バジャ 闇深き男
~承前
その部屋に入った時、率直な感想としてカリオンは度肝を抜かれた。広い部屋の中で待っていたのは、シーアン市民議会の議長だ。だが、問題はそこでは無い。
大きな部屋の中に用意されていた豪華なソファーは向かい合わせになっていて、真ん中にテーブルを挟み持てなす馳走を並べた歓迎姿勢が見て取れる。しかし、カリオンを驚かせたのは、それでも無い……
――――ケダマか……
男に生まれながら獣人では無く女の様な姿をしたマダラのカリオンでも、ケダマには驚くより他ない。女に産まれながら全身を毛に包まれた獣人の姿をするケダマは、マダラ以上に疎まれる存在だ。
そんなケダマの少女達が部屋の中に何人も居るのだ。皆驚く程にやせ細った姿をしていて、小さなメイド衣装に身を包んで部屋の隅に立っていた。何処か怯えている風でも有り、奥歯をキュッと噛みしめてわずかに震えている。
そんなメイド達を気にする風でも無く、議長は満面の笑みでカリオンを出迎えていた。その姿を一言で言えば胡散臭い生臭者だろう。人誑しの才があるようにも見えるが、どちらかと言えば滑り気味だった。
「やぁやぁ! 彼方の大陸を統べる王よ。ようこそお越し下さった!」
議長は自らをバジャと名乗り、『さぁ!どうぞどうぞ!』と椅子を勧めて部屋の真ん中へと誘った。パッと見た限りでは種族のことまで理解出来なかったが、少なくとも肉食獣系種族以外とは思えない姿だ。
そして同時にカリオンは、その姿を見て『ネコだ……』とも直感した。ネコの中に残っている独特の臭いがカリオンの鼻を突いたのだ。マダラの姿をしていても、やはりカリオンはイヌだ。嗅覚は鋭く、正確にその種類を嗅ぎ分ける。
――――この臭いは……
どこかで嗅いだことのある臭い。それは、懐かしさに分類される臭いであり、同時になにかこう危険性を直感させる臭いでもある。それ故にカリオンは一瞬で猛烈な記憶の階層を辿って行った。どこかで……と直感したそれは意外なものだった。
…………マリ・ペギュー
あの時、ボルボン家を乗っ取っていたデュ・バリーの妻にして、バリーの命により誰とでも寝る売春婦だったマリの身体から発せられた臭い。麝香やムスクと呼ばれる香料で、香水などに添加されて香りを強くする為に使われるもの。
同時にそれは、催淫剤として配合されるものでもあり、ネコの血統には特に良く効くと言われている。嗅覚の鋭いイヌやキツネにも有効で、慣れぬ者は思わず膝を付きかねないものだった。
「そなたは……独特の……臭いだな」
言葉を選ばずはっきりとそう言ったカリオン。怪訝な顔になっているのが自分でも解るくらいだ。しかし、バジャは一切悪びれる事もなく、事もなげに言った。
「手前はジャコウネコに御座いまして、体臭ばかりは如何ともし難く相申し訳ありませぬ。この身にまつわるモノに御座いますれば、どうかご容赦のほどを」
恐らくこれは差別の温床的な側面もあるのだろうとカリオンは思った。臭いと思えばそれだけで不快だが、当人にはどうしようもないのだからやむを得ない面の方が大きい。
それ故に社会的不利を被ったりもするのだが、このバジャはそんな中でも立身出世したのだろう。どんな努力をしたのかは解らないが、少なくとも並大抵の努力でどうにかなるものではない事など、言われるまでもなく理解できた。
「お前達! 大至急窓を開けなさい!」
おもむろにパンパンと音を立てて手を叩いたバジャは、決して声を荒げることも無くメイド達に指示を出した。それを聞いたメイド達は一瞬だけビクッと身体を震わせたあと、『畏まりました、旦那様』と応え動き出した。
ただ、その歩く姿が何処かぎこちなく見える。膝を曲げず足を伸ばし腰を振って歩く姿は、まるで男を誘う街角の立ちん坊な売春婦のようでもある。
「すぐに風を入れますれば、蟠る臭いも一掃されるでしょう」
バジャは笑みを浮かべてそう言うのだが、部屋の位置口付近に立ったままで居るカリオン達はまだ動かなかった。如何なる危険があるのか解らぬ以上、気易く立ち入るのは迂闊だからだ。
ただ、そんなカリオンの鼻に妙な臭いが流れてきた。バジャの放つジャコウネコの体臭では無いもの。その特殊で特別な臭いは、知っている者に間違い無く負の感情を想起させるもの……
――――腸液の臭いだ……
戦場を駆け巡り、幾多の斬殺体を踏み越えてきた者ならば嫌でも知っている。腹を割かれたり踏み潰されたりした死体は、最初に内臓を腐らせてしまう。その時、死体から漏れる腐臭は3種類。
肉が腐り落ちて溶ける時に放たれる腐臭。腸内に残っていた便臭。そして、その便臭と共に流れ出るのは、アルカリ性の強い腸液臭。およそ普通ではそんな臭いが流れ出ることは無い。
つまり、この市民会議なる合議施設の内外にまとまった量の死体があるはず。そうで無ければここまで濃密な腸液の臭いが漂うことなどあり得ない……
「……さすがはイヌの王。そのお鼻は誤魔化せませんな」
恐縮した様に縮こまるバジャは、メイド達を呼び集め部屋から出るように指示を出した。両膝をカタカタと振るわせる少女達は、数名を残し不安げな表情でバジャに一礼した後で部屋の奥の扉へと消えていった。
――――なんだろう……
カリオンは一瞬だけオクルカを見た。イヌと同じくオオカミも嗅覚は鋭いのだ。
何かを感づいてないか?と思ったカリオンだが、そのオクルカはカリオン以上に怪訝な顔をしてた。
「申し訳ございません。手前共は食肉産業に従事しておりますれば、斯様に不潔かつ不快な臭いが館にも染みついてございます。生けるものの命を取る生業に御座いますゆえ、御不快かとは存じますが平にご容赦を」
そう謙るバジャは気を取り直したように一行をソファーへと誘った。そして、カリオンたちが席に着いたのを見計らい、再び手を叩いて残っていたメイドを呼ぶと全員に茶を配らせた。
ガラガラと音を立ててワゴンを推してきたメイドもケダマで、カリオンは改めて驚きをあたらにする。だが、目の前に差し出された茶を受け取る時、その鼻に流れてきたのは、やはり腸液の臭いだった。
――――ん?
わずかに震える手でティーカップを配って歩く少女の身体から、僅かでは無い腸液臭が漂っている。そしてその臭いに気を取られていたが、改めてカリオンは違和感に気付いた。ティーカップを配ったメイドの手だ。
直感的に思ったのは、その手が男だと言うことだ。それも男の子の手。女の子であればもう少し細いと思われる。いや、それがケダマの特徴と言われれば、カリオンだってそう思うだろうが、一度思ってしまった違和感は消えないものだ。
…………何かがおかしい。
それがどうおかしいのかと問われると、カリオンだって説明に窮するだろう。しかしながら、それは明確な直感として迫ってくる。この議長が侍らせているメイド達は、何かが決定的におかしいと。
「ほらっ! お前達! 何をしているんだ! 部屋から出ろ!」
メイドの手元をジッと見ていたカリオンに気が付いたのか、バジャは慌ててメイドたちを部屋から追い出した。メイドのひとりがバジャの耳元で何やら詫び言を吐いたらしく『さっさと出ろ!』と声を荒げている。
その後になっても『全く……』とブツブツ小言を並べていて、そんな姿を見ればつくづくと小者なのが透けて見えるのだが……
「申し訳ございません。全く躾のなってない様をお見せしました。お恥ずかしい限りです。後でキツく叱っておきますので、どうかご容赦のほどを」
慌てて頭を下げたバジャ。カリオンは気を取り直してティーカップへ視線を落とした。深い赤茶色の茶からは馨しい香りが立ち上り、その香りもまたどこかで嗅いだ臭いだとカリオンは思い出す。
ル・ガルではあまり流通しない種類のものだが、一度はこの茶に口を付けてる。それを冷静になって思い出そうとした時、バジャが口を開いた。
「私共はこの砂漠の地に暮らしてきました。何もない所に泥で作った家を築き、砂漠を征く商隊をもてなす事で成長してまいりました。先人たちの血と汗と涙が泥を固め、この街を形作っておるのです」
肩を震わせながらそう言うバジャは、最初に茶へ手を付けて、毒の無きを実践して見せた。それが砂漠の街の礼儀かも知れないが、カリオンはまだ茶に手を付けないでいた。
何かがおかしい……と、そう直感した時から胸の奥で何かが騒いでいた。ただ、その耳の中にあのノーリの鐘の音が聞こえないのは、カリオン自身も不思議がるほどに変な気分だ。
「奏上した降伏文書の中でも書かせていただきましたが、どうかこの街を焼かず、市民を殺さず、その財産を奪わずにおいて欲しいと願っております。そう約束して下さるのなら、シンバでは無く太陽王陛下に租税と人頭税を納めまする」
バジャの言にはギリギリの妥協が滲み出ていた。誰だって税など払いたくないものだが、何も無い砂漠のど真ん中でここまでの街に育ったのだから、全てを焼き払ってしまうのは勿体ないなんて話では無い。
再建に掛かる手間暇や財産を思えば、税を差し出すから止めてくれと言いたくもなるだろうし、むしろ必要経費と割り切れば納得もいくだろう。そしてもっと言うなら、獅子の国に属するよりこっちの方が良いと言う選択をしたのかもしれない。
「太陽王よ。この場で決めず一旦持ち帰り善後策を検討するべきかと思われる」
将軍ヨリアキはそう献策し、含みのある笑みを浮かべてカリオンを見た。そこにどんな意図があるのかを考えたカリオンだが、不意に『安すぎる』と言う言葉が浮かんだ。
「手前も同意見に。その方が上策かと思われるし、急いては事を信じる」
オクルカがそう切り出すとシザバも首肯しつつ『賢明ですな』と賛意を示した。それを見て取ったカリオンはバジャをジッと見ながら口中で言葉を練り、静かな口調で返答した。
「……聞いたとおりだ。即答は差し控える。一旦協議の上で返答する。そなたらが望むものを実現したいのであれば、我々の要求について真摯に努力せよ――」
少々高圧的ながら、カリオンは遠慮無くそう切り出した。
「――まず、余の娘であるララを探し出して返せ。同じく、オオカミ一族の王子であるタリカも探し出して返せ。この2つが何よりも重要である」
カリオンはバジャを打ち据えるように見つめ、そう言明した。議長であるからして、その言葉の意味と重みは嫌でも理解できるはず。忖度ではなく明確な努力目標を示した以上、それについてゼロ回答は許されない。
それについてオクルカは表情を強張らせつつカリオンに頭を下げ、ヨリアキやシザバはカリオンの懊悩を思った。他ならぬ娘を行方不明にしているのだから、率直に言えば気が気でないと言う所だろう。
「さっ…… 最大限努力致します」
同じように表情を強張らせ深々と頭を下げたバジャは、とりあえず首の皮一枚繋がったと思ったのかもしれない。要するに、最大の山場を越えたという安堵だ。故にここはもう一つ釘を刺さねばならない。
結果を残せない場合。こちらの要求にゼロ回答を出した場合にどうなるか。それをしっかりと言って含ませる必要がある。
「明朝、使いの者を出す。その者に結果を示せ。その上で今後について再検討する事としよう。率直に言えば税も街も余は要らぬ故に――」
硬い口調でそう言い放ったカリオン。ゼロ回答は許さないと通告したに等しく、バジャは総毛だった様な表情になってカリオンを見た。その内心が透けて見える様な姿だが、その時ふとカリオンは思った。
――――もしこの男がふたりを隠していたとしたら……
その可能性がゼロでは無い以上、勝手にそれは無いと思うべきではない。と、なれば、ここは更に圧しておくべきだ。グッと顎を引いたカリオンは上目遣いになって睨み付け、一段低い声で言った。
「――見つからぬ場合は全てを焼き払って、我々の手で探し出す。我らが邦より遠く離れたこの街に我らの興味はない。税を集める理由もない。すなわち我らにこの街を保護する旨味は無い。一切無いのだ。従って明朝までに何らかの結果を出せ」
街の存続についての最低条件かつ唯一無二の条件。それを言明し釘も刺した。これ以上の言葉はかえって無駄になるし、妙な言質を取られかねない。それを思えば撤収のタイミングも重要だった。
「せっかく茶を出してくれたのだが、今は手を付けずにおく。我々が望む色よい返事を用意したなら、次は遠慮なくいただこう。以上だ」
スパッと話を切り上げたカリオンは、左右に座るオクルカとヨリアキを見て、確かめるように『何か付け加える事はありますかな?』と言った。それに対しオクルカは無言で首を振り、ヨリアキは『夥しき結構』と返答した。
それを確かめ立ち上がったカリオン。諸王が同じく立ち上がり、一斉に部屋を出た。建物の外に出た時、いつもより空気が甘く感じた。あの独特の臭いで鼻がおかしくなっていたらしい。
「酷い臭いでしたな」
ぼそりとこぼしたシザバは、鼻をゴシゴシと擦りながらボヤくように言った。だが、それの後に口を開いたヨリアキは、酷く怪訝な顔になって言った。
「彼の議長。どうやら闇が深そうですな」
なぜ?と顔に書いてある状態でヨリアキを見たカリオンとオクルカ。シザバも不思議そうな顔になって『それってどういう事だ?』とたずねた。どうやらヨリアキだけが気が付いた事があるらしい。
少なくとも、こんな状況でそれに気が付けば、誰だって得意げになる場面だ。しかしながら、ヨリアキは殊更に深刻そうな顔になっていて、『ふむ……』と息を一つ吐いてから切り出した。
「先ほどの女中……あの、我らに茶を振る舞った男ですが――
ヨリアキの口から『男』と言う言葉が出て、全員が『はっ?』と言葉を返した。だが、そんな反応が意外だったのか、ヨリアキは険しい顔で続けた。
「――あの男、いや、議長の方ですが、衆道の趣味があるようですな。おおかた若衆にするべく尻穴に張り形でも押し込まれているのでしょう。議長の耳元であの男が何事かを言ったようですが、手前の耳にはお仕置きして下さいと聞こえました」
衆道が何を意味するのかは説明の必要もないだろう。あそこにいたケダマの少女たちは、ケダマではなく歳幼い男の子の可能性が出てきたのだ。そして、そんな男の子を犯して愉しむ筋金入りの変態な可能性がある。
何処までも鬱屈した劣等感を持つが故に、抵抗力の無い子供たちを虐げ支配する事で鬱憤を晴らしているのだとしたら……
「……オクルカ殿。例の水晶亭の主人。どんな男でしたかな?」
何かを確かめるようにそう切り出したカリオン。オクルカも確認する様に『女に化けていた男でしたな』と返す。銅銹館の館長であるドーラの双子の弟ドレッド。彼はル・ガル軍の城下突入で死んだはずだった。
「……色々と嫌な予感がしてきました――」
眉間を抑えてそうぼやいたオクルカ。その脳裏に浮かんだのは、あの変態議長に掴まって男娼調教されているタリカの姿だった。
衆道に堕ちる者の中には、ひ弱な子供ではなく筋骨隆々の若い男子を好む者もいる。健康な若者を沢山侍らせたくなる老人は掃いて捨てるほど居るのだ。そしてその隠れ蓑として水晶亭があったのだとしたら……
「――どうやら我々は大事なところを見落としていたのかもしれない……」




