負けるもんか
前夜に客を取ったクワトロの女たちは、朝が遅い。
レストランの給仕を勤めつつ、その中で条件の合った客を部屋に引き入れる彼女たちは、その収入や対価との関係を考慮しつつも純粋に労働としてみた場合、実はあんがい重労働な現場だったりする。
一晩にケモノ男を相手に客を五人も六人も取ると言うのは、相当慣れていない限りヒトの女には難しく、一夜の営業を終えた女はグッタリして泥のように眠りこけ、疲れた腫れぼったい目で午前中を過ごす。そして、昼前にビル三階の風呂が営業を開始するので、大体そこで英気を養い夜に備える。
基本、『夜』を三日やって一日休み、街案内を二日やって、また一日休む。そんなフローで流れるクワトロの女たちだが、個人の裁量に任される事も多い。昼の部は完全に飛ばして一日おきに週三回か四回かを週毎に繰り返す女もいるし、レストランの給仕は一晩二十人と決まっているので、溢れた女で部屋代をひねり出したい者が『昼』へまわる。そうやって、全体の負担を均一化しているのだが、琴莉だけは流れが違っていた。
一日おきにレストランで歌っている琴莉は、毎週末に訪れるビアンコの為だけにエリーの部屋で歌っていた。レパートリーは色々ある。だが基本的には一曲だけ歌って、それでチップを貰っていた。そしてその翌日は全部がお休み。お店は基本的に動いているが、琴莉は一人で静かに過ごす事が多かった。
そんなある日。クワトロの女たちが暮らすフロアに異変が起きた。お昼になってもミーナが起きてこない。気になったエリーが見に行ったのだが、その直後からフロアにいるヒトの女たちは問答無用で風呂場へ追い出された。
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたも!」
半泣きのエルマーが琴莉の肩を抱いた。
「ミーナ…… トラおたふくだ」
「とらおたふく? 病気?」
驚いて語尾の上がった琴莉。エルマーがコクリと頷く。
その隣にいたヒトの中じゃ一番の古株であるアリサが解説を始めた。
「トラおたふくは大概トラの男が持ってくる病気で、文字通りリンパ系の感染症なんだけど、ヒトの世界のおたふく風邪と違って、これにやられると大概……死ぬの」
死ぬと言う言葉に反応したのか、エルマーがついに泣き始めた。
ミーナとエルマーは一緒にこの世界へ落ちた特殊なケースだった。
運が良いのか悪いのかエゼキオーレに拾われ、気が付いたら娼婦になっていた。
喜びも悲しみも分け合ってきただけに、その辛さは想像を絶するのだろう。
「熱が酷くて、おまけに酷く衰弱する。運良く回復しても、しばらく立つ事も出来ない身体だよ。この世界の男や女なら風邪ぐらいなもんで、しばらく咳をして終わりだけどね、あたし達じゃ十人中八人か九人は死ぬ。インフルエンザみたいなもんで、湿度の高いところなら罹らないんだよ。だから風呂場へ押し込まれるのさ」
ミーナの世話はエリーとフィオが付いていた。ネコやトラは種族的にやたら強く、トラおたふくで死ぬ事は滅多に無い。相当弱っていて抵抗力が無いときにはあんがいコロッと逝く事もあが、フィオやエリーはベテランだ。
「あの子。どこでうつされたんだろう?」
イヌのニコラが首をかしげた。白いたれ耳がピクリと動く。
だけど、それに答えたのはエルマーだった。そして、琴莉の眼が暗く落ち込む。
「私のせいだ……」
泣きそうな顔になって、両手を手で覆った琴莉。
「私だけが死ぬなら良かったのに。なんでミーナまで」
「運だよ」
冷たく呟いたメリッサは、ちょっと乱暴に琴莉の肩を抱き寄せた。
メリッサもこの業界が長い女だ。数多くの死を見て来たのだ。
生と死の境目は曖昧で微妙で、そして、踏み越えてから出ないと気が付かない。
泣き顔になった琴莉が見たメリッサの顔には、全てを受け入れる達観の色があった。
――――数日間前
週末前のレストランで歌った琴莉は、近所の大手実業家であるネコの家に、娘の誕生日パーティーで呼ばれていた。クワトロのレストランからケータリングサービスを使って料理を取っていた夜。その給仕とそしてバースデーソングを歌うべく、琴莉の他にミーナとエルマーが出掛けて行った。
ヒトの女なら同じ歌が歌えるし、琴莉の歌唱指導で驚くほど上手くなっていたのだから、声楽のアンサンブルもこなせるようになりつつあった。驚くほどチップを弾んでもらい、ヘタに客を取るより余程実入りが良いねと喜んでいた三人だったのだが、そこに驚くべき落とし穴が潜んでいた。
――――もし良かったら駐屯地へ来てもらえないだろうか?
ある晩、ネコの士官が琴莉へ声を掛けた。
臨時駐屯なので輜重連隊や供食隊がまだ到着しておらず、十五名ほどの士官と百名ほどの騎兵からなる二中隊程度の先遣隊だった。
状況を確認し報告する軽装騎兵達が使っていたのは、街外れにある大きな商人宿。そこを借り切って従業員に休みを取らせ、軍の臨時施設として使っていたのだった。
百人規模の大規模供食と言う事でレストランをはじめ、クワトロの総力で乗り切ったのだが、その給仕に赴いた女たちはミーナとエルマーの他にメリッサとエレナ。まとめ役にエリーとそしてリベラが同行していた。
兵卒を交え大食堂を使って全員が食事中、琴莉はそこで珍しく五曲を歌った。全員が一トゥンずつ声代にとチップを支払い、琴莉は一夜で百トゥンの収入を得た。それだけ御捻りを弾まれれば、歌わないわけには行かない。
皆が黙り込むほどの美声で歌いきって拍手を集め、そのまま控え室で着替えて給仕の役へと戻った琴莉。食後は士官の集まる部屋に行って、ネコの士官へ酒の酌をして回っていた時だった。
「君らはヒトなのか?」
「はい、そうですよ」
ニコリと笑って答えた琴莉。ミーナもエルマーも笑っていた。
だが、次の瞬間。そう問いかけた士官が豹変した。士官として恥ずかしくない振る舞いをしていた男たちが、突然欲望をむき出しにしたケダモノへと変貌したのだった。
士官室の異変に気が付きエリーとリベラが駆けつけたとき、ネコの男たちは代わる代わるに琴莉の身体を蹂躙しつくしていた。すぐ隣には放心状態になったミーナとエルマーが汚濁にまみれ横たわっていて、その向こうではメリッサとエレナの二人がネコの大男に組みしだかれ、問答無用の奉仕を強要されていた。
「なかなか良いじゃないか!」
一戦終えたネコの士官は片隅でコーヒーを飲んでいた。十人ほどの若い士官は身体から溢れほとばしる若い血潮の限りに暴れたらしく、部屋の中には鼻を突く精臭が立ち込めていた。
「あー! すっきりした!」
琴莉に覆いかぶさっていたネコの士官は、事を終えてすっきりとした表情でコーヒーにありつく。その向こうには、放心状態でマグロになっている琴莉がいた。
「ちょいとあんたたち! ウチの女になにやってんだい!」
エリーの金切り声が響いた。
「……はぁ?」
素っ頓狂な声を漏らしたネコの士官たちは、悪びれもせずヘラヘラと笑った。
「え? まずかったの? ヒトじゃないの? どう見てもネコには見えなかったから」
誰かがそう答えて、そして皆が一斉に笑った。
引き裂かれ引きちぎられ、ぼろぼろになった服が、部屋の隅に片付けられていた。
やる気になってやったのだろうが、少なくともネコの国の法には反していない。
ヒトは人間の範疇に入らないと言う意味を、嫌と言うほど琴莉は味わった。
吐き気を催すような、絶望の混じった胸の不快感を伴って。
「ダメなら先に言ってよ。悪かったからさぁ。ごめんね。そんなに怒らないでよ。ここは俺たちで片付けるし、食堂の方は兵に片付けさせてレストランに持っていかせるからさ。ね? 勘弁して! ごめんごめん!」
まるで悪びれていない態度でヘラヘラと笑う姿に、琴莉はただただ悲しくなった。
「ミーナ…… エルマー…… 大丈夫?」
ゆらりと起き上がった琴莉は二人へと歩み寄った。
欲望の限りにたたき付けられた男の劣情が、雫となって垂れた。
「アチェは大丈夫なの?」
「そうよ」
逆に心配されて琴莉は力なく微笑んだ。
「大したこと無いじゃん。平気だよ」
精一杯の強がりを言って、琴莉はぎこちなく笑った。
どこからとも無くリベラがバケツ一杯の湯を持ってきて、三人の頭から湯を掛けた。
士官室のど真ん中をザバザバと水びだしにして、汚濁を洗い流すように。
「おぃてめぇ何やってんだッ!」
そのリベラへと掴み掛かった士官の顔目掛け、リベラは一切遠慮なくフルパワーでバケツを当てた。鈍い音がしてネコの鼻が砕け牙が折れた。一瞬の虚を突かれて対処が出来なかった他の士官が動こうとした時、リベラは躊躇無く逆方向からバケツを当てた。鉄製の丈夫なバケツだ。それで殴られればただではすまない。
動き出そうとした士官たちの顔に血飛沫が掛かり、思わず足を止めた。その彼らの耳に三度目の低くこもった悲鳴が聞こえた。隊長格だったと思しきネコの男の手元に、何かの塊が飛んで来た。眼を落として見たそれは、バケツで殴られたネコの眼球だった。
完全に気勢を殺がれた士官たちは、動きを止め黙って成り行きを見た。とてもじゃないが、リベラに向かって止めろ!などと言い出せない空気だった。数発殴ってバケツが毀れた後、リベラは上着の中から鉄製の棒を取りだした。芯まで詰まった固い鉄だ。
それをもってフルパワーで殴られたネコの若い士官は頭蓋を完全に砕かれ、その中身の脳漿を撒き散らしてガタガタと痙攣しながら血と精臭と汚物臭の中で動かなくなって、そして、死んだ。
死んで尚、リベラは殴り続けた。快楽殺人者が見せるような恍惚感を伴った微笑みを浮かべ、返り血を全身に浴び、それでもなお殴り続けたリベラ。
「あぁ、すまない…… ネコに見えなかったんだ…… ゴメンゴメン」
先ほどのネコの士官と同じように、一切悪びれる空気が無く、軽い調子で謝ったリベラだった。だが、凍て付くような殺気を撒き散らした稀代の殺し屋は、部屋の中にいた全ての者をその場へと縫い付けるようにして動きを封じていた。
動いた者から殺される……と、皆が思った。
「アチェ。歩けるかい?」
「あ、はい。大丈夫で……」
だが、一歩踏み出したアチェの腰が抜けて座り込んだ。
どんなに力を入れようとしても、琴莉の下半身は言うことをきかなかった。
「アチェ! 無様をするんじゃない! 意地を張りな! 盛の付いたバカ男のお粗末な萎びキュウリなんかどってこと無いだろ!」
いつもの鉄火肌で啖呵を切ったエリーは、男たちの欲望に汚されたアチェの手を引っ張り上げ、その尻へパチンと一発気合いを入れた。
「すいません、ねぇさん お手間を取らせます」
「……帰るよ」
琴莉と一緒にミーナとエルマーが帰り支度を始めた。ただ、着てきたものは半ばボロ雑巾になっていた。ミーナは泣きながらそれを集め、エルマーはありあわせのテーブルクロスを使って三人ぶんの肌を隠す被り物を作った。
そんな中、琴莉は金貨の収まった袋を持ってきて、部屋の中へ遠慮なくぶちまけた。つい今し方、自分たちの欲望と劣情に汚しまくった部屋の床だ。いやでも金貨が汚れるのだが。
「必要ないので返します」
死んだ魚の目のような琴莉。
この辺りで士官たちはだんだんと問題の本質を理解し始めた。
少なくとも彼らにとっては致命的なミスを犯したことになる。
「しかし、それは君の報酬だ」
若い士官がそう言った。
だが、琴莉は黙って首を振った。
「ケダモノ相手に歌っても報酬は無いはずです。今夜は外に繋がれた馬相手に歌ったみたいですし」
まき散らした銭の上にペッと唾を吐いて琴莉は部屋を出て行った。ミーナもエルマーも。そしてメリッサとエレナも部屋を出た。エリーが女のしんがりに部屋を出たあと、一人部屋に残ったリベラは内側から部屋の戸を閉めた。
不安そうにその戸を見た琴莉。エリーはその背を押して帰宅を促した。琴莉たちが零していった嘆きと屈辱感の滴は宿の前からクワトロの店まで点々と続いていて、その姿を見た街の人間やクワトロの常連は何があったのかを悟った。
今まで誰も指一本触れられなかったアチェーロの身に何が起きたのか。
その姿を見て分からない者など居やしなかった。そして、暗い顔をしたミーナとエルマーの二人へ気丈に話しかけるアチェの姿に、常連たちの怒りは沸騰した。
だが、そのしばらく後を歩くリベラが真っ赤な鮮血を滴らせながら、楽しい遠足の帰り道で子供が浮かべるような笑顔を伴っているのだから、何が起きたのかを容易に想像したのだった。
例え相手が軍の男と言えど、狭い所で戦う場合には経験が大きくものを言う。
明確に報復を行ったクワトロ最強の用心棒は、店へ向かって歩くヒトの女たちに悪い虫が付かないよう、無言の圧力で追っ払って歩いていた。
その晩遅く、クワトロの店にビアンコがやって来た。
話を聞きつけやって来たのだろう。ボーイたちへ小遣いを切るのもそこそこにエリーの部屋の客となった。上着をエリーへ預けたビアンコは、黙って琴莉へワイングラスを差し出した。そのグラスへワインをサーブしそうになった琴莉。
ビアンコはグラスを琴莉へ押し付けると、薫り高いビンテージワインを遠慮無く注ぎこみ、そして自分のグラスへ手酌で注いだ。
「なんでも…… 馬に蹴られて災難だったそうだな。アチェ」
「……はい」
エリーにもビンテージのワインを注いでやったビアンコは、乾杯の仕草をした後で一気に飲み干した。
「最後に意地を張ったそうじゃないか」
「受け取ると負けを認めたみたいだと思ったんです」
「……良いじゃ無いか。実に、良いじゃ無いか」
「悔しくて…… 悔しくて……」
琴莉は涙を浮かべた。奥歯をグッと噛んで、それでも涙がこぼれて。
精一杯意地を張っていたけど、清らかな涙が頬を伝っていく。
「アチェ。ちょっとおいで」
琴莉をグッと引き寄せたビアンコは、琴莉の匂いをクンクンと嗅いだ。
そしてニヤリと笑う。琴莉の頭にポンと頭を乗せて、そしてジッと目を見た。
「なんだ、ケモノの臭いなんかしないじゃ無いか。私を担いだな?」
「風呂に入りましたから」
「じゃぁ、もう綺麗なはずだ。そうだろ?」
「……はい」
涙がボロボロとこぼれ始めた。
「アチェ。君が顔を埋めて泣いていい男は私じゃ無い。そうだな?」
冗談染みた口調だったが、ビアンコの目は厳しく、そして、優しかった。
琴莉の頭をポンと叩いて、そして優しく撫でた。
「よく頑張った。強い子だ。偉いぞ。ほんとに偉いぞ。もっと胸を張れ」
「え?」
「お前は負けなかったじゃ無いか。その心に、まだ誰も入り込めてないんだ」
不思議そうな顔をした琴莉。
ビアンコは静かに言った。
「涙を見せるんじゃ無い。愚痴をこぼすんじゃ無い。それを言って良い相手は、君には一人しか居ないんだ。いつかその顔を見て、その胸に顔を埋めて、そして、遠慮無く泣いて愚痴を言う時の為に、不平不満は全部貯めておけ。ただな、もし君の夫がそんなの知るかと冷たく突っぱねた時は、遠慮無く私の胸を使って良いぞ。きっとエリーゼも分かってくれるさ。そうだな?」
エリーを見たビアンコ。
まるで試すような言葉だが、エリーも心得たモノだった。
「そう言われちゃダメって言えないじゃ無い。狡い人ね」
フフフと笑って、そして琴莉の頬へ手を添えたビアンコ。
その指先は歳の割に柔らかく、そして、甘いワインの香りがした。
「重ねた悲しみの分だけ女は綺麗になる。重ねた苦労の分だけ男は度量を大きくする。きっと君の夫も苦労しているぞ。この世界はヒトにだけは一方的に厳しいんだ。なんとかしたくても。私如きにはどうにも出来ない。だからな、アチェーロ。君は意地を張らなきゃいけないんだ。意地を張って張って張り抜いて、そして男達を悔しがらせて」
ビアンコは胴巻きを開けて、中から百トゥン大金貨を取り出した。
そして、アチェの持っていたワイングラスにポチャリと大金貨を沈めた。
一度だけ見た琴莉はそれを知っていた。イヌの国を最初に統一した王の顔だ。
「さぁ、勢いよく飲み干すと良い。そして、また明日になったら歌っておくれ。今日はもう一度風呂に入って、身体中を綺麗にして、そして、静かに眠れば良い」
老練な男の優しさに絆されて、琴莉の堅く締まってしまった心が少しずつほぐれた。
やっと、いつもの琴莉らしい柔らかな微笑みを浮かべた。
「そうだ。みんな笑い飛ばせば良いさ。いつかきっと、君の夫に会えるよ。強く願っていれば、神様は必ず願いを聞いてくれる。ただね、それは絶対に神様を疑わない事が大事なんだ。心から信じていれば、神様は願いを聞いてくれるから」
ビアンコの目がワイングラスへ落とされた。
琴莉はそのワインを一口で飲みきって、そしてグラスの中の大金貨を拾った。
「おぉ! 良いモノを見つけたな! 取っておくと良い!」
「あ…… あの……」
「アチェーロ。それは報酬じゃ無い。慰謝料じゃない。よく頑張ったと誰かがご褒美にくれるものでも無い。いいかい? よく聞くんだ。君が頑張って意地を張ったと神様が遣わしてくれた、天からの恵みだよ。君は拾ったんだ。そうだね?」
一度目を落とした琴莉は天井を見上げてから目を閉じ、そして息を一つ吐いた。
言いたかった愚痴を溜息に変えて、そして、心を落ち着けた。
「今夜は気を使っていただいて……ありがとうございました」
「どって事無いよ。そこらの馬にでも蹴られたと思って忘れてしまえ」
もう一度琴莉の頭を撫でたビアンコは、急に下世話な好々爺の笑みになった。
そして、チラリとエリーを見てから、もう一度琴莉を見た。
そんな振る舞いに、琴莉は初めて男の色気というモノを感じた。
――――あぁそうか……
察した琴莉は立ち上がって深々と頭を下げ部屋を出た。
あんなに重かった足取りが軽くなったようで、琴莉は救われたと思った。
そして、ミーナが倒れた夜。
琴莉は再び店のステージに立った。
常連が用意したシルクの見事なドレスに身を包んでいた。
街の花屋から洗いざらい持ってきたと思われる花で、ステージが飾られていた。
最初に歌ったのはガエターノ・ドニゼッティ作曲のオペラ。
愛の妙薬の第二幕に挟まれた名曲『人知れぬ涙』
テノール・リリコの名曲だった。
相変わらず拍手がわき起こり、琴莉は手を上げて応えた。
やがて静かになっていき、軽く咳払いした琴莉は二曲目を歌いだした。
プッチーニのラ・ポエームから『私が街を歩くと』だ。
琴莉の声がにわかに可愛げのある女の声になって、会場が沸いた。
そりゃそうだと琴莉はほくそ笑む。男の気を引きたい女は何時の時代も一緒なんだからと。
ただ、その気を引きたい男がどこに居るか分からないと言うのが、琴莉の悩みでもあるのだが。
二曲目が終わって、琴莉は喉を冷やしに一旦舞台の裏へ消える。
そんな所へ、軍服に身を包んだ男達が三人ほど店に入ってきた。
三人のウチ二人は右目に眼帯をしていた。
それがどんな理由だか、考える前に皆は察しが付いた。
舞台の向こうから現れた琴莉は一瞬凍りついたが、すぐに平静を取り戻していた。
だが、客の方が一歩的にヒートアップしていたのだった。
「アチェちゃん 歌うのちょっと待った!」
店にいた誰かが声を上げた。
「おぃちょっとそこの兵隊さんよぉ! 飯が不味くなるから出てってくんねぇかなぁ」
「おぅ!その通りだ! 今夜は奮発して良い酒飲んでるはずなのによぉ!」
「アチェの悲しそうな顔見てたら美味い酒も台無しだぜ。とっとと失せやがれ!」
「かっぺが入るにゃ、この店はちょっと敷居が高いぜ?」
「馬に聞かせる歌はネェよなぁ」
あちこちから一斉に声が上がった。
そんな所へエゼキエーレが現れた。
すぐ後ろには、幾人もの男を従えていた。
「ようこそと歓迎するべきなのですが、残念な事に当店には皆様をおもてなしするようなモノは水一杯ございません。店内の床でも舐めたいというのでしたらお止めしませんが、まぁ、穏便に話が済んでるウチにお引き取り願えないでしょうか」
全身の毛を逆立たせて笑っているエゼキエーレ。
だが、その後ろの男達は目に見えて喧嘩装備でやって来ていた。
「部下の不始末のお詫びに伺ったのだが……然様か」
肩に光らす階級章は、将軍クラスの大物らしい。
「お詫びではなく贖罪として、いかなる協力も惜しまない。小職の出来る範囲でどんな事でもする。どうか遠慮なく使ってもらいたい。では、失礼する。甚だ不躾とは思うが、ヒトの女性三名に、どうかよろしくお伝え願いたい」
将軍は厳つい敬礼をしてから店を出ていった。
その後、常連の誰かが琴莉にワインを一杯用意した。
「まぁ、お口直しみたいなモンだ。遠慮すんな」
そんな言葉と同時に、琴莉のチップ壷へ一トゥン金貨を気前良く放り込んだ。
皆が続々と放り込む中、琴莉は深々と頭を下げて、そして歌い出した。
今夜、最後に歌おうと決めていたのはプッチーニのオペラ、蝶々夫人からの一曲。
『ある晴れた日に』
決して得意では無い。
だが、歌唱指導してくれていた先生がよく歌っていた。
客の誰も歌詞の意味なんか解らないと、琴莉はそう確信している。
だからこの歌は、自分の為に歌うんだと決めていた。
あの、お手本にと聞いたマリアカラスの透明な歌声をイメージして。
まぶたの裏に五輪男を描いて。
Un bel di, vedremo
levarsi un fil di fumo sull' estremo
confin del mare.
E poi la nave appare.
Poi la nave bianca
entra nel porto,
romba il suo saluto.
Vedi? E venuto!
Io non gli scendo incontro. Io no.
Mi metto la sul ciglio del colle e aspetto,
e aspetto gran tempo e non mi pesa,
la lunga attesa.
E... uscito dalla folla cittadina
un uomo, un picciol punto
s'avvia per la collina.
愛する夫を抱き締めるように、琴莉は歌い上げた。
途中から声がかすれ始め、高音の伸びが弱くなっていたけど……
ソプラノ殺しの異名を取る歌を恨んでも始まらない。
ただただ、歌いたかった。歌いたかったのだ。
Chi sara? Chi sara?
E come sara giunto
che dira? che dira?
Chiamera Butterfly dalla lontana.
Io senza dar risposta me ne staro nascosta
un po' per celia
e un po' per non morire al primo incontro,
ed egli alquanto in pena chiamera, chiamera:
Piccina mogliettina olezzo di verbena,
i nomi che mi dava al suo venire
琴莉の頬を涙が伝った。
でも、琴莉は歌うのを止められなかった。
なんとなく自分の身に起きる事を分かっていたから。
だから最期に、歌いたかった。
汚れてしまったと、自分を恥じたから……
Tutto questo avverra, te lo prometto.
Tienti la tua paura,
io consicura fede l'aspetto.
最後の一小節は、殆ど声になっていなかった。
だけど琴莉は歌いきった。
誰も分からないはずの歌を、誰の為でも無く自分の為に。
自分の為だけに。
拍手と喝采に埋まる会場の片隅。
隠れるようにして聞いていたビアンコも涙を流した。
実は彼だけが、半分程度を理解していたのだった……