愁いと哀しみの帰還
良く晴れたミタラス広場には夥しい数の市民が詰めかけていた。
国家総動員体制となってから、早くも2年近い月日が流れていた。
――――まだお見えにならないのか?
浮足立った多くの市民がソワソワしながら王の凱旋を待っている。新聞報道にあったシーアン市街攻防戦から、もうすでに半年近い月日が流れているのだ。
国内の総力を挙げた乾坤一擲の外征。それは間違いなくル・ガルの国力を大きく疲弊させてしまっている。だが、国民は益々意気軒昂で愛国心に燃え上がってそれを支えていた。
――――我らの王は戦っておられる
慣れぬ外地での戦闘は大きな気苦労を伴うもの。だが、ララ姫とキャリ王子を両方とも戦地に送り出した太陽王は、自ら戦衣を纏って外征に赴かれた。その中で筆舌に尽くしがたい苦労を重ねられたというのだ。
その結果が強大国であるライオン一族の国。あの獅子の国を撃退したというのであれば、誰もが誇らしい気持ちになっていたのだ。そして、現太陽王が祖父シュサ帝の持っていた武帝の二の名を越えるのは間違いないと噂していた。
『来たッ!』
何処かから誰かの叫び声が聞こえた。
それと同時、悲鳴と絶叫と歓声をミックスした大きな声が沸き起こった。
海に面した街とは言え、ガルディブルク中心部から港までは少々距離がある。その道を馬に乗ってやって来たカリオンは、堂々たる姿をして市民の歓声に手を上げ応えていた。
その隣には精悍さを増したように見えるキャリがいる。次期王として武者修行であったはずなのだが、その姿を見る限りは武者修行などと言うより、艱難辛苦を舐め尽くした若者の姿にも見えた。
――あぁ慈しみ深き全能なる神よ
――我らが王を護り給へ
それは、自然発生的に沸き起こった歌声だった。
細波のように沸き起こった声はカリオンの接近に合わせボリュームを上げた。
それを叫ぶ市民のひとりひとりが。国民が。ル・ガルを形作る様々な血統のイヌが一致団結して当たった未曾有の国難だったはず。だが、終わってみればそれは、全てのイヌにとって祖国ル・ガルの底力を実感した物になった。
――勝利をもたらし給へ
そう。勝利はもたらされる物。
決して勝ち取った物では無いし、偶然に転がり込んだ物でも無い。
血を流し、汗を流し、涙を流し。膨大な苦痛と我慢と悲劇と涙を乗り越えた先にあるもの。イヌという種族の特性により困難を乗り越えた結果、大いなる存在がもたらし与えてくれる物だ。そして……
――神よ我らが王を護り給へ
全てのイヌの中で最も運の良い男。困難を打ち据え、乗り越え、前進出来る男。そんな存在こそが太陽王であり、イヌの国をまとめる大切な柱。太陽王さえ生きていれば、ル・ガルは何度でも再起するのだとイヌは理解していた。
――我らが気高き王よ 永久であれ
群衆の取り囲む街道を行くカリオンは、右手を高々と上げて国民の声に応えた。その勇姿を一目見た物は笑みを浮かべるか、涙を流すか、若しくは絶叫をあげて王を讃えている。
我らの王は凛々しく、雄々しく、そして気高い。全てのイヌが等しく頂く頂点としての存在は、国民の我慢と努力を称える為に、幾度も幾度も右手を高く上げてその声に応えていた。
――おぉ 麗しき我らの神よ
――我らが君主の勝利の為に
――我らに力を与え給へ
聖導教会へと続く道の入口には聖堂騎士が一列に並び剣を捧げている。
本来ならば神にだけ行う剣捧げを太陽王に行うのは、本当に異例なことだった。
――王の御世の安寧なる為に
老いも若きも同じように両手を天に突き上げ、降り注ぐ日の光を浴びていた。
眩き光と熱とを恩寵とする太陽の力は、国民を突き動かす原動力だった。
――神よ王を護り給へ
ミタラスを埋め尽くした市民の絶叫が蒼天に溶けていった。
――――――――帝國歴399年 11月 8日
王都ガルディブルク
「お帰りなさい」
城の前でカリオンとキャリを出迎えたサンドラは、満面の笑みでそう言った。
夥しい女官と事務方と老いたれどますます意気軒昂な老騎士達が拍手していた。
「あぁ。留守中大事なかったか?」
そう尋ねたカリオンに対し、サンドラはコクリと頷いて笑って見せた。
だが、その両眼一杯に涙を浮かべていて、我慢ならずカリオンに抱きついた。
「スマン。また心配を掛ける羽目になった」
必死で涙を堪えるサンドラを抱き締めた後、カリオンは出迎えた母エイラの方へと歩いて行った。
「お帰り。大変だったね」
「……あぁ」
男は幾つになっても母親には敵わない。
おそらくそれは如何なる世界線でも不変の定理だろう。
だが、今回ばかりはちょっと始末が悪いのだ。
「ララの件をどうにかしよう。まずは静養からだ」
レイラとサンドラにそう切り出し、振り返ってもう一度国民へ手を振ってから城へと入っていったカリオン。ガルディブルクの港からは凱旋してきた多くの公爵家や国民猟兵団兵士が隊列を組んでやって来ていた。
その中に家族の姿を探す国民の熱気が続くなか、カリオンはやっとプライベートエリアのソファーに腰を下ろした。公式発表前なので、ララの件を多くの国民が知らぬはずだ。
「あの子は……」
サンドラはもうどうにもならないと言わんばかりの顔になっていた。
トウリとの間に為したふたりの娘だが、ララはとにかく不運がつきまとう。
「きっと俺が姉貴の分の強運まで奪っちまったんだな」
悲嘆に暮れていたサンドラに声を掛けたのは、やっと上がって来たキャリだ。その隣にはすっかり様子の変わったタリカが居て、女性向け事務士官の軍装だった。だが、事前情報の無かったエイラはたいそう驚き、不思議がった。
「あなた……」
何かを言おうとして頭がパニックになっているエイラ。
そんな祖母にキャリが助け船を出した。
「積もる話しは色々あるけど、とりあえず姿だけは女になっちゃったから、それなりに気を使ってやって欲しい」
ララが完全に女になってみたり、リリスがヒトになったりしているのだ。今さら男が女になってもそれほど驚くことでは無い。だが、その立ち姿も雰囲気も完全に変わってしまったのを見れば、やはり思う事は一つだった。
「とりあえず嫁探ししなさい」
エイラがそれを言った時、キャリは一瞬だけ怪訝な顔でタリカを見たのだが……
「そうだぜ。何度も言ったと思うけどよぉ『あなたそれじゃダメでしょ?』
タリカがキャリを煽ろうとした時、エイラがピシャリとタリカを窘めた。
「あ、あの……」
何かを言おうとしたタリカ。だが、少々厳しい顔になっているエイラは『こっちにいらっしゃい』とタリカを呼びつけ、自分の前に立たせてから襟元や袖口を直し始めた。
「良い事?――」
まずは上着の丈を改めて調整し、肩の位置と胸の周りの緩み弛みを整えた。
そして、パンツの腰位置や裾の丈位置を微調整しつつ、最後には襟元を直した。
「――中身が何であれ、女の姿で居るなら身なりに気をつけなさい。あなたのこれからがどうであれ、女には女の立ち振る舞いがあるのよ? それが出来ないのであれば次の王の近くには居られないと思いなさい」
幾世代にも渡って貴顕の娘を育ててきたエイラ。その教育者としての顔が現れた時、タリカは助け船を求める様にキャリを見た。だが、当のキャリは黙って母サンドラを見るのが精一杯であった。だが……
「あなたもよ。キャリ」
厳しい視線を送り返され、キャリもさすがに息を呑んだ。昔から微妙に苦手だった祖母エイラだが、今はある意味で母以上に母親のポジションに居た。
「……はい」
力無くそう返答するのが精一杯のキャリ。
だが、そんな孫をエイラは遠慮無く叱りつけた。
「ララのことはじっくり構えるしか無いんだから。あなたが何をするべきかをしっかり考えなさい。今回のことでよく解ったでしょう。人は呆気なく壊れるのよ?」
何を言いたいのかがひしひしと解るだけに、キャリは二の句が付けなかった。ただ、何かを言わねば沽券に関わるとなった段になって、太陽王の側近であるグリーン卿がやって来た。
「おくつろぎの所を失礼します」
相変わらず1ミリも隙のない整い具合だが、そこに何の違和感も感じさせずに居ると言う事が何よりも凄かった。
「長くご苦労様でした」
サンドラはまず労いの言葉を掛けた。夢の中で顔を合わせているだけに、情報の齟齬はあり得ない。だが、実際に顔を合わせるのは久しぶりと言うことで、まずは労うのが常道だ。
「えぇ、ありがとうございます。王后陛下もご無事で何より」
歯の浮くような芝居がかった振る舞いだが、それを理解出来るのはこの場ではサンドラだけだ。そしてそのサンドラは、焦燥感に駆られた状態で、目に見えて憔悴しきっている。
「サンドラ。あなたもしっかりしなさい! あなたが意地を張らなくてどうする」
エイラは容赦無くサンドラも叱りつけ、腕を組んで家族を見回した。
そんな母に対し、カリオンは僅かに笑って言った。
「母上。忝い」
カリオンの口からこぼれた感謝の言葉。
キャリはそれを驚きの表情で見ていた。
「誰よりもあなたがしっかりしなきゃいけないのよ?」
「えぇ。心得ています」
少しぞんざいな調子でそう返答し、立ち上がってウォークを見た。
「何の報告だ?」
「えぇ。まずは目を通して頂きたい書類が山とあるのですが、その前に戦勝記念式典の日程についてのご決済を。城の官僚たちが原案を作ってくれていました」
それは、ル・ガル各公爵家が持ち回りで行う記念パーティーの日程だった。と言うのも、帰りの船便の中で一番問題だったのは、どこの家が最初の晩餐会を行うかという点だった。
各家がそこに力を入れる理由。それはつまり、キャリの嫁取りだった。各家が各々に最高の娘を用意して、時期王が手を付けるのを待ち構えて居るのだ。当の本人であるキャリの意向すら無視する各家の争いは、一触即発になりかねなかった。
「……うむ」
ウォークの差し出した書類を一瞥したカリオンは、不意にキャリを見て言った。
その顔には父ではなく男の顔が浮かび上がっていた。
「キャリ。正直に言え。何処かに惚れた女がいるか?」
余りに直球な問いがやって来て、キャリはやや引き攣った顔になり『いえ』と応えるのが精一杯だ。おそらく各家は時期帝后の座を射止めんと鼻息も荒い状態だ。そんな中では政治的な決着が図られる可能性もあるのだ。
カリオンにしてみれば、そんな問題が浮かび上がる前からリリスと出来ていたので何も問題無かった。それ故に自分の事以上にキャリの意向には気を揉んでいる状態だった。
「ならば――
カリオンが何かを言おうとした時、プライベートルームの入口がノックされ、その扉が開くと女中頭であるサミールが立っていた。そして、優雅な仕草で頭を下げると、穏やかな声で『姫が到着されました』と告げた。
カリオンの差配によりガルディブルク港では無いところへ事前に船を着けさせ、専用の馬車で城までララを運んだカリオン。ララにはリリスが付いていて、その心と魂を癒やすべく、知恵を絞っていた。
「……ララ」
ソファーから立ち上がったサンドラが飛び出そうとした時、エイラはその前にスッと手を伸ばして『待ちなさい』と諫めた。そんなエイラを抗議がましい目で見たサンドラだが、その前に王の私室へリリスが入って来た。
「あ、みんな揃ってたのね」
ニコリと笑ってそう言うリリスだが、その表情には明確な疲れの色が見えた。しかし、それでも気を張っている彼女は一旦部屋の外に出て『早くこっちへいらっしゃい』と誰かを呼んだ。
その声に導かれたのか、皆が聞き覚えのある衣擦れの音を発しつつ、ララが部屋へとやって来た。あの見慣れた宮廷騎士の赤い腰帯を巻いたタイトな衣装に身を包む凛々しい姿のララ。しかし、その顔には表情らしい物が一切無かった……
「ララ!」
その姿を見た時、サンドラはエイラの手を振り払って走り寄って抱き締めた。だが、そんな母の愛を余所に、当のララは感情らしい感情を一切見せず、されるがままになっているのだった。
――――長い戦いになる……
その部屋の誰もが、率直にそう思っていた。