限界
~承前
その報告を前に、カリオンは言葉を失って立ち尽くした。
フィエン市街の中心部。頑強なクワトロ商会本部の中で。
ル・ガルでは……いや、イヌの社会ではありえない事。
この大陸にイヌの国家が生まれてから初めての事態が起きていた。
「……それは、市民会議の総意か?」
何処か探る様な声音になったのはやむを得ない。
いや、むしろそうならざるを得ない事態。
いつものように留守を任せたウォークが突然フィエンまでやって来た。
動力付きの軌道がある関係で馬とは違い走り続ける事が出来るから楽だろう。
だが、物理的手段がどうのではない。
陰に日向に太陽王を支え、今では王の代理扱いな男にも判断が付かぬ問題。
事実上の宰相であり、王の執事とも言うべき存在が頭を抱えた案件。
その裁定を求め、ウォーク・グリーンは危険を押してやって来たのだ。
――――――手前の判断範疇を越えていると判断しました
そう切り出したウォークが差し出した一通の書状。
驚くほどの上質紙に書かれた達筆な文字には市民会議議長の文字。
カリオンが整備し施行した、市民階級の意思や意見を拾い上げる機関。
市民会議。或いは、市民議会と呼ぶべき機関の役職付きの者が出したレター。
「おそらくは、関係者全員が論議を重ねたものかと」
ウォークもそう言わざるを得ない代物。
議長や出納責任者や監査役と言った者たちが連名で署名した書状。
太陽王へ向け差し出された、史上初めての『市民からの意見書』だった。
「……もう無理ってか」
後退してきたジョニーもそう言わざるを得ない文言がそこには並んでいた。
それは、カリオンの御代において繰り返された祖国騒乱による市民の疲弊だ。
農地は荒れ果て、市場には食物が乏しく、経済は着実に破綻しつつある。
戦費捻出の為に戦時国債を乱発した結果としてインフレが進行したのだ。
それも、性質の悪い複合的インフレとして。
戦地に人を取られた結果の労働力不足による労働コストインフレ。
様々な物品が戦時体制で徴発された結果の物不足によるインフレ。
貨幣流通量が増えた結果として銭の価値が落ちる純粋なインフレ。
もはやル・ガル経済にそれらを吸収する弾力性は無くなっていた。
旧来の戦に見られた『周辺国家や経済の併呑』による解消も出来ていない。
つまり……
「これ以上は戦をしないでくれ……と、そう言う事か」
カリオンが呟いたそれは、歴代太陽王が直面した事の無い新たな敵。
ル・ガルと言う国家がぶち当たった『世界』は、まだ市民には見えないのだ。
いや、見えていたとしても、どうにもならないのかもしれない。
将来的に苦しみもがき、或いは死に至る可能性も頭では理解している。
しかし、いま目の前に有る貧困や飢餓の方が重要な問題なのだ。
「国が亡びる瀬戸際だというのに!」
苛立ちを飲み込み切れず、吐き捨てるようにヴァルターがそう言う。
だが、国が亡びる事への恐怖よりも、今自分が苦しい事の方が問題。
結局のところ、そこに眼をやらねば国家指導者は務まらない。
どうやっても解決できない問題を前に知恵を絞らねばならないのだ。
「……市民の声はやむを得ない」
苛立ちひとつ見せず冷静に振る舞うカリオン。
だが、額と腰に手を添え、忙しなく部屋を歩き回る姿には悲壮感がある。
戦をせねば蹂躙される。だが、戦をやめてくれと市民は訴えている。
戦をせずに上手く納めるしか無いのだが、向こうはやる気満々だ。
何という不条理。
何という理不尽。
カリオンは国家の指導者に課せられた重い枷に苦しんでいる。
義務も責任も無く、勝手に言いたい事を言っている無責任な市民の声に。
はっきり言えば、物の因果を理解せず場面場面で喚くだけのバカに。
「ガルディブルク郊外まで後退する」
カリオンはボソリとそんな事を漏らした。
大幅な後退は戦線の整理や戦線と補給の一本化で大きな意味を持つ。
だが、どんなに言葉を尽くしても、負け戦の誹りは免れない。
身勝手に批判する連中にとっては、中身などどうでも良いのだ。
その類いの心底愚かな者達にとっては、批判の材料さえ有れば良いのだから。
「……まぁ、やむを得ねぇはなぁ……で、反転攻勢するか」
明るい声音でそう言ったジョニーだが、ウォークは首を振っていた。
もはやそんな余力など、ル・ガル国内の何処にも残ってないのだ。
重苦しい空気と悲壮な表情。
太陽王を取り囲む全てがその重責に胸を痛める。
しかし、世の中にはどうにもならない事もあるのだ。
「僭越ながら申し上げまする」
ウォークと共にやって来ていたヒトの少佐が口を開いた。
硬い表情のまま、固い声音で。
「聞こう」
カリオンは手短にそう言った。
ヒトの少佐は一礼してから切り出した。
「国民に現実を教えたら如何でしょうか?」
その言葉に全員が『は?』と言わんばかりの表情となった。
お前は何を言ってるんだ?と、そんな顔だ。
だが、少佐はそんな物を意に介さず、固い表情のまま言葉を続けた。
「蹂躙させましょう。都市部を敵側に。そして市民に犠牲を出しましょう。彼等の敵意と悪意が暴走した状態を国民に知らしめるのです。古来より喧嘩は余所でやれと言うのが鉄則ではありますが、本質的問題として自ら自身とその周辺に被害が出ない限り。市民国民には他人事になります」
恐らくこれは、現場で血と汗を流す者ならば一度は思う事だろう。
勝手な物言いで悦に入ってる小賢しい者どもに煮え湯を飲ませてやりたい。
飢えと寒さと疲労を抱え、尚も義務感で戦線に立つ者達の率直な願望だ。
――――――だったら帰ってくれば良いじゃないか!
頭の出来が悪い者。知能的に劣る者。物の因果を理解出来ない者。
早い話がバカほどこれを言い出すのだ。そして、己がバカだと理解していない。
その類いの者は必ずこう言う。
――――――負けたって良いんだよ!
――――――俺は従わないから!
――――――非暴力!非服従だ!
その結果として殺されても良いなら。
生殺与奪の全てを敵が持っていて、非服従即抹殺を受け入れるならそれも良い。
或いはそれも個人の自由なのかも知れない。
ただ、腐ったリンゴを箱に入れたままにすれば、やがては周囲が腐るもの。
覚悟を決めた者が言う非暴力非服従を表面しか理解しない者の方が多い。
やがては『王も貴族もお前達を守らなかった』と丸め込まれる。
そして、それでも気付かない者の方が多い。
やがては誇りと尊厳を失い、己を繋ぐ鎖の綺麗さを競う奴隷に身を窶すのだ。
新しい支配者はこんなに綺麗な鎖をくれたよ!と、無邪気に喜ぶバカに。
「……それは、あまりにも非道では無いか?」
少佐の提案にカリオンはそう応えた。
だが、ウォークはそこに遠慮無く口を挟んだ。
「いえ、検討に値するかと思われます。むしろやるべきかと」
徹底して冷徹な官僚としての面を出したウォーク。
室内に居た者達全ての視線が集まる中で切り出した。
「現状のガルディブルクは瓦礫の山です。もはや放棄するべき水準です。復興に当てる予算などル・ガルの何処にも残ってません。無責任な者達が埋蔵金などと嘯いてますが土台無理な話です。手を付けられる資金はどこにもありません。ならばむしろ徹底的に破壊した上で、敵側に引き渡してしまいましょう」
敵の王都を陥落させたぞ!
そうなれば敵側は意地に掛けて体裁を整えようとする。
逃げ遅れた者は奴隷となり、そうじゃ無い者は現実を知る。
何より、敵側の経済に重大な負担となる鬼謀の一手だ。
「むしろそれならば――」
少佐はニヤリと笑った上でとんでも無い事を切り出した。
「――茅街の奥深くに、とある爆弾を隠してあります。それを使いましょう」
カリオンは眼差しだけで『続けろ』と指示した。
ヒトの男が楽しげに切り出す以上、ただ事では無いと思ったから。
「ヒトの世界から落ちて来たモノで、恐らくこれは絶対に使ってはならない代物だと思います。ですがこの場合ではむしろ起死回生の一撃となり得ます。何故ならこの兵器……爆弾は――」
一息置いた少佐は、その双眸に怪しい光りを湛えて言った。
「――世界の文明を、文化を、希望を、未来を、全てを一瞬で破壊する兵器です。いわば……神の炎」
その言葉に飲み込まれ掛けたカリオンは、同時に気付いていた。
――――――試されている……
楽な道。或いは、破滅への一本道。
そう。このヒトの男は暗にカリオンを誘っているのだ。
『 ヒ ト を 頼 れ 』
……と。
イヌの社会にあって、ヒトをパートナーとして認めるか否か。
いや、パートナーなどと言う生易しいものでは無いだろう。
ル・ガルという国家を維持するに当たり、ヒトの力が不可欠になるように。
国家の根幹部分に食い込み、その一部となり、或いは最終的に一体不可分に。
場合によっては乗っ取ってしまう。乗っ取られてしまう可能性までも有る。
――――――危ない……
ヒトが差し出した手は絶対に取ってはならない。
その口車にも乗ってはならない。乗るどころか聞いてすらならない。
ヒトがヒトを殺す道具は、ヒト自信がその有史以来全てで磨いた物だという。
と言うことは、その悪意と敵意の純粋結晶とも言うべき兵器があるのだろう。
それをこの世界で使ったならば、絶対に取り返しのつかぬことになる。
つまり、ヒト以外の種族がヒトに向ける悪意をイヌが分かち合う事になるのだ。
それだけは絶対に避けねばならぬ……
「実に興味深い。いや、興味深いのでは無く、ありがたい話だ。だが、ヒトはその兵器で戦をした事があるのか?」
カリオンは心の何処かに確信があった。
その兵器の使用は、ヒトの世界ですらあり得ないのだ……と。
だが、そんな言葉に対し、少佐はニコリと笑って応えた。
ル・ガル首脳陣の全員が思わず言葉を飲み込む一言を。
「えぇ。もちろんです」
全く悪意無く無邪気に笑った少佐。
だが、その表情に狂気が混じるのをカリオンは見ていた。
「世界中の巨大な都市を一瞬で焼き払い、挙げ句には夜空から星を落とすにまで至りました。ヒトが増えすぎた結果としての自己淘汰だったのかも知れませんが、それでもね――」
狂気の混じった笑みから狂気その物に変わった。
その双眸には燃えさかる野望の炎があった。
「――世界中に120億のヒトが暮らしていたのですが、僅か3日間で80億弱が焼き払われまして、ヒトの数は半分になりました。そして、その後に長い冬が来まして更に30億弱が餓死し、ヒトの総数は10億程度まで減ったのです」
ヒトは120億も居たのか……と、カリオンは率直にそう思った。
僅か3日で80億ものヒトが焼き払われた事実に目眩がした。
だが同時に心のどこかで喝采を叫んだ。
断るに足る理由を向こうが意気揚々と話してくれたからだ。
「なるほど。それほど強力で……危険な兵器なら、使うわけにはいかないな」
率直な言葉としてそう返答したカリオン。
それを聞いたヒトの少佐は、少しだけ残念そうな顔になった。
ただ、同時に少しだけホッとしたような顔にもなっていた。
ある意味では彼等も使いたくはないのかも知れない。
どんな悪影響が広がるのか、誰も理解しえない代物だ。
もしかしたら彼等ヒトだけが知る最悪の事態に陥ったかもしれない。
――――――ヒトは危ない……
カリオンの知るヒトは父であったゼルと茅町に暮らした僅かな面々のみ。
ヒトの世界から直接落ちてきた第1世代のヒトを信用するのは危ない。
この世界においてどんな扱いをされたのかを思えば推して知るべし。
或いは、この世界の全てを焼き払って死んでやると思っているかも知れない。
一瞬の間に様々な可能性をカリオンは思った。
そして同時に、室内にいた面々の顔を改めて見まわした。
ル・ガル首脳陣の誰もがホッとした表情になっていた。
誰だってそんな事は望んでいない……
そんな確信を得た瞬間だった。
「危ない!」
突然リリスが大声を張り上げた。
その次の瞬間、猛烈な衝撃波がフィエンの街に襲い掛かった。
西からやって来たソレは、フィエンの街に立ち並ぶ建物を次々に崩壊させた。
「魔法攻撃!」
リリスの近くに居たウィルもそう叫び、一瞬の間に強力な魔法障壁を作った。
その直後、クワトロ商会本部が大きく揺さぶられ、壁際の家具などが飛んだ。
瞬間的に蹴り飛ばされたような衝撃は石積みの建物自体を揺さぶったのだ。
「な、何が起きている!」
立ち眩みでも起こしたかのように身を低くしたカリオン。
その時再び激しい衝撃がクワトロ商会の本部を叩いた。
「こんな事が出来るのは奴らだけです!」
ウィルが叫んだそれは、間違いなく獅子の軍団だった。
フィエン郊外へ迫った獅子の魔道軍が衝撃波による魔法を使っているのだろう。
転送爆弾の脅威を回避する手立てが生まれた以上、もはや遠慮は無かった。
「陛下! こんな時になんですけど、もう一つ重要な報告が!」
ウォークは室内に散らばった書類をかき集めながら切り出した。
「この鉄火場で言うべき事か?」
「勿論であります」
相変わらずな掛け合い漫才だが、ウォークは常にウォークだった。
重要な局面で重要な事を切り出すのだった。
「城の転送爆弾ですが、備蓄が底を突いております。次の実戦配備まで早くてもひと月は掛かるとの事です」
ある意味、現状のル・ガルにとって頼みの綱とも言うべき代物の在庫枯渇。
カリオンは言葉を失い眼を泳がせた。組織的抵抗をする上での切り札が無い。
そんな状態で正気を保てと言われても、出来るものじゃないだろう……
「エゼ! 街の住民は避難したな?」
ほんの数秒ほど呆然としたのだが、それでもカリオンは気を取り直した。
太陽王として果たさなければならない義務と責務が支えていた。
何と言う心の強さだろうか。
街の顔役として残っていたエゼキエーレは『完了している!』と応えた。
余計な事を言って混乱させたり逡巡させたりするのは不本意だから。
そしてそれは、エゼキエーレだけでなく街の総意でもあった。
僅か2日で街の住民はほぼ全てがル・ガル側へ退去を完了していた。
「よろしい! ガルディブルクの手前に防衛線を敷く。そこで撃滅戦闘に移る。残念だがフィエンは放棄しよう。全員ガルディブルクへ急げ!」
カリオンの決断。いや、現状における唯一の選択肢。
ル・ガルにそれ以上の余力は無く、防衛戦を行う事すら本来は難しい。
だが、それをせねば国家は消滅し民族は滅亡する。
再び世界の奴隷となって、希望の無い日々を過ごす事になるのだ。
「よっしゃ! そんじゃもういっちょ、しんがりをやってくらぁ!」
カリオンの命が出た瞬間、ジョニーはニヤッと笑って傍らの銃を取った。
すぐ目の前に敵が迫っている以上、もはや統制の取れた戦闘は出来ない。
だが、それでもなお時間を稼がねばならないのだ。
「ジョニー! 一緒に後退しろ! 速力が武器だ!」
思わず声を荒げたカリオン。
だが、ジョニーも負けてはいなかった。
「バカ言え! おめぇが先頭に立って走んだよ! 俺はケツに付くだけだ!」
それが強がりである事など誰にだってわかる。
だが、西方平原で侠者として生きてきた一族の男だ。
自分が命を懸けるべき所は良く心得ていた。
「ジョニー」
「ボケてんじゃねーよ! おめえが生きてりゃル・ガルの勝ちだぜ!」
一瞬の静寂。
再び衝撃波の魔法が襲い掛かって来て、建物が大きく揺れた。
「……解った。必ず生きて帰って来いよ」
「あたりめーだぜ! おめーも死ぬなよ!」
ジョニーはカリオンの心臓をドンと叩いて部屋を飛び出していった。
ややあって建物の外から勝鬨の声が聞こえて来て、その直後に射撃音が響く。
「あいつが時間を稼ぐだろう! とにかく後退しろ!」
カリオンはリリスの手を引いて走り出した。
ル・ガルが幾度も直面した危機の中でも最上級の困難が迫っていた。
――――――2日後
「まだジョニーは来ないか?」
王都から僅か5リーグ。
工兵やヒトの作業部隊が突貫工事で築き上げた防塁の内側。
前線本部となった所にカリオンは陣取っていた。
公爵五家の当主だけでなく様々な陣営の兵士が揃っていた。
その防衛線は5段列10万を越える猛烈な火力の殺し間だ。
「近衛将軍は依然行方不明です。捜索隊を出したいのですが……」
それ以上の言葉を吐けなかったキャリは唇を噛んでいた。
もはや絶望的な状況だが、それでもあの男が……とカリオンは思っていた。
いや、正確にはそう願っていたと言うべきだろう。
「陛下! こちらへ!」
前線本部の指揮台上段。
オープントップとなった櫓の天辺に陣取っていたドリーが呼んでいた。
カリオンは戦衣のマントをはためかせながら階段を上ってそこへと上がった。
「どうしたドリー」
あくまで穏やかな物言いのカリオンだが、ドリーは堅い表情で彼方を指さした。
フィエンへと延びる街道の彼方から、ドロドロと鳴り響く太鼓の音が聞こえた。
「来たか」
「はい」
ル・ガルの真価が問われる戦い。
決戦の火蓋が切られようとしていた。