カリオンの覚醒
*お待たせしました。今夜から再開します。
新年まであと3日となったガルディブルク城は華やかな空気に包まれていた。新年を前に各地の代表や高級貴族などがノダ王へ謁見し、それにあわせ宰相カウリやトウリ、カリオンにも挨拶をしていく。
次期帝となる事がほぼ確実な摂政であるカリオンは殊更に多忙を極め、妃となるリリスを連れ城の中を歩き回っていた。大公家や公爵のレベルとなるとそれぞれに部屋を取り、その中で個別に謁見を行う事となる。
「面倒だがもう少し頑張ろう」
「まだ平気よ。フィエンの街の時より緊張しないしね」
「リリスは強いな」
「エディと並んで歩くならこれ位必要よ」
ニコッと笑ってカリオンを見たリリス。その自信溢れる姿にカリオンは癒されていた。どんなに強くとも逞しくとも、男が最後に癒しを求めるのは母であり妻であるのだ。
その愛する妻が自分と一緒に頑張ってくれている。それだけでカリオンは心の奥底からやる気が猛然とわきあがってくるのだった。
ただ……
「次の客は大変だぞ」
「……うん。そうだね」
城の中を歩くふたりの周囲にはエリートガードとなる近衛師団の腕効きが揃っていた。基本的に非武装となる城内で帯剣を許された者達は一言も発さずにカリオンとリリスについて行く。
「大丈夫?」
「もちろん!」
「よし」
部屋の入り口に立つドアボーイへ扉を開けるように指示したカリオン。ドアボーイが恭しく開いた扉の向こう。暖かな空気に包まれた部屋の中には暗い灰色の体毛を持つ大柄な男が豪華な衣装で待っていた。
「お待たせいたしました。伯父上殿」
「おぉ! 立派な姿じゃ無いか!」
「お初にお目にかかります。カリオンです。こちらは妻のリリス」
カリオンに紹介され、リリスはドレスの裾を僅かに持ちあげ丁寧に挨拶した。
「一度君に会ってみたかった。以前カウリ卿が我が家に来た際、君の事を随分と自慢して行ったのだ。だが、顔を見て解ったよ。それに見合うだけの人間の様だな」
「なりはマダラですが、中身はイヌのつもりです」
「そうだな」
満足そうに頷く壮年の大男。その周囲には幾人もの側近が立っていて、同じようにカリオンを見ては満足そうにしていた。
ノダ帝と同じくアージンを名乗る大公家のうち、統一王ノーリとは違う系譜のアージン。最後までル・ガルを争った有力大公家フレミナ家の長だ。
「私はフェリブル・フレミナ・アージン。フェリーと呼んでくれれば良い」
「では、フェリー伯父さま。今後ともよろしくお願いいたします」
「うん」
フェリブルはどこか大業に首肯し、そしてカリオンとリリスに椅子を勧めた。仮にも帝國の摂政であるからして、いかに大公家の当主と言えども国家序列で帝王の次位に当たる摂政より先に椅子へ座るなどあり得ないからだ。
「伯父上殿が王都へお越しになったと聞いて驚きました」
「そうだろうな。ただまぁ、今回だけはね。君の顔を見ておきたかったのだよ」
「私のですか?」
「そうだ。もしかしたら今生の別れになるやも知れぬだろ?」
まるで嗾けるような笑みのフェリブルだが、その仄暗い企みの全てがカリオンに筒抜けになっているのを知らぬはずが無い。それでなおこの振る舞いだろうか?と訝しがるカリオンだが……
「今生というのは?」
リリスは僅かに首を傾げながらフェリブルへと問うた。その眼差しには疑う素振りなど一切無く、ただ純粋なまでに答えを求める目をしていた。
「……他意など無いさ。我が一族は北方の果ての山岳地帯を所領としている。普段は里に降りることもなく、生涯を山の中で終える者も居るくらいだからね。こんな機会で無ければ王都に上がることも無いと思ったのさ。それに、無き先帝シュサ公より多少若いだけの私だ。どっちにしろ長くは無い」
一瞬だけたじろいだ表情を見せたフェリブルだが、すぐに気を取り直して淀みなくそう答えた。ただ、フレミナの当主が王都まで出張って来て、ガルディブルク城内にて謁見を求めるのは異例中の異例な事だ。
同じアージンと言えど、フレミナ一門はノーリに連なる血統とは犬猿の仲も良いところとだ。実際の話として、フレミナは『負け組』の頭領である。ただでさえ気に入らないノーリ系の帝王や次期帝の存在なのだが、それに臣下の礼を取って謁見を求めるなどと謙る事を要求されるのは不愉快極まりないのだ。
「伯父上殿のわざわざのお越し。これを他国から見ればきっとル・ガル一統の証と見る事でしょう。それだけで他国の頭を押さえられるなら、民衆の安寧と安定に大きく寄与するのでは無いでしょうか」
御年270に手が届くフェリブルに正対し、胸を張って答えたカリオンは未だ齢19だ。十分の一にも満たないながらカリオンは互角の物言いでフェリブルと渡り合っている。
そのシーンを見ている眼が5人分。謁見の部屋からやや離れた場所に合った。大きな魔法のスクリーンへ投射しているのは狐の陰陽師ウィル。そしてソレを眺めるゼル。その右隣に座るのはエイラ。そして左側にはレイラ。やや離れてオスカーも同席していて、涙ぐみながらそのシーンを眺めている。
「若…… 立派になられましたな」
「あぁ。オスカーやヨハンのおかげだよ」
オスカーにハンカチを差し出したゼルは腕を組み満足そうに眺めていた。あのビャービャーと泣いていた小僧が胸を張って『敵』と正対している。その自信溢れる姿にフェリブルが何を思うのかは考えるまでも無い。
「何を言われますか。何より先ず、あなたの教育が良かったのですぞ」
「ウィルに言われると、何ともこそばゆいな」
手放しに褒めているウィルやオスカーの言葉を聞きつつ、五輪男自身もまんざらでは無い様子だった。ただ、その瞳ににじむ涙を見たレイラはハンカチを取り出して、その涙がこぼれないように頬を拭った。
「よだれこぼれるよ」
「……あぁ。いかんいかん」
その僅かなやりとりを見ていたエイラは微妙な表情になりつつも、どこか暖かな眼差しでふたりを見ていた。
「私が言うのも何だけど、お似合いのふたりじゃ無い」
「当たり前じゃ無いか。俺が心底惚れた数少ない女の一人だ」
ゼルの腕がレイラを抱き寄せた。されるがままに任せているレイラだが、微笑むエイラに目で詫びている。その目ですらも暖かな眼差しで見ているエイラは、微笑みを浮かべたままカリオンとリリスに目を戻した。
「しかしまぁ、なんだな」
満足そうに頷いているゼルは、じっとカリオンを見ていた。
「親はなくとも子は育つというが、これだけ立派に育つとはなぁ……」
「きっと母親が良かったのね」
サラッと言ったレイラの言葉にエイラはドキッとしたような顔をした。
しかし、レイラは柔らかに微笑むばかりでそこから先を言わない。満ち足りたような表情を浮かべ、もう一度ウィルの作り出した魔法のスクリーンを見つめた。
「カリオンもリリスも…… 一人前ね」
「そうだな」
フェリブルとやり合うカリオンは言質を取られぬ様に神経をすり減らしていた。だが、その甲斐あってか、ここまでは充分及第点と言える内容だ。
「カリオンはこれからこんなシーンを幾つ越えるんだろうな」
不意に漏らしたゼルの言葉にウィルは微妙な表情を浮かべた。カリオンとリリスの『正体』はウィルにもわからない。一体寿命が何処まで続くのかもわからない。そんな人生を生きねばならないカリオンとリリス。そのふたりをどう支えていくべきかをウィルもよくわかっていないのが本音だ。
「結局は本人が強くなるしか無いのよね」
「そうだな」
レイラとゼルがそんな結論に達する頃、カリオンとフェリブルの部屋にカウリとトウリが姿を現した。両手を広げ歓待するフェリブルだが、トウリはどうにも距離感が掴めないらしい。
ある意味でカリオンよりも重責を担うはずのトウリがこれでは……
ふとそんな思いをしたゼルだが、カウリはトウリをこうやって教育するのかと気が付いた。カリオンのように厳しい環境で過ごす機会は失われた以上、とにかく難しい場数を踏ませて見守るしか無い。
「カウリも大変だな」
「トウリ君は一番大変なのかも知れないわ」
ゼルの言葉にレイラがそう答えた。だが、そこにエイラが意外な一言を加えた。
「そうね。あの子は産まれてくる時代を間違えたのよ」
すこしオドオドとしつつも、ギリギリで自分を保っているトウリ。その姿を哀しそうに見ていたエイラは小さく溜息を吐いた。
「イヌは100歳まで行ってはじめて一人前なのよ。カリオンとリリスは半分ヒトの子だから早熟なのかも知れないわ。あの子達が居なければトウリはどこにでも居る普通の子だったはず……」
エイラの言いたい事を理解した五輪男と琴莉は顔を見合わせ微笑んだ。
「ヒトは20歳で一人前だからな」
「成人式だものね」
「だけど、イヌだって15歳で元服するよな」
「長い長い大学生って所だね」
「そうだな」
しどろもどろのトウリを気遣ってか、カリオンはリリスと共にトウリを連れ、次の部屋へと歩み出ていた。カウリとフェリブルは顔を見合わせ『よく出来た人間だ』と感心している。
一つ一つステップを踏んで育っていく次の帝王を見守れる幸せ。そんな事を思った五輪男と琴莉だが、その夜、ふたりはその道のりが決して平坦では無い事を思い知らされるのだった。
その夜
ガルディブルク城のカリオンとリリスが休む私室では、ゼルとエイラ、そしてレイラの5人が遅い夕食代わりを摘んでいた。各部屋で謁見を行い、僅かずつではあるが酒を酌み交わし、カリオンもリリスも夕食を摂るほどでは無かった。
だが、気を抜ける部屋へと帰り、肩のこるドレスを脱げば、自然と身体は何かを求めるのだった。
「今日は一日大変だったな」
「いや、思っていたより楽だった」
上着を椅子の背に預けネクタイを寛がせたカリオンは、すっかりガウン姿になっているゼルと差し向かいでワインなどなめていた。隣の部屋では女官達では無くレイラとエイラの二人がリリスの纏っていた豪華な衣装を解いていた。
「学校でひたすら走らされた理由がよくわかったわ」
強がりを言うリリスの声にエイラとレイラは顔を見合わせ笑う。
「これだけ着てたら足に来るわよね」
「ホントだわ。しかも高踵靴だし」
鍛え上げられたリリスの身体はコルセットなど無くとも体型的にドレスがスンナリ収まってくれる。だが、それでもドレスの腰にはコルセット代わりの骨材が入っていて、それなりに息苦しいのだった。
「女の方ももう少し楽な衣装にして欲しいものね」
「でも、逆に言うと着飾って歩ける特権よ?」
「ヒトの世界ではそうなの?」
「まぁ、向こうだって豪華な衣装はあったけど、でも、段々と簡単な物になって気が付いたら男も女も同じような姿になってるわ」
気が付けばまるで100年の友人になっているレイラとエイラ。その声を聞いていたゼルとカリオンは静かに笑っていた。
だが……
「キャァ!」
鋭い悲鳴が三人分いっぺんに鳴り響いた。
すわ何事か!と女の部屋へ飛び込んだカリオンとゼルは全身黒尽くめの侵入者を捉えていた。
「何者だ!」
腰へと佩いていた儀仗用のレイピアを抜き放ったカリオンだが、戦闘用とは言いがたい為に強く打ち合うのは憚られる。
「大人しく斬られろ。楽に殺してやる」
深く沈んだおどろおどろしい声が漏れる。その声を聞いたゼルは思わず笑い出してしまった。
「こういうのも久しぶりだな!」
何も言わずゆっくりと剣を抜いた侵入者は、顔を隠している為に正体を確かめることが出来ない。だが、そのシルエットはネコでもトラでもなく、紛れもないイヌそのものだった。
「名乗れと言っても名乗らぬだろうな」
「死にゆくものに名乗るのは不毛」
「全くもって同感だ」
ゼルはいきなり懐へ手を突っ込んだ。そのわずかな動きを見るだけに留めた刺客は、己の悪手を嫌という程痛感する。ゼルが懐から取り出したソレは小さな黒い塊だった。
最初はソレがなんだか理解出来なかった刺客は、一瞬対応が遅れたのだ。だが、そのわずかな初動の遅れは致命的なミスである事を理解する。ゼルは手を突き出すようにして刺客へ向けた。それが武器であると理解した時にはすでに致命傷となる一撃を受けたところだった
。数々の修羅場をくぐり抜けてきた刺客は、それが目に止まらぬ速度で鏃を飛ばす武器だと知った。己の命を差し出して。
「まさか……」
耳をつんざく炸裂音が再び響き、刺客はその身から真っ赤な血を流して膝をついた。
「なんだその武器は」
「死にゆく者へ答えるのは不毛だろう」
一瞬の静寂が流れた。
「全くだな」
ゼルはニヤリと笑った。最後の一発となった南部の銃弾放つべく構えると、心からの愛情を込めた微笑みを添えた。
「任務ご苦労だった」
次の瞬間、刺客は眉間から血を流して前に倒れた。手にしていた剣をこぼし、そのまま崩れ去った刺客の身体を改めたゼルは、小さなツボに収まった薬液の匂いを嗅いだ。鼻に付く刺激臭はどこかで嗅いだ覚えがあるのだが、どうにも思い出せない。
「随分と手馴れていましたが…… 父上」
楽しそうに笑ったカリオンがゼルを見た。
そのゼルはやはり楽しそうにしている。
「昔、まだお前が生まれる前にな。散々とこういうのを経験したんだよ」
「そうでしたか」
ニンマリと笑ったゼルは刺客の持っていた剣を確かめた。
刃先に付いた液体の匂いは小さなツボと同じ刺激臭だった。
「本気で殺すつもりだったらしいな」
「その様ですね」
「お前の鼻ならより一層細かく臭いを覚えられるだろう。この臭いを忘れるな」
ゼルの突き出した剣を握ったカリオンは刃先の臭いを嗅いでみるのだが、鼻をつく刺激臭は毒物の臭いだと直感した。瞬間的に鼻の奥がツンと痛くなり、同時に涙があふれ出た。
「これは……
その次の一言を言おうとした瞬間だった。それまで屋根と同化していた所から突然第二の刺客が現れた。屋根からふわりと降り立った刺客は、鋭い剣先を向けていきなり切り掛かってきた。テイクバックして躱したカリオンだが、その後ろにいたのはリリスだった。『あっ!』そう短く叫んだカリオンだが、次の瞬間にはリリスの右腕から真っ赤な血が吹き出し、リリスの繊細な右腕が大きく切り裂かれてしまった。
「きさま!」
立場を忘れていきなり切り掛かったカリオン。ゼルが介入しようとする隙間もなく、カリオンは猛然と剣を振る。だが、その全ての剣先を躱した刺客はさらに鋭く踏み込んでカリオンを亡き者にするべく襲い掛かった。
決して剣が苦手なカリオンでは無い。ビッグストンの学内で比較すれば最上位と言っていいはずだ。だが、それはあくまで学校剣術であって実戦剣術ではない。
本当に命のやり取りをする剣は、決して生易しいものではないし、華美な振る舞いやモーションに彩られたものではない。一撃必殺の太刀筋は相手を殺す為だけにあるのだ。
「くそっ!」
全ての剣を交わされたカリオンが悪態を吐いた。その言葉を聞いた刺客は小さく口笛を吹く。その音が響いた時、天井や壁の辺りから次々と刺客が部屋の中へと降り立った。
辺りを確かめたカリオンは一瞬だけ引きつった表情を浮かべる。刺客の数は5人ほど。その全てが短剣で武装している。狭い部屋における短剣の戦闘力は長剣に勝るのを知らぬ訳では無い。
「リリス!」
小さく叫んでリリスの手を握りに行ったカリオンだが、それの先回りをするように一歩踏み込んだ刺客が斬り掛かってきた。ゼルは咄嗟に撃ち尽くした拳銃を刺客へと向け射撃姿勢を取る。威嚇ならばこれで充分という読みがあったのだ。
案の定、刺客は身をかわして射線から逃れようと逃げに入った。その動きは明らかに熟達した暗殺者のそれだった。かつてゼルが散々狙われた頃に経験したモノとはレベルの違う技は、五輪男を混乱させるに十分なモノだった。
「手練れか」
小さく呟いた五輪男は腰に佩いたレイピアへと手を掛けた。その僅かな動きに反応した刺客は一気に距離を詰め五輪男へと斬り掛かる。真正面からバカ正直に突っ込んでくるのは、相手がヒトだと舐めている部分だ。
だが、どこか鷹揚に剣を構えた刺客は次の瞬間には首の付け根辺りから噴水のように赤い血を吹き出していた。百戦錬磨な筈の刺客よりも早く剣を抜いた五輪男は手首の返しだけで首元を狙って斬ったのだった。
「うーん……」
完全に頸動脈を断たれた刺客はバタバタと暴れるのだが、懐へ手を突っ込んだ瞬間、今度はその鎖骨を踏み折って両手を使えなくした。懐にはきっとエリクサーでも持参しているのだろうと思ったからだった。
「さて、次だな」
腰を落とし低く構えた五輪男は、ゆっくりとしたすり足でじっくり刺客との距離を詰めていく。そこには刺客の知らない剣術としての技術体系が有り、その技術体系は確実に『相手を殺す事』を本願として進化してきたのだと実感する。
「……!」
声を発さず気迫だけで五輪男へと斬り掛かった刺客は、下から伸びる様に剣を振り上げた。その剣先の軌道を読み切った五輪男は一歩半ほど後退し振り上げられた剣を交わした。まるで万歳でもするかのように身体を伸ばしてかわしたその動きを無様だと思った刺客は、その直後に身体を縦に走る熱い痛みを味わった。
「チェストォォォォォ!」
示現流を学んだ事など一度も無い五輪男だったのだが、見た事だけなら二度三度はあった。その迫力は理屈では無く、肺腑の奥底から吐き出される猿叫の気迫をも持って相手を打ちのめす一撃必殺の剣術だった。
袈裟懸けに斬られた刺客は背骨まで一気に断たれ、上半身を床へ落とし内蔵をぶちまけながら絶命した。
「カリオン!」
刺客を二人倒した五輪男はカリオンへとはじめて意識を向けた。腕から血を流すリリスをかばったカリオンは刺客四人に囲まれている。流動的に攻撃と回避を繰り返す刺客達をなんとか凌ぎつつ、有効な反撃を一切加えられないカリオン。その姿には明らかな焦燥感が溢れ、目に見えてイライラしているのが解る。
「くそっ!」
手を出そうかどうするべきか一瞬だけ逡巡した五輪男は三秒だけ様子を見た。刺客の動きには流れるような連携があり、迂闊に手を出せばそっちへ気を取られてカリオンの対処が一瞬遅れるだろうと思われた。だが、見ているだけなら見殺しになる。救援に入らない手は無い。
「こっちだ!」
カリオンへ斬り掛かった刺客を後ろから襲った五輪男は、相手を殺すのでは無く確実に負傷させる手を選んだ。肩胛骨の間の腱を断ち切り剣を振れないようにしたのだ。
そしてその場所は自分では手当て出来ない場所であり、ほっておけば死ぬが、手当てするには仲間の手が要る所だ。無様に狼狽する刺客を見ながら次へと気を向けた瞬間、五輪男はカリオンと目が合った。
――ばか! こっちを見るな! まずい!
ほんの一瞬の間に沢山の事を考えた五輪男。戦闘中に敵から目を切る事の愚かさをカリオンはまだ学んでいなかった。何を言うべきか頭の中をグルグルと言葉が駆け回り、口を突いて出た言葉は一言だった。
「後ろ!」
その声に素早く振り返ったカリオンだが、そのカリオンの首目掛け刺客は短剣を突き出してきた。敵から気を離す愚かさを痛感したカリオンだが、もう、どうしようもない所まで刃が来ていた。かわす余裕は無い。
――終わったか……
一瞬諦めてしまったカリオンだが、そのモーションを見たリリスは、理屈で考える前に腕を伸ばして邪魔を入れてしまった。カリオンが見ている目の前、真っ赤な血を流すリリスの右腕は肘のやや上からスパンと切り落とされ、鈍い音を立てて床にバウンドした。
一瞬の静寂。それはまるで永遠の静寂に感じられた五輪男。目だけで琴莉を見たとき、そこにいたレイラは表情を全て失って、今にも走り出そうとしていた。
――やばい!
寝転がっていた刺客の死体に手を突っ込み、懐の中にエリクサーの小瓶を見つけた五輪男は、それを握って走り出そうと一歩足を踏み出した。その時だった。
「きさま…… 何をしたのかわかっているのか……」
その声の主を咄嗟に理解することなど叶わなかった。まるで地の奥底から響いてくるような、低く轟く恐ろしい声音だった。目だけで部屋の中をグルリと見回した時、カリオンの周りだけ空間が歪んでいるかのような、そんな錯覚に陥った五輪男。だが実際、カリオンの向こうに見える景色は僅かに歪んで見えた。
――え?
カリオンの身体から群青とも濃紺とも付かない光が漏れた。まるでオーラの様にも見える光を放つカリオンの顔には、みるみるウチに黒い毛が生えていく。それと同時に身体それ自体が膨らんで大きくなっていき、ホンの数秒の間に見上げるほどの体躯となって高い天井に頭が付きそうなほどだった。
――ワーウルフ……
五輪男の後ろにいた琴莉が呟く。その姿はヒトの世界の伝説に出てくるオオカミ男そのモノだった。見上げるほどの体躯を持ち、全身を黒い毛に覆われたカリオンの姿は、他の何者でもないソレそのものだ。
「バケモノめ!」
刺客が鋭い言葉を放ってカリオンに斬りかかった。だが、その数倍どころか次元の違う速さで襲い掛かったカリオンの右腕は、拳を巨大なハンマーの様にして刺客を叩き潰した。他にどんな表現も取る事が出来ない純粋な力として、文字通り上から振り落とした拳で叩き潰された刺客は、全身の骨を折り畳む様にして床へと潰され血と臓物と肉の全てを撒き散らして絶命した。
「ウォォォォォォォォ!!」
右足を一歩踏み込んだカリオンの右腕は、裏拳で刺客を捕らえた。どう対処して良いのか理解の範疇を超えていた刺客は身動きする事すら叶わず真正面からその裏拳を受けた。そして、その運動エネルギーの全てを受けて後方へ吹き飛ばされ、そのままガルディブルク城の壁へと叩きつけられた。まるで水風船が壁に叩きつけられるかのように潰れたその身体は、壁にめり込むようにして息絶えた。
「たっ! 助けてくれ!」
無様に悲鳴を上げた刺客最後の一人は部屋の窓から逃げ出そうとした。しかし、その努力は最悪の形で不幸な結末と繋がった。常識では計れない速度で追ったカリオンは刺客の両脚を左腕で捉えた。その刺客はリリスの腕を切り落とした刺客だったのだ。
並みのイヌの数倍の大きさになったカリオンの顔はニヤリと笑う。マダラではない普通のイヌの顔だ。おおきさを無視さえすれば。そのカリオンは左手に掴んだ刺客を振り回し、壁や床に叩きつけている。まるで紐でも振り回しているかのように振り交わしている。
頭蓋を割り、脳漿を壁や床に撒き散らし、口からはダラダラと血を吐きながら、刺客はゆっくりと死んでいった。理解できないバケモノに挑んだおのれの生涯を心底後悔しながら……
「ウォォォォォォォォォ!!!!」
雄たけびを上げたカリオンは窓から刺客の死体を投げ放った。恐ろしい音を立てて飛んでいった死体が何処へ行ったのかは五輪男にも理解できなかった。それより今はこのバケモノをどう御するかが問題だ。明らかに血に酔っているカリオンを止める手立てを五輪男は思いつかない。
その時。
「エディ!」
リリスが叫んだ。そうだ、呼びかければ良いんだ。そう気が付いた五輪男は意を決し、腰に戻したレイピアをエイラに預け一歩踏み出した。なぜ剣をエイラに預けたのか、ふと五輪男は疑問を覚えた。そして何かを考える前にそれが『俺の女房』と言う結論に達し、それがストンと心に落ちた事に不思議と違和感を持たなかった。
――琴莉の前で無様は見せられない……
顔付きを変えた五輪男は息子を叱る父親の表情になった。両脚を肩幅に開き腰に手を当て、厳しい表情を浮かべてカリオンを見据えた。その眼差しが鞭を打ち据えるように厳しく見えるのは錯覚ではない。レイラは五輪男の背中に父シュサを思い出していた。
「エイダ!」
厳しい声で叱責した五輪男。その声を聞いたカリオンが身体をビクッと震わせて立ち止まった。
「エイダ! 何をやっているんだ! 無様だぞ!」
血に酔って笑顔になっていたカリオンの表情がスッと消えた。そして、ふと我に返ったように両目をパチパチと瞬かせ、不意に自分の両手を見た。
「……なんだこれ」
壁にかかっていた大きな姿見へ自分を映したカリオンは驚きの声を上げた。そこに映っていたのは普通のイヌの裸姿だったからだ。ただ、余りに大きくなった身体だけが異様な雰囲気になっている。
「何てことだ」
カリオンの雄たけびを耳にして部屋へとやって来たウィルは、カリオンを見上げて驚いている。
「ウィル。どうにかできないの?」
「……私にも解りません。ですが」
カリオンへと歩み寄ったウィルは上を見上げ首をかしげた。
「カリオン君。心を落ち着けゆっくりと呼吸しよう。冷静になって。そして、元の自分の姿を頭の中へ思い描いて強く念じるんだ」
ウィルの導きでカリオンは少しずつ精神の平静を取り戻しつつあった。だが、心の奥底のどこかに凶暴な『何か』が居るのをカリオンは感じ取った。血に餓えて凶暴な牙を見せる愚かなオオカミの存在だ。
「心の中に何かがいる」
ボソリと呟いたカリオンの目がリリスを捉えた。まだ腕から血を流して痛そうに苦しむリリスを見たとき、カリオンの心が沸騰し掛けた。
「リリス!」
「大丈夫! 大丈夫だから!」
リリスの目に恐怖は無かった。真っ直ぐな眼差しで見つめられたカリオンはどこか急に恥かしさを覚えた。そして、そのリリスの右腕に切り落とされた腕を宛がい、口へエリクサーを運ぶ父ゼルを見たとき、心の中に居たどす黒い何かがスッと何処かへ消えてなくなった。
「おぇ!」
鈍くえづいたリリスの口から黒い塊が吐き出されて床へぺチャッと砕けた。同時に切り落とされた腕が繋がり、か細く繊細な指を握ったり開いたりしている。
「よし、大丈夫だろう。どこか痺れていないかい?」
「大丈夫です」
「よしよし」
リリスの世話をしていたゼルが振り返ったとき、カリオンはするすると身体を縮ませていた。そして、身体中にあった毛をばっさりと落とし、元のマダラの姿に戻っていた。
「カリオン! これを着ていろ」
自分の着ていたガウンをカリオンへと渡した五輪男。そのガウンに袖を通したカリオンは衣服に付いた父の臭いに安堵を覚えた。間違いなく肉親であると確信するだけのモノがそこにある。
恐怖を微塵を見せず真正面に立ち真っ直ぐに叱責した父ゼルの姿。それを思い浮かべたカリオンは、心のどこかに小さな火が灯るのを感じた。
「……父上」
「どうした?」
フッと笑ったゼル。その優しい笑みには男らしさが溢れていた。ふと、カリオンは『こうありたい!』と、強く思った。カリオンの思う理想の男が目の前に立っていたのだった。
「……ありがとう」
「どうしたいきなり」
「いや、怖くなかったかなって」
「おいおい」
五輪男の手が拳となってカリオンの胸を突いた。その拳はカリオンの心臓を揺らし、そして鼓動とシンクロしてスッと解けていった。
「俺はお前の父親だぞ」
すっかり落ち着いたカリオンはリリスの腕を確かめた。
「大丈夫か?」
「うん。ちゃんとくっ付いたよ。動くし」
恐怖の気配など微塵も見せないリリスは、カリオンに抱きついた。僅かに震えるリリスの身体が隠しきれない恐怖を感じさせた。
「怖かった」
「……俺?」
「違うよ!」
怒るような口調で強く否定したリリスは、その目を刺客の死体へと向けた。
「お城の中まで入ってくるなんて……」
「そうだな」
リリスをギュッと抱き締めたカリオン。腕の中で震えたリリスはやがて落ち着きを取り戻した。何処よりも何よりも、この場所が、カリオンの腕の中が心安らぐ場所なのだ。
「カリオンの変身をどう見る?」
どこか冷たい口調のレイラはウィルに所見を求めた。『何とかしなさい』と言わんばかりの物だとリリスは思った。だが、ウィルはやや首をかしげ、確かめるようにカリオンに訊ねた。
「いま、その姿に戻る時、なにを考えましたかな?」
「……父の姿だと思います」
「どんな姿でした?」
「幼い頃に見た、父の背中でした」
静かにそう答えたカリオンは嬉しそうにゼルを見ていた。
「嬉しい時。幸せな時。それらは全て、自分自身を冷静に見つめる事と繋がっています。そしてそれは、自分自身が失われてしまうような出来事に遭遇した時、自分自身を取り戻す為の強い導きとなるのです」
ウィルは右手をカリオンにかざし、静かな言葉で祝福を述べた。
「天光もたらす護り導きの神よ。夜闇もたらす眠り安らぎの神よ――
ウィルの手がカリオンの頭に添えられた
――世の理、神の摂理を識らんとする者の手を導き給へ……」
ハッと驚き顔を上げたカリオン。
ウィルは笑っていた。
「今日、新たな魔導の使い手が誕生しました」
部屋の中に居た者たちが一斉に驚いくなか、ウィルはゆっくり頷いて言った。
「それこそが、魔法と呼ばれる技術体系の根幹です。自分をしっかりとはっきりと持つのです。そしていつ何時も忘れてはいけません。共に生きる人と、あなたを導く大いなる存在への感謝を」
「はい」
この日。カリオンは魔導と呼ばれる道への第一歩を記したのだった。