ピロートーク
「で、その後どうなった?」
琴莉の肩を抱いていた五輪男は、興味本位剥き出しの質問を遠慮無くぶつけた。
ガガルボルバを遮る大岩。インカルウシの上にそびえるガルティブルク城の一室。
遠くに沈み行く太陽は、巨大都市ガルティブルクをオレンジ色に染めていた。
大岩の南側に突き出したバルコニーつきのリビングを持つ生活居室。
そこはゼルとエイラ夫婦に用意されたプライベートルーム。
ガルディブルクの街を見下ろすここは、朝日から西日までよく見える部屋だ。
「言わなきゃダメ?」
純白のベッドシーツの上。
ベッドに腰を掛けた五輪男の隣に琴莉は居た。
「言いたくなければ黙っていても良いよ」
五輪男の肩へ頭を乗せて、美しい夕焼けを見ていた。
二十五年の歳月が流れたが、琴莉にとって五輪男は五輪男だった。
「うーん……」
思う存分その胸で泣いて。泣いて、泣いて、泣きはらして。
そして、苦しかった胸の内を全部吐き出した。
二十五年分熟成したビンテージ級な愛を込めて。
「実はね、そのままトゥリングラードの駐屯地へ運ばれたんだけど」
「うん。あそこは広いからな」
「そこにいた兵士がやる気満々で医務室で待って居てさ」
「マジで?」
「うん」
怪訝な顔で琴莉を見た五輪男。
「だけど、そこで私にエリクサーを飲ませた士官がね、胸を張っていったのよ」
「なんて?」
「俺は憲兵だって。どんなに悪徳のはびこる世界でも、俺の心は絶対汚れないって」
「へぇ。やるなぁ」
「ヒトは人間の範疇に入ってないが、ヒトであっても女は女だから。力ずくで襲うのは騎士道に悖るって言い切って、そして医務室の中が血の海よ。思わず卒倒しかけた」
五輪男の腕に抱きついていた琴莉の力がちょっと強くなった。
恐ろしいシーンを見て震えたのだろうと。
琴莉の肩を抱く五輪男の力も少し強くなった。
「イヌの憲兵は馬鹿が付くくらい仕事熱心だからな」
「うん。ちょっとドキッとしちゃった。かっこよかったし」
「なんだよ。妬けるじゃねーか」
「えへへ。ごめんね」
肩を抱かれた琴莉は五輪男の横顔をジッと見ていた。
切り落とした耳の痕に、言葉には出来ない五輪男の苦労を想った。
その傷跡にそっと手を伸ばして、そして苦労を重ねたのが自分だけでないと思った。
「痛かった?」
「いや、魔法で切ったから痛みはなかった。ただ」
「ただ?」
「音が聞こえにくいんだ。耳たぶって効果あるんだな」
琴莉も必死だったが五輪男も必死だった。
何も言わずに琴莉を抱き締めた五輪男に、改めて惚れ直していた。
「苦労したんだね。いわ君も」
「琴莉に比べりゃどって事無いよ」
「あっ! 強がってるでしょ!」
「ホントだって。ちょっと飯の時間が遅くて腹が減っただけさ」
五輪男はそこから淡々とゼルの影武者になった経緯を話した。
死肉蜂の幼虫を喰って生き延びたとか、夥しいヒトの腐乱死体を見たとか。
途中でゼルが死に、カリオンを育てるべく奔走した話で琴莉は涙した。
士官学校でマダラがどんな扱いを受けるのか。
その部分に琴莉はイヌの社会の深い闇を感じた。
「ところでさ」
「うん」
「リリスは琴莉が産んだのか?」
「……聞きたい?」
「勿論だ。じつは、凄く重要な事かも知れないんだ」
「なんで?」
「実は……」
五輪男は琴莉の肩を両手で抱き締めた。
されるに任した琴莉は、この時になって初めてビアンコに抱き締められたエリーの気持ちの本質を理解した。
「……カリオンは俺の子だ。俺とエイラが魔法の薬を飲んでエイラが産んだんだ」
「うそ……」
「ホントなんだ。ゼルがエイラと結婚した直後、刺客がゼルを殺しに来て」
五輪男は深い深い溜息を吐いた。
「切実な理由でゼルは何度も死掛けてたんだ。だから、ゼルのガードはみんな複数のエリクサーを持ち歩いていた。そのお陰で俺は助かったんだけどね」
「でもそれって」
「あぁ。身体は良いけど心が持たなかった。でも、ゼルは大したもんだったんだ。毎回毎回ギリギリで切り抜けて、その都度に強くなっていった」
「そこでいわ君登場なのね」
「あぁ。いきなり問答無用でスカウトされて、そのまま影武者だよ」
「でも上手くまわっていたんでしょ?」
「最初はね。ただ、段々と刺客がやばい事になり始めて、最後は……」
五輪男は眼をつぶって首を振った。
「刺客は毒の付いた短剣で股間部分から見事に切り裂かれて、死にはしなかったけど二週間後に金玉が腐って落ちた。つまり」
「それってエリクサーで治らないの?」
「欠損した場合には無理なんだ。切り落とされたとかなら傷口にくっつけて置くと治るんだけど、溶けてなくなるとかだと無理だって知ったんだよ」
子孫を残すためには男も重要と言うのは経験則でどんな種族でも知っている。
そして、男の側をどうにかしてしまえば子孫は残らないと言う事も。
「で、どうしたの?」
「エイラを抱いた。ウィルがゼルに持たせた魔法の薬は種族を越えても子供が出来る薬だったんだ」
ゴメンと言わんばかりに五輪男は頭を下げた。
その頭を持ち上げた琴莉は大きく目を見開いて五輪男を見た。
こぼれ落ちそうな目をしている琴莉は、僅かにはにかんで首を振った。
救われた。或いは赦されたと、五輪男は思った。
「エイラは太陽王の血を引いた女だ。そこにフレミナ族の男を宛がって子供を作れば、合法で太陽王を乗っ取れる。フレミナの一門が脈々と系譜を繋いで、この三百年以上も機会を伺ってるんだよ」
「執念深いね」
「あぁ。おまけに彼らは逆恨みしているんだ。ル・ガルと言う国家になってこれだけ発展したにもかかわらず、自力でもこれくらいの事は出来たし、むしろ邪魔をされてると思ってる節がある。おまけに自分たちは被害者だと思ってるんだ」
怪訝な顔の琴莉。五輪男も苦虫を噛み潰したような表情だ。
あまりに身勝手で横暴で、そして、発想が子供染みている。
「エイラは見事に妊娠して」
「一発?」
「あぁ。ホントに一発だった」
ウフフと笑った琴莉。五輪男の表情には自嘲の色が浮かぶ。
「あなたを見るエイラさんはいつも幸せそうだからね。そうだと思った」
「ゴメンな。ホントに」
「え? なんで? 良いじゃん。だってここじゃ一夫多妻は普通だし、それに」
「それに?」
「むかしね、ビアンコさんに言われたの。自分に惚れた女の一人や二人くらい満足させて、しかも良い暮らしもさせてやれないようなダメ男なんかには惚れるなよって」
「……でっけぇ男だな」
「でしょ? だから」
琴莉の手が五輪男の顔に触れた。
その柔らかな指が五輪男の唇をもてあそんだ。
「エイラさんがあなたに『役立たず』とか『甲斐性なし』とか言ってたら、それはそれで嫌いになってたと思うよ。私の本当の……」
五輪男の胸にもう一度顔を埋めた琴莉。
「本当の夫が甲斐性あるヒトで良かったわ」
「ありがとう」
「でも、エイラさんが北へ行ったのは、向こうにしてみればチャンスだったんだね」
五輪男はどこかうれしそうに笑って琴莉を見た。
不思議そうな琴莉だが、五輪男はその頭に頬を寄せた。
「そう。チャンスだったんだ。絶好のチャンス」
「……あ、そっか。日常会話に英単語は入らないもんね」
「そうだよ。普段の会話は日本語だけど、でも、英単語が入ってない」
「人の名前はイギリス風だったりアメリカ風だったりイタリア風だったりするのにね」
「うん。でもさ、時々役に立つ事もあるんだ」
「ほんとに?」
「例えば、今この会話を誰かが聞いてたとしても」
「うん」
「アイラブユーって言っても意味が通じない」
琴莉はびっくりして五輪男を見上げた。
ゴチンとおとがして、琴莉の頭が五輪男の顎を撃った。
眼から火が出て涙目になった五輪男だが、それでもギュッと琴莉を抱きしめた。
「大声で話をしたって誰にも通じない内緒話だよ」
「そうだね」
「アイム、オールウェイズ、ラブユー」
「ミートゥー」
「エブリタイム、エブリウェァ、フォーエバー」
「ジャスト、オンリー…… ユー」
五輪男はゆっくりと琴莉の唇を塞いだ。
泣いて笑ってまた泣いて。そして記憶を再構築した琴莉。
約二十五年ぶりのキスだった。
「血の海になった医務室にカウリが来たの。本当はセダ公が来る筈だったんだけど」
「うん」
「憲兵から事情を聞いたカウリは、死んだ兵士は侵入者と戦って死んだと言い切ったのよ。そして、ヒトの女は俺が預かるから上手くやれって憲兵に命じてね」
「ところでネコの騎兵はどうなった?」
「なんかもう本当出会い頭の衝突事故って感じで、問答無用で一気に合戦に及んだらしいけど、地力が全然違ったので勝負にならなかったの」
「しかし、それから二十年近く研鑽を積んだわけか。それでシュサ帝が……」
「そう言うことだね」
琴莉をジッと見た五輪男。
気まずそうな顔をしている琴莉。
「私が病気になってル・ガルを目指さなかったら、歴史は違っていたかもね」
「だが、それはネコの自業自得だ。その臨時駐屯地での一件が無ければな」
「そうだとしても、人が死んでるのは事実だもん。自分が原因かと思うと」
「確かに気が重いよな。実は俺もそれで致命的なミスをして……」
五輪男は悲痛な表情を浮かべた。
「セダを殺してしまったのは俺のせいかもしれないんだ」
「フィエンの教会での話ね」
「あぁ。カウリから聞いたのか?」
「うん」
二人して溜息を吐き出した。
慙愧の念に絶えないのだが、後悔は手遅れだから後悔というのだ。
「で、カウリ預かりになってどうなった?」
「憲兵に斬られなかった兵士がね、後になってカウリに文句を言ったのよ。ヒトの女を独占してるって。私はカウリの家で預かりになっていて、実はクワトロから私を探してるって話が来てたの。だけど、私はクワトロへ戻りたくなくて」
「……ある意味、箍が外れたようにちょっかいを出してくるだろうからな」
「うん。なし崩し的に夜の女になってたかもね」
「だけど……」
五輪男はスケベ根性丸出しな男の顔を浮かべた。
「キャバ嬢状態の琴莉を一度見てみたかったな」
「今からフィエンに行く? 多分まだみんな覚えてるよ」
「あの街はきれいに直せって兵に命じておいたからな。町長に随分感謝されたよ」
「バルトロメオさんが町長なんだから凄いなって思うよ」
「なんで?」
「だって、万事いい加減な人だったから」
アハハと笑った琴莉の笑顔に五輪男は癒された。
悩み続けた日々がまるで嘘のように解けていった。
いつか琴莉と再会する日の為にと、しっかりと心を閉ざした筈だった。
その心にスルリと入り込んできたエイラを、疎ましいと思った事は一度として無い。
ただ、それでも。
閉ざした心を開いたとき、そこに最初に入り込むのはやはり琴莉だと。
五輪男は改めてそれを再確認していた。
「話があっちゃこっちゃ飛ぶな」
「そうだね」
「で?」
「憲兵経由で参謀本部に話が行って、で、何故か軍務諸尚の預かり案件になったのよ。後で聞いたらカウリがヒトの女を囲って奴隷にしているって告発だったらしい。で、カウリはイヌの女だって啖呵切って帰ってきたんだって。でも、帰ってきてからどうしようどうしようって頭抱えてた」
ウフフと笑った琴莉。
楽しそうに笑う仕草は昔と全く変わらない。
「でも、あのカウリがそれだけ慌てふためくのは見てみたいな」
「でしょ? でね、ウィルがね『魔法の薬を使いましょう』って言い出して」
「……わかった。分かったよ。もしかしてそれ……」
五輪男は言葉を失った。
琴莉は悲しそうに笑ってうつむいた。
「多分、ゼルが持っていったのと同じのよ。二本有ったうちの一本をゼルが。そして、もう一本を私とカウリで使ったの」
「あの銀の薬だろ?」
「そう」
琴莉の表情が不意に曇った。
言いにくい事なんだと五輪男は知っている。
かつてエイラがそうだったのだから、聞かなくてもわかる。
けど。
「あの薬を飲んだ後、ちょっと経ってから身体中が熱くなって、恐ろしいほど敏感になって、風に吹かれたくらいで視界が真っ白に染まって、で、なにがなんだか何にも分からない状態でさ」
「エイラもそうだったよ」
「カウリに抱きついて、後はもうなんだか…… 掃除機みたいだった」
「掃除機?」
「うん。カウリの魂そのものを吸い取ってるような…… 私の中に何かが流れ込んでくるのがわかるの。なんだかもう全てが真っ白で、気が付いたら朝になっててさ。声は出ないし身体中が筋肉痛で痛いし、おまけに」
「おまけに、腹が膨らんでいたんだろ?」
「うん。二ヶ月目か三ヶ月目位になっててさ。本気で驚いた」
五輪男の腕に抱きついていた琴莉は、その手をとって自分の下腹部へはこび、五輪男の手を触れさせた。女性の女性である臓器。五輪男の触れた手の向こうには、リリスの故郷であり製造組み立て現場である琴莉の子宮があった。
「私のここは…… もうヒトじゃなくなったみたい」
「じゃぁイワオは? あの子も?」
「そう。リリスの本当の弟。だけど、あの子の姿は完全にヒトだけど……」
琴莉はジッと五輪男を見た。
何を言わせたいのか、全部分かっていた。
「どうやら俺もヒトを辞めたみたいだな。あの子は。コトリはカリオンの妹だ。ただ、同じ時期にネコの商人がウサギの国からヒトの子供を何人も運んできていて、臨検したら違法搬出なのが分かったから全部没収したんだ。その子達と一緒にそだったから、コトリは自分を混じりっ気無しのヒトだと思い込んでる」
「それはちょっと不幸だね」
「あぁ」
「で、ネコの商人は?」
「さぁ。俺は知らないがカリオンが上手くやったろう。生かして帰すなと言っておいたから、その様にしたと思う。俺が言うのもなんだが、あいつはやっぱりイヌの習性が強いんだ。獰猛で果敢で、相手を食い殺す強さがある」
ちょっとだけ怪訝な顔の琴莉。
五輪男も何を言いたいのか理解している。
「あの二人には子供が出来るかもしれない。だけど、その次が続かないな」
「そうね。その子とイヌの間に子供が出来てもヒトの姿かもしれない」
「カウリが言うとおり、やはり養子を取らせるしかないな」
「あの人、トウリを太陽王にしたかったんだわ」
「そりゃ誰だって野望を持つさ」
「あなたは?」
「俺の野望は琴莉と一緒に暮らすことだ。今は難しいけど」
琴莉の悲しそうな眼差しを受け止めた五輪男は、黙って抱き締めて、そして、静かに呟いた。
「カリオンとリリスには幸せになって欲しいもんだよ」
「ホントね」
「そして」
「ちっちゃいイワオとコトリの夫婦もね」
「あの二人はどうかなぁ」
「大丈夫よ。イワオはコトリにゾッコンよ?」
「なんだ、俺と同じじゃないか」
五輪男の軽口に琴莉が笑った。
ギュッと抱き付いて、そして、五輪男の首に手を回した。
「いつかあなたと暮らしたい。貴族の暮らしじゃなくて良いから。最底辺でも良いから。誰にも邪魔されない毎日を、あなたと」
「俺もだよ。だけどその前に」
「うん。わかってる」
「カリオンとリリスを一人前に育てて、そして、あいつが太陽王になるまではお預けだ」
「人を育てるって楽しいね」
甘えてきた琴莉をギュッと抱き締めて、無理やりに頬を寄せて。
そして、思いの丈の全てを。愛情の全てを込めて。五輪男は呟いた。
「ごめんな。琴莉。ほんとに、ごめんな」
「なんで?」
「あの時、手を離しちまって。もっと力一杯抱き締めていれば」
「でも、そしたらどっちに落ちてたかな」
「え? あ…… そうか」
「うん。どっちに落ちても、こうはならなかったと思う。むしろ」
両手で五輪男の顔を挟んだ琴莉。
抱き締めていた五輪男は手をほどいた。
「結果オーライ?」
「そう言う事よ。だって、あなたも私もこの国じゃ貴族の暮らしよ」
「平民暮らしの方が楽っぽいけどなぁ」
「男と女でだいぶ違うわね」
「付いて回る責任はちょっと洒落になってないけどな」
静かに微笑み合って、そして見つめ合う二人。
太陽は完全に沈みきった。
残照映える空に星が瞬き始めた。
「子供達が心配してるぞ」
「そうだね。顔を見せなきゃ」
「行くか」
「うん」
琴莉の手を取って歩き始める五輪男。
手を繋いで歩く琴莉は、なんだかそれだけで胸が一杯になってしまった。
「泣くなよ。リリスが心配する」
「うん。分かってる」
流れた涙を五輪男の指が拭った。
精一杯の笑顔を浮かべた琴莉が五輪男を見上げた。
「あなたに会えて本当に良かった」
「俺もだよ」
二人は手を繋いでガルディブルク城の廊下を歩いた。
約二十五年ぶりに並んで歩いた。
琴莉はただただ、五輪男の横顔を見つめていた。