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ル・ガル帝國興亡記 ~ 征服王リュカオンの物語  作者: 陸奥守
青年期~第5次祖国防衛戦争
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三年生の苦闘 或いは、青春と呼ばれる日々(後編)

 二月初旬のビッグストン。

 基本的に温暖なガルディブルクだが、寒い冬ともなれば稀には雪の夜となる。

 故郷シウニノンチュは冬ともなれば積雪に閉ざされる地域だ。

 カリオンは雪降る様子を見ながら、窓辺で黄昏ていた。


「中隊長殿」


 消灯時刻まであと十五分。そんな頃合に伝令がやって来た。

 雪降る中を走ってきたのだろうか、肩にはうっすらと雪があった。


「どうした?」


 手ぬぐいを渡し雪を払わせたカリオン。床が雪で濡れるが、それは明日片付ければ良い。部下を大切にする事も学ばねばならない士官候補生だ。慣れぬ寒さと雪に足を取られてなお走ってきたポーシリ(一年生)をカリオンは労った。


「厩の場匹担当殿がカリオン閣下のレラ号について……」

「……わかった。すぐ行く」


 部屋を出ようとした時、ローアシ(二年生)が外套をすかさず出してくれたので、それを肩に掛け雪の中を歩いた。深々と降り積もる雪はすでに踝を越え、このままでは酷い積雪になると思われていた。


「で、どうなんだ?」

「それが……」


 一瞬言いよどんだ伝令のポーシリは、僅かに首を振っただけだった。その僅かな仕草でカリオンは全てを悟った。この雪降る夜は、幼い頃から共に長く過ごした愛馬レラとの『最後の夜』になる事を。

 ビッグストンの西側にある厩は士官候補生の愛馬を預かる巨大な施設だ。各地からやってくる士官候補生の愛馬を養育し、必要な時にベストのコンディションで引き渡す事が必要とされている。

 そこに預けられていたカリオンの愛馬レラ。齢8歳で初陣を迎えてから…… いや、実際にはもっと遡り、3歳程度の頃にはすでに馬に乗っていた。その頃からの付き合いであるカリオンにとって、レラは幼馴染のような馬だった。


「どうですか?」


 厩舎に入ったカリオンは最初に濃密な血の臭いをかぎ分けた。マダラとは言えイヌなのだ。その嗅覚は別種族のそれとは大きく次元を異にしている。そのイヌの鼻がもれ出てくる血の臭いをかぎ分けている。そう遠くない時期に……と、そんな覚悟はなんとなくしていた。だが、いざ現実を突きつけられ、うろたえるのだった。


「……良くないな」


 レラの腹をさすった獣医は首を力なく振った。叔父カウリの預かる騎兵団の騎馬をメンテナンスする獣医は、馬についての専門家だ。その見立てで首を振る以上、改善の見込みが無いという事になる。


「やはり、癌ですか?」

「あぁ。子宮系の癌だな」


 荒い息をしているレラは馬房の中に横たわっていた。水を飲む事も無く飼葉も食べず、辛そうに息をしながら寝転がっている。


「どうするかね?」


 獣医は静かに聞いてきた。

 そこには慈愛に満ちた眼差しの男が立っていた。


 ――――苦しませても報われない


 そう、顔に書いてあった。


「レラは…… 物心付く前から、自分を運んでくれた馬でした」

「ならば、もう勤めは十分に果たしただろう」

「せめてあと一年。卒業行進まで生きていてくれれば……」

「そんなもんだ。一番良いときに死ぬんだよ。馬も人も」


 ドキッとした表情で獣医を見たカリオン。

 獣医は静かに笑っていた。


「あと少し。もう少し。そう考えるのは欲というものだ」

「はい」

「もしかしたらこの馬は、後進の為に道を譲ったのかもしれない」

「後進?」

「次の馬がもう来てるのだろう?」

「はい」


 そう。実はレラの調子が悪くなり始めた2年生の終わりごろ。カリオンは新しい馬に初めて跨っていた。レラの産んだ子、モレラに。

 トゥリングラードへと出向いた頃からレラは慢性的に不調だった。ここビッグストンへ戻ってきてから大量の下血をし、その頃から馬術運動に不調を来す事も多かった。そんな折、シウニノンチュからやって来た使者が連れてきたのは、カリオンがビッグストンへ入学する少し前に産んだ子だった。

 まるでレラの写し身のような馬だったが、レラに似て強く逞しい馬体を持つ優しい馬だ。カリオンはモレラと名付けられた馬を気に入っていた。そして、モレラもカリオンを主と認めたようだった。


「レラの子です」

「ならばこの馬は、新しい馬と君が上手くやれるように。時間を掛けて馴染む様にと気を使っているのかもしれないよ」

「……馬はそこまで考えるのでしょうか?」

「むしろ馬だから考えないというのは、人の思い上がりだと思わないか?」


 獣医はレラのたてがみを撫でながら静かに言った。


「馬に限らず多くの生き物は、欲に塗れた自己利の精神を持ってない。そりゃ、飼葉を奪い合って食べ水を飲む事はあるだろう。だが、主と定めた者には――


 たてがみを撫でていた手が止まった

 レラが目を開けたのだ


 ――悲しいまでに純粋だ」


 レラはカリオンを見て、そして立ち上がろうと努力を始めた。

 もはや力が禄に入らない脚を奮い立たせ、主の為に立ち上がろうとする。

 それは馬の本懐。馬の本能。騎兵と共に走る騎馬ならば、当たり前のこと。


 すぐ傍らに掛けてある鞍を口で引き摺り下ろし、『さぁ走ろう』と言わんばかりに立ち上がろうとしていた。


「……レラ」


 小さく嘶いて、そして思うようにならない腰下に苛つくようにして。

 生まれたばかりの子馬が必死に立ち上がろうとするようにして。

 そしてレラはついに立ち上がった。カリオンの祖父シュサが贈った鞍を咥えて。


「レラ…… もういいんだぞ…… もういいんだ…… もう……」


 カリオンは奥歯をかみ締めて、そしてレラの首へ抱きついた。首筋へ鼻先をつけたレラは主の臭いを嗅いで安心したのだろうか。急に力が抜けて馬房に座ってしまった。そのまま一緒に座りこんだカリオン。レラはそんなカリオンの顔をなめた。


「色んなところへ…… 一緒に行ったな レラ」


 甘えるように首を擦り付けてくるレラ。その首筋を撫で、顔を撫で、そして抱き締めてやったカリオン。耳の後ろを掻いてやるのは、カリオンの愛情表現だ。父ゼルがそれを良くやっていて、その仕草はワタラ(五輪男)やカリオンに受け継がれているものだった。


「いつも一緒に走ったなぁ……」


 我慢ならず涙をこぼしたカリオン。その涙をレラが舐めた。苦しそうに息をしながらも、レラは主カリオンを心配していた。馬は人の心の機微に敏感だ主が悲しめば慰めに来るし、主が喜べば馬も一緒に喜ぶ。長くコンビを組んでいた馬と人なのだから、言葉は通じずとも心は通い合うのだった。


「サワシロスズの咲く霧の谷を覚えているか?」


 ゆっくりと語りかけるカリオンの言葉をレラは静かに聞いている。

 首筋を撫でながら、レラが落ち着くように、ゆっくりと、ゆっくりと。


「リリスはまだ言うんだよ。レラに悪い事をしたって」


 リリスの名前を聞いたレラは、まるで妬いたように顔をカリオンへと押し付けて甘えた。そんなレラの顔を抱き締めたカリオンは、首裏を軽く叩きながら、尚も話掛けた。

 だが、そんな仕草をしていたレラから少しずつ力が抜けているのをカリオンは気が付いていた。抱き締めた首筋に感じる筈の鼓動を。その波打つ波動が弱くなっているのを感じていた。


「レラ……」


 カリオンの呼びかけに、レラは小さく嘶いた。


「レラ……」


 もう一度呼びかけたカリオンの顔をレラは見つめた。

 心配そうにジッとカリオンを見つめ、もう一度その顔を舐めた。


「レラ……」


 まだ呼ぶのかよ……

 どこか不貞腐れたようにそっぽを見たレラ。

 だが、カリオンの鼻には、一層濃い血の臭いが届いていた。


 無理に立ち上がって、そして腰が砕け座り込んだレラの陰部からどす黒い血が零れ落ちた。大きく膨らんだ腫瘍が弾け、出血しているのだった。そして、その傷がジクジクと痛むのだろうか、レラはしきりに後ろ脚を動かしている。

 思うようにならない脚を動かし、盛んに違和感を払おうとしている。だがそれは、もうどうにもならない痛み。

 そして避けられない『終末』を感じさせるものだった……


「カリオン君」

「はい」

「どうするかね?」


 獣医の目が『楽にしてやれ』と言っている。

 カリオンはそう理解した。


「どうするって……」


 獣医は懐から小さな容器を取り出した。

 ガラス製のその容器には毒物のマークがあった。


「筋弛緩剤だ。どんな生き物でも眠るように…… 逝ってしまう」


 その言葉を聞いたカリオンの頭髪がグッと逆立った。

 マダラの姿をしていても、やはりこの子もイヌなんだと獣医は思う。

 毛を逆立たせて感情を示す事はイヌの特徴の一つだ。


「君は…… やがて士官になる。そして、いつかこの国の主となる」


 獣医は静かに語りかけている。レラの首を抱きながらカリオンはその言葉を聞いていた。避けられない運命を背負って歩いてきた筈のカリオンだ。人の運命を左右しかねないという事は言葉としては理解していたつもりだった。

 だが、このまだまだ幼い青年は、自分の手に委ねられた命を、その運命を左右するという事の意味を初めて知った。我が事として理解したのだった。


「君が望むなら、この馬をここで楽にしてやれる。君が望むなら、この馬が自然に死ぬまで。苦しみ続けても死ぬまで生かす事も出来る。ただ、避けられない死を前にどう決断するかは…… 君の手の中にある」


 カリオンの目からとめどなく涙が溢れた。抱き締めていたレラの首から力が抜け始めたのだ。だが、それでもなお、レラはカリオンを心配するように頬を舐めるのだった。零れ落ちる涙を舐め取りながら『もう泣くな』と語りかけるように。


「これからきっと、君はこんな経験を幾つも重ねる事になる。難しい立場を経験し、難しい決断をし、誰かが泣く事になるよう命じる事になる。だが、それにより救われる者も出るだろう。君の判断と決断が必要になった時、君はそれに責任を負わねばならない……」


 そんな時、ドサリと音を立ててレラの首が馬房に落ちた。力が抜けて、これ以上起こしてられなくなったのだ。それでもレラはカリオンを見ていた。心配そうな目でジッと見ていた。


「レラ…… 長い間ありがとう」


 カリオンの言葉にレラが小さく声を漏らした。

 嘶いたのとは違う、不思議な声だった。


「レラ……」


 もう一度ギュッと抱き締めたカリオン。その耳に、あのノーリの鐘の音が聞こえた。まるで祝福するような鐘の音だ。そして、カリオンの目の前が真っ白に光り、その光の中に祖父シュサが愛馬バルケッタに跨って現れた。帝王シュサ最後の愛馬バルケッタはレラの母だった。


 ――――エイダ レラを連れて行くぞ


 ノーリの鐘が歌う向こうにシュサの声を聞いたカリオン。

 歴代の太陽王は牝馬を愛馬とする事が多かった。


 ――――シュサじぃ


 驚いてシュサを見上げたエイダ。

 シュサは優しい声で言った。


 ――――エイダ お前はお前が護れるものを護れ


 エイダは静かに頷いた。


 ――――レラ…… 行くぞ……


 エイダが両手で抱きついていたレラはスクリと立ち上がり、母バルケッタと共に歩き始めた。眩い光りの中へシルエットになって消えていくレラは最後に振り返り、気分上々に長い尾毛を左右へ振って嘶いた。

 

 ――――レラ…… また会おうな……


 光りの中へ消えていくレラとシュサを見送ったエイダ。

 だが……


「カリオン。 ボケッとしている暇はないぞ」

「はい。ですが……」


 涙を溢れさせていたカリオンだが、いつの間にかその涙は止まっていた。

 そっと慈しむようにレラの首を馬房へと降ろしたカリオンは、自らの首に巻いていた士官候補生のスカーフをレラの顔へと掛けた。

 僅かに残っていた呼吸がスカーフを揺らしたのだが、やがてその動きも止まりはじめ、そして……


「レラ 長い間ご苦労だった」


 一歩下がって背筋を伸ばしたカリオンは、グッと奥歯を噛んでレラへと敬礼を送った。その途端、馬房のアチコチから馬の嘶きが一斉にわき起こった。


「……そうか」


 獣医はもう何も言わなかった。


「申し訳ありません。レラをよろしくお願いいたします」

「わかった。軍馬塚へ葬らせてもらうよ」

「よろしくお願いします」


 深々と頭を下げたカリオンはまっすぐに馬房を出た。伝令として付いてきていた一年生がその後に続いた。まるで自分の胸を抱くように外套の襟を立て、臑が半分も埋まる雪を蹴るようにしてカリオンはまっすぐに歩いた。すぐ後ろを歩いた一年生が驚くほどにまっすぐな足跡を、降ったばかりの雪面に残して。


「君の馬はまだ若いかい?」

「はい! まだ5歳であります!」

「そうか」


 不意に足を止めたカリオン。その頭上へ一年生は傘を差し掛けた。


「雪ならば傘は要らぬ。すまないな。先に言うべきだった」

「……いえ」


 言葉を失った一年生が黙ってカリオンを見ていた。

 その視線に気が付かないわけでは無いが、それでもカリオンは厩舎を振り返る事が出来なかった。振り返ればそこにレラが居るような気がしたから。


「馬も人も。守れるものならば守らねばならない」

「はい!」

「規則は大事だ。だが、もっと大事な事を忘れちゃいけない」


 しんしんと降る雪に滲み、ビッグストンの灯りにはボンヤリとした暈が掛かっていた。その灯りを見上げながらカリオンは呟いた。


「どんな理由があるにしろ、守ってやらねば……」


 悔しさに涙を流したのだと一年生は考えた。そしてカリオンの頭上にもう一度傘を差し掛けた。


「閣下。雨のようです」

「……そうだな」


 ひとしきり立ち尽くしたカリオンは再び歩き出した。

 何処からか、心配そうに見ているレラが居るかも知れないと思いながら……


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