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惚れた女を助けに行くんだ!

 新年を迎えたガルディブルクは寒い日が続いていた。

 暖かな海流の巡る紅珊瑚海は天然の暖房そのもので、ガルディアラ大陸の南半分を優しく温めている。だが、その暖かな空気がひとたび低気圧となれば、北方より凍てついた冬将軍をこの街へと呼び込む事になり、海に面したこの街も年に何度かは雪の朝を迎えるのだった。


 雪に慣れていない街の住人が恐る恐る街を行くなか、寒冷地出身の者達は遠い故郷を思い出し感傷に浸る事も多い。ただ、雪に慣れているとなると受け持つ仕事も出てくるもので、街中の除雪指揮と共に王立歌劇場で上演される特別な演目の公報をするべく、街中に掲示板を彼らは巡っていた。


 ――南の街に…… 雪が降る……


 王都ガルディブルクに降る雪は、淡くはかなく、幻のように溶けていく。そんな歌詞で続く王都歌劇団の歌劇(オペラ)は、王都が白く染まった頃にしか上演されない特別なステージで、上流階級達だけで無くオペラファンの市民達も着飾って歌劇場へ詰めかけるのだった。


 そんな日の昼下がり。浮かれ上がった市民や雪遊びに興じる子供達と余所に、城の中ではル・ガルの指導階級を集め、ゼルによる特別講義が開講していた。と言っても、受講する生徒は両手の指が余る程だ。


 この日、ゼルが行っていたのは『ヒトの世界の政治形態とその進化について』という内容の講義で、その話を聞いていたのはカウリやトウリやノダと言ったアージンの男達と、カリオンを中心にしたジョニーとアレックスのコンビ。その他には誰も居ない全く持って特別な講義だった。


 大きめの黒板を持ち込んだ部屋の中ではゼルが白墨を走らせ政治システムについて淡々と説明を続けている。ヒトの世界における貴族の存在と、その義務や責務を果たす理由。議会制民主主義に至った政治的闘争。独裁者の台頭と民衆の熱狂。そしてそれらが辿る破局的結末の残酷さ。


 ――彼らは必ず最後にこう言います『もう誰も信用出来ない』と


 頂点に立つ者は誰しも孤独であり、その周辺に居る者は頂点の太鼓持ちに落ちぶれる。蝶よ花よとおだて上げられ祭り上げられ有頂天になって、でも、その権力が暴走し、最後は必ず民衆によって死を迎えるのだ。


「つまり、ヒトの世界の政治も一筋縄ではいかないのだな」


 ノダ帝の深い溜息には頂点の懊悩が溢れた。王とは全ての責任を負わねばならない立場だ。全てを思いのままに出来るという幻想を持つ者も多いが、現実には利害調整に奔走し、双方を宥め玉虫色の決着にこぎ着ける調整力を求められる。

 ゼルの言葉に出てくる様々な経歴を経て独裁者となった者達に対し、ノダは心からの同情を覚えていた。イエスマンばかりを周辺に並べ良い気になって政治をするとどうなるのか。ゼルは遠回しにノダへ帝王学を教えているのだと思っていた。


 だが。


「匿名の多数決で決めれば誰も責任を負わないと言う事だな」


 立憲君主制や独裁制を経てたどり着く議会制民主主義は、その最大の構造的欠陥とも言える部分を常に孕んでおり、カウリはその存在を喝破しつつゼルの言葉に腕を組んで思案していた。

 俗に言う、最良の独裁と最悪の民主主義のどちらが良いのか?と言う質問は、王と貴族の国家であるル・ガルに於いても不変の懊悩をもたらす難しい問題でしかなかった。


「結局の所、『その議員を選んだ国民が悪い』という部分を国民がどれ位理解しているかがキモなんですよ。国民にある程度の教育が成されていれば良いのですがね。どんな社会にもバカとクズは現れます。そして、その連中は自分の責任と言う部分を理解せず『国が悪い・役人が悪い・自分以外の誰かが悪い』と愚痴を吐くわけです。これじゃ国は絶対に良くなりません。ですが、その類いのバカは、国という物が自分とは関係無い物と思い込んでるんです」


 困った様な顔で苦笑いするゼルを余所に、トウリとカリオンは顔を見合わせて何事かを話している。黒板の前で白墨を握るゼルは再び絵を描き始めた。


「考えても解らないし、総体が掴めないから理解も出来ない。だから考えるのを止める。或いは、存在を無視する。そして、ただ、なんとなく耳に入ってくる各陣営の言葉の上っ面だけで判断してしまう。その結果、自分たちの生活が極端に悪化したり、或いは、仕事や職を失ったり収入が途絶えたりしても、その全ては国が悪いと片付けてしまうわけです。実に愚かですよ」


 一つ息を吐いて黒板の絵を消したゼルは、再び何事かの絵を描き始めた。独裁者が一人か、それとも一般大衆かの違いでしか無いのだ。

 本当の政治家、真に優れた政治家という物は、国民に痛みを強いる事になったとしても国家の将来の為に必要な事を強い意志で推し進める事が必要なのだ。国民の生活が苦しくなろうと、税を上げねばならない時が来る。血を流す事になろうと戦に備えねばならない時が来る。危険なのを承知で必要な施設を作る。

 だが、それをすれば次の選挙で通らない。当選しない。議会制民主主義という物は、結局国民の教育レベルと『頭のデキ』に左右される仕組みだ。そして、選挙に通りさえすれば代議士(せんせい)さまなのだから、国民の耳に心地よい言葉を並べ詐欺まがいの選挙で当選を果たそうとする。

 そんなゼルに対し、カリオンは正直な質問をぶつけるのだった。


「では、理想の政治形態とはなんでしょうか?」

「難しい質問だが答えは一つしか無い」


 ゼルは書いていた図解の絵を描き直した。


「政を司る者は国民の太鼓持ちになってはならない。時には国民が厭がる事や避けて通りたい事にも真正面から対処する事が要求される。つまり、嫌がる子供に苦い薬を飲ませるのと一緒だ。国民に税を課すと言うなら国民は嫌がるだろう。国家のメンツの為に兵役を課す事もある。そして逆に、国のメンツを切り売りしてでも他国に譲歩しなければならない時がある。その時、自国の都合だけで無く、自分の都合で、つまり、さっき言ったように『次の選挙で通らない。当選しない』そう言う事態になっても必要な事が行える事。そしてそれを国民が理解している事。その二つが荷車の両輪としてちゃんと回転するのであれば、議会制民主主義以上の政治形態は無い。俺はそう思う」


 立て板に水と言う状態で説明していたゼル。その言葉を聞いたカリオンはジョニーやアレックスと顔を見合わせていた。


「つまり、逆に最悪の民主主義というと……」


 腕組みしたアレックスがボソリと零す。


「選挙で当選したいが為に出来もしない約束を乱発するって事か」

「そう言う事だな。税金を安くしますとか兵役を課しませんとか」


 ジョニーとカリオンが半ば呆れたように呟いた。


「そう言う事だ。そして、その手の政治家という生き物は、自分の政策が失敗しても必至になって逃げ回る物だ。嘘をつく事に抵抗がないのだから『まだ腹案がある』だとか『私を信じてください』と平気で言うんだよ。選挙の段階では威勢の良い言葉を並べて『一度やらせてみてください!』などと言うが、いざ蓋を開けてみれば本当に酷い政治をするもんだ。国を動かすというのはそう簡単なモンじゃ無いんだよ」


 どこか呆れていたようなゼルだが、その言葉は未来の王であるカリオンを教え諭す物だと皆は気が付いている。もちろんカリオンもだ。自らの知識や経験を一つでも多く息子に残していきたい。そう願う父親の姿を皆が見守っていた。

 そんな時だ。部屋の中へ黒尽くめの男が突然入ってきて、カウリの耳元で何事かを囁き、スッと消えていなくなった。


「何事だ」


 ノダ王の表情が曇る。その隣ではカウリは悪い笑みを浮かべていた。


「どうやらフレミナが動くようだな」

「動く? この雪の中で何を起こすんだ?」

「まだ解らん。だが、フレミナの屋敷から人が一斉に出たそうだ」

「……そうか」

「馬車を使うらしいな。さて、何をするのやら」


 その様子を見ていたゼルは白墨をケースに収め講義終了の状態になった。丁寧に黒板の文字を消し去りながら、薄笑いを浮かべ振り返る。


「さて、では準備しましょう。恐らくこちらが講義しているのを知っての動きでしょうし。しかし、馬車を何にするんでしょうか?」


 僅かに首を傾げるゼルをよそに、ジョニーは小声でボソリと呟く。


「おぃエディ」

「ん?」

「リリスはどうした?」

「家だ。今日はおふくろさんの手伝いでヒトの学校の面倒を見ている」

「……やばくねぇ?」


 ジョニーの目に緊張が走る。最初にカリオンが考えたのはカウリの自宅へ突入し、カウリの一族朗等を皆殺しにする事だった。だが、それだと馬車の使い道を説明できないし、暗殺者の団体を送り込むにしたって馬車は目立ちすぎる。ならば違う使い方をするか、さもなくば囮か……


「ワシは一旦自宅へ戻る。その上で……


 カウリが何かを察して対応手順を言おうとした時、皆が揃う部屋の中へカウリ子飼いの部下がそそくさと入ってきて小声で報告をあげた。


「レイラ様とリリス様が拉致されました。馬車の向かった先は郊外の食料倉庫群かと思われます。現在市内の特高が追跡していま……


 その報告を聞いていたカリオンの顔色がさっと変わった。そして、報告が終わる前にカリオンは部屋を飛び出していた。城の中を全速力で走り、正門脇の番兵小屋へ顔を突っ込んだ。


「すまない! 馬を借りる!」

「殿下!? お待ちを!」

「時間が無いんだ!」


 手近にあった外套と馬の鞍を担ぎあげ、駅逓馬車に使われる馬を馬房から引っ張り出したカリオンは、その背に鞍を乗せるると、衆人環視のど真ん中で颯爽とその鞍へ跨がり、馬の腹を蹴って走り出した。


「手空きの者は殿下に続け!」


 駅逓駐屯の騎兵が数騎、カリオンを追って走り始める。だが、その当人は後方を一切気にする事無く、口にくわえた警笛を馬上で吹きながら馬を走らせていた。

 城下の大通りを駆け抜け繁華街の角を曲がり、広大な市民市場の中を突っ切って先を急ぐ。目指すはカウリの邸宅だ。


「殿下! 何事ですか!」


 やはり歴戦の騎兵は馬の扱いが上手い。カリオンに追いついた騎兵達はカリオン騎を護衛するように周辺を囲んだ。


「城下に押し込み強盗が出たらしい。カウリ卿の邸宅に押し入った賊はレイラ夫人と自分の妻を誘拐し逃走している。それを追跡したい」

「了解しました! 屯所へ繋ぎを取れ! 二騎走れ!」


 カリオンを取り囲んでいた馬が二騎離れていく。だが、カリオンは一分一秒が惜しいと早駆けのまま邸宅まで走り続けた。打ち合わせをする時間すら惜しいと思ったのだ。

 そんな気ばかり焦るままに到着したカウリ卿の屋敷周辺だが、カリオンの目には夥しい数の兵士が映っている。近衛師団の城下警護団と中央総軍の騎兵師団が非常線を張り、槍衾の警備を続けていたのだった。


「何者だ! ここを『責任者は!』


 誰何した兵士の声を遮りカリオンは馬上で叫んだ。その姿に相手が何者か悟った兵士が片膝をつく。

 急な摂政の登場に辺りがざわつくのだが、カリオンの声に反応したのは近衛師団の大佐だった。立派な飾緒を肩から下げた軍本部付き参謀らしいその男は怒り肩で風を切っていた。


「私です。殿下」

「馬車はどっちへ?」

「西へ向かいました!」

「承知!」


 西の方角をチラリと見たあと馬上にて敬礼を送り、その返礼に僅かな首肯で応じた後、カリオンは馬の首を返し走り出そうとした。だが、いきなりその馬の手綱を誰かがひき、カリオンは前につんのめる形で姿勢を崩した。

 思わず『邪魔をするな!』と叫びかけ、一瞬だけ険しい顔になったカリオンだが、その手綱を引いたのは近衛師団へ配属になっていたフレデリックだった。


「先ずは城に戻り善後策を練るんだ。カリオン。君は一兵卒では無い。指揮官なんだ。それもただの指揮官じゃ無い。指揮官達を指揮する者だ。そこを履き違えるべきではない」


 真面目な顔で言い切ったフレデリックに対し『な……』と言葉を短く発して飲み込んだカリオンだが、言われた事はいちいちもっともな事で、しかも何も間違っていない正論だ。


「……ここをお願いします」


 そう言うやいなや、カリオンは再び馬を走らせた。とりあえず一旦はガルディブルク城へと戻らねばならぬ。その上で善後策を考えるべきなのは至極当然の事だった。


 ――リリス……


 気ばかりが焦るカリオンは乗馬のまま正門を通り過ぎた。城詰めの者達が怪訝な表情でカリオンを見ているのだが、当人はそれを思慮する余裕が無かった。王族向けの玄関で馬から降り、一目散に自室へと駆け上がって行く。

 リリスを追跡する以上、賊徒と切り結ぶ可能性がある。慌てて飛び出したカリオンは事実上丸腰だったのだから、最低でもレイピア程度は腰に佩いておきたい。


 ――さて……


 自らのクローゼットへ飛び込み、着込みの鎖帷子(くさりかたびら)と胸当てを装備すると、シュサ帝下賜のレイピアを手に持ち再び飛び出した。だが、そのカリオンの目には、王族プライベートエリアの玄関先で追跡討伐隊を編成し、出発の準備をしているゼルが見えたのだった。


「父上! カウリ卿の邸宅へ行ったのですが……」


 報告をあげようとしていたカリオンだが、その言葉をゼルの手が遮った。


「カリオン! そのザマはなんだ!」


 一言だけ短く発したゼルは硬い表情でカリオンを打ち据えた。その眼差しはまるで太刀のように鋭く、その身に宿す威は大岩の如しだった。そして、近寄っていたカリオンの胸ぐらをゼルの左手がガシッと掴み、カリオンは条件反射で目を閉じてしまった。


 ――って…… え?


 右の頬に鋭い痛み。驚いて目を開けたカリオンは、父ゼルの鉄拳が実に良い角度で自らの右頬を捉えていたのをしった。


「カリオン! お前は何者だ!」


 辺りに響き渡るゼルの怒声。ビッグストンに学ぶカリオンならば、少々のお小言もどうと言う事は無いのだ。だが、ゼルの言葉は心の弱いところを抉るように響いた。


「お前は士官だろう! そして、やがては士官だけで無く全てを束ねる者になるんじゃないのか! 全ての長足らんとする者が個人の都合でバタバタと慌てるんじゃ無い! 浮き足立つんじゃ無い! いかなる時も泰然と過ごし行け! 走るな! 歩け! いかなる時も泰然としていろ! いいな!」


 思わず言葉を飲み込んだカリオンは小さな声で『ハイ』と答え首肯した。

 その姿にゼルも僅かながら頷くと、再び打ち合わせをはじめるのだった。


「父上も行かれるのですか」

「……当たり前じゃ無いか」


 そこまで表情を一切崩していなかったゼルだが、カリオンの言葉に応えつつニヤリと笑った。


「惚れた女の為だ。時に男はいかなる危険をも踏み越えねばならん」


 清々しいまでの覚悟を見せたゼルをカリオンは眩げに見ていた。間違い無くこの時、ゼルは光っていた。決意と覚悟を兼ね備え、いかなる危険へも飛び込んでいく姿を見せたのだ。


「俺も行きます」


 静かに笑ったゼル。

 鎖帷子の合わせを揃えたカリオンは、その上から士官候補生の野戦服をまとっていた。


「ゼル様!」


 編成の終わった討伐隊の各隊長が集まりはじめた。

 総勢百人近い騎兵が近衛連隊の中からピックアップされ、臨時編成となって出動する作戦だ。その先頭に立とうとしていたゼル。馬上甲冑に身を包み、騎兵らしからぬショートソードのみを腰に下げていたゼルだが、その見た目よりも余程重武装な中身でいた。それこそ、近衛師団に混じって追跡に参加しようとしていたジョニーやアレックスが驚くほどに。


「カリオン。お前は留守番をしていろ」

「いえ、そういう訳にはいきません」


 カリオンは静かに笑っていた。自信溢れる笑みでゼルを見るカリオンは、気が付けば頭半分ほどゼルの背を追い越していたのだった。


「おぃおぃ! 冗談だろ!」

「そうだぜエディ。お前は留守番だ」


 ジョンとアレックスもカリオンを止めに入った。仮にも次期帝と言うべき立場の人間だ。万が一にもここで死んでしまっては大事なのだから、留守番となるのが常道だろう。

 だが、そんなふたりの言葉を聞いていたカリオンは、自信たっぷりに笑ってふたりを交互に見た後、胸を張って答えた。


「リリスは俺の后になるんだよ」

「そうだけどよぉ……」


 二の句を付け損ねたジョニー。そんなジョンの困った姿を見とがめたのか、エイラがふらりとやって来てカリオンをたしなめた。


「アナタは留守番しなさい!」

「そう言うわけにはいかないんだ」


 カリオンの表情には凛とした決意がみなぎっている。梃子でも動かない強い意志だ。イヌの王になろうとするなら、ここは決して折れてはいけない。そんな確信がカリオンにはあったのだった。


「時には危険を冒さなきゃならない。たった今、父にそう教えられました」


 カリオンはニコリと笑った。


「王は先頭切って危険な橋を渡らなきゃならない。それ故に運の良い者が選ばれると言う事だ。そうだな、カリオン」


 ゼルはゆっくりと手を伸ばし、カリオンの頭を手で押さえ、決然とした表情で笑っていた。ゼルの顔に浮いていたのは、惚れた女の為に命を賭ける男の決意だった。


「エイラ。すまないが、ちょっと出掛けてくるぞ」

「……えぇ。()()()も気をつけて」


 全てを承知でエイラは笑っていた。ゼルのフリをする五輪男と過ごした日々は、イヌの生涯にしてみれば僅かな期間でしか無いのかも知れない。しかし、ヒトの生涯から考えれば、最も美しく光り輝く頃を一緒に過ごせなかった女の為に、五輪男はいま命を賭けようとしているのだ。

 ならばエイラは笑って送り出し、そして無事な帰りを神に祈るしか無い。無事に目的を果たし、心底惚れた女をその手に取り戻させたい。勿論エイラにだって心のどこかにわだかまる物はある。だが、それを口に出して言うのは憚られるとエイラは思ったのだ。


「すまない。ホントに」

「良いの……」


 エイラの手がゼルの顔をそっと両側から挟んだ。


「あなたの人生を取り戻して……」


 ゼルの耳にしか聞こえないような声で囁いたエイラ。

 その言葉を何度も反芻したゼルは目を閉じて頷いた。


「じゃぁ、行ってくる」


 一歩踏み出したゼルへむけ、オスカーはそっと剣を差し出した。

 すっかり遠くなってしまった日。何度も何度も作り直しながらベストバランスを探し求めて作った『ワタラ専用』の太刀は、イヌ向けの戦太刀とは違い、軽くて強靱な日本刀作りの逸品だった。


「……すまない」

「いや……」


 太刀を渡したオスカーはゼルの横顔をジッと見た。ヒトの世界からやって来たこの男はすっかりイヌの社会の一部へ溶け込み、いまはその義務を果たしている。だが、気がつけばその横顔には否定できない年月の厚みが浮き上がり、イヌに比べれば相対的に短い人生も、ゆっくりと黄昏へ向かいつつあるのだった。


「ヒトはイヌの三倍の速度で老いて行くと言うが……」

「あぁ。その通りだ。そのうちオスカーを追い抜くさ」

「長くそなたの付き人をやってきたが、気がつけばそなたは……」


 オスカーは僅かに涙ぐんだ。

 老いたれば涙脆くなるというが、オスカーはゼルの姿に人生の過酷さを見た。


「……俺は役に立っているか?」

「あぁ」

「ゼルのやりたかった事を真っ当出来ているだろうか」

「若は立派に育たれた。そなたの背負った重荷はもう消えようとしている」

「ならば」

「あぁ。そなたの人生と伴侶を取り戻すのに、誰も反対はしないさ」

「……ここまで無駄ではなかった」


 小さく歩みだしたゼルはオスカーの肩をポンと叩き、馬上マントのフックを締めてから馬上へと上がった。振り返れば近衛師団の騎兵と共にオスカーがいた。


「カリオン!」


 馬上で叫んだゼルはグッと顎を引いて強い眼差しをカリオンに注いだ。

 愛馬モレラに跨り王宮騎士を示す赤い腰帯を巻いた若い男はレイピアの柄を握りながら抜け落ちないよう確かめていたのだった。


「父上」

「いいか?」

「はい!」


 ニヤリと笑ったゼルは渋い声音で言った。


「命を惜しむな。名を惜しめ」

「はい!」

「ヒトの世界ではこういうんだ」


 太刀を抜き払ったゼルが笑う。


「命は百年。名は百代。永久に剛勇を轟かせよ! 良いな!」

「はい!」


 今まさに飛び出さんとしてるカリオンもまた太刀を抜き放った。


「若、どうあっても行かれますか」


 モレラの引き綱を握っていたヨハンは心配そうにカリオンを見上げた。

 産まれた時から見守ってきたマダラの少年はいま、人生の大勝負に出ようとしていたのだ。


「勿論だよ。だってリリスは僕の奥さんなんだ」

「それはそうですが、いくら何でも無茶です」

「無茶は承知だ」


 カリオンはニコリと笑った。


「だけど、危ない危ないで逃げ回ってる様な奴に太陽王は務まらないし」


 カリオンの目がゼルを捉えた。

 鷹揚として泰然と構えるゼルの目が笑っている。


 ――さぁ 言うんだ


 そんな空気を纏っているゼルは、ジッとカリオンの言葉を待っていた。

 父と子の眼差しが交差する。そして、カリオンはゼルの心を見た。


「惚れた女を助けに行くんだ! ここで逃げたら男じゃない!」

「若……」

「父は危険を冒して行こうとしているんだ。僕はあの男の息子だから……」


 カリオンの手がヨハンの肩を叩いた。さぁ手を離せというように。

 そう促されたヨハンが手を離すと同時にモレラは大きく嘶いて、そして首を大きく振った。さぁ行こうと促すように。


「モレラ。頼むよ」


 首筋を優しく叩いたカリオンはゼルの近くへと馬を進めた。その歩みを確かめたゼルはクルリと馬を返して進み始める。近衛師団を率いてガルディブルク城を出撃していく五輪男の目に迷いは無かった。


 ――琴莉 いま行くぞ 死なないでくれよ


 ふと見上げた空には、太陽が青白く眩く輝いていた。



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