大祓・葛葉の詠唱
~承前
やや離れた所から放たれた声。
その声は様々な雑音の中で何故か明瞭に聞き取れた。
――――幕を引いて進ぜよう
イナリは間違いなくそう言った。
キツネの国を実質的に差配する最高権力者が……だ。
それが何を意味するのか、カリオンは何度も反芻して考えた。
だが、いくら考えても、いま目の前に起きている光景は信じがたいものだ。
人の身の何とちっぽけな事か。
神の御業の何と凄まじき事か。
鈴の音をならしながら声を発するイナリの姿が少しずつ変化していく。
真っ白い姿にしか見えていなかった筈なのに、今は葛葉に戻っている。
緋袴を穿いた巫女姿のイナリが空中を漂っていた。
手にした鈴を振り鳴らしながら、空中で舞っている。
何処までも透明な声で、抑揚を押さえた独特の詠唱を始めていた。
――――たかまのはらにかむづまります
――――すめらがむつかむろぎ かむろぎのみこともちて
――――やほよろづのかみたちを かむつどへにつどへたまひ
――――かむはかりにはかりたまひて あがすめみまのみことは
――――とよあしはらみづほのくにを
――――やすくにとたいらけくしろしめせと ことよさしまつりき
それが何を言わんとしているのか、言葉の意味は一切解らない。
ただ、何をしようとして居るのかはすぐに解った。
そんな中……
「嘘よ」
リリスはポツリと呟いた。その顔が青ざめさせながら。
完全に血の気を失ったその表情には恐怖と狼狽がみえた。
何が起きるのかは分からないが、とにかく危険なのだろう。
次元の魔女とまで呼ばれるリリスには、何かが見えていた。
「大丈夫か?」
すっとリリスに寄り添ったカリオンは、腕を伸ばし抱き寄せた。
その腕の中、驚愕の表情でリリスは空を見上げていた。
ダイナミックに舞いながら祝詞を上げる葛葉の姿が見える。
その葛葉を捕まえようと手を伸ばすヒルダも。
――――かくよさしまつりしくぬちに あらぶるかみたちをば
――――かむとはしにとはしたまひ かむはらひにはらひたまひて
――――こととひし いはね きねたち くさのかきはをもことやめて
――――あめのいはくらはなち あめのやへぐもを
――――いつのちわきにちわきて あまくだしよさしまつりき
――――かくよさしまつりしよものくになかと
イナリ。いや、葛葉の見つめる先。
ヒルダの変化した姿の更に上あたりだろうか。
何かは解らないが、小さな白い光がフワッと空中に浮いた。
リリスは小さく『来た』と呟き、それっきり黙ってしまった。
何が来たんだ?と問いたかったが、それどころじゃ無いのだ。
カリオンの内心に沸き起こった感情を一言でいえば諦念だろう。
圧倒的存在を前に、ただただ首を垂れるしか出来なかった幼き日々と同じ。
怒りをかみ殺した父ゼルの前に立ち、厳しく指導された頃と同じものだ。
――――あれには勝てない
理屈ではなくそう直感した。
もっと言うならば、勝つとか負けるとかと言った次元ですらなかった。
崇高にして大いなる存在がこの世に顕現しようとしていた。
――――おほやまとひだかみのくにをやすくにとさだめまつりて
――――したついはねにみやばしらふとしきたて
――――たかまのはらにちぎたかしりて
――――すめみまのみことのみづのみあらかつかへまつりて
――――あめのみかげ ひのみかげとかくりまして
――――やすくにとたいらけくしろしめさむくぬちになりいでむ
……あれ?
ふと気が付けばヒトの軍勢が攻撃を中断してイナリの祝詞に聞き入っている。
いや、聞き入っているというのは勘違いで、実際は観察してる可能性もある。
ヒルダは明確に狼狽を始め、何らかのアクションを起こしていた。
ただ、その全てはイナリの……いや、葛葉御前の直前で霧のように消えた。
何が起きるというのだ?
その一点にカリオンの興味は集中した。
九尾の者達が今は声を揃えているのだ。
改めてよく見れば、驚くほどの多士済々ぶりにも驚く。
そんな九尾の者たちが各々に個別のパートを唱え始めた。
最初に声を発したのは、ウィルケアルベルティと如月卿だった。
――――あめのますびとらが
――――あやまちをかしけむくさぐさのつみごとは
――――あまつつみくにつつみ ここだくのつみいでむ かくいでば
――――あまつみやごともちて あまつかなぎをもとうちきり
――――すえうちたちて ちくらのおきくらにおきたらはして
――――あまつすがそをもとかりたち すえかりきりて
――――やはりにとりさきて あまつのりとのふとのりとごとをのれ
小さくぼんやりと浮かんでいた白い球が少しずつ大きくなった。
その直後、ヒルダの召喚した禍々しい黒い渦がスーッと小さくなった。
いったい何をしているのだろうか?
いったいどんな攻防をしているのだろうか?
全く掴めない中、再び葛葉が鈴を振って舞い始めた。
九つの長い尻尾を振りながら、空中に舞っているのだった。
――――かくのらば あまつかみはあめのいはとをおしひらきて
――――あめのやへぐもをいつのちわきにちわきて きこしめさむ
鋭い鈴の音が響いた。
小さかった白い球から眩いほどの何かが分離して中に浮かんだ。
――――くにつかみはたかやまのすゑ
――――ひきやまのすえにのぼりまして
――――たかやまのいぼりひきやまのいぼりを
――――かきわめてきこしめさむ
再び鋭い鈴の音が響いた。
少しだけ膨らんでいた白い球から、もう一つ眩い光が分離した。
――――かくきこしめしてば つみといふつみはあらじと
――――しなどのかぜのあめのやへぐもをふきはなつことのごとく
――――あしたのみぎりゆふべのみぎりを
――――あさかぜ ゆふかぜのふきはらふことのごとく
――――おほつべにをるおほふねを へときはなち ともときはなちて
――――おほうなばらにおしはなつことのごとく
――――をちかたのしげきがもとを やきがまのとがまもちて
――――うちはらふことのごとく
「や"め"ろ"ぉ"ぉ"ぉ"!!!!!」
唐突にヒルダが絶叫した。いや、ヒルダだったバケモノが……だ。
驚いたカリオンは空を見上げた。先ほどまで城の上空にあった渦が消えていた。
空中に浮かんでいた城がゆっくりと地上へ落ち始めている。
――――大丈夫か?
少しだけ不安になったのだが、少なくとも地上に激突する事は無さそうだ。
あの黒い禍々しい渦が何処へ消えたのかは解らないが、あれが元凶だろう。
ヒルダは明確に苦しみ始め、身体の有りえないところから生えた手足が消えた。
――――のこるつみはあらじとはらへたまひきよめたまふことを
――――たかやまのすゑひきやまのすゑよりさくなだりにおちたぎつ
――――はやかわのせにますせおりつひめといふかみ
先ほどまで小さかった白い球が更に大きくなった。
そこからふわりと小さな白い球がもう一つ分離した。
――――兵士だ……
何の根拠も無いがカリオンはそう直感した。
葛葉が召喚しようとしているのは、あのヒルダを封印できる兵士だ。
そしてその存在は、この世に生きる人間にはどうにもならない存在だろう。
――――おほうなばらにもちいでなむ かくもちいでいなば
――――あらしほのしほのやほぢのやしほぢのしほの
――――やほあひにますはやあきつひめといふかみ
再び小さな白い球が分離した。
その白い球は先ほど分離した球を距離を取り、ヒルダを挟む様に浮いた。
挟み撃ちにでもするつもりか、完全な挟撃の陣形だ。
ヒルダはその球をどうにかしようと歪な手を伸ばした。
だが、その手が霧のように消え、白い玉はフワフワと舞っていた。
――――もちかかのみてむ かくかかのみてば
――――いぶきどにますいぶきどぬしといふかみ
――――ねのくに そこのくににいぶきはなちてむ
――――かくいぶきはなちてば ねのくに
――――そこのくににますはやさすらひめといふかみ
さらに二つ、白い球から何かが分離した。
先ほどの小さな球と真四角の陣を形作りヒルダを包囲した形だ。
――――もちさすらひうしなひてむ かくさすらひうしなひてば
――――つみといふつみはあらじと はらへたまひきよめたまふことを
葛葉の鳴らす鈴がひと際大きくなった。
その瞬間、リリスは蹲って頭を下げた。
「カリオン! あれを見ちゃダメ! 見ちゃダメなの!」
え?と声を発したカリオンは同じように身を低くして頭を下げた。
ただ、それはもうリリスの言葉を素直に受け取れるカリオンだけの事だ。
ただただ傍観するだけだったル・ガル国軍兵士は呆然と空を見上げていた。
何が起きるのか? 何がやって来るのか? その全てを見んとしていたのだ。
「みんな! あれを見ちゃダメ!」
リリスがそう言うと同時、葛葉は鈴を大きく振って鳴らした。
高低様々な音色がまじりあうなか、遠くから声が聞こえた。
――――あまつかみ
――――くにつかみ
――――やほよろづのかみたちともに
「リリス! 何が来るんだ!」
カリオンはリリスに向かってそう叫んでいた。叫ぶしかなかったのだ。
どこからか人の声がした。大勢の人が声を揃える時の音だ。
子どもと老人が同じ言葉をしゃべる様な声音だ。
10万20万の軍勢が一斉に国家を歌うような声の圧力。
カリオンはそれを賛美歌だと思った。
「この世界を作った存在が来るの! この世の者が見てはいけないものが!」
リリスの声が泣いていた。遠い日にサワシロスズの咲く霧の草原で聞いた声だ。
カリオンの内心に何かが沸き起こった。それは、驚きではなく怒りだった。
――――余の妻を泣かすな!
明確なその感情が沸き起こった時、カリオンは無意識に空を見上げていた。
先ほどまで小さかった白い球が視界からはみ出すほどに大きくなっていた。
――――え?
一時的な感情の麻痺。そして、精神の喪失。
空っぽになった心の内に何かが入り込んできた。
目を細めるほどに眩い光がまき散らされ、カリオンはそれを太陽だと思った。
光と熱とを恩寵とする……と何処かで誰かが唱えたような気がした。
余りの眩しさに手をかざして眼を守った。
そして……
――――きこしめせとまをす
葛葉は手にしていた鈴の錫杖を大きく振った。
まるで剣のように振り抜かれたそれは、ヒルダだったバケモノに突き刺さった。
シャンッ!と鈴の音が鳴り響くと同時、何かが始まった。
「何が起きたんだ!」
余りの眩さに地平へと目を伏せたカリオン。
その眼差しは手にしていた剣の刃先に注がれた。
叔父カウリが愛用していた幅広のブロードソードに……だ。
その刃部分には磨き抜かれた鏡の如き領域がある。
戦場の片隅ではそこを見ながらヒゲの手入れが出来る程の鏡面だ。
そこに辺りを映して見たカリオンは内心で叫んでいた。
――――バカなっ!
「ウォーク!」
鏡写しの世界に見えたのは、全ての表情を失って空を見上げるウォークだ。
ウォークだけじゃない。ヴァルターや国軍兵士の多くが空を見上げていた。
「ウォーク! ヴァルター! 空を見るな! 見るんじゃない!」
声を嗄らしてカリオンは叫んだ。
しかし、空から聞こえてくる何者かの声がそれらすべてをかき消した。
――――クソッ!
苛立ちを吐き出しつつカリオンも空を見上げた。
遠い空の彼方に何かが浮かんでいた。
余りにも眩い光の中に何かのシルエットが見えた。
「ダメッ! 見ちゃだめ!」
リリスが慌ててカリオンの頭を引っ張った。
そのあまりの力に軽いむち打ち状態となった。
視線が下に落ちた事で再び剣の鏡面部分を見た形だ。
――――あれかッ!
余りに強い光が降り注ぎ、眼の奥が痛みを発している。
細目となってなおもそれを見ようと努力したカリオン。
その目は夥しい数のヒトの姿を捉えた。
――――え?
このル・ガルに生きるヒトとは全く異なるいでたちだ。
ヒルダの四方に居るものは、うまく表現できない異形の姿だ。
それを見た時、カリオンは聖導教会の教えにあった一節を思い出した。
『主の御使いは人とは異なる姿をしている』
幾多の腕を生やし三面の顔を持つ者が宙に浮いていた。
まるでハリネズミの様なトゲトゲを全身に生やす巨大な団子状の何か。
鷲や鷹の頭に蛇の胴体。そこにムカデの様な幾多の脚を生やすもの。
巨大な肉の塊りの真ん中に巨大な眼を持ち、一つ目の蛇を全身に生やす物体。
その全てがヒルダを取り囲んでいる。
いや、何事か理解出来ない神の御業でヒルダを攻撃しているのだ。
そして……
――――あれが……
鏡面部分の彼方。ヒトの姿をした幾多の者たちが立っている。
そのどれもが男か女かわからぬ姿をし、様々な道具を持っている。
弓を持つ者。筆を持つ者。太刀を持つ者。何事かの道具を持つ者。
そんな者達がスッと左右に広がって脇へと控えた。
「来た…… 来たよ…… 怖い……」
リリスはきっと魔力で見ているのだろう。
空の彼方に存在する何かをカリオンは鏡写しで見ていた。
割と背丈のある姿だ。まるで兜のように髪を掻き上げた頭だ。
右の手には鋭剣を持ち、左の手には緑色の珠を持っている。
真っ白のガウンを纏った様な姿だが、なぜか素足だ。
その口が開いた。何事かを喋った。
音は聞こえないが、意思は伝わって来た。
きっと耳には聞こえぬ声なんだとカリオンは思った。
『 お 前 を *#&$ す る 』
並居る者達の中心に居たその存在が珠を掲げた。
そこから何かが伸びて来た。まるで黒い霧だと思った。
「□■◆■□■◆■□■◆■□■◆■□■◆■□■◆■」
ヒルダが言葉にはならない声を発した。
抵抗しているのだろうが、全く太刀打ちできないようだ。
緑の珠が発する黒い何かは完全にヒルダを推し包んだ。
その霧のようなものは少しずつ少しずつ萎み始めていた。
「□#■%◆&■@□*■+◆<■□=■Q◆¥■ー□÷■○◆#■」
再びヒルダが叫んだ。きっと怨嗟の声だとカリオンは思った。
溶けた氷から水が滴るように、ヒルダの身体が光を放つ雫になって溶けた。
痛みと悔しさにヒルダが声にならぬ声で叫んでいる。
心の何処かに少しだけ哀れだという感情が芽生え、同時にハッと気が付いた。
――――エイダン!
そう。異なる世界からやって来たと言うもうひとりの自分。
自らの真名であるエイダを知っていたエイダンの存在を忘れていたのだ。
だが……
「バカな……」
少し離れた所にいたエイダンは空を見上げていた。
溶け落ちるヒルダの雫を全身に浴び、両手を広げて空を見上げていた。
その顔には満足そうな笑みを浮かべ、快哉を叫んでいるのだ。
ル・ガルに関わる者全てが呆然と立ち尽くしているのに……
「エイダン」
ボソリと呟いたカリオン。
エイダンは満面の笑みのままカリオンを見た。
「これだよ。これで良いのだよ。我が積年の思いをやっと果たした。もう思い残すことは無いのだ。強いて言うならば――
何かを言おうとして再び空を見上げたエイダン。
それに釣られてカリオンもまた空を見上げた。
見上げてしまった……
「カリオン!」
リリスが絶叫した。瞬間的にしまった!とカリオンは思った。
だが、空遙かに見える緑の珠を持つ者と目が合ってしまった。
その瞬間だった。
「だめぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
リリスの悲鳴が響き渡った。
カリオンの周囲に、あの黒い霧のようなものが纏わり付いたのだった……