タリカの変転 03
~承前
「間違いねぇ……」
凄まじい音が響き、その直後に遠くから断末魔の絶叫が響いた。
ここ暫く聞こえていた派手な音は、間違い無く何かの戦闘だと思われた。
だが、同時にタリカはある事に気が付いた。そして『来ねぇな……』と暗闇の中で呟いた。肌感覚で1週間。この暗闇の中へ誰も来ていない。前にもこんな事があり、あのヘビの男が唐突に来なくなった事があった。
その後でやって来たのはヒョウのケダマで、ヘビの男と同じようにタリカの面倒を見ていた。恐らくは魔術師の類だろう。だが……
「クソッ!」
暗闇の中で悪態を吐いたタリカは、全く動かない動く身体を僅かに震わせた。
不随意運動に近いが、それでも自分の意思で少しくらいは動ける事を確認する。
『それ』が出来る/出来ないで大きく変わるモノもあるのだ。
そしてここでは、僅かでも動くことを確認し、全身をモゾモゾとさせていた。
きっと、端から見れば寝台の上で蠢く芋虫だろう。
「動けッ! 動けよッ! 俺の身体動けッ!」
まるで砂でも詰まっているかのような両腕を動かし、なんとか持ち上げることに成功した。だが、力が続かずにその上ではパタリと腹の上へと落ちた。操り人形の糸が切れた様な姿のタリカは、再び腕を動かすべく意識を集中した。
下腹部からへその辺りに落ちた両腕を顔まで持ち上げる。たったそれだけの事なのに、極限の集中力と筋力を要した。全身から汗が噴き出るような錯覚だが、腕は何とか動き出した。
ただ、その両腕が胸の辺りまで来た時、それ以上動かす事が出来なくなった。先ほどまでの激しい痛みが再び襲ってきたのだ。ただ、そんな痛みなど今は無視するべきだと確信していた。
「チキショウッ!」
痛みを感じているなら生きている証拠だ。それを確信しているからこそ、タリカはムキになって腕を動かそうとした。両腕の、両肩の、背中の、胸部の、上半身全ての筋肉が悲鳴を上げて痛みを発した。
だが、それでもタリカは動かす事を選択した。『筋肉痛だ』と、自分自身に言い聞かせて、両腕を顔に持って行こうとした。鼻の穴に押し込まれた管を引き抜こうとしているのだ。
しかし、その腕が唐突に動かなくなった。頭側に動かなくなった。力が尽きたのでは無く、腕が何かに引っかかったのだ。
「……ッエ?」
それが何であるかは説明されずとも解る。ララを後ろから抱きしめた事など夜空の星より多い位だ。『やっぱり……』と、それ以上の感想が無く、何かが心の中にすとんと落ちた。ただそれは、納得とか承認とかそういうモノじゃない。
「……マジかよ」
それ以上の言葉がなく、タリカは暗い天井を見上げた。
否が応でも飲み込まねばならない現実がそこにあった……
④
グルグルと渦巻く疑念をどうにも出来ぬまま、タリカは闇を見上げていた。全く光のささない漆黒の世界だが、いつからかどうにも空気が甘く感じている。味覚としての甘さでは無い。意思や思考を溶かす魅惑としての甘さだ。
(おかしい……)
甘い空気に酔っていたタリカは、無意識に呼吸を浅くしていた。直感で『危ない』と思った彼は意識して呼吸を抑えていたのだ。ただ、そうやっていれば嫌でも酸欠になる。理屈は解らないが、息を止めていれば命に係わる事は周知の事実。
経験則としてそれを知っているのだから、時々は深く息をせねばならない。
そうやって鈍い意識を強引に覚醒させ、その間に思考を積み重ねるのだ。
(来てない……よな……)
そう。あの肥った男から『先生』と呼ばれたヘビの男が随分と来ていない。あくまで感覚的なモノだが、もう1週間は姿を見ていない。時間の経過を測る事の出来ない環境故に、タリカも確証は無い。だが、確実にそれは解る。なぜなら……
(腹減ったなぁ)
あのヘビの男が用意してきた液体が腹に流し込まれなくなっている。結果としてタリカは狂おしいほどの空腹感を覚えていた。そして、その空腹感以上に辛いのは背中の辺りの慢性的な痒みだ。
背中の辺りにじっとりと嫌な感触を覚えていて、それは多分何か汚いモノだろうと思われた。床ずれが出来るような状態なので、場合によっては壊死した身体の一部かも知れない。
(このまま死ぬのかな……)
弱気の虫が顔を表し、タリカは弱り切った身体を僅かに震わせた。
不随意運動ながら、それでも身体が動いた。全く動かなかった身体が……だ。
しかし、正直そんな事に気が付く余裕はない。
猛烈な空腹感と心細さが渦巻いていて、心も折れつつあった。
今の今まで飲み込んできた言葉が、ぼそりと漏れ出た。
「助けて……」
完全な無意識状況ながら、それでもタリカの口が言葉を発した。
ややあってそれに気が付いた時、彼はハッとした表情でもう一度声を発した。
「助けて!」
心をつなぎ止めていたもの。崩れそうな意地を支えていたもの。そういった心のつっかえ棒が跡形もなくなっていた。ただただ、か弱い子供の様に、線の細い姫の様に、誰かに縋った。
「助けて……だれか」
どんなに強靭な精神であっても、闇は人の心を折る。放置や無視は、心を削って抉って叩きのめす。そこに人が居れば。気配があれば。例えそれが自分を詰る言葉であっても、第3者がいるだけでも心強い。
自分に利用価値がある限り、まだ何とかなるかも知れない。まだ生かされる公算が高い。故に先ず生き延びてチャンスを待つと言う選択肢が生まれる。そう。自分が道具以下になり下がっても、まだチャンスはあると安心していたのだ。
だが、完全な孤立無援の状況で放置された時、初めてタリカの心に諦めの虫が顔を表した。捨てられた。または放棄された。或いは、利用価値が無くなった。その結果、自分はここで干からび切って死ぬのかもしれない……
――――死にたくない!
その強烈な反応は、若者故のものかも知れない。だが、折れかかった心から出て来る言葉としては自然で素直だ。なにより、諦観をかなぐり捨てて希望を繋ぎ止めるには、まだ十分な威力だった。
そんな時だった――
――ッチャ
――――ん?
タリカの耳が何かを捉えた。
それと同時、遠くから声が聞こえた。
「ウワッ! 酷い臭いだな 死んでるんじゃ無いだろうね?」
漆黒の闇が不意に明るくなった。松明状の灯りを持ってやって来たのは、大柄なヒョウだった。ただ、それはタリカも初めて見る存在だ。
「お前さんだね? イヌだかオオカミだかの坊やは」
ニコリと笑って見せたその顔は間違い無くヒョウの男。
だが、その身体はスレンダーで豊かなバストが揺れていた。
(ケダマッ!)
タリカの眼差しがクワッと開かれた。
驚きと警戒。だが、それ以上に内心からあふれ出したのは歓喜。
そのケダマが持っていたのは、あのヘビの男が持っていたものと同じ様に見える液体。どんな状況でも身体の方が先に反応し、ここでは腹の虫がグゥと鳴いてみせることで、生を繋ぐ意欲を示して見せた。
「あ~ぁ 元気なもんだ。若いってのは良いもんだね」
そんな事を言いながら、ケダマの女は何事かの準備を始めた。
カチャカチャと耳障りな音が響き、伴奏の様に腹の虫が鳴き続けた。
「残念だけどね、ヘビの魔術師は死んじまったよ。なんかあっさり殺されたようだが、恨みを買わない方がおかしいクズ野郎だ。死んで当然なんだよ。で、まぁその後の事はアタシが任されたって事だ」
一方的に説明しながら、ケダマの女はタリカの身体を抱きかかえた。その太い腕は、女のものとは思えぬ逞しさだ。遠慮無くひっくり返えされた彼の身体は、今まで全く感触の無かったアチコチに痛みやかゆみを訴えていた。
「あーあー 酷いモンだね。ちょっと痛いよ。覚悟おし!」
タリカの鼻が捉えたのは、肉が腐る甘い臭いだ。自分の背中がダメになっていたと言うことだが、不思議と痛みは無い。普通、身体の肉が壊疽を始めれば激しい痛みを発するものだ。だが、そんな感触は一切無かった。しかし――
「――ッグ! グアァァァァァッ!!!!」
唐突に背中に熱湯でも掛けられたかのような痛みが走り、その身体が弓なりに撓った。ケダマの女に抱えられ持ち上げられた後で、全身に何かしらの薬液を掛けられたらしいく、うめき声を上げた。
その腕は太く逞しくあり、間違い無く男の腕だとタリカは思う。だが、その胸に膨らむ大きな乳房の感触は間違い無く女。そんなヒョウの女は遠慮無くタリカの全身に何かの液体を掛けていった。
その薬液が触れたところから激しい痛みと痺れるような感触が広がり、タリカの身体は不可抗力でバタバタと暴れた。ただ、そんな状況でもタリカはヒョウの女を観察していた。
(これがケダマか……)
痛みと屈辱と腹立たしさの中、タリカは何処かで妙な分析をしていた。
そして同時に、それとは別の視点で自分の身体の異常さ。変化も実感した。
「よし。これで良いだろう。どうだい? 楽になっただろう?」
再び寝台に寝かされたタリカをケダマの女が上から覗き込んでいた。
その顔には愛嬌があり、よく見れば男とは違う顔立ちだと思った。
「アタシはドーラ。まぁ、ドレッドとも言うがね――」
クククと笑いを噛み殺したケダマは、鋭い犬歯を見せながら笑って見せた。
「――ウチの家主にね、お前さんの面倒を見ろって言われて来たのさ。長い付き合いになるだろうから、アタシのことはネェさんとお呼びよ。また来るから大人しくしてんだよ。変な気はおこさねぇ方が良い。そのまま変転した方が後で楽だ」
(へんてん? 変転ってなんだ?)
内心でそんな事を思ったタリカ。だが、ドレッド。ドーラと名乗ったケダマの女は、タリカの内心など関係無く、鼻に繋がる管の根元へ例の液体を注いだ。すぐにタリカの胃の腑が熱を帯び始め、程なくして再びからだが怠く重くなり始めた。
(これが切れたから動けたんだ!)
その正体を見きったタリカだが、再び『変転ってなんだよ……』と、内心で呟いた。少なくとも、それは絶対に碌なもんじゃないと確信出来た。何故なら、今しがた抱えられ持ち上げられた時、掛けられた液体の感触がすでに無くなっていた。
「ヘビって種族は脱皮する事で身体を作り変えるんだそうだ。その応用だって自慢げに言ってたんだよ、あのクズ男は。ただまぁ、少しは楽になっただろう? もう少しで全部作り替わるから大人しくしてな」
(作り替わる?)
内心でそう呟いたタリカだが、その意味はまだ解らない。ただ、身体を覆っていた体毛は今までより細く柔らかくなっていて、どこか良い匂いがする気がした。身体中が相変わらず重くて、どうにも動けない状態だ。
そんな状態で鼻の穴に差し込まれた管から何かが流れ込んでくる。トクトクと良いペースで入って来るその液体が胃の腑を満たした頃、タリカは段々と意識レベルが低下し始めた。
(ま……た……か……)
段々と正体の抜けていったタリカはぼんやりとした表情で天井を見上げていた。その耳元へ口を近づけ、ドレッドはささやくように言った。
「#$%&*、+~>$%*&。#%$&+*%@$+、#*@~&」
何を言われたのか全く理解できないまま、タリカの意識が消えていった。
⑤
「そろそろ頃合いだろ? どうだろうね」
ニコニコと笑っているドーラ、ドレッドが言ったそれは、タリカの身体の変化だった。漆黒の体毛に包まれていたタリカの身体が裂けるように崩れ、その中から一回り小さくなったタリカが姿を現していた。
筋骨隆々としていた腕の辺り。まるでメンチカツを包む衣が裂け、中の挽肉が姿を現したかのようになっている。ドーラはそれを確かめると鼻歌など歌いながらタリカの身体中から何かを剥がし始めた。
メリメリと音を立てて皮や肉が割けていき、その中からタリカとは思えない細い身体が姿を現し始めた。漆黒の体毛が青みを帯びた艶やかなものに生え換わっているのが解った……
「ほぉほぉ。良いじゃないか。凄く綺麗だよ。こりゃ上玉だ」
身体の表面に残るヌルヌルとした液体を両手でこそぎ落とし、その後で身体中の体毛をドーラは拭き清めている。暖かな手ぬぐい状の布が冷え切ったタリカの身体に熱を伝え、タリカは寒さに身を震わせた。
「よし、出来た。これで良い。顔もさっぱりしたろう?」
最後に顔をゴシゴシと擦られたのだが、その結果として顔が一回り小さくなったような気がした。あり得ない気もするが現実だという直感がある。変転と言われたものが何なのかを理解した。
「さて、もう少しそこで大人しくしてなよ。まだ無理に立たない方が良い。細くなった足が折れちまうからね」
ドーラはそんな言葉を残して暗い部屋を出て行った。
松明の火が燻した臭いが部屋に残っていた。
そしてそれが、タリカの見た最後のドーラだった。
正体はドレッドなのだが、タリカにとってはどっちでも良い事だった……