イヌの国へ
フィエンゲンツェルブッハからル・ガルへ向かう街道は比較的整備された石畳の道だ。
通商で歩く商人たちがコツコツと石畳を敷いていったと言う街道は歩きやすく、大型の馬車も安全にすれ違える広さを持っていた。
一定の距離で作られた茶屋には人だけで無くモノや金が集まり、それと同時に情報も集積されていた。
「トラおたふくならエリクサーで一発よ! チョロいもんだぜ!」
小さな茶屋町の顔役は笑って言った。
「それより先を急ぎなよ。その様子じゃ水も飲めないだろ」
馬車の中には喉のリンパ節をパンパンに腫らしたヒトの女が三人乗っていた。
クワトロに馴染みなバルトロメオが用意したのは、最新鋭の寝台馬車だ。
さすが馬具商だけ合って、馬関係の様々な商材に関しては良いものを扱える。
普通は走行中に寝台にはしないはずなのだが、今回は事情が事情だ。
ミーナとエルマー。そして、晴れてまん丸な顔になった琴莉が乗っていた。
喉だけでなく脇や足の付け根なども腫れ上がり、しかも手で触って熱いと思うほど熱発しているのだった。
苦しそうに息をする三人の顔へ霧吹きを掛けるメリッサ。
額と両脇へ水を含ませたタオルを挟み込むエレナ。
エリーは御者台に座るリベラとバルトロメオに言う。
「さぁ出発しよう。先を急がないと」
「あぁ 旦那様はそろそろイヌの駐屯地へ付く頃だろう」
ゆっくりと馬車が動き出した。二段リンクのサスペンションを持ったコーチは雲の上の乗り心地な筈だ。だが、体調優れぬ者にしてみれば、戸板に乗せられ河原を引きずられるようなものだった。
苦しそうに息をしながら窓の外を見る琴莉。やけに空が青く感じ、その向こう遠くに浮いている雲を懐かしく感じた。
父親の運転する車の後ろの席で、五輪男と一緒に寝転んで眺めた窓を思い出す。
こんな日と同じように白い雲が浮いて、真っ青な空が広がっていた。
――――いわくん…… もうすぐ会えるね……
喉の渇きは如何ともし難く、それでいて水すら飲む事も出来ない程に喉がはれ、身体中が熱くて、寒気を感じていた。メリッサは琴莉の口の中へ霧吹きの霧を流し込み、その僅かな水分で琴利は喉を潤した。
馬車の速度がだんだんと上がっていくと、さっきまであんなに揺れていた馬車がだんだんと揺れなくなり始めた。サスペンションが最大効率で仕事を始める速度になったのだろうと思った。
馬はかなりの速度で駆けていて、しかも、馬車の周りには何騎もの騎兵が伴走していた。ネコの騎兵の本体がフィエンの町へやってきて、そこで事情を聞いた騎兵連隊の将校はイヌの駐屯地までの護衛を買って出たのだった。
馬車を牽く馬が水を求めた時には騎兵の乗ってきた馬に変えて先を急いだ。峠を越したミーナやエルマーは小康状態になったのだが、これはトラおたふくで死ぬ者に必ず訪れる『お別れの時間』と呼ばれるものだった。
半日ほど嘘のように腫れが引き、食事をして水分を取って、そして最期の時を待つのだった。身体中の穴という穴から血を流し、血の混じった嘔吐と下血。汗腺からも出血し、最後は失血死する病だ。故に、時間が無い。とにかく時間が無い。
少し快復したミーナとエルマーはおいしそうに果物を食べ、レモンを絞った水をゴクゴクと飲み、パンとスープで食事にした。おなか一杯食べてから、ベッドに横たわって最期の時を静かに待っている。
「リベラさんお願い。急いであげて。アチェはまだ間に合うから」
腫れぼったい目で訴えるエルマーをベッドに寝かしつけて、エリーは揺れる馬車の中で琴莉の手ぬぐいを水に晒し冷やし続けていた。一昨日の晩に店で歌って、その晩遅くに倒れ、昨日の午後になってバルトロメオが馬車を用意し、昼夜を違わず走り続けてきたのだった。
「エリクサーさえあれば」
そんな事をポツリと漏らし、バルトロメオは馬車の中で踏ん張っていた。
やがて遠くに大きな鐘楼が見え始めた。イヌとネコの国の国境の鐘楼だ。ここから東へ十二リーグ走って行けば、イヌの西部方面軍が駐屯する最大拠点。トゥリングラード演習場の中心施設だった。
その辺りでネコの騎兵が速度を落とした。事前の打ち合わせで決まっていた事だ。このままネコの騎兵が最大速力で突入すると偶発戦闘になる恐れがある。馬車だけが速度を落とさず、そのまま走っていった。
「首尾上々を祈る!」
ネコの騎兵が鬨の声を上げた。それに気を取られる事無く、リベラは速度を落とさず走らせ続けた。だんだんと鐘楼が近くなっていく。国境のゲートは大きく開けられていて、イヌの警備兵が青い旗を振っていた。
事前に通過したエゼキオーレの交渉は成功だったようだ。鐘楼の下を通過した馬車のの後方から見事に手入れされたイヌの騎兵が追走を始めた。ネコの騎兵も大柄だが、イヌの騎兵は輪を掛けて大柄で、そして厳つい表情をしていた。
「このままトゥリングラードまで走れ!」
巧みな馬術で馬車の先導に立った騎兵は、見事な騎乗を見せ白馬を加速していった。
ネコの国の馬とは毛並みの体つきも全く違う逞しい馬が居た。朦朧とした意識の中で眺めていた琴莉は、その馬がユニコーンにも見えた。馬車の周りを走る六騎の騎兵は眼光鋭く馬車の中を見た。まん丸に膨らんだ顔を恥ずかしいと琴利は思った。
精一杯着飾って、きれいに化粧をして、そして死ぬべきだと思っていたのだけど。
突然鋭い笛の音が聞こえた。騎兵が一斉に反応した。全員が剣を抜き放ち、馬車の左へ集まった。
「御者! 一直線だ! 絶対に止まるな! まっすぐ走れ! 騎兵は我に続け!」
騎兵が馬車の近くを離れていった。不思議に思ったバルトロメオが馬車の窓から首を出したら、そのすぐ脇に矢が突き刺さった。腰を抜かして馬車の中へへたり込んだロメオ。窓の外遠くにはネコと思しき十五人ほどの男たちが、馬に乗って掛けていた。
「越境窃盗団だ!」
彼らの狙いはクワトロの馬車が持っている筈の金だ。フィエンの街を出る時点で、エリクサーを買い付けるために大金を持って出たというのは知れ渡っていた。
「余計な手間を増やしやがって」
悪態を付いたリベラは馬の背に鞭を入れた。一気に加速し馬車は速度を上げる。
車内の振動にミーナとエルマーの顔色が変わり始めた。ただ、今更ガタガタ言っても始まらないのだから、二人とも黙って見ていた。
後方に迫った越境窃盗団は騎兵隊の剣戟を交わして馬車を追走する。その後方からやってくる窃盗団の馬は速い。だが、イヌの騎兵は更に速かった。次々に窃盗団を切り捨て数を削っていく。
だが、その後方から更に窃盗団の大群が迫って来るのが見えた。イヌの騎兵は一切迷う素振りを見せず、再びターンをして窃盗団に襲い掛かった。恐るべき潔さだとエリーもバルトロメオも、リベラですらも溜息を漏らした。
スレ違いザマに剣を振り、窃盗団の数騎が落馬した。そのまま群れを通り抜けたイヌの騎兵は反転し、後方から遠慮無く襲いかかった。だが、窃盗団の反撃があったようでイヌの騎兵が一人馬から落ちた。
リベラは馬の行き足が遅くなっているのに気が付き、潰れても構わぬと遠慮無く鞭を入れる。後方では人馬の悲鳴と嘶きが渾然一体となりつつも、かまわず追走してくる姿があった。
「もう少しだ! 頑張れ!」
バルトロメオは思わず馬に声を掛けた。
だが、どれ程鞭を入れても馬の足が遅くなり始めた。機械的に動く物では無く生理現象としての限界を迎えていたのだ。
イヌの騎兵の足止めで窃盗団との距離は随分離れ、遠くから聞こえる声が無くなり始めていた。一リーグはオーバーだろうけど、半リーグは引き離したとリベラは思った。
速度を落とすか、馬を潰すか。二つに一つ。百戦錬磨のリベラとは言え、この決断には逡巡する。
しかし、結論を得る前に四頭のウチ一頭の馬が事実上足を止めてしまった。目の前には馬用の水桶があった。イヌの騎兵が行軍する馬用に用意してある設備だ。言うなれば馬向けのガソリンスタンドとも言えるのだろうけど……
凄い勢いで水を飲んだ馬は再びゆっくりと走り出した。速度が乗ってこないのは仕方が無いとしても、このままでは追いつく。遠くから聞こえてくる蹄の音は、まだまだ頭数がある事を伝えていた。
「エリーねぇさん」
若干引きつった表情で後ろを見ていたエリーは琴莉の声を聞いた。
「どうしたんだい?」
「私をここに置いて行って」
「な…… 馬鹿を言うんじゃ無いよ!」
「でも、ここでみんな死ぬより一人の犠牲で終わった方が良い」
高熱を発しているはずの琴莉はエリーの手を払いのけ、馬車のドアを開けた。
「ちょいとお待ち!」
「論議してる時間は無いの! ミーナとエルマーを助けて! 私のせいなんだから!」
叫んだついでに馬車の外へ嘔吐した琴莉は、スカートの裾で口を拭いた。
まん丸に腫れ上がった顔だが、その笑顔は今まで見た中で一番誇らしいものだった。
「この死は無駄じゃ無い。意味有る死に方なの。誰かの役に立って死ぬなら本望よ」
揺れる馬車の中、琴莉は胸を張った。
「もしこの先フィエンの街にワタラセイワオと名乗るヒトの男が来たら伝えて」
腫れ上がった顎周りが邪魔をして琴莉は上手く喋ることも出来ない。
だけど琴莉は、精一杯の笑顔でエリーとバルトロメオを見た。
夏の晴れた空に向かって咲く、ひまわりのような笑顔で。
「愛してる。今でも。これからも。永久に。あなたと会えて良かったって」
揺れる馬車の中、琴莉は大きく両手を振って別れを告げた。
手すりを握らねば五秒と立ってられない揺れる馬車の中でだ。
当然のようにバランスを崩し、今年の片足が車外へと出た。
「短い間だったけどお世話になりました。エゼキエーレさんとフィオさんにも、ありがとうと、お父さん、お母さん、お世話になりましたと、そう伝えて下さい」
まるで嫁入り前の娘のように泣きながら笑って手を振った琴莉は、迷う事なく馬車から飛び降りた。少しばかり軽くなった馬車は徐々に加速していった。
「アチェ!」
ドアから身を乗り出したエリーが叫んだ。
草むらに転げた琴莉は、うっすらと見えるエリーに手を振った。
――――さようなら
――――さようなら
――――今度はあなたの妹に産まれたい
走り去る馬車を見送った琴莉は、道の真ん中に立って両手を広げた。
はるか遠くから蹄の音が迫ってくる。だけど、まったく恐怖は無い。
全開にならない目を精一杯開けて琴莉は遠くを見た。
砂塵を上げて走ってくる馬が見えた。
――――あなたが私の死なのね
――――馬に蹴られて汚れたんですもの
――――馬に蹴られて死ぬなら予定通りよ
――――誰かに殺されるんじゃ無い
――――自分の死を自分で選んだんだ
――――私は誰かの持ち物なんかなじゃい!
……いわ君
……愛してる
滲む視界の向こうに眩く輝く刃が見えた。
大きく両手を広げて立ちふさがるようにして。
バリケードのように通せんぼをして。
そして琴莉は微笑みを添えた。
――――さぁ 私を殺して
馬のシルエットが見える。恐ろしい程の速度で迫ってくる。
だけど、空中に放り出された時の、あの恐怖ほどでは無い。
もうすぐそこまで来た。
――――あぁ もう楽になれる
琴莉は目を閉じた。
まぶたの裏に五輪男を思い描いた。
ある晴れた日に……の一節が脳内に流れた。
全身に強い衝撃を感じ、琴莉の意識が遠くなった。
あぁ、気持ちいい……と、そう感じた。
そして意識が遠くなっていくのを待った。
だが、遠くなるはずの意識は背中の痛みと左腕の激痛で阻止された。
事態を飲み込めずうっすらと目を開けた時、そこにはイヌの騎兵の横顔があった。
――――え?
荒々しく走る馬の上に居ると気が付いたのは、10秒か20秒かの後だった。
馬上にいた騎兵に拾われ、馬の上に引っ張り上げられたのだと、そう理解した。
「何処の方かは存じ上げぬが言付けを願いたい。国境警備駐屯所は全滅。騎兵二十四騎は果敢に戦うも力及ばず。無念ではあるが最後の突撃を敢行する所存。残存八騎は意気軒昂なれど敵多し。されど我行かん! 祖国の為に! ル・ガル万歳!」
全速力で走っていた馬から琴莉は放り投げられた。
分厚い草のクッションの上で何度かバウンドし、短く刈られた草の上に転げた。
「ご婦人への手荒な扱いをどうか許されよ! 騎士の本懐を遂げん!」
草原を走って馬の向きを変えた騎兵たちは一斉に抜刀した。
恐怖に震えるはずの騎兵たちに一切の迷いは無かった。
上目遣いに敵を見据え、サーベルの柄をしかと握っていた。
「誇り高きル・ガル騎兵よ! 我に続け!」
うっすらとしか開かない目で見送った琴莉。
その後ろ姿の向こうにはネコの騎兵が居た。
フィエンの街から送ってきてくれたネコの騎兵だ。
ざっと見ても十や二十って数じゃ無かった。
「オォォォォォォォォ!」
裂帛の雄叫びが響いた。
交えた剣が放つ電光石火の輝きは琴莉の目にもしっかりと映った。
一瞬のうちにネコとイヌの首がいくつか飛び、その直後に血煙が巻き上がった。
――――まって! 戦っちゃダメなの! 味方なの! 違うの!
声が出なくなった琴莉は吐息だけで叫んでいた。
届くはずの無い声で叫んで、そして膝を付いて倒れた。
発熱と倦怠感と嘔吐と流血。トラおたふくの劇症反応が出始めた。
目眩を覚え倒れた琴莉。青かったはずの空が赤く染まり始めた。
夕暮れの迫る草原にいた琴莉は、背中に激しい振動と不快感を覚えた。
動く事が億劫になった琴莉だが、それでも何とか起き上がった。
もはや顔全体がパンパンに腫れ上がり、両手は指も曲がらない程になっていた。
両手も両脚もボンレスハムのように膨れあがり、音ですらもよく聞こえない。
だが、琴莉は晴れて膨らんだ手で強引にまぶたを持ち上げた。
うっすらと見える彼方には、イヌの騎兵が何百騎と迫ってきた。
その前には、馬車を襲った越境窃盗団が必死の形相で逃げていた。
しかし、速度が全く違うようで簡単に追いつかれている。
そして後ろからジリジリと削られていた。
一騎、また一騎と斬りつけられ落馬し、騎兵の蹄に踏み殺された。
「助けてくれー!」
断末魔の叫びが街道に響いた。
広い草原を横切って伸びる道にはボロボロになった死体が転がった。
まとまった数で居た筈の窃盗団は壊滅したようだった。
最後の一人が首を撥ねられていた。
終わったのだと琴莉は思った。
だが、その反対にはネコの騎兵たちが同じように走っていた。
正面衝突は避けられない。
遠くから雄々しい雄叫びが聞こえたような気がした。
そして、急に世界が白くなり始めた。
光も音も全てが遠くなっていって、そして、意識も薄れていった。
何かを考える前に琴莉の心は空へ解けていった。
全てが無になった。
どれ位時間が経ったのだろうか。
不意に琴莉は目を覚ました。
夕暮れの空が赤く染まっていた。
周りには何人ものイヌが居た。
完全に取り囲んでいる中、大柄のイヌが琴莉を抱きかかえていた。
「よし、効いてきたようだ。もう心配ない。だが念のためだ」
随分と豪華な衣装だと琴莉は思った。
肩から胸のボタン辺りに何本も金のモールが付いている。
漆黒の毛並みに青い瞳をした大きなイヌの顔が合った。
フィエンの街で何度か見たイヌの姿だ。
ネコはすっかり見慣れていたが、イヌの姿には余り縁が無い琴莉だ。
「そなた、トラおたふくか?」
そう問いかけられ、琴莉は素直に頷いた。
問うたイヌの男は僅かな首肯で応じ、その後で何かを取り出した。
「辛いかも知れぬがゆっくり飲むのだ。飲み込むのが辛ければ流し込むと良い」
琴莉の口の中へ苦く酸っぱい液体が流し込まれた。
少しだけ粘性のあるその味は、今まで経験した事の無い未知の味だった。
飲み込むのも辛いはずだが、何とか喉の奥へ流し込んだ。
全身に電撃のような衝撃が走り、不如意にバタバタと身体が暴れた。
視界がチカチカと眩く光り、激しい耳鳴りが鳴り響いた。
胃と言わず腸と言わず、全ての臓器が悲鳴を上げて激痛を訴えた。
何かが胃の中からこみ上げてきて、全く抵抗出来ずに何かを吐き出した。
茶色とも黄土色とも付かないゼリー状の固まりが、次から次へと大量に出てくる。
それと同時に段々と意識が遠くなっていって、そして再び意識を手放した。
あの不快感も辛さも全て忘れた、奈落の底のような天国の底へと落ちていった。