幕間劇:愛妻の日
その日。
ガルティブルク城の中は異様な空気に包まれていた。
即位から三年を迎えたカリオン帝の親衛隊は完全武装で城の中に待機していて、帝の号令一下すぐに動き出せる体制になっていた。
玉座へと続く回廊には側近中の側近でるレオン家の騎士団が待機し、一騎当千の強者を率いるセオドア卿の長子は、帝王カリオン下賜の小太刀二振を腰に下げ待機している。
今にも戦が始まりそうな空気の中、帝后リリス妃は配下の女官を引き連れ城の中を動き回り、その、周囲にもまた護衛が付いていた。
「いくらなんでも大袈裟過ぎる」
苦笑いを浮かべる帝父ゼルは、静かにコーヒーなど飲みながら事態を眺めていた。帝母エイラの私室奥深くにあって優雅に振る舞っているのだが、その姿ですらも若き帝王には心配の種のようだった。
「父上、先帝ノダ王の想い人が如何なる死を遂げたかご存じでしょう」
「もちろんだ。だが、いくらなんでも大袈裟なんだよ」
「そうですが……」
落ち着き払ったゼルの姿にカリオン帝は小さく溜め息を漏らした。
「頂点にある者は常に鷹揚と振る舞え」
舞い上がっているカリオンを見透かすようにニヤリと笑い、もう一度コーヒーを口に運んで静かにコーヒーカップを降ろしたゼル。
だが、チラリと目をやった先のベッドでは、宰相カウリ卿の第二婦人であるレイラ妃が額に汗を浮かべ、膝立ちになって苦しげに息をしていた。
背中をエイラ妃に抱きかかえられ、大きく肩を動かしているレイラ妃。
その前では夫であるカウリ卿が揉み手をしながら心配そうに見守っている。
「おい! ゼル! お前もここに来たらどうなんだ」
「……見世物じゃあるまいし馬鹿を言うんじゃない。こんな時の男は黙って事態を静観するもんさ」
「それはそうだが……」
ゼルに窘められたカウリは気忙しげに部屋を歩いた後、ゼルの向かいへ腰を降ろした。だが、レイラに付いていた御殿医が静かな口調で『ゆっくり息をして、深く吸い込んで、ゆっくり吐き出して、落ち着いて、落ち着いて』と語りかけるのを見守りながら、やはり席を立ち上がって様子を伺っている。
「カウリは案外心配性だな」
「そうでなければ帝王三代の宰相が勤まるものか」
「まぁ、それもそうだな」
優しげな眼差しで静かに笑ったゼル。
もう一度ゆっくりとコーヒーカップを口へと運んで、そしてジッとベッドの上のレイラを見た。
長い髪を後ろにまとめたレイラは苦しげに息をしながら、それでも満足げに微笑んでゼルを見ていた。
大きく張り出したお腹に両手を添えて、大事そうに抱えながら……
時はおよそ半年前にさかのぼる
「父上。実はリリスからこれを預かりました」
「預かった?」
「はい。レイラさんから父上に渡して欲しいとの事です」
ル・ガルの首都ガルディブルクから北西へ100リーグ。
カリオンとゼルは広大な草原地帯を横切った先にある穀倉地帯の中心部にいた。
ガルディブルクほどでは無いが、それでもよく発展しているこの街は帝國侯爵五家の一つ、レオン家の本拠地として栄えている。
メチータという名の街は、レオン家を起こした最初の男ジョルジオの愛妻と同じ名だそうで、陰に日向にジョルジオを支えた糟糠の妻であるメチータの功績を、今も称えているのだった。
「……ほぉ」
カリオンに手渡されたのは、丁寧に編み込まれた幼児向けのセーターだった。
それは、帝王カリオンの后となったリリスの母レイラの作品で、この長旅の道中でレイラが暇潰しの手慰みに始めた編み物の成果の一つだった。その編み物を矯めつ眇めつに確かめて居たゼルは、不意にカリオンを見た。
「これをいつ受け取った?」
「えっと……」
冷静になって考えているカリオン。
実はつい先ほどまでレオン家の御曹司と飲んでいたのだ。まだ多少酒が残っている状態だが、段々とその酒も抜けてきて冷静に記憶の糸をたぐっていた。
「メチータの街へ入った時ですね」
「……そうか」
しばし思案しているゼルは、その小さなセーターを確かめながら右手で口元を隠し、何かをジッと考えていた。明らかに狼狽の色を浮かべているゼルは、外に漏れないレベルの小さな音で『チッ!』と舌打ちしていた。
「……父上?」
メチータの中心部にある大きなホテルの一室。
帝王夫妻とその首席随行員が宿泊する為に用意された部屋は広く大きい。
約半年ほど前の春。若き帝王が突然『国内を見て回る』と言いだし、親衛隊と共に后リリスを引き連れて国内を巡幸し始めたのだ。
帝都ガルディブルクの南東にある街クタボを皮切りに、国内を反時計回り方向でじっくりと歩いたカリオンは、行く先々で驚くほどの歓待を受けた。
まだまだ若き帝王を一目見たいと集まった帝国臣民にその勇姿を見せて歩き、帝国議会の為に招集される不便を被りつつ喜んで協力している各地の伯爵家を労って歩いていた。
「……困ったな」
「こまった?」
「あぁ。ちょっと拙い事態だ」
不意に椅子から立ち上がり、ゼルは頭をボリボリとかきながら部屋を数歩歩いた。何事かを思案しながら、時々は小さなセーターへ目を落としている。そして、静かに唸っている。
「父上?」
「レイラからの秘密の伝言さ」
「秘密の?」
まるで謎かけのようにしているゼルの言葉にカリオンは必死で頭を働かせる。だが、強かに酔った頭では思うように結論を導き出せない。
「……わかりません」
「まだ分からない方がいい。ただ……」
混乱しているカリオンを楽しそうに見たゼル。
その口元には父親の色が滲み出ていた。
「これを受け取ったことはリリス以外には言うなよ」
「はい」
まだまだ経験の浅い若き王にとっては、こうやって遠回しにモノを言われることも良い経験だ。表立ってはっきり言うことが出来ない情報をオブラートに包んで相手に伝える。その言葉をどう受け取るか。暗号化された情報をキチンと解読できるようにしなければならない。
「まぁいい」
楽しげにカリオンを見ていたゼルは大事そうにセーターを懐へしまうと、部屋の中で身なりを整えた。
「リリスは何処にいる?」
「レイラさんと一緒のはずです」
「そうか」
なんとも楽しそうにしているのかゼルの姿が不思議でならないカリオン。
そんな様子ですらも楽しげに眺めているゼルは、懐のセーターを握り締めた。
「明日は地元の商工会が来るはずだな」
「はい。彼らの労をねぎらおうかと」
「部下には感謝する事だ。それが人の心を掴む一番の秘訣だよ」 「はい」
満足そうに頷いたゼルはカリオンに退室を促した。
――妻の部屋へ帰れ
そんな空気を察したカリオンが静かに部屋を出て行った。ややあって入れ替わりにレイラが部屋へとやって来る。リリスと一緒になってやって来たレイラだが、リリスは満面の笑みを浮かべていた。
「おめでとうございます」
「まだ安心は出来なんだよ」
「……そうですね」
母レイラを見てから嬉しそうにゼルを見たリリス。
その落ち着き払った姿にゼルは僅かな落胆を覚える。
――リリスの方が余程落ち着いているじゃ無いか……
どれほど割り切ったところで致し方ない部分がある。女の勘は鋭く、そして、正確で外さない。リリスは全てを承知してカリオンには黙っているらしい。ゼルやレイラの思惑を正確に理解しているのは、リリスだけだった。
「リリス。解っていると思うが」
「えぇ。あの人には内緒にしておきます。自分で気が付くまで」
「まったく…… カリオンには過ぎた嫁だな」
「そうですか?」
褒められてまんざらでは無いリリスだが、その姿を楽しそうに見ているレイラの眼差しには母親の愛があった。
「まだまだこれからよ。気を抜いちゃダメ」
「はい、お母さま」
ウンウンと頷くレイラとゼル。一人事情を理解していないカリオンは、部屋の中で腕を組み、考え込んでいる。だが、そうやって洞察力と観察力は鍛えられていくのだから、個々は誰も手を貸さない方が良い。
「ガルディブルクへ戻ったら城の御殿医に診てもらおう」
「そうね」
幸せそうに微笑むレイラは静かに自分の腹部をさすっていた。
それが何を意味するのか、リリスもよくわかっている。
「ちょっと年増だから不安だけど……」
「イヌと違うからな。俺たちは」
「だけど……」
静かに歩み寄ってレイラを抱き締めたゼル。
その姿を見届けて静かに部屋を出たリリス。
まだまだ安心は出来ないのだが、それでも進むしか無い。
見つめ合った二人の唇がそっと重なる。
「頑張ってくれ」
「あなたもね」
「……そうだな」
ゼルの大一番は、それから十日ほど経ったガルディブルクのカウリ邸だった。
よく晴れた日の午後。帝都ガルディブルクに帝王カリオンが帰還した。
親衛隊や騎士団を幾つも従え国内を行幸したカリオンは、市街の大通りを馬に乗って通り過ぎた。大通りの左右は市民が幾重にも重なって『我らの王』を一目見ようと集まっている。
「諸君! 出迎えてくれてありがとう」
歴代の太陽王と違い、若き新王は気さくで飾らない人物だ。そして、市民の中に割って入り、平民達からも直接話を聞く理解ある人物。
王と言えばお高くとまっていて、平民では顔も見られない事が多々あるのだが、カリオン王は街の酒場に繰り出して平気で酒を飲むし、岡場所を冷やかして色街の女たちにも人気があった。
『この国の民全ては我が臣民』
その姿勢で街を行くカリオンは貴族から乞食食い詰めまで、隔てる事無く平等に接している。そんな王が国民から人気を得ないはずが無い。苦々しく思っている者も確かに居るだろうが、それを覆い潰して余り有るほどの歓声が国民から上がるのだった。
「カリオンの人気は凄いわね」
「ほんと」
「あなたも人気じゃない」
カリオン王のやや後方で厳重に護衛された馬車の中には、正妃リリスとエイラが揺られていた。頼もしい後ろ姿をうっとりしながら見ているふたりは、馬車の窓を開けて国民へ手を振って愛想を振りまく事も忘れなかった。
「ところでお義父様は」
「今頃は家の中でカウリと話をしてる頃よ」
「……上手く行くと良いんですが」
「男の人には男の人の手続きがあるのよ」
「手続き?」
「そう。だから、そう言う事は黙って見ていなさい」
「はい」
僅かに表情が曇ったリリス。
しかし、エイラは一点の曇りも無い信頼の表情だった。
「ゼルなら大丈夫よ。こんなピンチは今まで何度でもあったんだから。死にかけて、それを乗り越えて、そして男の人は大きくなるの」
「大きく……?」
「そう。男の子には冒険が必要なのよ。こんな時の為にね」
忘れずに手を振り続けるエイラとリリス。
同じ頃、僅かな供だけを連れてカウリ邸を訪れていたゼルは、通された客間の中で椅子に腰掛け、沈思黙考の時間を過ごしていた。王の帰還というイベントで警備責任者であるトウリを支援していたカウリは、自宅からの呼び出しを受け怪訝な顔で帰ってきた所だった。
「おかえりゼル。だがどうした。カリオンを一人にして」
「あれももう大人だ。多少は手を離しても良いだろう」
「だが、あいつはまだ22だぞ?」
「……あぁ。それは解っている」
ただならぬ雰囲気を纏ったゼルとレイラの姿にカウリは僅かに身構えた。
何か相当重い話題になるはずだ。そんな察しが付いたのだ。
「何があった? 悪い事か?」
「いや、世間的には慶事だろう。ただ、俺とカウリには困った問題だ」
「ワシとゼルに……か?」
「あぁ」
再び黙りこくったゼルは部屋の中で気を練っていた。
隠しても仕方が無い事だから早めに言うべきだ。結局はそれしか無い。
だが、その『言うべき話し』は余りに重い。
「あれこれ考えたんだか、どうやっても良い案が浮かばないんだ。だから単刀直入に言うが……」
「随分回りくどいじゃないか。ワシとゼルの仲は磐石だろうに」
「ただ、そうはいってもな……」
まだ口ごもるゼルは心なしか青ざめていた。難しい事を言おうとしているのは解るが、その中身までをカウリは窺い知る事が出来ない。
「ゼル…… どうしたんだ?」
「……琴莉を。いや、レイラを孕ました」
「はっ?」
「レイラに子供を孕ませたんだよ。妊娠させてしまった。気をつけていたんだが」
「……そうか」
一瞬だけキョトンとした顔をしたカウリは小さな声で『そうか……』と呟いて、そして気忙しげに部屋の中を歩き回った。
「そうか…… そうか…… そうか」
部屋を歩いたカウリがふとゼルを見たとき、ゼルは椅子から立ち上がった後で罪人のように跪いた。
「言い逃れは一切出来ない。もちろん、逃げるつもりも無い。ただ……」
何かを言おうとしたゼルだが、その言葉を遮ったカウリは満面の笑みを浮かべて叫んでいた。
「やったな! でかした! そうか!」
驚いた表情でカウリを見ているゼル。
そんなゼルを立たせたカウリは小躍りするかのように喜んでいた。
「孕んだか! やった! やったぞ!」
満面の笑みを浮かべ何度も何度も頷いているカウリ。
その姿をゼルは不思議そうに見ていた。
「カウリ……」
「ゼル! 正直に言うと、俺はもうダメだと思っていたんだ」
「だめ?」
「あぁ。ヒトの生涯は短く儚い。ワシが調べた限り、この世界へやって来たヒトで100を越えた者は一人もおらなんだ。子をなしたものも多くが30代までで40になって子をなしたモノは数えるほどしかない」
ゼルの両肩をガシッと掴んだカウリ。
その目にはキラリと光る涙があった。
「もう50近いとなればヒトは死ぬ事を考え始めると言う。ワシはそれを聞いたとき、そなたに…… ゼルの代わりをしてカリオンを育て上げてくれたそなたになんと言って詫びようと。どんな言葉で詫びれば良いのかを考えておった」
カウリの瞳からこぼれた涙が白いものの混じり始めた口ひげの辺りを通り、ぽとりと床に床に落ちて黒い染みになった。漆黒の体毛に覆われた黒耀種の男だが、最近は白髪が混じって灰色になりつつある。
頭髪に白いものの混じり始めたゼルもまた灰色になり始めていて、共に歩く姿ともなれば、今は見かけの年齢的に釣り合いが取れている状況だ。
「……カウリ、何を言ってるんだ?」
「そもそもそなたの妻を取り上げたのはワシだ。オマケにワシただ一人の都合で手を付けただけでなく、子を二人も産ませたのだぞ。それも呪われた薬を飲まして、ヒトである事を失わせてまで……」
そんな言葉をカウリが吐いたとき、部屋の扉が開いてトウリが入って来た。トウリはゼルの前で今まさに跪こうとしていた父カウリを見たのだった。
「ヒトもイヌも関係ない。夫婦ならば子は欲しくなろう。男の欲望が捌け口を求めて女を求めるのとは違うものだ。妻ならば愛する夫の子を欲しくなって当然だ。その全てを取り上げたワシは、そなたにこの命を差し出しても足らぬくらいだった」
カウリの懺悔を聞いていたレイラは口に手を当てて驚いていた。
同じようにトウリも驚いている。だが、一番驚いているのは間違いなくゼルだった。長年ゼルのフリをしてきた五輪男は、もはやゼルと呼ばれるほうが自然な状態にまでなっていた。
「カウリ。例えそれがなんであれ。レイラはカウリの妻なんだ。人妻を孕ませた不義と不貞は、いかなる事情があっても肯定されるべきではない」
跪いたカウリは涙を流しつつゼルを見ていた。
「その通りだ。だが、レイラはそもそもアチェィロと言う名で、そしてその根本はコトリと言う名のヒトの女だ。ヒトの男の妻であった。それをワシは取り上げ、手篭めにし、イヌに仕立て上げて妻にしてしまった。これを断罪せずして何を断罪すると言うのだ。そなたは何も間違った事をしておらぬ。少々遅いが、それでもやっと待望の子をなしたヒトの夫婦であろう……」
呆然とカウリの言葉を聞いていたレイラは静かにカウリへと歩み寄った。
「私も良い人に拾われたものだわ」
「レイラ……」
「ゴメンなさい。あなた」
跪いていたカウリの顔をレイラの手が挟む。
「不義密通をした不貞の妻を許してね」
「そなたは……」
「あなたの妻でいさせてとお願いしたのは私のほうよ。だから」
腰をかがめてカウリの額へキスをしたレイラ。
その姿をゼルは黙って見ていた。
「お詫びをするのは私のほう」
「……そうかもしれん。だが」
跪いたままのカウリはレイラを抱き寄せた。そして、レイラの下腹部へ己の額をすり付け目を閉じた。
「健やかであれ 聡明であれ 美しくあれ」
そっと目を開けたカウリの目は、レイラの胎内の奥深いところを見つめるようにしている。
「あまねく地上を照らす太陽の、光りと熱と愛情の恩恵がそなたにも降り注がん事を…… 祝福を受けん事を……」
もう一度すっかり灰色になった額をすり付け目を閉じ、そして。
「そなたの父が待っている。母の愛を持って育つのだ。ワシも…… そなたを待っているぞ」
心からの言葉を吐いたカウリの肩に手を乗せ、ゼルは呟く『スマン』と。
まだまだ若いトウリは、大人たちの責任と言う目に見えないくびきを垣間見て言葉を失っていた。そして、ゼルやレイラやカウリが、自分たちと同じく迷い悩んで歩いている同じ人間なんだと実感していた……
「この子がどう生まれるかが俺は心配なんだよ」
「イヌの姿をしていたならワシの子にすれば良い。何も心配要らない。ヒトの姿であれば……」
腕を組んでしばらく考えたカウリ。
ゼルが悩んだ事の本質をカウリもやっと理解した。
「コトリとイワオの子にするのは少々早いな」
「……だろ?」
「今回の巡幸で拾った事にすれば良い」
「ただ、もしイヌの男だった場合は……」
「そうしたらカリオンの弟だ。マダラの兄弟に育ててやれば良いさ」
楽しそうに笑ったカウリはもう一度レイラの腹を見た。
「王立兵学校始まって以来の秀才に弟が生まれた。その子は間違いなくビッグストンを目指す事になる。どう進んでも何も心配など要らんさ!」
大事そうにレイラの腹をさすったカウリは、満面の笑みを浮かべていた。
「楽しみだ。指折り数えて待っているさ……」
それから幾星霜
再びガルディブルク城の一室
「さぁ、もうひと頑張り」
駆けつけた助産婦のサポートを受けてレイラは一人戦っていた。
今も昔も変わらず、ヒトの出産というのは命懸けだ。
愛用するワンドを握り締め、ウィルケアルヴェルティはベッドの傍らでジッと息を整えている。やや離れた場所に陣取り、そわそわと落ち着き無く様子を伺っているヨハンは、エリクサーのビンを握り締めていた。
「皆はもっと落ち着いて息をしろ。レイラが余計に緊張する」
皆の緊張を解きほぐすように静かな言葉を吐いたゼルは、レイラの傍らに腰を下ろした。膝立ちのレイラはゼルの手を握り、反対の手でおなかをさすっている。
「大丈夫だから…… 大丈夫だから…… 安心して出ていらっしゃい……」
弱々しい言葉で語り掛けているレイラ。その腹をゼルも触れた。
「さぁ、待っているぞ。顔を見せておくれ」
ゼルの言葉が部屋に流れた時、レイラのお腹がグッと動いた。息を呑んで痛みの波をやり過ごしたレイラは、珠の汗を浮かべている。
「そろそろですぞ。さぁ、踏ん張りどころだ」
助産婦の手がレイラの女陰に触れられた。ややあって鈍い音が響き、お腹がより大きく動いた。
「さぁ、出てきた。もう力を抜いて」
レイラの中から赤子が頭を出し始めた。そして、ヌルリと音を立てるようにスルスルと吐き出されていく。重力に引かれて姿を現し始めたゼルとレイラの子は、助産婦の手に受け止められて、この世界に姿を現した。
「どうじゃ!」
「無事のご出産です。今のところ、子に目立った障碍はございません」
「そうか!」
一際大きな声を出したカウリは膝を叩いて喜ぶ中、肺腑の羊水を吐き出した赤子は、この世界最初の空気を吸い込んで生命の唄を歌い始めた。大きな声を響かせている赤子に皆が安堵の表情を浮かべている。
高齢出産による死産の危機を乗り越えた赤子に皆がホッと胸をなでおろす中、ストンと腰を落として一つ息を吐いたレイラをゼルが抱き締めた。
「お疲れさま。大勝負が終ったな」
「うん。だけど、ここからが大変よ」
「あぁ」
丁寧に布で拭き清められた赤子は、予め暖めてあったおくるみに包まれレイラの傍らへとやって来た。そっと受け取ったレイラは慈母の笑みで生まれたばかりの我が子を見つめた。
その姿をジッと見ていたリリスは、覚えているはずの無い『自らが最初に見た母親の姿』をイメージした。優しい笑みで自分を見下ろしている母レイラの姿。その表情は、今まさに目の前で産み落としたばかりの我が子を見ているレイラの姿そのものだ。
「女の子だ」
「男の子が良かった?」
「いや、女の子でよかった。男だったら……」
ゼルの目がカウリを捉えた。そしてカウリも僅かに頷いた。
「そうだな。もし男子だったなら、色々と気を揉むところだった」
仮にも現帝王の兄弟に当る事になる。王位継承権など面倒な手続きが山積する筈だったのだ。幸か不幸かル・ガルでは女子に王位継承権は発生しない。もちろん、夫となったものにも発生しない。
国家の主はあくまでノーリの血を直接ひく、アージンの一門でなければ成らないのだ。つまりそうでない者は武力で簒奪するしかないわけで……
「この子の名前は?」
レイラはしっかりとくるまれたわが子を見ていた。
その周りではエイラやリリスも同じように赤子を見ていた。
母の胸に抱かれ眠る赤子は天使の笑みを浮かべていた。
「リサ」
「りさ?」
「あぁ」
レイラの傍らを離れたゼルはテーブルの上の紙の上にペンを走らせた。
やや丸くなった字は『理沙』と書かれていて、その文字を読めるのはレイラだけだった。
「漢字を見たのは久しぶりだわ」
「まだ読めるか?」
「えぇ。もちろん」
レイラの腕に抱かれた娘リサをジッと見ていたゼル。
再び歩み寄ったその腕へ、レイラはリサを渡して満足そうに笑っていた。
「どうかこの子にも優しい光りが降り注ぎますように……」
そっと合掌して祈ったレイラをチラリと見てから、ゼルはリサの額へキスした。
心からの祝福を送ったゼルもまた祈った。
「どうか、強く生きてくれ」
スヤスヤと眠るリサをジッと見つめ、ゼルは微笑み続けていた。
「父上」
「カリオン」
横からそっとリサをのぞいたカリオンは、ゼルから手渡された『末妹』の重みを感じていた。
「この子の行く末をお前に託すぞ」
「……はい」
カリオンとリリスが並んでリサを見ている中、ゼルはレイラの傍らで手を握っていた。
「ゼルとレイラはお似合いの夫婦だな」
「そうね、私より似合ってるわ」
カウリとエイラも二人を祝福した。
その言葉を耳にしたゼルは素直にレイラを抱き寄せている。
「わたし…… やっとあなたの妻になった気がする」
「……そうかもしれないな」
「だけど、偶然って怖いわ」
「何でだ?」
「だって、今日は1月の31日よ?」
レイラの言葉にハッとした表情を浮かべたゼルは、ほんの数秒間だけ固まった後で柔らかに笑っていた。
「そうだ…… 気が付かなかった。ダメな夫を許してくれ」
レイラへと詫びたゼルの言葉にエイラもカウリも不思議そうな表情になった。
その種明かしをするようにゼルは口を開く。どこか恥ずかしそうにしながら。
「今日はヒトの世界では特別な日なんだ。愛妻の日と言って、夫が妻への愛を再確認する日なんだよ……」
ジッとレイラを見ているゼル。
そのふたりを皆が優しく見守っている。
「そして、俺とレイラには…… いや、俺と琴莉にはもっと特別なんだ」
琴莉と真名を呼ばれたレイラが申し訳無さそうにエイラを見た。そして、カウリも見た。だが、ゼルは。五輪男はわき目も振らず真っ直ぐに琴莉を見ていた。
「今日は俺と琴莉の結婚記念日なんだ」
「そしてリサの誕生日になったね」
「あぁ……」
ギュッと琴莉を抱き締めた五輪男。そのふたりを皆が見ていた。
カリオン王23歳の日。命の責任と言うものを、彼は覚えた。
……ただ。
この時点ではまだ誰も知らなかった。ゼルとレイラから。五輪男と琴莉から生まれたこの理沙が、カリオンやリリスとは違う、重い運命を背負っている事を。若き王を巡る苛烈な運命は、この日はじめて音を立ててゆっくりとまわり始めるのだった……