Act.44 [後悔先に立たず]
黒は闇を宿す色彩。
人は恐れた。
魂に刻まれた記憶を、語り継がれる歴史を。
世界を壊す力を、その穢れを……人は恐怖し、忌み嫌った。
そしてやがて人は忘れてしまう。
闇が持つ本来の役割を、安らかな眠りを誘うその力を、魂の安寧を司る闇の力を恐怖の余りに忘却したのだ。
それ故に世界は穢れが蔓延してしまった。
闇がまた一つ。忘却の果てに穢れと化す――――
******************
カチッ、カチッと時計の針が進む。
静かな空間であるその部屋に響く時計の音。それに紛れて聴こえるのは静かな呼吸音。
可愛らしい調度品が部屋を彩るがその持ち主は今だ目を覚ますことは無い。
カーテンに遮られつつも目に優しい、穏やかな陽射しが差し込むその部屋で少女は息を殺して動く事は無かった。
じっと見つめるその視線の先。
天蓋に囲まれたベットに静かに横たわるこの部屋の主。深紅の髪をベットに散らばせ、眠る少女を見つめる彼女はヒトでは無かった。
白銀の髪に赤い、血のように真っ赤な瞳。
そして何よりその頭上に見える細長い獣の耳。
彼女は兎の獣人だった。
そんなヒトではない彼女は自分を助けるよう働きかけてくれた少女を見つめる。その目覚めを今か今かと恐れと期待を抱きながら……。
*
「っうぅん」
「!」
それからどれ位の時間が経ったのか、見つめた先の姿が身じろぎする。目覚めが近いのか、もぞもぞと布団の中で寝返りを打つ少女。
そして固く閉ざされた目が開く―――
「……あれ?ここは……」
ぽつりと呟かれた言葉。寝起きは良いのだろう。ゆっくりと起き上がりぐるりと周囲の状況を確認した彼女は自分がベットに寝かされているのを理解したらしく。納得する声が聞こえた。
まだ身体は痛むのかのそのそとベットを移動する影。「いたたた」と漏らす声は怪我の程度を感じさせる。
そして、天蓋のカーテンが開いた。
「ん?」
「っ!」
パチッとカーテンが開いた側から目が合う。
それは赤紫の鮮やかな瞳だった。
朝焼けの束の間に見れる美しいグラデーションの中の色。
朝陽の訪れを表す赤と空の青が混じり合った色彩。
そして力強く輝くその瞳に見蕩れて息を飲む。
だけど、相対する彼女に浮かんだのは一体どんな感情だったのか、驚きに目を見開きすぅと吸い込まれた息。どんな言葉を言われるのか……手が、身体が震える。そして。
「いやぁあああん!!!!!」
「ひっ!」
部屋に、そして屋敷中に、甲高い悲鳴が響き渡る。
ドタバタと部屋の外から音が聞こえるが、獣人の彼女はそれどころではなかった。
「お嬢様!?」
「お姫さん!無事か?!」
バタァン!と部屋の扉を破壊するかの様な勢いで飛び込んできたのはベルンとヨルムの二人。
まさか敬愛する主人に何が!?と慌てて入ってきたは良いが、彼等は目の前の光景に呆然とするしか術がなかった。
「……」
「……」
「はぁあぁ!何これ何これ!本物?!本物の耳!?かっわいいぃい!!カーワーイーイー!!!」
「っ!」
そこはアウスヴァン公爵家の令嬢ルイシエラの自室。
本当ならば昏睡状態のルイシエラが静かに寝ている筈の部屋の中には……鼻息荒い深紅の髪の少女に抱きつかれ愛でるように撫で回されている兎の獣人の少女がいたのだった。
「はぁ!え、これ夢?夢なのかな?!メチャクチャ可愛んだけど!やばい!マジやばい!」
何がヤバイのか甚だ不明だが意味不明な事を叫びつつも獣人の少女を撫で回す変態……ならぬルイ。
公爵令嬢としてはあるまじき発言と行動にこの光景こそ夢だと思いたいと配下二人の心はシンクロしていた。
そこには幻影であろうハートマークさえもいくつも乱舞しているかのように思える。
「ゔぅん――あー姫さん?何してるんだ?」
ルイシエラの振る舞いにキャパオーバーなのか目を見開いたまま固まる少女が哀れにも思えてきた。
ヨルムは取り敢えず自分の世界に浸っているだろう主人に声を掛ける。寧ろ届いてくれ!と密かな思いを込めつつ。
そんな咳払いの音にルイが顔を上げる。
「よ、ヨルム!ここに天使がいるんだよ!この子天使だよ!」
「あー、ちょっと落ち着こうか?な?」
「落ち着けるはずないじゃない!もう!もう!この子うちの子にするから!寧ろ私の子だから!!」
「――うん。無理だな。ベルンあと宜しく」
「オイっ!」
即断して人に丸投げしやがったヨルムにベルンが声を荒げる。
いつもは貴族のご令嬢然として立派な振る舞いをしているルイシエラだが前世の影響なのか、時折理性を無くしたようにベルンの獣の耳やヨルムの鱗の部分を愛でる困った癖があった。
その時のルイに言葉は通じないことをよく理解している二人は何とも言えない顔をして溜め息を吐く。
「いや、こうなったお姫さんは落ち着くまで何も聞こえないって知っているだろ?」
「そうだが、最初に声を掛けたならば責任を全うしろ」
「いや、無理」
「……お前な」
顔を見合わせ互いに肩を落とすが、その間もルイはベルンとヨルムの二人など視界にも入っていないのか、鼻息荒く獣人の少女を愛でている。しかも今回は色々あった反動なのかいつも以上に狂喜乱舞していた。
「あぁ、可愛い可愛いぃいよー!」
ナデナデと白銀の髪を優しく撫で目尻を下げて破顔するルイ。傍目で見ればじゃれ合う可愛らしい少女達の筈だが、如何せんギラギラと危ない光を放つ目と興奮からか荒い息を吐くルイシエラはどこをどう見ても変質者のそれだった。
しかし至福の一時と言わんばかりに恍惚な表情を浮かべていたルイだが、次の瞬間にはその顔は天国から地獄へと落とされる。
「――お嬢様?」
「ひっ!」
びくんっ!と肩が揺れる。静かに呼びかけられた声。
耳に心地よい低音の声はゆっくりとルイへと忍び寄る。いつの間にいたのか、気配が感じられなかった。瞠目する面々を意にも介さず笑顔のままルイの肩を握るかの者。
だが、それよりもルイは喜色満面だった顔を絶望の表情に染め上げ、撫で回していた両手は咄嗟に万歳の形に上げられていた。
「何を、して、いたのか、お聞き、しても?」
「あ……ぁの、その」
ゆっくり、噛み締めるように発せられた言葉。
ガタガタとルイの身体は震え、しかしゆっくりと錆び付いた様にギギギっと横を向く顔。
「ルイシエラ様?」
「ぜ、ゼルダ……」
灰色の髪をオールバックに纏め、キラリと光るのは片目に掛かるモノクル。
そこにはアウスヴァン公爵家筆頭執事がある意味いい笑顔で首を傾げて立っていた。
「ひぃぃぃ!!」
ルイの掠れた悲鳴が部屋に響く――。
*
「――そもそもですがお嬢様は……」
「も、もう勘弁してくださいぃ」
――えぐえぐと泣き言を漏らします。
そこは落ち着いた雰囲気で纏められている部屋。
部屋を彩るのは所々飾られた見目美しい季節の花々と可愛らしい動物の形を模した人形の数々。
公爵家として恥じない調度品で品よく纏められた部屋で仁王立ちのゼルダに、床に正座の私。
カチッカチッと秒針を進める時計の針の音と共に部屋に響く声は刺々しく、心に突き刺さるお言葉の数々。
今までの事も溜まっていたのか、あの時はどうだった、この時はこんな事だった、と掘り返してまでゼルダに説教されている私――ルイシエラ・アウスヴァン三歳です。まぁもう少しで四歳ですが。
確かに私自身が全面的に悪いと自覚していますが……病み上がりの人間を床に正座させ説教に入ったゼルダに涙目です。
痛い。色んな所が痛い。
ゼルダの発する言葉にも心を抉られ、白い目で見てくるベルンとヨルムの視線も痛いし、私の被害にあった可哀想な少女の目なんて怖くて見れません!!
「本当に解っておられるんですか?お嬢様」
「うぅ……」
返事はただの呻き声です。痛い。特に足が痛い!
「ま、まぁまぁ執事長。お嬢様もきちんと公私は分けていますし、今回は寝惚けていたんですよ」
「そうです。流石に一週間も寝ておられたのですから、この辺で……」
痺れた痛さではない痛みにちょっと顔が歪んだのが分かったのでしょう。
ヨルムとベルンがなんとかゼルダに取り直してくれて説教はやっと終わりました。
「うぅ、ごめんね」
「大丈夫ですよ。それより足は大丈夫ですか?」
不甲斐無い主で申し訳ない。
あの時は、あれ、理性が吹っ飛んでいたんだよ。
好みどストライクの子が目の前に居たら取り敢えず何を置いても抱きつくしかなかったんだよ。
そんな言い訳を心の中で呟きつつ両脇に手を入られひょいっと簡単に抱き上げられます。
ベルンの身体はとても大きいので抱き上げられると部屋を簡単に一望でき、反省はしてますがそうして見えた姿にどうしても緩む頬を抑えられませんでした。
しかしそれを見られていたのでしょう。ゼルダから釘を刺されます。
「まったく。今回は二人に免じてここまでにいたしましょう。しかし……」
「ひっ」
「次はございませんからね?ルイシエラ様?」
「は、はいっ!」
こっ怖ぇぇええ!!!
ゾワゾワと背筋を駆け抜ける悪寒。それだけで今までのアレコレを思い出し恐怖に震え上がります!
自業自得なのは分かっていますが、何故もう少し我慢できなかったあの時の自分!
後悔先に立たず。身に染みて理解した瞬間でした……。
「うっ、うぅ……ありがとうベルン。それと私どれくらい寝てた?」
「約一週間です。その間は一切起きること無く眠り続けておりました」
「ほら姫さん。まずは顔拭きな」
「ありがとうヨルム。ティリスヴァン公爵家の方々は?」
ベットに静かに降ろされるなり私の両脇に侍り、サッと必要な事を済ませて行く二人に訪ねます。
温かい濡らしたタオルを手渡され、怪我の具合を見られます。
「当主と上の二人は仕事があるって帰ったぜ。今は問題児がアウスヴァン公爵家預りで表の本宅でビビが世話してる」
「預かり?もう魔力の暴走はしないのに帰らなかったの?」
「本人たっての希望により、ある程度自分で魔力を操作したいってさ。ここはヴェルデや奥方様がいるからなぁ最悪の自体は免れるし、公爵本人が鍛えてくれってご当主に頭下げてたから内密で預かる事になった」
「ふぅん」
なんだその急展開。と心で突っ込みながら触れられた足が痛み、顔を顰めます。
「痛みますか?」
「うん、そこはまだ治らないんだね」
「背中もまだ傷跡が残ったままだぜ?他はこの一週間でなんとか癒えたけど……無理をしすぎだよご主人さま?」
「うぅ、仕方ないじゃない。あれが一番安全安心で確実だったんだもん」
にっこり笑顔で言われたのにへこんだ心にまた一つへこみが出来ます。
今回は確かに無理に無茶を重ねましたからね。色々言われるのは甘んじて受け入れましょう。
ええ、涙目ですけどね!!
テキパキと慣れた様子で私の身の回りのものを整えてく二人。
まぁこの一年あまり倒れて寝込むのも珍しくないので、二人も否が応でも慣れますよね。
渡された布で顔を拭えばさっぱりとします。基本的な身の回りの世話はルーナさんとかの専属メイドのお姉様方がしてくれますが、こうして倒れた時などはベルンとヨルムの二人にお願いしています。熱が出た時などは弱気の心が出てきて偶に前世の事を口走る所為です。
一応私が前世の記憶持ちの転生者というのを知っているのはゼルダとベルンとヨルムの三人のみですから。
ゼルダは私が転生者ということを確認してからは口を噤んだままですが、ベルンとヨルムの二人には少しだけ話をしてました。
こんな事があった。あの時はこうだったと思い出した記憶を、ふと脳裏に浮かぶ優しい家族の話を。最初は黙っていたけれど、時折感じる寂しさに口を噤むよりは、と寄り添ってくれた二人。
だからか、今は率先して甲斐甲斐しく世話をしてくれる彼らについつい甘えてしまいます。
「取り敢えず、今は何か羽織るだけにいたしましょうか。横になられますか?」
「ううん、大丈夫。それにやらなきゃいけないこともあるし」
ボサついた髪に櫛を通して簡単に整えてもらいます。意外にこういった細かい事はヨルムではなくベルンの方が得意だったのは驚きました。大柄な身体なのに、細かい作業は苦ではないみたいで私の身支度を整えるのはベルン。そしてその他の細々とした道具や場所を整えるのはヨルムといつの間にか役割分担が決まっていました。
大体背中の真ん中辺りまで伸びた髪を緩く三つ編みにし左肩に流します。
簡易ワンピースの上に落ち着いた色合いの肩掛けを巻き付け、ベットから椅子に移動させてもらいます。
過保護発動でどうやら足を怪我しているせいで当分私は歩くことが無さそうだと察しました。
何も言わずともサッと抱き上げ、移動するベルンに何かを言おうとした口を閉じます。
遠い目になるのは仕方ないと思うんですよ。うん。これは何を言っても無駄だなと早々に諦めます。
そうして座る椅子はお気に入りの物です。
一人がけのソファーで窓辺に置かれ、中庭を一望できる定位置。
揺り椅子の様な脚になっているのでこの椅子でユラユラと揺られながら庭を眺めたり、本を読んだりするのが体調不良の時の日課です。
ちなみに特注品で、私の願望が詰まり過ぎる一品となっています。やっぱ公爵令嬢らしく我が儘に強請ってもバチは当たりませんよね?たぶん。
そんな椅子に降ろされればすぐさま膝掛けを掛けられ居心地を確認されます。
オッケーを出せばヨルムに促されて対面に来る少女。
そんな少女を見て悪いことをしたなぁと罪悪感で胸が一杯になります。
だって……だって女の子の顔真っ青だもん!そりゃああんな変態行為した加害者の前に出たくないよね!
私だって御免被りたい。寧ろダッシュで逃げたいもん。
取り敢えず、ベルンとヨルムには彼女の側にいてもらうことを目配せします。
同じ獣人ですから少なくとも二人がいた方が安心するでしょうし。
「先程はごめんなさい。余りに可愛くて我慢できなかったの」
ビクビクと怯える様子の彼女に素直に謝罪を口にします。しかし彼女は真っ青だった顔色を赤に白に青にと変えます。しかも今にも逃げ出しそうなほどの様子。
ザクザクザクと心の良心が切り刻まれます。
ああ、そうよね。どんなに謝っても私が加害者で彼女を傷付けたのは紛れもない事実。
しかも立場故に謝罪の最高位である土下座も出来ない。
そんな事をした瞬間にはどこからともなくゼルダが現れて公爵令嬢との心得を説教されるのが目に浮かびます。
どうしようと途方に暮れて泣きそうです。
「いや、姫さん。そんなにへこまなくても大丈夫だから」
「彼女は戸惑っているだけなので大丈夫ですよ。それに今までの彼女の環境も良いものでは無かったようですから」
「うん?どういう事?」
苦笑しながら言われた言葉にホッとした束の間、ベルンの言葉に眉間にシワが寄ります。
だけど、
「失礼します」
「ゼルダ?」
いつの間にか部屋から居なくなっていたゼルダがノックの音と共に入ってきます。
あれ?私まだ良いよって言ってないよ?
そんな事を思いつつもゼルダの後ろにいる少年に首を傾げました。
――誰?
黒髪黒目。それは前世の私と同じ日本人の特徴です。
服が白いシャツの所為かその肌と見た目の色彩がより引き立ちます。
だけどその色はこの世界では今や禁忌の色とされているのものでした。
この世界の人間は髪や目に宿る色で魔力の属性が現れます。
火属性ならば赤系、水属性なら青系、といった風に火水地風光闇の六属性全てにその特徴である色があり、それは決して変わることの無い不変的なものです。
それに今や穢れた闇が蠢き始めたこの世界に黒を持つヒトは実は魔人かそれに準ずる者以外はいないのです。
そう、居ないはずなのに……何故?疑問符が浮かびます。
遥か昔にはまだ正真正銘の闇を宿した人々は多かったらしいですが、穢れた闇が蔓延した所為もあり“狩られた”と聞きました。今や普通のヒトが持つことの出来ない色を宿した少年。彼は一体何者なのでしょう?
そうしている内に、獣人の少女が少年の姿を見るなり駆け寄ります。
知り合い……?
少年も私を見ていた目を優しく細め少女を受け入れる姿にちろりと見たのは彼を連れてきたゼルダ。
彼は何やら再会を喜ぶ二人の子供に目を綻ばせながらもテキパキと机を整えてくれていました。
「ゼルダ?」
「あの子達はお嬢様がお助けになられたのでしょう?」
問い掛けに問い掛けで返されました。てか、え?私?
スッと目の前に出されたお茶の香りに意識を奪われつつも首を傾げます。
うーん?確かにあの村で助けて欲しいとベルンとヨルムを向かわせたけれど、それはあの獣人の少女の事であって私自身あの少年は見覚えがありません。
でも、まぁあの村の出身であるならば少女を保護のついででも構いませんけど。
「まぁ、いっか。父さまは何て?」
「お嬢様の采配に任せるとお言葉を頂いております。それに手が必要であるのならば直ぐに言うようにとも」
「そう。母さまは?」
「同じく。……体調の方は落ち着いておられます。お嬢様の事をとてもご心配なさっておられましたよ」
投げ掛けた質問に次々返ってくる答え。全てを言わずとも察して答えてくれるゼルダは本当にエスパーだと思います。
さてさて、どうしましょうか?
二人の子供を眺めつつ悩みます。