誓い
五輪男と手を繋いで歩いてきた琴莉は、部屋の前で手を離し、一つ息をついた。
「ホントに大丈夫か?」
「うん」
少しだけ潤んでいる瞳に五輪男は思わず琴莉を抱きしめた。
「背負ってるものが重くなりすぎてしまったけど、でも」
琴莉は五輪男の腕の中で微笑んでいる。
「もう十代や二十代の恋は出来ないよ」
「あぁ、そうだな。だから、年齢相応に恋しよう」
「……長距離恋愛だね」
「手を伸ばせば届く距離なのにな」
リビングからコトリとイワオの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
まだ年齢が一桁も半ばの二人はどんな場所でも楽しいのだろう。
「さぁ、行こう」
「うん」
最後の角を曲がって部屋に入った五輪男と琴莉。
その姿をコトリが見つけた。
「あ! 父さま!」
タタタと走ってきて五輪男へ飛びつくと、うれしそうにハグしている。
「コトリ。良い子にしてたか?」
「うん!」
「そうか」
コトリを抱き上げてリビングへ入った五輪男と琴莉。
リビングの中にはカウリとエイラ。カリオンとリリス。
そして、イワオの他にノダとウィルと、そしてオスカーとヨハンが待っていた。
現シウニン・アージンの一派の全てが揃う場だった。
そんな中、肩胛骨辺りまで伸びたコトリの髪を丁寧に整えた琴莉は、微笑みを添えてジッとエイラを見た。
「ごめんなさいね。ゼルさんを借りちゃって」
エイラは僅かに驚きの表情を見せた。
だが、取り乱す事はせず、ごくごく自然に返答した。
「……いいのよ。楽になった?」
「えぇ。おかげさまで」
僅かな会話の中でエイラとカウリの二人は悟った。
現状を続行する意思があるのだと言う事を。
だが、全部承知でカウリは首を振る。
「レイラ」カウリは床を指さして言った。「ここへ残って居ても良いんだぞ? もう遮るものは何も無いんだ」
カウリの意思が何であるかは五輪男も琴莉も理解している。
イヌの持つ情の深さと慎み深さと、そして、罪の意識。
だからこそ五輪男は強く言わざるを得ない。
「馬鹿を言うな!」
その一言に一番驚いたのはエイラだった。
「でも、やっと……」
「あぁ、それは間違いない。だけどな」
ゼルに続き、レイラが口を開いた。
「私とゼルはともかく、カリオンとリリスにとっては、今が一番大事な時期の筈なのよ。ここで下手を打って隙を見せると、一気につけ込まれるかも。それに、向こうは目的のためなら手段を選ばないって……」
「先ず大事な事は二人の立場を確定させて、そして、きちんと筋道を付ける事だ。俺たちの事はその後で良い」
コトリを抱きかかえたままのゼルはエイラの隣へ。
レイラはカウリとリリスの間へ腰を下ろした。すぐ近くに立っていたイワオが心配そうにレイラを見た。
「母さま」
「大丈夫よ。ちょっと目眩しただけだから」
泣きそうな顔のイワオを抱き締めて安心させたエイラは、そのままイワオを膝の上に抱きかかえて居る。
「でも、お母さま。二十年も探したんだから」
「二十年も探したんだから良いのよ。今さら五年や十年延びたって変わらないの」
「でも…… でも…… それじゃぁ」
「いいこと? 私にもあなたと同じ年の頃があったの。勿論、ゼルにもあったのよ? 私たちには私たちの運命があってこうならざるを得なかった。だからもうそれは仕方が無いと割り切って、諦めて。今から出来なかった事をやり直すなんて出来ないのよ」
リリスの髪に飾られたリボンを治したレイラは、リリスの顔を両手で挟み込んだ。
「あなたがこれから経験する事は、私とゼルには出来なかった事。だから、あなたの邪魔をしたくないの。あなたが楽しそうなら私も楽しいのよ。そしてね」
レイラの目がゼルを捕らえた。
静かに頷くゼルは抱きかかえて居たコトリをエイラへと渡した。
「カリオン。今からお前に重大な事を伝えなければいけないんだ」
「……解ってる。聞かなくても、解ってる。僕はイヌとヒトの中間なんでしょ」
カリオンは誇らしげにそう言う。ヒトの顔立ちにイヌの耳と牙。
ルガルの社会でもっとも忌み嫌われるマダラに産まれた筈のカリオンだが、晴れやかな表情には自信がみなぎっている。
「ビッグストンの三年間でわかったんだ。僕は、いや、僕だけじゃなくてリリスもだけど、他の人と違いすぎるんだ」
カリオンの表情に男らしい笑みが加わった。
そして、リリスを見つめる眼差しに、琴莉は五輪男の優しい眼差しを見た。
全部わかっていたからこそ、リリスは運命を信じてカリオン――エイダ――を待っていたのだと気が付いた。
「時々自分が怖くなる事が有る。馬術も剣術も学問も、集中して事に掛かると何でも出来てしまうんだ。むしろなんでこんな簡単なのが出来ないんだろうって思うくらい」
カリオンが自分の手をジッと見ている。
「たぶんそうなんだろうって、小さな頃から思ってました。きっと私は死ぬまで独りぼっちだって。でも、エイダが居るから。私と同じカリオンが居るからって。それが自分を支えてくれます」
リリスは嬉しそうにレイラを見た。
それは娘と母ではなく、女と女の顔だった。
「お母さんが私を産んでくれなかったら、私はカリオンに出会えなかったし、カリオンはずっと独りぼっち。死ぬまで独りぼっちだった筈よ。だから、私の事でお母さんが苦しむのは……」
ボロボロと涙をこぼすリリス。
「まだ小さかった頃。私を抱いてゴメンなさいゴメンなさいって謝るお母さまが可哀想で可哀想で。何でこんな事になったんだろうってずっと思ってたの。でも、ある日、ウィルがお母さまに術を掛けてからお母さまが全然違う人になってしまって、それで私、怖くて怖くて……」
レイラはそっとリリスを抱きしめた。
「ゴメンね。ダメな母親で」
「ダメじゃないよ。ぜんぜん、ダメじゃない」
つまりウィルはレイラに記憶操作を行ったのだとゼルは解釈した。
ヒトの記憶やネコの国に居た記憶を全部封印して、架空の人間の記憶を作り……
「ウィルはレイラに暗示を掛けたってわけか。凄い技術ですね」
「……そう言うことです。自分をイヌと信じて疑わないように。ですが、まれに発作を起こしまして。断片的に残った記憶が繋がってしまって、作った人格と本人人格が衝突してしまうんです」
肩を竦めたウィル。
「申し訳無い事をしました。いま思えば、国軍捜査が始まった段階でレイラさんの記憶封印を解いていれば、もっと早い再会があったはずなのに。私の大いなる失敗です」
だが、その言葉をカウリが遮ってしまった。
「そもそも問題の根本はワシにあるのだ。正直に言えばレイラを独占したかった。ヒトの女を抱いてみたかった。だが、ヒトを監禁していると指さされた時、ワシは怖くなったのだ。ワシが臆病であった。愚かであった。その為にゼルと……いや……」
カウリは五輪男をジッと見てから琴莉を見た。
「ワシの中でアチェーロとワタラセコトリが繋がっていなかった。たったそれだけの事がワタラをこれほど苦しめたのか…… ワタラがこの世界へ来た頃からズッと見てきた。だから解る。どれ程妻を愛しておったのか。どれ程真剣に探して居ったのか。その二人を無思慮に引き裂き、ここまで苦しめたのだ。今からでも遅くは無い。レイラは……『おいおい、カウリ。何を言ってるんだ』……え?」
そのカウリの言葉を今度は五輪男が止めた。
「ワタラはもうとっくに死んだぜ。いつの話をしてるんだ。ボケるには早いぞ?」
その部屋に居た大人たちが一斉に驚いてゼルを見た。
笑っていたのはレイラだけだった。
そして、笑うレイラを見てゼルも釣られるように笑った。
「大体だな。いきなり女房が発作起こしてひっくり返るとか、気絶するとか、そう言うのは夫としては恥だぞ恥。まぁ、俺が知るかぎり、概ね愛が足りんのだな。愛が。その証拠に見てみろ。俺の女房なんか――
ゼルはエイラをぐいと抱き寄せた。
力いっぱい抱き寄せられ、エイラは申し訳なさそうにレイラを見た。
レイラは静かに笑っていた。
――見ろ。女房と畑は耕し次第と言うが、艶々してるだろ? 男がだらしねぇからそんなザマなんだよ」
ゼルは唇を片方だけ持ち上げて笑う。
「わかるだろ?」
ゼルはノダをジッと見た。
その瞳に宿る本音を読み取れと、そう挑発するようにだ。
「……カリオン。そして、リリスもだ」
ノダは不意に口を開いた。
一斉に視線がノダへ集まる。
「ワシはこの夏に太陽王即位の宣下を出す。服喪中は王代理として。再来年の元日を持って正式に戴冠する事にする。戴冠の際、カリオンを摂政とする事を発表するので、この夏にはお前たち二人の婚約を公式発表しようと思う。ワシの次の太陽王はお前だ」
ノダの指がカリオンを指した。
改めて伯父ノダを見たカリオンは、この数ヶ月の間に随分と老け込んだと思った。
カウリと大して歳の変わらない男だったはずだ。馬上で弓を放つ屈強な男だった。
だが、いま部屋の中で椅子に腰掛け、疲れた表情をしている男は何だ?と。
毛艶を失い、顔には疲労困憊の相が浮かぶ。
鼻先はひび割れ、僅かに見える白目は黄色く濁っていた。
太陽王という肩書きが、ただの王であるはずが無い。
カリオンは己に待ち受ける巨大な重荷の存在を始めて感じた。
だからこそ、カウリや父ゼルが自分を士官学校へ送り込んだのだと。
次から次へと難問が降りかかり、それを掻い潜って先に進まねばならない王を。
つまり、自分自身を鍛えようと、鬼になってマダラを送り込んだのだと知った。
「心得ました。精進します」
ノダを見てそう答えたカリオンの眼がリリスを見た。
リリスはチラリと母レイラを見てから立ち上がって、カリオンの隣に座った。
カリオンの手はリリスの頭に回され、口付け体制に入る。
その直前、もう一度リリスは母レイラを見た。
レイラは笑っていた。
「カリオンが迎えに来てくれるのを待ってるから。浮気しちゃいやよ?」
「する訳ないさ。世界中のどこを探したって、俺と同じ生き物はリリスだけだ」
二人は額をくっつけて、お互いの体温を感じた。
恋に落ちた二人。愛を重ねた二人。歩んできた道が一つになる所が見え始めた。
そんな姿をノダはまぶしそうに見ていた。
そして、まるで自分と五輪男を見ているようだと琴莉が微笑む。
「あぁ。そうだ。精進しろ。お前が一人前になって、ゼルの肩から重荷が降りたら、きっとゼルは……」
ノダはゼルに微笑みかけた。
これで良いか?と言わんばかりに。
「妻と二人。悠々自適になったら、妾の一人や二人は増やしても良いだろうし」
ちょっと下世話な笑みのゼル。
だが、カウリはそのゼルに言う。
「妾なんていうな。それに、俺が死んでしまうかもしれん。そしたら俺の女房の面倒を見てもらいたいくらいだ」
死ぬ気だ!
ゼルは直感でそう思った。
「馬鹿言え! お前が死んでどうする! シュサ帝に続きノダ帝の相談役にならなきゃならんし、それに、相国を務めるトウリもまだまだ若い。相談役が勝手に舞台を降りてどうするんだ。シュサ帝のやり方をつぶさに見てきた最高顧問が勝手に引退とか無責任にも程があるだろ」
先手を打たれ釘を刺された。
苦虫を噛み潰したような表情で居るカウリ。
その腕にレイラが手を回した。
「まだ死んでもらっちゃ嫌よ。大体、イワオはどうするの? お前の事なんか知らないから勝手にしろって言うのは酷いわよ」
ちょっとコケティッシュな表情を浮かべたレイラはカウリの眼をジッと見た。
「ちゃんと最後まで責任とってね」
困った表情のカウリはレイラとゼルを順番に見てから考え込むそぶりを見せる。
そして
「おぃイワオ」
「はい、父さま」
「お前、コトリのことどう思う?」
「うーん…… カワイイ 食べたいくらい」
イワオの本音がボロッと出てゼルもレイラも大笑いした。
エイラはカウリを指差して笑った。
「アッハッハッハッハハハハハ! あーおかしい!」
「おい! カウリ! 血は争えねぇなぁ!」
「レイラも兄貴も笑いすぎだ!」
「だってよぉ! いやいや、近年一番の傑作だ! あーおかしい!」
皆が涙を流して笑う中、イワオがいきなり走っていってゼルの膝の上に座るコトリを引っ張り出し、いきなり手前に引っ張ってキスした。
「僕は君が好き!」
大きな声でイワオはそう言った。そんな言葉に恥ずかしそうにしているコトリだったが、周りをぐるりと見回した後、今度はイワオに抱きついてキスし返した。
「コトリ」
「はい父さま」
「だいたい、イワオって奴は碌な奴じゃない。好きな相手をほっといたり、他の女の子に色目使ったりするぞ?」
「大丈夫。逃がさないもん」
「そうか」
ゼルとイワオの会話で再び皆が大笑いした。
レイラは指まで指して笑った。
恥ずかしそうに口元を押さえて笑うレイラ。
その姿にそっくりの仕草で大笑いするリリス。
そんなシーンをゼルは複雑な表情で見ていた。
「イワオ」
「はい」
「男の責任は重大だぞ?」
「うん」
カウリの大きな手がイワオの頭をつかんだ。
イヌの姿をした男を父親だと見上げるイワオ。
ウィルは複雑な表情でそれを見た。
「イワオはコトリのそばに、ずっと居るんだぞ。いいな?」
「はい!」
コトリと手を繋ぎ、並んで椅子に座った子供二人。
イワオは真顔になってコトリに言った。
「僕は君が好き! 大好き!」
その姿をまぶしそうに見ているゼル。
レイラも静かに微笑んでいた。
「リリス」
「はい、母さま」
レイラは慈母の笑みだった。
「幸せになりなさい。私の分も」
「……はい」
母と娘の会話を聞いたゼルはカリオンをジッと見る。
カリオンの顔には、いつの間にか男らしい相が浮いていた。
「カリオン…… いやさ、エイダ」
「はい」
静まり返った室内。
ゼルもまた静かに笑った。
「ぬかるなよ」
「はい」
力強く頷いたカリオンはリリスの手をとった。
「俺は……」
不意に立ち上がったカリオン。その隣にリリスが立った。
男らしい笑みでリリスを見てからノダを見た。
「太陽王になります」
カリオンは決然と誓ったのだった。