Act.35 [祝福の共鳴]
それは小さな力だったのかもしれない。
小さな心から生まれたちっぽけな力。些細なことしか出来ないようなそんな能力。
でもその力は確かに授けられ、そして間違えようもない、生まれた喜びを祝した力だった……。
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『――ルイシエラは今、この国で起こっている“何か”を見ているのは確かよ。しかもそれはとても惨い光景を……』
そう沈痛な面持ちで告げた水の精霊王アクヴァは血だらけで横たわるルイシエラを見下ろし眼を伏せた。
その間にもルイシエラは血を吐き、苦しそうに喘ぐ。
その様子に必死に治癒魔法を掛けていくスーウェだが、ルイシエラには元々魔法の類は効かない体質だ。掛けた側から弾かれ、霧散する魔力。拒絶される力。
我が子の苦し気な表情にどうしても感じる無力感。
代われるのならば喜んで代わるのに……今にも泣きそうなぐらい顔を歪めるだがそれでも術を行使する手は止める事はない。
まるで縋るように、何かに取り憑かれるように彼女は知り得るだけの魔法を掛けていく。
「……アクヴァ、それはどこか分かるのか?」
『残念だけど、水を司る私には難しいわ。これは風の精霊の分野だから』
ガウディの問い掛けにアクヴァは首を振る。情報収集などといった探査系の能力は風の属性の特徴でもある。
水の精霊であるアクヴァにはそこまでの広範囲での探査は難しい。
それに加え、現在アクヴァはガウディと契約を交わしている。その為、能力もある程度制限されているのも仕方の無い事だった。
「他の精霊は?」
『駄目ね。さっきの子の所為で皆混乱していて話すら出来ないわ』
さっきの子とアクヴァが言うのはルイシエラの中に飛び込んでいった妖精を指しているのだろう。
穢れた闇に染まり堕ちた妖精に引き摺られたか、パニックになっているのだとアクヴァは語った。
「――どうすることも出来ないのかっ!」
悔しさも露わに拳を握り地面へと叩きつけるガウディ。
我が子が傷付き、命すら危うい現状にどうすることも出来ない自分の不甲斐なさと歯痒さに苛立つ。何故あの時もっと気を付けなかった!と自分自身すら責める心情にアクヴァは首を振った。
『ガウディ、貴方には妖精を視る力までは持たない。無い力を嘆いて自分を責めたって意味など無いわ』
「だがっ」
『貴方はルイシエラを信じられないの?』
ぐっと言葉に詰まる。「信じて」と言った我が子の姿が思い浮かんだ。
大丈夫と笑ったルイシエラ。それを信じたのは他でもない自分自身。
『大丈夫よ。ルイシエラは強い子だわ』
スーウェの魔法を補いつつもアクヴァは断言する。言外に信じなさいと告げられる言葉。
いまだ止めて!と懇願の言葉を呟き、涙を零すルイシエラ。
ガウディは無言のまま彼女の手を取り握り締める。強く、固く握られた手。
何があっても離さぬように、繋がれた手を額に当てガウディは祈る気持ちのままに愛娘の名を呼んだ。
「頑張れ」と心の奥底に沈んでしまったであろう娘にエールを送る。そして「帰ってこい」とも。
だが……幾ら応急処置を施しても血が止まらぬ現状。
例えルイシエラの心が戻っても身体が保たなければ意味がない。
どうしても時間が足りない。血が、足りない。どうすれば助けられるのか……?
焦燥に駆られながらも思考を巡らせた矢先。
彼が一歩、歩み出した――
*
「――オレがやってみる」
「レイ?」
「たぶん、こいつがこうなったのはオレの所為だと思うから……今度はオレが助ける番」
一歩、一歩、兄弟たちから離れ、ルイシエラに近付くのはレイディル。その姿にその場は静寂に包まれる……。
一言も、言葉を発するのすら憚れるような、そんな空気の中。注目を集めるレイディルのその額にみんなの視線が集まった。
煌々とした光を描き、浮かび上がるのは――花咲く蕾に照らす月と太陽の紋章。
淡く光を宿したアイスブルーの瞳。
それは祝福の紋章を光らせ、清らかな空気を纏うレイディルだった……。
先程まで、闇に染まっていたのは嘘かのように静謐な空気で場を支配する彼。
その彼が握り締めるのは――ルイシエラがレイディルに託した封印石。
その石もまた、レイディルに呼応するかのように明滅を繰り返し淡く光る。
――そんなレイディルの中で囁く声。
《――恩に報いましょう……》
《我らを救ってくれた女神の愛し子を》
《我々の闇を祓ってくれた暁の申し子を》
《救いの一筋を、彼女に》
《レイディル――【レイディル・ノアゼル・ティリスヴァン】我らが知の番人の末よ。森羅万象の理を、万物の歴史を、語り継ぐ我らの知識を今こそ授けよう》
《我らが守りし、全ての叡智を》
《我らが創りし、全ての智識を》
《大丈夫。貴方はもう資格を持っているわ――今こそ顕現の時――…》
それはレイディルの中に宿る歴代ティリスヴァン公爵家当主たちの声。
闇に染まり、怨嗟の言葉を紡いでいた彼ら、彼女らはルイの力によってその闇を祓われていた。
そして――
《しっかりしなよ。僕たちも手助けしてあげるからさ》
《ルイの為だ、失敗すんじゃねぇぞ》
レイディルの中に響く初めて聞く声。
穏やかな声と少しばかり厳しい声。それは風の精霊王――翡翠の声だった。
「出来るのか?」
「……分からない。でも、やってみる」
ガウディの問い掛けにレイディルはその顔を俯けることなく真っ直ぐと前を見る。
足に力を入れ、震える手を叱咤し、一歩一歩ルイシエラへと近づいて行く。
囁く声たちに背中を押され、彼は踏み出す。それは大きな一歩。
「オレは――知の番人の末裔。そして守護者だから……」
ざりっと足音を立てながらルイの傍らに膝を付く。
レイディルの発言に動揺の気配を揺らがせる背後を感じながらもレイディルはその手を開いた……。
――両手を揃えて天へと向ける……。
何かを乞うかのように、何かを受け止めるかのように、高くその目線より上げた両手。
瞬間――レイディルを起点に巻き起こる風。
強大な魔力を纏ってレイディルを囲む暴風。しかしそれはやがてレイディルの掌に集まり――ある形と成る。
「それは――」
エヴァンスが溢す。それは今や失われたはずのモノ。
代々ティリスヴァン公爵家で語り継げられてきた伝説の本が……そこにはあった。
神の叡智が、世界の理が、全てが書き記されていると伝えられて来たその本に人知れず息を飲む。
普通の本なんかより遥かに大きな書物。古ぼけた表紙には三柱神の紋章。
そして光輝く頁はゆっくりと捲られていく――――
意思を持つかのようにひとりでに捲られていく本。金色の光を走らせ踊る文字。
ぱらぱらと捲られ止まったのはある一頁――そこには古の文字で[祝福]と書き記されていた。
レイディルはなぞる。その文字の意味を知る為に――目で、言葉で、そしてその小さな指先で……。
そうして紙に、文字に、走らせた指先を追うようにして輝く線。
線は確かな軌跡を描き――本は光の粒子となって霧散した。粒子は空中を漂い幻想的な光景を生み出す。
皆がその光景に目を奪われている間にも、レイディルは自分の首元に下がる封印石を外すと両手に握り、ルイシエラの胸元へと押し当てた。
「たのんだよ」
小さく呟かれた言葉は誰に向けられたのか?
その意味を尋ねる間もなく、甲高い音が辺りに鳴り響き始める――
リィィイン、リィィインと鈴の音が空高く、高らかに鳴り響く。
「っなんだ、これは!?」
「これは――共鳴、しているの?!」
一番近くにいたガウディとスーウェが耳を押さえ呻く……。
スーウェは見た。我が子に触れる少年のその手から薄緑色の光が漏れるのを。
音はルイシエラとレイディルの間から鳴っていた。僅かに半音だけずれている音程。
強弱に鳴り響く鈴の音に呼応して灯り始めるのは祝福の紋章。ルイの右手が、レイディルの額が互いの神の色を宿して光り輝く――。
――紅き焔は暁の化身。
暗闇を祓う灯火は煌々と輝き、その身に宿る穢れを吹き飛ばす。
――紺碧の光は癒やしの顕現。
闇を退け隔てる灯火は燦々(さんさん)と輝き、その身に付いた傷を癒やす。
音は光と共に強弱を付けながらも高まっていき――そして、弾けた。
「っ!スーウェ!」
「これは、」
眼に痛いほどの閃光。そして音は耳鳴りのように少しの間。無音の中でも鳴り響く。
余りの状況に一旦身を引こうとガウディはスーウェの腕を掴み引き寄せた。
ザァァァアアア――ノイズのような耳障りの音が一瞬、皆の間を吹き抜ける。
それは誰の眼にも映ることはない、影。
怒り、憎しみを宿していたはずの闇は清廉な気配を宿し、森の奥へと消えていった……。
*
やがてレイディルは音もなく、ルイの身体から少し離れた。すると――
「っん」
「ルイ!?」
「ルイシエラ!!」
身じろぎ、声を上げるルイ。
慌ててガウディとスーウェが駆け寄る。
「っけほ!」
こほこほと血を混じりに咳き込むが、先程よりも安定している呼吸にガウディは安堵の息を吐いた。しかし背後でどさり、音が立つ。
「レイディル!」
エヴァンスの声が聞こえ後ろを振り返ると、そこにはレイディルが大量の汗を掻いて倒れているではないか。
駆け寄るエヴァンスに抱き起こされるレイディル。しかしその表情はさっきまでの人形のような能面ではなかった。
「――そいつはもう、大丈夫」
ふっと僅かながらも表情を綻ばせ、肩で息をするレイディルにガウディは頭を下げる。「ありがとう」の言葉も添えて。
先ほどの現象に力を消耗したのだろう。ふっと眼を伏せ、意識を失うレイディルにエヴァンスは良くやったと言わんばかりにその小さな頭を撫でた。そうして触れることの喜びを抱きながら……。
「――と、とぅさ…ま……?」
「ルイ!俺が分かるか?」
ぎゅっと袖を引かれ我が子を見下ろす。そこにはまだ血を吐き出しながらも強い、惹き付けられる程の強い光を宿した赤紫の瞳。
「……ぉねがいが、あるのっ――ごほっ!」
「ルイ!無理はするな!」
「そうよ!動いては駄目よ!」
肺に入ってしまったのか、止まらぬ咳に何回も息継ぎしながら紡がれる言葉。
制止の声を上げるもルイは頭を振って拒絶する。伝えなければならない物があるからこそ、彼女は無理にでも身体を動かす。
「ひがし……やまのさんみゃくの――っけほ!……あかれんがのむらっ」
「おをかむヘビ……がいこつっからんだしるし――っげほげほ!」
ルイ!と強く咳き込む娘に両親は顔を青ざめる。だが、それよりもルイは必死に伝えようとする言葉にエヴァンスがいち早く反応した。
「骸骨に尾を咬む蛇だと!?――【堕骸盗賊団】か!」
それはイリス大陸では最低最悪と名高き賊。
大陸中を転々と周り気まぐれに街を、村を襲っては悲劇を撒き散らす国際犯罪者集団だった。
それが何故このアウスヴァン公爵領に!?と声を上げるエヴァンス。ガウディも娘の様子を心配そうにするが、その顔は既に将軍の顔へと変わっていた。
堕骸盗賊団の恐ろしさは、他の盗賊団などよりも遥かに凶悪だ。
奴らは人を殺すことを愉悦とし、金にも権力にも魅力を感じない。ただ“人を殺す”事を目的にしている部分がある。そんな奴らに一度襲われれば村だろうが、街だろうが、皆殺しだ。
これまで被害者は例外なく全てが殺され、生存者などいなかった。
「スーウェ、すまんがルイを」
「分かっているわ。……ルイシエラの為にもお願い」
離れがたい。しかし将軍としての、領主としての誇りがガウディを奮い立たせる。
「エヴァンス!お前は直ぐに王宮へ、国全域の警戒レベルを上げてくれ」
「分かった!……場所は分かっているのか?」
「東の街道沿いの奥に山に囲まれた村がある。そこだろう、旅人など寄り付かん行き止まりの村だ」
屋根が赤い煉瓦細工なのが特徴だ。と付け加える。
「ルイシエラ……よく頑張ったな」
「とうさま」
「行ってくる」
「アナタ、お気を付けて」
「ああ」
堕骸盗賊団の恐ろしさを、ガウディはよく知っていた。そしていつもいつも間に合わず悔しい思いに拳を握る。
全てが終わった後の光景は大の大人が吐き気に蹲り、余りの悲惨さに怯える程。そんな光景を見たであろうルイシエラ。
いくら祝福者故に自我の発達が早くても、気が触れてもおかしくない惨劇の光景を乗り越え、ましてや有力な証言すら伝えてくれた彼女の頑張りが誇らしく、同時に悲しくも思う。
それは誰にも言えぬ親心の一つ。
だが、そんな事は言えやしない。彼女の強さがとても悲しいなど……。
ガウディは気持ちを切り替えるためにも一度眼を閉じ、そして開けた。
「ゼルダ、後の事を頼む」
「畏まりました」
強く鋭い眼光。踏み出した足は力強く地面を踏み締める。
ジゼルヴァン王国が有する大陸最強の武人。人々は彼を尊敬と畏怖を込めて呼ぶ《王国の守護者》と……。
威風堂々な佇まい、他の追随を許さぬその強さ。国を守り、治安維持に尽力する、かの将軍を人々は愛した。
そして将軍もまた自らが治める地に住まう人々を、国を支える民を愛し守る為にその力を揮う。
「……逃さないぞ」
堕骸盗賊団はその犯罪の悲惨さも有名だが、何より一切の情報が出てこない事も有名だった。
その構成人数、規模、拠点。全てが闇に包まれ、事件が発覚するのはいつも全てが終わった後。残されるのは凄惨な光景とシンボルマークである骸骨に絡みつく尾を咬む蛇。それだけが盗賊団の痕跡だった。
幾度となく辛酸を舐めさせられた過去を思い、守れなかった命を想い、ガウディは拳を握る。
やっと掴んだ手掛かり。もう逃しはしないと決意も新たに足早に赤獅子騎士団本部へと向かった――
*
「さぁ、ルイシエラ少し眠りましょう?」
ガウディが去った後、スーウェは我が子を労り眠りへと誘う。
しかしルイはそれを強く拒絶した。
「ルイシエラ?」
どうしたの?と掛けた声に応えるのは強く横に振る首。
「――べるん、よるむ」
「「ここに我らが主」」
そうして呼んだ名はルイシエラが最も信頼する配下。獣人二人の名前。
ずっと気配を消していた二人はルイの声に反応し、その傍らへと傅く。
力が入らぬ身体を必死に動かし伸ばした手。
「おねがいを……きいてほしいの」
それは二人と契約を結んでから初めて口にする“お願い”という名の命令。
ベルンとヨルムはいつもと違うルイシエラの“お願い”に気を引き締め次の言葉を待った。
ルイシエラは意識が朦朧としているのか、その瞳は揺らぎ瞼は今にも閉じそうな程。
だが、必死に意識を繋ぎ止め紡ぐ言葉はルイシエラへと助けを求めた“あの子”が願い、命を燃やしてまで届けてくれた言葉。
「むらの……おく、さんみゃくのふもと。さいだんのおくのどうくつにいる……」
ふらふらと空中を漂う手を力強く握るのはベルン。
「たすけてあげて……あなたたちじゃないとダメなの」
お願い、とその言葉を最後に力を失う手。意識が無くなったのだろう。目尻から涙が一筋、真っ赤な頬を流れていく――
助けて。そう言われた言葉に二人は言葉少なく頷いた。
「「――仰せのままに」」
どんっと左胸を叩き、拳を合わせる。それは獣人の最上級の礼。
心臓を捧げ、その命令を遂行するという覚悟の証。
そして二人は足早に庭から去って行く――彼らのお姫様の望みを叶えに。
太陽は沈み、空には満開の月。
全てを見下ろす満月の元、事態は動いていく――――