短くなり、鼻先も元に戻っていく――。
そして……。
「る…い……」
「リド!」
――そこには人の身体に戻ったリドの姿があった!
きつく抱き着いていた腕の力を緩めリドの顔を覗き込む。
しかしその顔は青を通り越して真っ白で、その目は苦しそうに歪んでいた。
「リド?どうしたの――」
どこか痛いのか?と尋ねようとした言葉。しかしそれは悲痛なほどの声で遮られた。
「っ俺の事よりお前だろう!?」
「へ?」
「そんなっボロボロで!おれの所為でっ!」
ぐしゃり、とリドの顔が泣きそうに歪む。
「ごめん!おれはっ俺はまたあの時と――」
同じ過ちを――そう言うリドだが私の頭の中は疑問符が一杯だった。
だけど、それよりも――
「ていっ!」
「いっ!?」
ゴツッと鈍い音が私たちの間で鳴った。
互いに痛めた額を押さえて蹲る。
くぅ!意外にリドってば石頭なのね!
絶対赤くなってる。と確信を持ちながら打ち付けた額を擦りながらも段々と湧き上がる感情に目を吊り上げる。
「馬鹿リド!ばかばかばかばーか!」
「なっ」
突然の罵倒にぽかんと呆けるリド。でもそんなの知らないもん!
「馬鹿、ホントに馬鹿だよリド。なんでそんなこと言うの?馬鹿じゃないの?!なんであんな危ない事したの?一人で大丈夫って思ったの?もぅ!馬鹿じゃなくてアホじゃない?!」
相談も無くあんな事やって、結局危ない目にあって元に戻らなかったらどうするつもりだったの!?
もぉお!!!と怒りの声を叫びリドの頭をガシッと両手で掴む。
「え、ちょ、ルイ?!」
「なんで、一人でやるの?私はそんなに頼りない!?それとも一人で出来るとでも思ったの?自分が犠牲になればいいと思ったの?!――力になりたいと思う人間がいるのに!?」
「っ!」
多分今生で一番の激情に怒り狂う。
私は怒っている。それはもう本当に怒り狂ってる。リドの事情なんて知らない!一人じゃないんだとあれ程言ったのにも関わらず一人で事態を収めようとしたリドに本当に怒ってるんだ。
それは危険な事をしたリドに対する心配から、そして頼られなかった悔しさから。
――そうだ、私は凄く悔しいんだ。あんなに大事だって言ったリドが自分の事を犠牲した事も、相談も何もなかった事に。
だけど、掴んだ両手が今度は逆に強く掴まれる。
「ふ――ふざけんな!!そう言ったらルイだってそうだろ?!一人で何でもかんでも無理して無茶して怪我ばっかして、お前だって人の事言えないだろうが!」
「はぁあ!?なに今度は自分の事は棚上げなの!今そんな話してるんじゃないんですけど!!」
「同じ事だろう!?いっつもお前は怪我ばっかして、会う度に怪我してんなよ!!」
「別にそれは私の所為じゃないから怒られる筋合いないんですけど!」
売り言葉に買い言葉。
互いにヒートアップした感情は止まることを知らず、 言葉も荒くなっていく。
しかし、それもリドの発言に思考が止まる。
「俺だって――俺だってお前を守りたいのに!!」
「へ?」
「仕方ないって分かってるけど!俺だってお前を守りたいし支えたいって思ってんのに……どうしょうもない事だって分かってるけど!それでも俺だってなぁ!守りたいんだよ!なのにお前は何でもないって顔して笑うし、愚痴は言っても弱音すら吐かないし、なんだよ、何なんだよ、くそっ俺はそんなに頼りないか?相談する事すら値にしないのか?なぁ?」
いや、ちょ、待って!
まってまって待って!!それ今とんでもなく爆弾発言だから!!
カァと顔に血が上る。
一体全体どうしてこうなったと内心頭を抱える。
気が付けば互いに両手を握り合い、睨み合っていた所為かめちゃくちゃ近い距離のリドの瞳を見つめる。
「あ、いや、あの」
「なぁ、ルイ……俺はお前の支えになれないのか?」
元に戻った綺麗な夕焼けの瞳に真っ赤な顔の私が映る。
リドが無理をした事を責めていたのに一体全体どうしてこうなった。
「側に居たいとか身分不相応な事は望まないから……だから、頼む。たとえ遠くてもお前を、お前の〝心〟を守らせてくれ。頼りないかもしれないけど頑張るからさ。頼むから支えさせてくれよ……」
「リド」
「頼む」
くしゃり、泣きそうに歪む表情。
お願いだからと口にしつつも私の肩に頭を乗せるリド。
それにさっきまであった怒りの激情が静まっていくのを感じる。
っていうかそんな風に思ってたんだ……思って、くれてたんだ……〜〜っ!
段々とリドの言葉の意味を咀嚼して理解する。そして浮かんだ感情は――歓喜。
今の私は随分と腑抜けた表情をしている事を確信している。口元がゆるゆるで吊り上がっていた目尻がかつて無いほど下がっているのが分かる。
嗚呼、馬鹿だなぁ。ばかだなぁ……私達。
「――バカだなぁリドは」
「あ?」
「ばかだよ。リドもそして私も……」
「ルイ?」
リドの頭を抱えて私もリドの肩に頭を乗せる。甘えるように擦り寄ってもリドは拒絶しなかった。それをいい事にグリグリと頭を擦り付ける。
「馬鹿みたいだ私達」
「……そうだな」
何が、なんて言わなくても通じてくれたみたいでリドも強ばっていた身体の力が抜けていくのを感じる。
本当、馬鹿みたい。
お互い同じ気持ちで、守りたい、支えたいって思っててなのに頼ってくれない相手に悔しくて悔しくて。
お互いボロボロな見た目で初めて口喧嘩して、そして分かり合って。
色々複雑な気持ちでいっぱいだけど。
ただ笑える程、気持ちが同じ事が嬉しいんだ。
「リド、余りこういう事は言っちゃいけないかもだけどね」
「うん?」
「私、リドに一番甘えてるんだよ?」
「ルイ……」
「父様でも母様でもなくて、ベルンやヨルムじゃなくてね……リドに一番、甘えてるんだ」
立場的に考えればこんな事思ってても言葉にしちゃダメかもしれないけど。それでも心を吐露してくれたリドに告げる。
「リドだけなんだよ?私を――〝ルイシエラ〟じゃなくて〝ルイ〟って見て、呼んでくれるのは」
この気持ちをどう言えば伝わるだろうか。
前世の記憶を持つ私がいつも抱いていた寂しさや悲しさ、申し訳なさをひっくるめてリドの存在一つで歓喜に震えるこの心を。
公爵令嬢のルイシエラではなく、ただのルイを、私を心配して怒って守りたい、支えてたいって言ってくれるリドがどれだけ貴重で大切かは私自身が理解している。
言いたい言葉を飲み込み、ただ告げれる言葉を選んで伝える。
どうかこの気持ちの一端だけでも伝われば良いと――
抱き締める腕に力を込めて。
私はリドに満面の笑みを向ける。
絶対的な信頼と友情と敬愛とちょっとした恋情を込めた瞳を細めて……。
私は笑った。