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ノダ王死去

 雪の降らないガルディブルクの郊外はまれに見る雪原だった。

 市街地であれば住人による自主的な除雪作業も行われているのだが、一歩街外れへと踏み出てみれば、そこは白銀の原野だ。

 そんな白い大地となったエリアには馬の蹄の跡が続き、そして、まるでソリのようになったと思しき馬車の轍が残っていた。


「若!」

「あぁ! このまま行くぞ!」


 カリオンはモレラの手綱を握り雪原を駆けていく。

 右を見ればジョニーが馬で駆けていて、左にはアレックスが同じようにしているのだった。そして、カリオンから幾何か先の所にはゼルがマントを翻し、馬上で腕組みをしていた。

 手綱から手を離し、厳しい表情で前方を見据えるゼルは、不意に左右の手を両側に広げ、後方に続く騎兵達へ指示を出しているのだった。


「父上!」

「どうした」

「馬車は何処へ消えたのでしょう?」

「さぁな。先ずは跡を付ける事だ」

「その次は?」

「罠に注意だ」


 後方を駆けている騎兵を何騎か呼び寄せたゼルは、自分とカリオンの間に騎兵将校を割り込ませた。


「カリオン! お前はそれ以上前に出るな」

「しかし!」

「指揮官の仕事を覚えろ」


 厳しい表情を僅かに緩めたゼルはニヤリと笑っていた。


「常に先頭に立つばかりが仕事じゃ無いんだ。時には生き残る努力も必要と言う事をしっかりと理解するんだ。いいな」


 一方的に物を言ったゼルは馬の速度を緩めずグングンと加速して走って行く。

 それに遅れないように付いていくカリオンは、遠くに黒い小さな点を見つけていた。そこらの騎兵よりも余程目の良いカリオンの場合は、地平線の向こうに見える馬の尻尾ですらも見分けられるのだった。


「若! あれを!」

「あぁ、見えてる」

「総監殿は」

「父上にも見えている事だろう」


 カリオンを取り囲む騎兵の輪は隙間が無く、カリオンはその輪を割って前に出る事が出来ないでいた。ややいらつき気味であったが、それでも辛抱強く前へと出る機会をうかがっていたのだが……


「総員抜刀!」


 突然ゼルの声が響いた。

 それに合わせ、カリオンを囲んでいた騎兵の輪が開きはじめていた。


 ――よし!


 チャンスだとばかり前に出ようとしたカリオンだが、その前を走っていた騎兵達は全員がゼルの馬術に置いて行かれてしまった。先頭を走っていたゼルは姿勢を低く保ち、馬を一気に加速させて一頭地前に出ていた。


 ――え?


 それは理解しがたい光景だった。カリオンは短く驚きの言葉を呟いて、そして馬を加速させている。だが、そんな努力をあざ笑うかのようにゼルの馬はグングンと加速していき、遠くに見えていた小さな点でしか無い馬車へと襲いかかっていくのだった。


 ――そんなバカな


 レラの血を受け継ぐモレラは雪原での走りに類い希な才覚を発揮する馬だ。だが、そのモレラを置いてけぼりにするほどの加速を見せたゼルの馬は雪の上を飛ぶように走っていた。

 そして、その馬上にあったゼルは背中に背負っていた驚くほどに刃渡りの長い馬上太刀を抜くと、一言も発さずに馬車後方を走っていた賊徒の身体を真っ二つに切り裂くのだった。


「なんだてめぇは!」


 荒くれ男の怒声が響く。

 しかし、ゼルはそんな声など一切気にする事無く、周囲の馬を次々と切り捨てていった。白銀の雪原に雪原の模様が広がり、一騎また一騎と姿勢を崩し斃れていくのだ。


「野郎共! そのマダラ野郎を始末しろ!」

「へい! 親分!」


 そんな声がカリオンにも聞こえた。

 何とも長閑な事だと苦笑いを浮かべたのだが、その眼差しの向こうに居るゼルの表情は怒り狂った獣の如しだった。


「てめぇ! やっちま……」


 次の瞬間、ゼルへと襲いかかっていた賊徒の首が胴体から離れた。

 全力疾走している馬上で有りながら、ゼルは驚くほどの正確さで太刀を捌き、賊徒達の首や脇腹。そして膝などの弱点を切り刻みつつあった。

 次々と落馬する賊徒は後続の騎兵達が確実に踏み殺していて、ただの一人たりとも生き残りが生まれる状況では無かった。


「調子に乗りやがって!」


 賊徒の親玉と思しき男が馬車の御者台で弓を引いた。

 馬車まではまだ距離が有る。剣で斬り掛かる距離では無い。つまり、弓の方が有利だ。カリオンの背に冷たいモノが走った。だが……


   パンッ!


 乾いた音が雪原に響き、次の瞬間には弓を抱えていた賊徒の親玉が眉間に穴を開けて雪原に転がった。どう見ても即死だった。


 ――父上がまたヒトの世界の武器を使っている


 カリオンだけで無く周りの者までもが、ゼルの使った必殺の兵器に驚いている。

 だが、当のゼルはそんな周囲を気に止めず、そのまま走りつつ周囲の兵士を射殺し続けていた。


「待て! 待ってくれ! 死にた……


 そこから先の言葉は無かった。

 ゼルの手から正確に撃ち出された鉄の矢じりは、恐るべき速度で雪原を飛翔していく、そして、賊徒の眉間を打ち抜いていた。

 必ず一撃で全ての賊徒を死に至らしめるその威力は理解の範疇を軽く超え、カリオンは僅かに身震いを覚えた。アレで撃たれたら間違い無く死ぬのだと理解したのだ。

 カリオンの耳に乾いた破裂音が届く都度に、雪原へと死体が転がる。そして気がつけば、逃げている賊徒達の行動目的が営利誘拐ではなく死からの逃避に切り替わっている。

 ふと、カリオンは父ゼルの表情を見たいと思った。ヒトの男がどんな表情をしているのか。それが気になったのだ。


「大人しく止まれば命までは取らんぞ」


 ゼルの声が雪原に響いた。

 その言葉にカリオンは驚くより他なかった。

 賊徒を捕縛し、情報を吐かせるのだと思ったからだ。

 

 こんな状況の時だと、イヌの騎兵ならば間違い無く全滅させる事を選ぶ。

 だが、ゼルはそれをせずに次の一手を選ぶ選択肢を探していたのだった。


 ――感情にまかせて行動するなと言う事か……


 また一つ教えられたとほくそ笑んでいたカリオン。

 同じ頃、馬車は遂にその歩みを止めた。


「頼む! 殺さないでくれ!」


 御者台の上でガタガタと震える男は灰色の毛並みをした雑種だった。

 無様に鼻水まで垂らしながら、両手を合わせて命乞いをしている。


「依頼主は誰だ?」


 馬上にあって慎重に距離を詰めたゼル。

 手には南部M60が握られていた。


「……知らない!」


 一瞬だけ逡巡した賊徒がそう叫ぶと、ゼルは薄笑いを浮かべてから雑種の男の足を撃った。痛みに叫び声を上げたその男を騎兵達が取り押さえ、ズルズルと引きずられて雪原へ放り出された。


「言いたくなければ黙っていれば良い。ただ、迎える結末は残念な事になるがな」


 ニヤリと笑いながらゼルは南部のハンマーを起こす。

 雑種の男にとってその動きが何を意味するのか理解する事は出来ない。

 だが、少なくとも現状では間違い無く殺される事だけは理解していた。


「頼む! 殺さないでくれぇ! 金が! 金が必要だったんだ!」

「それは君の行いによるな。素直に洗いざらい喋ってくれるなら助かるんだが」


 ゼルは懐から小さな革袋を取り出した。手の上でポンポンと弄ぶその袋からはジャラジャラと金の音が漏れた。


「この中にダトゥン銀貨で5トゥン分入っている。情報量としては破格だと思うが君はどう思うかね?」


 カリオンは驚くより他なかった。

 ゼルがいま言った事はつまり……


 ――5トゥンで依頼主を売れ


 そう言う事だ。

 信義と信頼を社会規範とするイヌの国にあって、金で仲間を売るとのは最もゲスな事だ。だが、ゼルは賊徒の買収に掛かったのだった。


 ――あぁ、そうか。金をもらって人を掠うなどゲスの極みか


 そんな結論に達したカリオンは事の流れを傍観する事に決めた。ゼルがどう裁可を下すのかを見て学ぶ場だ。つまり、その為に自分が同伴する事をゼルに許されたのだとも思っていた。


「雇い主はどこかの貴族様だ。名前は知らない。ただ、多分俺たちなんかじゃ普段は顔も見られないようなお方だ」

「ほう」

「親分はこの仕事が成功したら貴族様に取り立ててもらうんだって張り切ってたんだよ!」


 賊徒の話しを聞きつつ、ゼルは『馬車の中身を回収しろ』と騎兵達に指で指示を出した。即座にヨハンが動き出し、粗末な馬車の扉を開ける。中には普段着姿のリリスとレイラが両手足を縛られ、目隠し猿轡状態で押し込まれていたのだった。


「まぁ、いかな事情があるにせぇ、ご婦人ふたりに手荒な扱いは了見出来んな」

「死んでなけりゃ良いって言われたんだ!」

「……そうか。で掠った後はどうするつもりだったんだ?」

「俺はしらねぇ」

「そうか」


 ウンウンと頷いたゼルは馬から下り、ゆっくりと雑種の男に近づく。


「これは情報代だ。いま聞いた話でだいたい見当が付いたさ。ご苦労だった。これは持って帰って良い」


 そう良いながら、雑種の男の懐に革袋を押し込んだゼル。

 そのまま数歩下がり、薄ら笑いを浮かべたまま男を見ていた。


「ただな。仮にも誘拐を働いた犯罪者をそのまま帰すわけにはいかん」


 瞬間、絶望の表情を浮かべた男は目に見えて落胆した。


「金が要るんだろう? 家族か? 兄弟か? 親か? 人それぞれに理由はあるものだ。だからといって犯罪に手を染めて良いと言う事では無い。それ位は解るな」


 その問いの返答を聞く前に、ゼルは目にも止まらぬ速度で太刀を鞘ごと抜き払い、男の両肩鎖骨と両膝の骨を激しく殴りつけた。鈍い音を響かせ骨が砕け、男はその激痛に絶叫をあげた。

 僅かに血飛沫が舞い、思わず目を背けたカリオン。何とはなしに見た物は粗末な馬車だった。その前ではヨハン達の手によりリリスとレイラが処置を受けていた。そんなシーンを見たカリオンは、リリスと目が合ったのだった。


「……エディ!」


 縛られていたリリスが自由を取り戻すと、一目散にカリオンへと駆けていった。


「どこか怪我してないか?」

「大丈夫。だけど……」


 カリオンは両目一杯に涙をためたリリスを馬上へと抱き寄せ、力一杯にギュッと抱き締めた。その腕の中でガタガタと震えるリリスは恨みがましい目で賊徒を見ていた。


「レイラ! 怪我は無いか?」

「えぇ、大丈夫」

「そうか…… 良かった…… 良かった」


 ゆっくりとレイラに歩み寄ったゼルは、騎兵達が見ている前だというのに遠慮無くレイラを抱き締めた。


「本当に良かった」

「……ありがとう」

「しゃらくせぇ!」


 きつく抱き締め、そのままキスしたゼル。

 一瞬だけ『アッ……』と思ったのだが、そのままキスを受けたレイラは、遠慮する事無くゼルの首に手を回して甘えた素振りを見せ、そのまま今度は自分からキスしに行ったのだった。


「さて、帰るか……」

「ですが父上。あいつは」

「あぁ」


 馬に跨がったゼルは両腕の中にレイラを囲っていた。


「気にする事は無い。きっと金が要るんだろう。その一念があれば生き残るさ」

「しかし!」


 ゼルにしては詰めが甘い。そう言いたい表情をしたヨハン達も怪訝な表情だ。

 だが、ゼルはそんな事を一切気に止めず、馬の首を返して前へ進ませた。


「良いから帰るぞ。次があるんだ」


 ニヤリと笑うゼルは馬上でカリオンを見た。


「後ろは振り返らなくて良い」


 雪原に取り残された賊徒の雑種が何事か怨嗟の声を上げている。

 痛みと後悔に身体中を焼かれながら、この世の全てを呪っている。

 だが、その全ては自らの選択の結果でしか無い。


「誰も恨まない。誰も恨めない。自分の選択が出した結果は受け容れるしか無いんだよ。その中でベストを尽くせば良いのさ…… だよな?」

「……その通りね」


 馬上でそんな言葉を交わすゼルとレイラ。

 カリオンは馬車から馬を放してやり、予備の鞍を乗せて跨がった。


「リリスはモレラに乗っていけよ」

「……けち」

「え?」


 コケティッシュな表情でゼルとレイラをチラリと見てから、何かを言いたそうな表情でカリオンを見た。


「……わかったよ」


 困ったなぁと言う表情でもう一度モレラに跨がったカリオンは、リリスを引っ張り上げて自分の腕で囲った。


「ここ暖かい」

「モレラにも言ってやってくれ」

「そうだね」


 ニコニコと笑うリリスはモレラのたてがみを撫で、そして首に抱きついてチュッとキスをした。


「ゴメンねモレラ。ありがとう」


 小さく嘶いて勝手に歩き始めたモレラ。

 もう一度カリオンの胸に戻ったリリスは安心しきった表情で身体を預けていた。


「酷い目に遭ったな」

「うん。でも、絶対助けに来てくれるって信じてたよ」

「そうか。期待に応えられて良かった」


 手綱から手を離し、もう一度ギュッと抱き締めたカリオン。

 ゆっくりと馬を進めながらミタラスへと向かうのだが、遠くに黒い煙を見つけカリオンは表情が変わった。


「カリオン! 急ぐぞ!」

「はい!」


 ゆっくりと走っていた筈のゼルだが、急に馬の速度を上げた。

 ふたり乗っているのだから速度は乗らない。だが、身体中に虫でも這い回るような焦燥感を覚えたカリオンは、ゼルと共に先を急ぐのだった。






 同じ頃。ガルディブルク城内。





「城内へ鼠賊が侵入したぞ!」

「火を消し止めよ!」

「玉座回廊を閉鎖しろ!」

「王はいずこに!」

「太陽の間におわすはず」


 それほど広いとは言えないガルディブルク城だが、ミタラスを見下ろすインカルウシの巨石に乗るその建物は決して小さくは無い。その城内では城詰めの者達が大慌てで走り回っていた。あろう事か、王の居城である城が火災に遭っていたのだ。


「手空きの者を集めよ! 最優先で火を消せ!」

「お前は何者だ! なんの権限があって指揮を行う!」

「やかましい! 先ず火を消すんだ!」


 様々なポジションに居る者達が組織の垣根を跳び越えて指示を出している。だがしかし、極度に縦割り化しているイヌ社会の悪い面が遺憾なく発揮され、燃える火元を余所に主導権争いが起きていた。


「火元は何処!」

「厨房と思われる!」


 一番最初に火の手が上がったのは、城の裏手にある統合厨房だった。城内の供食機能を一手に引き受けるこの厨房は大きな竈を幾つも並べる巨大な施設だ。常時火を保っている所故に不寝番の保火役が居るのだが、城内警備を受け持つ騎士達が抜け出た間に厨房警備担当の者が2名、首を切り落とされ惨殺されていた。


「水だ! 水を汲め!」


 厨房担当の供食班がバケツリレーで水を厨房へ送る中、今度は城内の各所で一斉に火の手が上がりはじめた。事態の収拾を図るべく急遽城へやってきた公爵ダグラス卿は、組織の壁を越えて指示を送りはじめている。


「何が起きた!」


 そんなところへやって来たのはゼルとカリオンだ。リリスとレイラを連れ城へ戻ったのだが、城内は混乱を極めているのだった。


「城内に鼠賊が侵入した。各所に放火を謀り、混乱を引き起こしている」


 ダグラス卿は手短に説明した。その話を聞いたゼルはアゴに手をやり、上目遣いで城内をグルリと見回してからジロリとキツい眼差しでカリオンを見ていた。


「カリオン、リリスとレイラを守れ。ダグラス卿、城内の消火活動を一任する。ただし、いかなる者でも城内から外へ出さないよう注意して欲しい。それから、卿の手下を少々拝借する」


 一方的に話をしたゼルは近衛連隊の若者を引き連れ、城内を玉座へと向かって歩き始めた。背のマントがなびく程の大股でだ。


「スペンサー卿!」

「ハッ!」


 ダグラス卿の所へ向かっていた侯爵スペンサー卿を捕まえたゼルは床を指さして指示を出した。


「玉座回廊に非常線を張って欲しい。玉座の間から戻る者は、いかなる者でもここへ足止めを」

「承知!」


 再び進んでいくゼルは玉座の間からやって来る人影を見つけた。

 侍従院の女官が幾人かやって来てゼルとすれ違ったのだ。


「待たれよ!」

「はい」

「玉座にいかなご用件か?」

「王が温茶をご所望されましたので、お届けしたところでございます」

「さようか。しかし、その茶、どうやって温めた?」

「え?」


 怪訝な表情になった女官たち。

 ゼルの背後にいた近衛騎兵の表情も怪訝に曇る。


「厨房は火災に見舞われているのだが?」

「……まことですか?」


 新鮮に驚く女官たちをジッと見たゼルの顔に、明確な殺意が浮かび上がった。


「この者達を隔離せよ。玉座へ急げ!」


 突然走り出したゼルは問答無用でノダの居室へと飛び込んだ。

 普段であれば複数名の番兵が待つ所なのだが、リリスろレイラの追跡に近衛兵を取られた城内では番兵すらいない状態だった。


 ――しまった!


 裸城の様になったノダの居室を前に五輪男(ゼル)は悪手を呪った。

 幾段にも張り巡らされた深謀遠慮の策略だったと気がついたのだ。


「父上」

「……やられた」

「え?」

「レイラとリリスは囮だった」

「おとり?」

「いや、囮ではなく、まとめて処分する算段だった可能性がある」


 厳しい表情のままノダの居室へと入ったゼルとカリオン。その二人の前には血を吐いて床に倒れているノダの姿があった。


「ノダ!」


 慌てて駆け寄ったゼル。カリオンも横からノダを覗き込んだ。虫の息で今にも事切れそうなノダは、小さな声でうわごとの様に『アンジェリカ……』と想い人の名を呟いていた。


「誰ぞあるか! 医者だ! 典医を呼べ! 早く!」


 ゼルの声に弾かれ一緒に部屋へと入っていた近衛騎兵達が一斉に動き始める。


「カリオン!」

「はい!」

「吐き出す息の臭いを嗅いでみろ」

「え?」

「何の臭いがする?」


 言われるままにノダの息の臭いを確かめたカリオンは、その悪臭に顔をしかめつつも冷静に考えた。


「甘い臭い。それと、豆の臭い」

「まめ?」

「落花生の臭い」


 一瞬だけ間が空いたゼルは懐からハンカチを取り出すと、右手にグルリと巻いてからノダの口の中へ手を突っ込んだ。生理反応としてえづいたノダは黄土色になった胃液を大量に吐き出した。


「それに手を触れるな! 青酸カリだ!」


 新鮮なピーナッツ臭のするその胃液は、警察学校の毒物教育で教えられたそのものの臭いだった。鼻を突く異臭に顔をしかめつつ、ゼルはすぐ近くにあった水差しを手にとって蓋を取り、中の臭いをかいだ。


「カリオン! これに同じ臭いはするか?」

「しない!」


 クンクンと臭いをかいだカリオンは即答した。その水をノダの胃の中へ流し込んだゼルは、再び口の中へ手を突っ込んで胃液を吐き出させる。簡易的な胃洗浄の方法だが、誤嚥性肺炎の危険を避けて医療的手段によりそれを行う技術はここには無いのだった。


「ノダ! しっかりしろ! ここで死ぬな!」


 典医の駆けつけた居室の中、ノダの胃洗浄を続けたゼルは、切り札の一つであるエリクサーの蓋を取って口の中へ少しずつ流し込んだ。えづいて咳き込みつつ僅かに飲んだノダだが、エリクサーを飲んだ直後に見せる嘔吐を起さなかった。


「ノダ……」

「……ゼルか」


 弱々しく言葉を吐いたノダは、朦朧とした目つきでゼルを見た。


「カリオンはいるか」

「はい、ここに」

「そなたに王位を譲る」


 王の異変を聞きつけ部屋へとやって来た公爵五家の当主が勢ぞろいし始める中、ノダは最期の言葉を呟いていた。


「カリオン。そなたはまだ若い。経験も浅い。だが、最高の頭脳がそなたの周りには揃っている。その者達を上手く使い国を導け。ル・ガルを頼む」

「ノダ伯父さん!」

「カリオン。いやさ、エイダ。お前が生まれた時から、お前が次の王になる事は解っていたんだ。お前はまだこれからの人間だ。ゼルとカウリの言葉を聞き、より一層成長するんだ。そして、フレミナを……」


 何かを言いかけ再び吐血したノダ。

 その血を浴びたゼルはノダの背をさすりながら肺の中の血を全部吐かせていた。


「ゼル、いや。ワタラ。そなたにも更なる負担を掛ける事になる。スマヌ。だが、カリオンを頼む。そしてル・ガルを頼む」

「……あぁ。心配するな」


 僅かに微笑んだノダは公爵五家の当主を呼んだ。


「今、余はカリオンに王位を譲れり。そなたらが証人だ。王家を支え、国家を栄えさせ、国民を護ってくれ。頼む」


 ダグラス卿やセオドア卿が傍らに片膝をつく中、ノダは満足そうに微笑んだ。


「我がアージンの一門は代を重ねるごとに強くなっていく。いま、王位はアージン最強の男に受け継がれた。何も心配する事など無い。世の苦しみは……帝国の苦しみぞ。そして、五千万余な国民の苦しみぞ。カリオン。そなたに全てを託す」


 薄ら笑いを浮かべたままノダは静かに息を引き取った。

 取り囲んでいた公爵家達が剣を捧げる中、カリオンは方膝を付いて先王に心からの敬意を示すのだった。


「謹んで……拝命いたします」


 カリオンはついに、太陽王へ手を掛けたのだった。


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