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望まざる空中散歩

 なにか変な音がした。


 風が吹いて草が揺れる音だ。

 サラサラと鳴り響く音だ。

 ただ、山で聞く風の渡る音ではなかった。

 その違和感で、琴莉は目を覚ました。

 目の前には広大な草原が広がっていた。

 土の大地の上に仰向けに寝転んでいた。


 なんとなく立ち上がってみる。

 無意識に手足や身体に異常が無いか確かめた。

 どこも問題が無いと分かって、そして辺りを見回した。


 見えるのは草原と山だけ。他には何も無い。

 自らの膝が隠れる程度の草原だ。

 野生動物の気配や空を飛ぶ鳥の気配も無い。


 遙か彼方に高い山が見える。雪を被っている。

 その山裾がずーっと伸びていってここへ繋がっている。


「ここ…… どこ?」


 草むらに倒れていたのだ。服は土で汚れていた。

 手で払いながら、改めて周囲を見回した。

 山歩きが趣味の夫婦だ。

 いや、やっと夫婦になった筈で、実際はカップルだった。

 あちこちの山荘で散々冷やかされて、でもそれが気持ちよかった。


 岳人の本能だ。

 土で汚れた場所を、もう一度念入りに確かめた。

 そして、気が付いた。

 

 自分が独りであると。


「いわくーん!」


 真っ青な草の海に風が走り、緑の波が寄せては返している。

 その風に長い髪をなびかせて、琴莉はもう一度周りを確かめた。

 何度見ても、見渡す限りの草原だった。


「いわくーん!!」


 愛する人の名を、大きな声で呼んでみた。

 だけど、自分以外の気配が無い。

 

 ――――ここは何処なの?


 そんな疑問だけが琴莉の中に溢れ始めた。

 ただ、ここに居たって何も解決しないだろう。

 草の海にしゃがみこんだら周りは何も見えない。

 

 ――――私が倒れている間に、いわ君がどこかへ歩いて行ってしまった


 ふとそんな事を思った琴莉は首を振った。

 自分を崇拝しているんじゃ無いかと思う位に、惚れてくれている男だ。

 そんな姿が申し訳無いと思うほどの存在だ。

 絶対それは無いと確信していた。


 ふと。琴莉は腕時計を見た。

 飛行機から放り出されて、すでに丸二日が経過している。

 何処へ行くべきか迷って、ふとパンツのポケットから携帯を取り出した。

 電波は入っておらず、待ち受け画面に浮かぶ五輪男の変顔が微笑ましかった。

 残り一つになっていたバッテリーはレッドラインだった。

 とりあえず電源を落とした。


 ――――いわ君…… 何処に行ったの?


 疑問と心細さが段々と落ち着き始め、琴莉は自分に起きた事を整理し始めた。

 僅か数分の間に起きた事を、時系列を追って思い出し始める。



 先ず、飛行機に乗っていた。

 窓の外に隕石が通過していった。

 ヤバイと思う前に機体が直撃を受けた。

 自分を含めた幾人かが機外へ放り出された。

 気が付いたら空中に居た。

 足下に何も無く、着の身着のままだった。


 上を見上げたら煙を曳いてバランスを崩した飛行機が見えた。

 右側の翼がそっくり失われていて、回転しながら墜落していった。

 

 ――――あれじゃ誰も助からない

 

 いま自分の身に起きている事を全部忘れ、琴莉はその寒々しい光景を凝視した。

 だが、その直後に耳へ五輪男の声が届く。


「琴莉!」


 声を嗄らして叫んだ五輪男の声に琴莉は無意識に応えた。


「いわ君!」


 空中でバラバラになっていく旅客機から、次々と人が放り出される。

 炎を吹き出し落ちていく飛行機は制御を失い、自由落下で落ちていく。


 みんな死ぬんだ。救いは無いんだ。

 誰も助からないと琴莉は思った。

 なんとなく、じゃぁ良いかと思った。


 ただ、そんな思考を重ねる琴莉の耳に五輪男の声が聞こえた。


「ことりぃぃぃぃ!!」


 見上げる空には眩いほどの月が見えた。

 まるで太陽を見ているようだと琴莉は錯覚した。

 その中に精一杯手を伸ばす五輪男の姿があった。


 もう少しで手が届きそうな距離で二人は平行に落ちていく。

 あと、ほんの少しで手が届く。琴莉は精一杯手を伸ばした。

 その向こうで五輪男が空中を泳ぎ始めていた。


「あっ!」


 思わず琴莉は声をあげた。

 同じタイミングで五輪男も叫んだ。

 二人の指先が僅かに触れたのだった。

 瞬間的な接触だったが、鋭い痛みが指先にあった。

 爪が剥がれたと思った。


 だけど、痛み以上に嬉しかった。

 五輪男の腕で力一杯抱き締められた時のような。

 あの息苦しいまでの意味を伴った安心感を感じた。


「待て! ことり! 身体を広げて!」


 指先の痛みに我慢ならず自分の手を見た琴莉。

 その姿勢の変化は偶然にも最大効率で身体に風を孕ませた。

 マイナス方向にGを感じるほどグッと減速した琴莉。

 そこへ五輪男が飛び込んできて、力一杯に抱きしめられた。


「琴莉は俺のもんだ! 誰にもやるもんか!」


 五輪男の声が聞こえた。訳も無く琴莉の目に涙がたまった。。

 何時いかなる状況であろうと、琴莉にとって五輪男の腕の中は安心出来る場所だ。

 五輪男の腕にしがみついて『絶対離さすもんかと』琴莉は力を込めた。


「ごめんな! 琴莉! ごめんな! こんな事に!」


 五輪男が謝り始めた。

 だけど、琴莉はもう何も怖くなかった。


「一緒なら怖くないから! 大好き! 愛してる!」

「俺もだ! 愛してるよ! 世界で一番琴莉を愛してる!」


 空中をもの凄い速度で落下している筈の琴莉と五輪男。

 だが、そんな事など一切頭から抜け落ちている。

 どこでも、何処へ行くにも。これからどうなろうとも。

 この人と、愛する人と運命を共にしよう。

 琴莉はそう決めた。


「死んでも一緒に居ような!」


 五輪男の言葉に琴莉は叫ぶ。


「もちろん!」


 五輪男の顔が眩く光って、不思議な影が落ちた。

 すぐ近くを隕石が通過していったのだと琴莉は直感した。

 だけど、そんな事なんかもうどうでも良かった。

 暖かな五輪男の腕の中で死のう。

 琴莉はそう決めた。


 しかし、運命の苛酷さは琴莉の想像を軽く跳び越えていった。


「あっ!」


 すぐ近くを猛スピードで隕石が通過した。

 衝撃波にはじき飛ばされ、琴莉は五輪男と引き離されてしまった。

 慌てふためく五輪男の腕は、琴莉を求めて空中を彷徨った。

 琴莉の身体に五輪男の温もりが残されていた。 


「待て! 待ってくれ! 行くなよ! 琴莉! 行くな!」


 ふと、自分の方が落下スピードが速いと琴莉は思った。

 もうダメだと。五輪男には届かないと悟った。

 だけど、五輪男は自分の為に懸命の努力をしている。

 それが嬉しかった。訳も無く嬉しかった。

 言葉にならず、嬉しかった。


「ありがとう! ありがとう! さようなら!」


 なんて言って良いか分からず、琴莉はそう口にした。

 何度も。何度も。何度も。


「そんな事言うな!」


 五輪男の表情が泣きそうだった。

 小さな頃は泣き虫だった五輪男だ。

 最近じゃすっかり自分の方が泣き虫になっていた。


「大丈夫! むこうで! 天国で待ってる!」


 少しでも安心して欲しかった。

 五輪男は自分が好きなんだ。

 他の何よりも誰よりも好きなんだ、と。

 それをいま、絶対確実な事と確信した。


 そんな確信が寒々しい空中を落下していく琴莉の心を温めた。


「あっちもそっちも関係ねー! 俺は今お前と居たいんだ!」


 五輪男の絶叫がハッキリと聞こえた。

 私も!と叫びたくて精一杯息を吸った時、胸の奥に妙な感触があった。

 そして、声では無く血を吐き出し、一瞬意識が遠くなった。


 グラリと視界が揺れて、その直後、頭に血が上る感じがした。

 世界が逆さまに見えはじめ、自分が頭から堕ちて行ってると気が付いた。

 だけど、身体は一切言う事を聞かなかった。

 そして世界が眩く輝き始めた。


「ざっけんな! クソッタレ!」


 薄れ行く意識のなか、五輪男の叫ぶ声が聞こえた。


 ――――もう良いよ もう良いよ


 そんな事を思った琴莉。

 五輪男の声が聞こえ続けている。


「それは俺のもんだ!」


 ――――ありがとう……

 ――――私を愛してくれてありがとう

 ――――あなたに出会えて良かった


 琴莉は心からそう思った。


「愛してる。ずっと愛してる」


 無意識にそう呟いた。


 きっと五輪男には聞こえない。そんな確信があった。

 だからあの世に行ってから言おう。

 五輪男に抱きついて、五輪男に精一杯抱き締められて。

 そして耳元で言おう。


 心から愛していると

 いつまでも愛していると


 そう決めた。


「まて! 琴莉! 行くな! 待ってくれ!」


 ――――大丈夫だよ

 ――――必ずまた会えるよ

 ――――待ってるから

 ――――ずっと待ってるから


「俺を置いて行かないでくれ!」


 その時、琴莉は自分が眩い光に包まれているのに気が付いた。

 理由は分からなかった。

 ただただ眩かった。


 そして、もう一度五輪男を見た。

 手を伸ばしている五輪男がそこに居た。


 もう言葉が出なかった琴莉は、最後に笑った。


 愛する夫の。

 幼馴染みに育って、自分を好きだと言ってくれた男の顔を見た。


 ――――愛してる

 

 心の中でもう一度そう呟いて。

 そして琴莉は意識を手放した。


 眩い世界に包まれて、琴莉は何処までも落ちていった。

 恐怖も苦痛も無い、未知の世界へと。

 



 再び風が吹いた。草が揺れた。

 弱々しい草いきれが立ち上がり、僅かに熱を感じた。


 あの、空中を彷徨った僅かな時へトリップしていた意識が帰ってきた。

 ふと。五輪男の腕に抱かれ、吐息の熱を感じた夜を思い出した。

 知らずに涙が溢れ始めた。


 ――――いま一人ぼっちだ

 

 いつも一緒に居た人が居ない。

 たったそれだけの事なのに、琴莉は孤独に圧倒された。

 ペタンと座り込み、感情に任せて泣きじゃくった。

 泣いて、泣いて、泣いて、泣き疲れて、眠った。

 広大な草原のどこかで。草いきれの漂う中に、寝転んで。






 しばらくして、また何かの音で目を覚ました。

 真っ暗な空に降るように星が見えた。

 そして見上げた空には小さな紅い月が三日月になって浮いていた。

 反対の空には山並みに沈もうとしている白く大きな月があった。

 

 しばらく呆然と眺めていた琴莉はある結論に達した。

 自分でも信じられなかったのだが、この空を見て琴莉は思い知らされた。


 ――――ここは地球じゃないんだ!


 どう見たって地球から見える月じゃなかった。

 海の部分がなく、不自然にいびつなクレーターだらけだった。

 自分の身に起きた事がだんだんと見えてきた。

 

 次元転移(トリップ)だと。

 

 漫画や映画や小説に出てくる、SFの定番だと。

 そして、自分はその主人公になってしまった。


 呆然と見上げた空。

 もう涙も流れなかった。


「……いわ君」


 ふと、琴莉の脳裏に必死の形相で草原を走り回る五輪男が思い浮かんだ。

 草に足をとられ転げ周り、それでも自分の名を叫びながら走り回る五輪男。

 そのうちお腹が空いてきて、いつものようにちょっと不機嫌になって。

 で、街へ行って何かを食べようとして……


 ――――そうだ、街を探そう!


 ロールプレイングゲームなら、歩いて行くうちに街を見つけるのは定番の展開だ。

 山並みの向こうへ白く大きな月が沈み、紅く小さな月だけになった。

 そうなってからもう一度空を見上げ、地上の明かりが空に漏れているのを探した。

 だが、そんな街明かりらしいものは何も無かった。


 ――――人が居ないところかな


 そんな今までとは違う恐怖を感じた琴莉。

 とりあえず草原を歩き出すことを選択した。

 ジッとしていても仕方が無い。

 

 どこかに水があるかも知れない。

 山歩きの経験として山並みに沢があれば、そこには水があるはずだ。

 まずは水を確保しよう。そうしないと自分が死んでしまう。

 

 薄暗くなった草原を山に向かって歩き始めた琴莉。

 やがて山並みの向こうに月とは違う明かりが漏れ始めた。

 荘厳な朝焼けが空を染め、やがて日の出を迎える頃になった。

 

 すぐそこだと思っていた山すそへは、歩いても歩いてもたどり着かずに居た。

 ただ、立ち止まるわけには行かなかった。琴莉もまた岳人だ。歩くのは苦ではない。

 飛行機に乗るという事で履いていたパンプスが恨めしかった。

 だが、裸足で歩くのは下作だと言う事も良く知っている。

 

 歩いて歩いて歩き続けて、気が付けば太陽が天頂に登りつめた頃だった。

 琴莉の目の前に川が現れた。澄んだ水がゆっくりと流れる川だった。

 ほとりに立って手を浸してみる。目の覚めるような冷たい水が流れていた。

 

 両手ですくって水を飲んだ。

 少しだけ甘くて、でも、ちょっと土臭いコケ臭い水だった。


 ――――うん 大丈夫だ


 何の根拠も無く、琴莉はそう思った。

 奥穂高の沢筋で五輪男と飲んだ沢水を思い出した。


 ――――人間も自然の一部だ

 ――――森の獣が飲んで平気な水であれば人間だって飲める

 

 そんな事を言っていたワイルドな五輪男を思い出して感傷に浸る。

 とりあえず何か食べるものを探そう。

 空腹感を覚えた琴莉は、まず生き残る事を優先しなければならなかった。

 そして歩き始めた。当ての無い、この世界を。


 だが、そんな決意で問題が解決されるほど甘いものでは無いらしいと琴莉が気が付いたのは、歩き始めて三日目だった。


 疲労の限界に達し、琴莉はフラフラと歩いていた。

 もう丸三日の間。まともな固形物を口にしていなかった。

 川に魚の姿なく、水辺に獣の姿がなかった。


「お腹すいた」


 この三日間食べた物を冷静に思い出す。

 草を引き抜いた時に見つけた小芋のような球根。

 おそらく菊芋のような小芋。それだけだった。


「本気でお腹すいた」


 誰とも話をする事が無くなって三日。琴莉はずっとブツブツと独り言をいっていた。

 幾つか拾っておいたショウガのようなレンコンのような、そんな芋をかじっていた。

 とりあえず何とか食べられる。それは良い。ただ、定期的に激しい嘔吐感を覚える。

 間違いなく何らかの毒性がある。だが、手足の痺れや眩暈と言った症状は無い。

 下痢をする事も無いし、腹腔内のどこかが痛くなる事も無い。


 精神安定剤としての食事と言う観点では、とりあえずは問題は無いと判断していた。


 ――――ここって人が住んでないのかな?


 そんな事を思い始め、急激に心細さが襲い掛かってきた。

 川沿いを川下に向かって歩いていく琴莉。

 なんとなくだけど、川沿いをどっちかへ進めば集落があると思ったのだ。

 そして、何らかの街道なり道があれば、橋でも掛かっているかもしれない。

 

 山の中の道なき道を進んで行くと、突然鉄塔点検道にぶつかる事がある。

 その時、なんとなく人の臭いを感じてホッとするのと一緒だった。


 ただ、川下に向かって丸三日間歩いているのだ。

 川原というには頼りない氾濫原を歩いて、時々は休憩して。

 タバコを吸う習慣が無いからライターを持って歩く事は無い。

 だから火を使うことが出来ない。

 火打石でもあれば良いのだが、あいにくそこらの石で火を付けられるとは思えない。

 

 空腹感と疲労感と集落を見つけられない徒労感で琴莉は足を止めた。

 不意に空を見上げやや雲の掛かった現状に雨の恐怖を感じた。


 ――――降られたらどうしよう


 なんとなく、先へ進まないと危ないと思って、もう一度、一歩踏み出した。

 溜息をつきながら、空腹感に震えながら、自分の身体に鞭打って歩いた。

 薄暗くなる前に、再び野宿に良い場所を探したい。

 そんな思いだった。

 

 歩いて、歩いて、歩き続けて。

 やがて琴莉の足は無視できない痛みを叫び始めた。

 それでも琴莉は歩いた。

 立ち止まったら死ぬんじゃないかと、恐怖に震えた。

 時々は恐怖感に負けて泣き出し、それでも歩いて行って。

 そして夜は真っ暗闇で野宿をした。

 

 そんな生活も五日目になろうとしていた日の午後。

 川の向こうに何かが見えた。

 疲労と栄養不足で目が霞む中、琴莉はそこへ向かって歩いた。

 

 そして遂に出会ったのだ。

 この地にある文明の証拠に。

 

 川に立派な橋が架かっていた。

 車が通れるくらいの橋だった。

 木造の橋には欄干が付いている。

 

 その欄干に背中を預け、琴莉は座り込んだ。

 湧き上がってくる安心感から、再び涙が溢れてきた。

 そして、その場に倒れ込むようにして、眠ってしまった。

 

 心を支えていた緊張感の全てが、不意に切れてしまったのだった。

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