Act.51 [真の姿]
それは大切なものを守る為に授けられた力。
もう二度と間違えないように、もう二度と離れる事が無いように。
その力の源となる絆を人は「 」と呼ぶ――。
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サワサワと木々が風に揺らめく。
森の奥は薄暗く、僅かに木漏れ日から差す光が地面を照らし出していた。
既に実りの季節は過ぎ去り、葉は色を変えて散り始めている。早い木々は早々に葉を全て落とし去り道なき道には枯れた枝葉が敷き詰められた絨毯。
それを強く踏みしめ駆ける一つの影。
胸元を強く握りしめ苦しさを堪えるその表情。
人ではあり得ぬ縦に割かれた瞳孔をギラつかせ木々を走り抜ける度に変わりゆくその相貌。
灰色の尻尾が風を切り、毛が逆立つ。
人狼の姿となってしまった一人の少年が森を駆ける――
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あつい、あつい、あつい、熱い!
ぐるぐると身体を巡る熱い奔流。
高純度の魔力が抑える意思すら無視して身体を駆け巡る。
はぁ、と吐いた息すら熱く、痛みさえ伴う。
「う、ぐぅっ」
どくんっどくんっと太鼓の様に跳ねる鼓動。
息を吸っても吸っても息苦しさは絶えず、肺は軋み悲鳴を上げる。
しかし力だけは身体に漲り、破壊衝動が止まらない。
目に付く全てを切り裂き、砕き、壊したい。
そんな危険な意識に乗っ取られそうになるのをギリギリの瀬戸際で堪える。
「っ、だめだ。ダメだ、駄目だ!」
深い色合いの幹を傷付け、枯葉を踏み躙り、まだ残る若い葉を散らす。
一歩、大きく足を踏み出せばいつも以上の距離を飛び、腕を振り回せば大樹の枝が折れる。
叫びを上げたい。歓喜の声を、絶望の慟哭を。
遠く轟く様に、響き渡るように、空に高々と遠吠えを……。
しかし人の理性がそれを抑える。
駄目だ。駄目だ。それだけはっ!
最後の枷が外されていくのを感じる。
自分の中に存在する獰猛で狂暴な獣が抑え付ける理性の鎖を引き千切ろうと暴れるのを感じる。
そして、それは人間としての自分――リカルドが喰い散らかされる感覚。
「くそっ!」
自分のした事に対して後悔は無い。
あの銀髪の子供の魔力を自分の力によって吸収して余剰分を氷の魔法に変換して発動した事は。
しかし予想以上の高純度の魔力は寝ていた獣を起こしてしまった。
びきり、びきり、身体が鳴る。
骨が、細胞が、巡る魔力によって作り変わっていく感覚。
人の肌を覆う、獣の皮膚。
爪は伸びて鋭く尖り、口を開けば牙が飛び出る。
「ぐぉおおお!!!」
苦しげな咆哮。
森を飛び出し、拓けた場所に姿を現したのは――一匹の猛獣。
人の骨格を模した狼がそこにはいた。
*
「――はぁ、はぁ!」
その時、ルイは森の中を必死で走っていた。
息が切れようとも、肺が悲鳴を上げようとも、足を動かし前に進む。
所々リドが通った跡を見つけては方向を定めて――。
口の中に血の味がする。それは限界だという肉体からの警告。
しかしルイは口を噛み締め嫌な味の唾を飲み込む。無理矢理呼吸を繰り返し、縺れる足を叱咤して前に、前にと身体を進める。
だか、
「っあ!いで!ぅぐっ」
最早満足に上がらない足が木の根に引っ掛かりルイは枯葉の絨毯の中に飛び込んでしまった。
顔から地面に転ぶルイ。
しかし、痛みに悶絶する前に顔を上げ口の中に入った枯葉と土を吐き出した。
そんな身体を支える腕も、足も、震える状態を見ればもう立てないだろうと察せられる。
だが、そんなルイの瞳は爛々と輝き後ろを振り返ることをしない。
「もぅ、ちょっと……頑張れ私!」
ぐっと立てぬ身体に鞭を打ち叫ぶ。
それは自分自身への叱咤であり、励まし。なけなしの力を振り絞り勢い良く地面を蹴って態勢を整えルイは再び駆け出した。
その見た目はボロボロで、全身土と枯葉が絡まり汚れて酷い有様だった。
頬には枝か何かで切った一筋の切り傷。
すぐに治ると言っても血の跡は確かに刻まれていた。
「りどっ」
どくり、嫌な予感に心臓が不自然に跳ねる。
不安と心配に名を呟くもその嫌な予感は一向に晴れる気がしない。
脳裏にチラつくのは胸を掴み苦しげな表情だった少年の顔。そして太陽の光を照り返す金色の虹彩。その瞳の中は見間違いでは無いのならば縦に割れていた。
それは人では有り得ぬ瞳。――獣の瞳。
じわり、前を向くルイの視界が何かに滲んでいく。
「リドっ」
泣いてる暇なんて無いのにっ!
ルイは悔しげにその土で汚れた顔を歪める。
不安がどんどん膨らみ、胸を押しつぶす感覚が吐き気を催す程に嫌だった。
「間に合ってっ」
お願いだから!と胸中で叫ぶ言葉は誰に向けてか。
ルイは走る。大切で大事な少年を探して――
そしてやっと辿り着いたのはある程度拓かれた場所。
森の中にぽつんと存在するその空間には色とりどりの花々が咲き誇り短い生を謳歌していた。
ここは一度リドと共に来たことがある場所。そして翡翠さんとも来たことのあるエルバの花畑。
「――リド」
ひゅーひゅーと余りの息切れに喉笛さえ鳴る。しかし私は身体の疲れよりもその花畑の一点から目が離せなかった。
色とりどりの花がある中にぽつんと佇む灰色の塊。
蹲るその姿に目を瞠る。
「リド?」
私はその姿に声を掛けた。
その声に反応してか、頭を抱えるその狼の耳がぴくりと跳ねる。
なんで?どうして?と混乱する思考。
――それは色とりどりの花畑の中にある唯一の異色。
沈み始めた陽の光に照らされた灰色。それはある生き物の姿をしていた……。
くすんだ灰色の毛並みは土で汚れ、犬よりも細長い鼻先は荒い息にひくりひくりと震える。
大きく裂けた口元からは太く大きな牙が覗き、地面を抉る鋭い爪。
それは太古の昔よりこの世界に住まう人狼の本当の姿。
猛獣を人の姿に留めた伝説の獣がそこに居た――