酒と泪と……
不寝番の見回り騎兵がガルディブルクの街中をパトロールする頃、五輪男は一人、夜も更けた居室のバルコニーで、酒を飲んでいた。
どれ程名残惜しくとも、馬車に揺られレイラは帰って行った。
城下の学校へリリスを送ったカリオンも士官学校へ戻って行った。
城内にはゼルとエイラ。そして、コトリの三人が残っている。
ノダは王の居室に入り執務を続けている。
五輪男は、ただただ静かに酒を飲んでいた。
思い出したようにヒトの世界の歌を口ずさんで、飲んでいた。
余りに沈痛な姿だった。
オスカーやヨハンが声を掛けに来たのだが『一人にしてくれ』と、追い返していた。
見つめる先遠くにはカウリの屋敷がある。そこに琴莉がいる。
手を伸ばせば届くように錯覚するほど近く、そして、絶望的な程に立場が離れてしまったと、五輪男は溜息を漏らす。
その女は誰かの人妻なんかじゃ無い。
俺の、俺だけの妻だ。俺のもんだ。
忘れようとすればするほど思い出す数々のシーン。
幸せな日々のカケラはまるでひび割れたガラスの破片のようで、一つ一つ思い出しては懐かしがる五輪男の胸に突き刺さって血を流させた。
怒った顔。笑った顔。喜ぶ顔。悲しむ顔。泣いた顔。
初めて一緒に朝を迎えた日の、あのはにかんだ晴れやかな顔。
目を閉じれば心配そうに覗き込んできそうな気がして……
茨の鞭で身体中を打たれるような、そんなどうしようもない寂しさに震えていた。
だけど……
コンコンと誰かがバルコニーの柱をノックする音が響く。
五輪男は振り返らず言った。
「誰だ?」
「父さま」
「コトリか。どうした?」
出来る限り優しい声を五輪男は心がけた。
実の子とは言え、油断をすれば声を荒げかねない。
「おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
娘の声に少しだけ癒され、もう一口、酒を飲む。
コトリの足音がそっと離れていき、辺りはまた静まり返った。
だけど、まだそこには人の気配があった。
「……エイラ」
「わかるの?」
「女房の気配まで分からなくなるほどボケちゃいないさ」
街を見下ろして椅子に座るゼルの後姿は、大きな背もたれに全部隠れていた。
エイラはゆっくりと歩み寄ったのだが、そこには憔悴しきった顔のゼルが座っていた。酒の空き瓶がいくつも転がっていて、異様に眼ばかりがギラギラとしている姿だった。
「ちょっと飲んでみてくれるか?」
「どうしたの?」
「おかしいんだ。飲んでも飲んでも効きやしない」
グラスに並々と注がれた蒸留酒を一気に飲み干して、静かにテーブルへ下ろした。
深く息を吐き出し、星空を見上げ、そして眼をつぶる五輪男。
「闇にまぎれて行って来なよ」
「そうは行かないさ」
「でも、あなたの辛そうな姿は私にもつらいから」
そっとゼルの隣に腰を下ろしたエイラ。
悲しそうなその顔を見ていた五輪男は急にエイラを引っ張り込んで、強引に唇を奪いとり、そのままギュッと抱きしめた。
「女房に心配させるなんて、おれは男として失格だな」
「あなたの奥さんは『俺の目の前に居る女だ』……無理をしないで」
急性アルコール中毒一歩前で脂汗を流しているゼルの姿に、エイラは今にも泣き出しそうな表情だった。
「あなたが私やカリオンの為に頑張ってくれる事はうれしいけど、でも、それであなたがどうにかなってしまうのが辛いの」
涙を浮かべたエイラの頬に手を当てて、五輪男は静かに笑った。
「ちょっと昔話をしよう。違う世界の話だ。ある意味、理解できない話かもしれない。文化も社会習慣も法律さえも違う世界だ。だけど、全く同じ事が一つだけある。どれ程に社会を形作る仕組みが違うとも、その世界だってこの世界だって、最後は結局、男と女しか居ないんだから」
エイラは涙をこぼしながら静かに頷いた。
「俺は母子家庭で育った。父親が居なかったんだ。色々と理由があって、おふくろと親父は喧嘩ばかりしていたんだけど、ある日突然、親父が居なくなった。だから……」
五輪男は深く溜息を吐き出した。
「おれは父親と言う生き物が何をすれば良いのか知らずに育ったんだ」
もう一口飲もうとしたゼルのグラスを止めたエイラは、話の続きを促した。
「そんな俺の育った家のはす向かいに、一人の少女が住んでいた。彼女が生まれて三年目だったかの春。彼女の母親は病で亡くなった。父親はまだ幼い娘を育てるために、必死で働いた。嫌な仕事も進んで引き受けて……」
ヒトの世界の真実を始めて聞いたエイラは驚きのあまり言葉を失った。
この世界よりも数段進んだ世界だと思っていたそこは、皆が必死で働く世界だ。
世界を支えるために皆が働き続けるような、そんな世界。
「気が付いたら、その少女は俺の家に居た。うちのおふくろが預かったんだ。皆で支えあう世界だったから、まぁ、当然なのかもしれないな。そして、おれはその少女と兄弟のように育ったんだ」
一つ息を吐いて、それから悲痛な顔でエイラを見た五輪男。
押し黙って言葉のきっかけを捜したその顔には、苦味走った表情が浮かぶ。
「そんな環境になれば、少年と少女はいつの間にか夫婦になる。会い互いに相手を想うから、それは神の前で誓いをどうのとか、そう言う儀式めいたもんじゃなくてね」
不意にゼルは自分の手を見た。
銀のリングが指にはまっていた。
「たとえば……赤の他人にイキナリ叩かれたら、誰だって怒ると思う。だけど、身内ってさ、『どうしたの?』とか『何かあった?』とか心配するだろ?」
エイラは僅かに頷く。
「それってさ、他人と身内の違いなんだよな。夫婦は全くの他人二人が身内だと誓う事なんだ。だから、どこかでその思いが切れた瞬間、お互いを全く信用できなくなる。他人に戻っちゃうんだよ。好きだの惚れたの愛してるのと、どんなに口で言っても、やっぱり夫婦って他人なんだよ。そこから一段上の……」
エイラの手が一瞬はなれて、そしてゼルは再び酒を呷った。
グラスの酒を飲み干して、その空いたグラスへ悲痛な溜息を吐き出した。
「一段上の関係に、身内になるのを夫婦って言うんだろうなと思うんだ。そして、赤の他人だった相手との間に子が出来ると、その子にとっては父親も母親も、生まれた時から身内なんだ。死んでも、夫婦が離縁しても、子からみれば親は身内なんだ。父と母がそこに居るのが当たり前で、居ないほうがおかしいんだ」
空っぽになったグラスにもう一度酒を注いで、そして、五輪男は静かに鼻歌を歌いだした。
「琴莉の父親は俺のお袋に惚れたんだ。間違いない。だけど、俺の為に我慢してた。そう思ってた。だけど違ったんだよ。俺じゃなくて琴莉の母親の為に、琴莉自身の為に我慢してたんだ。琴莉の母親は俺のお袋じゃないからな」
思い出したように鼻歌を続けた五輪男は、もう一度酒を呷った。
空になったグラスに、今度は涙が落ちた。
「コトリは多感な時期だ。イワオもそうだろう。親の心が不安定な環境で育つ子は、育って大人になったとき、必ずどこかしら心が欠損した状態に育つ。だから、夫婦は子供の為に意地を張らなきゃいけないんだ。子供にとっては、親って絶対無二な味方であるべきなんだよ。守護者であり保護者であり、そして、導く者なんだ」
もう一度五輪男はエイラを抱きしめた。
随分と厚くなった胸に頬を寄せて、エイラはゼルの胸のうちを思った。
「今日だけは取り乱させてくれ。だけど、会いに行くのはダメだ。今夜を我慢できなきゃ、なし崩しに俺は琴莉を求めるようになる。きっと琴莉も分かってくれる。コトリとイワオが夫婦になる日まで、俺は……」
抱きしめたエイラの頬に、五輪男そっとキスをした。
「その日まで、俺はゼルだ。そして、カウリの家に居るのはレイラだ」
「それで良いの? あなたは本当にそれで良いの?」
両手をゼルの胸に並べ押し返したエイラ。
怒っているような、泣いているような、複雑な表情だった。
「全ての者がやがて報われ、全ての者がいつか救われる」
五輪男はボソリと呟いた。
「……でも」
「俺の尊敬する男はそんな言葉を残してるんだ。この世界へ落ちてきてもう会えないと思っていたんだ。だけど、俺の心の片割れはそこに居て、確実に生きていて、その気になれば会いに行ける。ならばそれ以上は望まなくて良いのさ。コトリとイワオが男と女を理解できる歳になるまではね」
もう一度エイラを抱きしめた五輪男。
エイラはゼルにされるがままに任せた。
「俺は託されたんだよ。『頼む』って。だけど、それはエイダだけじゃないんだ。あいつが一人前になって太陽王になって、そして、後顧の憂いが無くなってからから……」
エイラはハッと気が付いてゼルを見た。驚愕の表情だった。
五輪男の真意に気が付いて、そして、ゼルの目をジッと見た。
「女を泣かせる男にはなりたくない。親父のようにはなりたくない。例えそれがどんな女でもな。エイダとコトリに取って母親はお前だけ|だし、父親は俺だけだ。レイラは……他人なんだよ」
エイラの見つめる先。ゼルは酒ビンを抱えラッパで一気に飲み出した。
飲んで、飲んで、一つ息を吐いて。
こみ上げてきた酒を少しバルコニーにもどして、そしてまた飲んで。
「他人なんだよ……」
そう、悲痛に呟いた五輪男の眼から、一筋の涙が流れた。
不意にゼルの手から酒ビンが落ち、エイラはとっさにそれを受け止めた。
酒が効かないと嘆いていたゼルが酔いつぶれて、力尽きて眠ってしまった。
エイラは自分の上着をゼルに掛けて、そしてバルコニーを後にした。
寝室で寂しそうに寝ているはずのコトリを安心させるために……
同じ頃
「母さま、凄く悲しそう」
「そんな事無いわよ」
風呂上がりのイワオを世話するレイラは、まだ石けんの香りが残る息子に服を着せ、手を繋いで寝室へと誘った。
「母さま。ゼルおじさまって母さまの……」
「お父さんのお兄さんよ」
「でも……」
にこりと笑ったエイラの手がイワオをベッドに乗せた。
言われなくともいそいそと布団へ潜り込んで、そして母レイラを見上げたイワオ。
「やっぱり母さま悲しそうだ」
息子にとって母親は特別な存在だ。
かつて琴莉は五輪男から散々それを聞いていた。
酷い苦労をして五輪男を育てた母の姿を琴莉は思い出す。
一瞬だけは琴莉だって思った。
この子を連れて、そして五輪男とどこか遠くへ逃げようと。
だけど、かつてシュサ帝は琴莉へ言った。
――――この大陸の東の果て。太陽が出ところから余の物である
――――そしてこの大陸の西の果て。太陽が沈むところまで余の物である。
何処へ逃げても救われないのは間違いない。
距離で逃げ切れないのなら時間で逃げ切るしか無い。
つまり、今はただ待つしか無い。
それがどれ程歯がゆくても。
それがどれ程辛い事でも。
「悲しい事も辛い事も、一晩眠ったら忘れてしまうのよ」
五輪男の額へそっとキスをしたレイラはベッドサイドへ腰掛けた。
「明日はトウリが来るんでしょ?」
「うん。トウリ兄ちゃんが勉強を教えてくれるんだ」
「じゃぁちゃんと寝てなさい。勉強中に眠くなっちゃダメよ」
「はい」
大きく息を吸って、深く深く吐き出して。そしてイワオは目を閉じた。
ややあって、ストンと落ちるように眠ってしまい、レイラはそっと毛布を掛けて部屋を出た。
向かった先はカウリ邸のリビング。館の主であるカウリは正妻であるユーラと息子トウリ。それに、相談役であるウィルと話し込んでいた。
「あら。もっと泣きはらしてるかと思った」
サクッときつい事を言って、でも、優しい笑みでレイラを見たユーラ。
ユーラだけで無くウィルやトウリも心配そうに見ていた。
「レイラさん。いえ、琴莉さん。あまりご無理をなされませんよう」
ウィルは心底恐縮したように言う。
だけど琴莉は精一杯の笑みを浮かべて言う。
「ウィル。それ誰?」
ニコリと笑って、そしてジッと手を見た琴莉は呟いた。
「私はネコの国から来たアチェーロ。そして、カウリが付けてくれた名前はレイラ」
再びウィルを見たレイラは、念を押すように強い口調で言った。
「でしょ?」
「……そうですね。失礼しました」
自分の胸に手を当て、そっと会釈をするウィル。
そんなやりとりをカウリは申し訳なさそうに眺めていた。
「レイラ。無理をしないで良いんだぞ」
「無理なんかじゃ無いですよ」
「だが……」
カウリですらも二の句が付けないで居る。
そんな場だが、ユーラは元メイドの側室を呼んだ。
「シルビア。オリビア。今すぐレイラを裸にひん剥いて城へ放り込んできて」
さすがのユーラもそこまではしないだろうと言う言葉を口にする。
一瞬顔を見合わせた二人だが、カウリはすぐさま止めに入った。
「冗談だ、冗談。それよりいきなり呼んで済まなかったな」
ホッとした表情で部屋を後にした元メイドたち。
カウリは厳しい表情でユーラを見た。
「いくら何でもそれはやりすぎだ」
「でもこれはあなたがするべき事よ?」
「それはその通りだが……」
「だいたい、あなたがだらしないから今になってこんなザマなんでしょうに」
二の句の付けないカウリが黙り込む。
ユーラは少し厳しい表情になってレイラを見た。
「全てぶち壊してでもレイラがやりたいようにやれば良いのよ」
「えぇ、ですから、やりたいようにやらせて貰っています」
ニコリと笑った琴莉は厳しい表情のユーラにも微笑みかける。
「イワオがもう少し大きくなるまでは、今のままで良いと思うんです」
「でも、流れていった時は戻ってこないのよ?」
「だから今を大切にしたいんです。だって、あの子の母親は私だけで、父親は」
ユーラを見ていたレイラの目がカウリを見た。
優しげなその眼差しだが、今日に限って言えばカウリにとってその目は凶器だ。
例えどんな眼差しだろうと、レイラに見つめられるとカウリは生きた心地がしない。
「それはそうだけど……」
ユーラもカウリをジッと見ている。
――――なんとかしろ! この駄目男!
そんな風に追求する目にも見える。
だが、琴莉は静かに切り出した。
「実は私は……母親の顔を知りません。まだ幼い頃に母は病死したんです。その頃、家の向かいに住んでいたのが……彼でした。彼の家はお父さんが事情で家を出て行ってしまい、母親と息子で暮らしていたんです。私の父は私を彼の家に預けて働いていたんですよ。ですから、私にとって、母親は彼の母でした」
いきなり核心部分を切り出した琴莉は、一つ溜息を吐き出した。
「だけど、その母親はあくまで他人なんです。だから、どこか気兼ねして、言いたい事も言えなくて、気を使って、遠慮して、なるべく手を煩わせないようにと思っていました。まだ四歳とか五歳とかの子供の頃です。変だと思いませんか? そんな小さな子が大人みたいに気を使って暮らしているなんて」
琴莉の言葉の真意を上手く捉えられるかどうか。
ユーラはふと、トウリを心配そうに見た。
まだまだ人生経験の浅い若者だ。
大人と子供の違いを理解し実感するには場数が足りなすぎた。
「じゃぁ、レイラさんは…… ゼルさんとは暮らさないのですか? やっと再会出来たのに」
トウリは理解しがたいと言わんばかりに、抗議じみた事を言った。
関係各所がそれなりに努力したのだから、結果がどうであれ元サヤに収まるべきだとトウリは思ったのだろう。
「例えばの話しよ?」
優しい眼差しのレイラがトウリを見た。
トウリにとってレイラはもう一人の母親なのだ。
その母が不幸に甘んじるのは、息子としては断じて許しがたいのだ。
「ある日突然、カウリが……お父さんが余所に『昔惚れた女がいる』って言って出て行ったら、あなたはどうする?」
「オヤジならあり得るだけに、あまり洒落になってないです」
「でも、今のアナタなら洒落で済む部分も有るだろうけど、五歳の子供にしたら世界の終わりみたいなものよ?」
トウリはまるで雷に打たれたような衝撃を受けた。
いま目の前で琴莉の発した言葉で、問題の核心をやっと理解した。
まだ幼い子供の為に大人が頑張る。たったそれだけの事だ。
ただ、その頑張る内容が余りに厳しく辛い物だと言う事だ。
「イワオはまだまだコレからだし、コトリは両親に甘えて愛情を覚える歳なの。そんな時期に大人の都合で子供を振り回すのは、絶対良い事じゃないと思わない? その子が大人になった時、自分の都合で周りを振り回すような人間になるのは避けたいの」
そんなレイラの言葉に、皆が頷いた。
何処までも滅私の精神を見せるヒトの女に、ウィルは敬意を覚えた。
「私の父は彼の母親に恋しちゃったの。そりゃ仕方ないわよね。働き盛りな男と女盛りな未亡人だもの。木からリンゴが落ちるようなものよ。だけど、私の父はずっと我慢してた。たぶん彼の母親も全部承知で我慢してた。もし、その二人が夫婦になってしまったら、彼は他人に母親を取られた事になるし、私から見たら母親の愛情を学ぶべき存在が赤の他人になっていたの」
辛そうな素振りを一切見せず、何処までも明るく朗らかに琴莉は言った。
その姿を見続けるのがいよいよ我慢ならぬと。カウリはそんな風に口を開く。
「すまん。正直俺には理解しがたい話しだ。他人とか夫婦とか、ヒトの世界の社会感覚か掴めない」
「夫婦って赤の他人でしょ? でも、産まれた子供から見たら親は絶対的な味方なはずなのよ。厳しくても、身内って部分では優しいの」
カウリに続きユーラまでもが首を傾げた。
ウィルも少々混乱し始めてた。
「だからこそ大人は子供に愛情を注ぐべきだし、大人にはそれをする義務がある」
「たがら私はここに残るんです。イワオが成長して多感な時期に沢山の事を学んで、大人になったときに無責任な人間にならないように、私は責任を持たなければいけないんです」
トウリはハッと気が付いた。
「つまり親の責任を果たすって事ですか?」
「そうよ。イワオだけじゃ無くてリリスの事もね。だいたい」
レイラは悪戯っぽい笑みで言う。
「次期太陽王の妻の母親。太陽王の父親と不義密通なんて噂が立ったら大変じゃ無い」
アハハと笑って一人盛り上がるレイラ。
カウリもユーラも驚きの眼差しでレイラを見た。
その空気が余りに醒めた物だったので、テンションの上がっていたレイラもストンと落ちてしまって、そして、声のトーンまで元に戻った。
「夫婦は赤の他人が身内になること。だけど子供は産まれた時から両親が身内。そのどちらが欠けても、必ずどこかに影が出来るものよ。私の経験として。だから……」
レイラは目を閉じて一つ息を吸い込んで。
「もう少し、あなたの妻で居させてください。我が儘を言うようですが、よろしくお願いします」
静かに目を開いたレイラ。
その目には溢れんばかりの涙があった。
「お前はそれで良いのか?」
レイラはゆっくり頷いた。
ユーラの手がレイラの肩を抱いた。
「イワオの母親は私。父親はあなたです。ゼル……さんは」
レイラの悲痛な溜息が漏れた。
「ゼルさんはエイラさんの夫でコトリの父親です。イワオやコトリから見れば、私とゼルさんは他人なんですよ。赤の……」
うつむき涙をこぼれさせ、そしてレイラは絞り出すように言った。
自分の身体へ染みこむように。自分に言い聞かせるように。
「他人なんです」
レイラは両手で顔を覆った。
サラサラと涙が流れ、それでもレイラは笑っていた。
誇らしげに胸を張って。精一杯意地を張って。
「わかった。そうしよう」
カウリは静かに言った。
「変な気は使わないでね。子供は大人が思ってる以上に敏感なのよ。些細な事でもって見抜くから」
「あぁ」
カウリはレイラに手を伸ばした。
こっちへ来いと言うように。
「だから。たまには寝室に呼んでね」
その手に導かれ、レイラはカウリの膝に座り身体を預けた。
遠い日に見たエリーがビアンコに甘えるように。
琴莉自身が気が付かないうちに、カウリの胸も安らぎを覚える場所になっていた。
「慰み者になって、ボロ雑巾みたいに使われて、街の郊外で身元不明の死人にならなかっただけ、私は運が良かった。あなたに見つけてもらって。あなたに愛されて、あなたとの間に子供を二人もつくらせてもらってほんとに良かった。ユーラには申し訳ないと思うけど、でも」
カウリの厚い胸に顔を付けて、レイラは微笑んだ。
――――これで良いんだ これで良いんだ
そう、自分に言い聞かせながら。
「ワシもだ。ユーラを愛しているのと同じだけお前を。レイラを愛している。心配するな。いつか全てが上手く収まる時が来る」
レイラを抱きしめ一つ息を吐いたカウリ。
黒耀種特優の黒く美しく光る体毛に、そろそろ白髪が混じり始める頃だ。
フィエンの街で見たビアンコと同じ臭いを琴莉は感じていた。
「今日は色々大変だったな。しっかり寝ておけば大概の事は楽になる」
「そうね」
「今日はもう休め。明日も色々と用事があるだろうからな」
「じゃぁ、先に」
カウリのそばを離れ部屋を出て行くレイラを目で追ったユーラ。
一瞬眼が合った琴莉はユーラに目で詫びた。
その眼を優しく見返したユーラが手を振って見送る。
静かに戸を閉じて、そして、イワオが眠る子供部屋の隣の私室へ。
カウリが琴莉用にと設けた部屋の中へと入った。
そこで、琴莉は力尽きた。
もう、これ以上我慢が出来なかった。
張って張って張り続けていた意地が、ブツリと音を立てて切れた。
ベッドに突っ伏し、顔を埋め、声を殺して琴莉は泣いた。
泣いて泣いて泣いて、声を飲み込み、しゃくるようにして泣いて。
――――いわくん……
――――会いたい……
――――いわくん……
震えるほど泣き続けて、そして窓の外を見た。
遠くにガルティブルク城が見える窓だった。
涙で滲む眼を凝らし、琴莉は城を見た。
ふと、眼があったような気がした。
理屈じゃなく実感として、いま確実に五輪男と眼が会ったと。
そのまま泣き続けて、そして、琴莉は眠りに落ちた。
泣き疲れて、力尽きるように。
幕間劇~孤独な戦い ―了―
一身上の都合によりちょっと休載します。
次章『太陽王への道』は12月1日より公開します。