闇の中
~承前
墨を流したような闇の中、キャリは腕を組んで彼方を睨んでいた。
鼻を摘まれても解らないと言う程の闇だが、イヌの鼻には臭いが見える。
――――ん?
キャリの鼻に捉えられた臭いは、何とも表現しようのないものだった。
生物が放つ臭いとは到底思えないが、少なくともそれは服を着ている。
――――なんだ?
それは確実に夜風の中に紛れ込んでいて、しかもすぐ近くにそれが居る。音を立てず気配を感じさせず、闇の中をまるで風の様にスッと移動している。敵意や悪意を感じさせ無いが、少なくとも安全な存在では無い。
「なぁ……キャリ……」
どうやらタリカもその臭いを嗅ぎ付けたらしく、怪訝な顔になってキャリを見ていた。川の反対側に獅子軍の陣地を見下ろす高台には、ル・ガル軍の戦線本部が置かれていた。
「あぁ……」
やや懸念を示すような声音になって相槌を打ったキャリ。タリカは無意識にララの背後に立った。攻撃してくるなら背後から来るのが定番だと思ったからだ。
ル・ガル軍団の攻勢開始まであと半刻。各軍団は攻勢開始点へと散開し、本部にあるのは統合参謀本部の面々と情報部の連絡員ばかり。各軍団とは光信号を使った統制が行われていて、基本的には敵に見られても仕方が無いと言うスタンスだ。
だが、モールス信号的な暗号化されたやり取りは、すぐに解析することが難しいはず。長短二種類しか無い二進数化した信号を言語に再変換するのは、熟練した通信員でも多少の時間を要するのだった。
「状況は変わらず。半刻後に照明弾を撃ち上げる。各軍団はそれにそって行動開始だ。所定侵攻点まで前進し、連絡を待って貰う」
キャリの指示に通信員が了解を返し、同時に発光信号が短い瞬きのような光を五連打で3回放った。作戦通りを示すものだが、今度は各軍団から三連打が3回返ってきた。
諸事了解を示す受信確認信号は、単純だが確実な情報のやり取り完了を示す重要なもの。それを見て取ったキャリは砲兵に照明弾の装填を命じた。完全な暗闇の中とは言え、僅かな明かりを灯した各砲座は砲撃の準備を完了したらしい。
小さな声で『行けるぜ』とタリカが漏らす頃には、半刻が経過していた。キャリは静かに首肯し、同じく小さな声で『状況を開始する』と告げた。秋の訪い作戦発動の時間だった。
「撃てッ!」
タリカは鋭い声音で叫んだ。ソレと同時、漆黒の闇を砲火が照らした。12門の野砲が同時に照明弾を広範囲へ放ち、一斉に点火した砲弾は眩い光を放ちながら闇を追い払った。
それと同時、川のこちら側に展開していたアッバース歩兵が一斉に突撃を開始した。闇の中で叫ぶ蛮声は一時的に恐怖を麻痺させる効果があるもの。そして、いきなり砲声を聞いた敵の耳に届くそれは、パニックを引き起こす。
「照準修正! 500リュー前方へ遷移! 仰角最大で着地時間を稼げ!」
タリカの砲修正指示に砲兵が機敏な動きをみせる。素速く砲のセッティングを代えた後に、再びの照明弾が装填された。各砲から『次発装填良しッ!』が返ってきて、タリカは一瞬の間を置いてから『撃てッ!』と叫んだ。
再び照明弾が放たれ、そろそろ眩さを失い始めた最初の弾をも照らし出した。だが、その証明で浮かび上がったのは獅子軍側の醜態だった。我先にと逃げ出し始めた彼の軍団構成員は、半ば丸腰で夜の闇へと躍り出ていた。
「……一端後退する腹だぜ」
タリカは獅子軍の魂胆をすぐに見抜いた。照明弾の照射範囲から逃げ出し、夜の闇に紛れ込んで反撃する魂胆なのだろう。だが、その全てが想定の範囲であり、キャリは『照準修正!』とタリカに対処を指示した。
「解ってるって。照準修正!再び500リュー追加! 拡散範囲第3水準!」
最初の砲撃点から大幅に前進した辺りへ照明弾が放たれた。それと同時、更なる光が闇夜を照らし始めた。闇に潜んでいた獅子軍の兵士が浮かび上がり、再びパニック状態になりつつあった。
ただ、この辺りから双方の兵士が削りあいを始め出す。アッバース兵は闇夜の中に散開した歩兵が各個射撃を開始した。装填済みの銃を構え、狙いを定めて撃つ。射撃後にはその場に片膝を付き、再装填を行って再び走り出す。
それを繰り返しながらの前進は、まるで火を吹く津波の如き威力だ。そこに立ちはだかった敵兵は凄まじい勢いで十字砲火を浴びた。アッバース歩兵約10万の散開突撃は獅子軍側に一時的な反撃能力の消失をもたらすのだった。
「順調だな。けど、そろそろ注意しないと」
ぼそりと漏らしたキャリは、勝ち過ぎへの警戒感を示した。調子に乗って躍進距離を伸ばしすぎれば指揮系統が伸びきってしまう。その結果として敵に反撃の糸口を与えてしまうのだ。
ごくごく当たり前の事だが、実際に勝利を重ねている時には誰だって認知バイアスに陥り見落とす事が多い。それはどれ程のベテランでも犯す典型的なミスだが、更なる戦果が目の前に有るにもかかわらず撤退する事は心理的に難しくある。そんな中で見つける妥協案は『行けるとこまで行ってみよう』となる。
解っていながら誰もがそれをやってしまう。ダメになったら後退戦に移れば良いし、勝ち戦のど真ん中では、最大戦果を確定させるべく武勇争いや手柄争いを始めてしまいたくなるのが武人の性だ。
しかし、進退窮まった時とは後退も出来なくなっている状況だ。後退出来る場面では進むことも出来るからだ。それ故か、その前に前進を断念するのは酷く勇気を必要とするもの。
まだ行けたのに……と、後になって笑われる事を覚悟の上で安全なうちに手仕舞いを選ぶのは、ベテランでも相当に難しい。故に敗北の苦渋を知るベテランは、傍から見れば臆病にすら見えてしまうのだった。
「まぁ歩兵はこの辺だな……けど、流れには乗るものだぜ。後退する獅子軍側は騎兵で追い立てよう。こんな時の為にキツネもネコも連れて来てねぇんだし」
タリカはさらなる追撃を提案した。日中の作戦説明で夜襲を提案した際、キツネもネコも闇夜における同士討ちを恐れて不参加を選択していた。だが、ある意味でそれはキャリとタリカの想定内だ。
むしろ、指揮命令系統が独立する複数の軍団を同じ敵に当たらせるのは危険が伴うので、出来れば避けたいと言うのが本音。仮に彼らが参戦するとなれば、前述の理由でル・ガル軍に分散参加しろと提案するつもりだった。
「……まぁ、ある意味じゃやりやすいよな」
キャリは手短にそう答えると砲兵に装薬の増量を指示した。新式の500匁砲は最大3ケまで火薬袋を装填できる。この場合の射程距離は実に5リーグ。約20キロに達する筈なのだが……
「……2つにしとこうぜ。試射なしにいきなりはさすがにおっかねぇ」
タリカは最大装薬をやんわりと拒否した。それもその筈で、500匁砲の最大装薬砲撃は一回も行ったことが無かった。計算上は耐えられるとヒトの技術者は胸を張ったが、一度身体を吹っ飛ばされているタリカは嫌がった。
「……だな」
タリカの本音も透けて見えるが、それ以上に熟練の砲兵を失うのは痛い。それ故に慎重な対処が望ましいのだからキャリもそれには同意した。ただ、そうは言ってもパウダーパックのダブル砲撃は凄まじい衝撃を辺りにまき散らす。
地響きを立てて放たれた照明弾は従来の2倍近い高度まで上昇し、より広範囲に光をまき散らしながら落下していった。地上到着時間が伸びたなら再度の射撃もおこなえるもの。
事実、照明弾の焼数が増えた結果、闇は更に追い払われて地上が丸見えになりつつあった。だが、そこに見えるのはため息をこぼさざるを得ないものだ。
「まさか……あそこまで逃げてるなんて……」
ララがため息を漏らしたのも無理はない。観測点の丘の上からレンジファインダーで見れば、獅子軍の大半が雲の子を散らすように闇夜を走っていた。そんなところへ突撃ラッパが鳴り響き、ドリー率いるル・ガル騎兵の主力が飛び出した。
その直後、大河イテルの上手へボルボン銃騎兵が出発していき、下手の方へはレオン家騎兵が同じように出発していった。3つに分かれたル・ガル最強戦力は馬上にあって銃を構えるドラグーン騎兵だ。
「これさ……」
キャリがぼそりと漏らすと、その背後に居た参謀の一人が応えた。ライトハイザーと言う名の老参謀は、厳しい表情になっていた。
「間違いなく誘い込まれていますね」
すでに白髪交じりとなった参謀は、顎をさすりながら状況を眺めていた。ル・ガル騎兵の足は驚くほどに早いが、先に逃げ出した敵兵はそれなりに距離を稼いでいるようだ。
砲兵の射程圏内から脱出するのが目的なのだろうが、実際の話として野砲の射程は20キロに達する。そうなった場合、当たるか当たらぬかは別として、少々走った程度で逃げ切れるモノでは無い。
そして、やはり騎兵の速度は絶大だ。チマチマと出始めた獅子軍の戦死者は徐々に増え始め、気が付けば一方的な戦果が上がった。戦況を見つめるタリカの表情は曇り、ララは怪訝な顔でそれを見ていた。
「良く……ねぇな」
「そうね」
ふたりがそう漏らすのも無理は無い。騎兵達の馬は消耗し、鞍上の騎兵はなんとなく躍進を控えるようになる。理屈や戦術と言ったものではなく、ただ単純に思うのだ。『罠だ』と。
「突撃を停止させよう。川の反対側へ拠点を前進させる。何も無いところだが工兵には観測台の設置を依頼することにする。とにかく……一旦足元を固めよう」
キャリはそう決断し、吶喊した各軍団へ前進停止の指示を出した。慎重な前進をせねば足元を掬われると感じたのだ。故にここでは尺取虫のような前進を選択することにした。
欲を掻かず、大勝を狙わず、謙虚に小さな勝利を積み上げる。そしてここでは、大河イテルの川向かいにあった獅子軍拠点を完全に制圧することを選んだのだ。
「このまま朝まで警戒態勢を維持。全員気を抜かず頑張ってくれ」
キャリの指示が飛び、光信号により前線全員がそれを受け取った。何を今さらという気もするが、戦線における指揮権をいつの間にかキャリが握っていた。
「賢明です。欲を掻くより確実な結果を手にしましょう」
ライトハイザーと共に状況を見ていたアジャン中将がそう評価した。かつてカリオンと共に駆け回った歴戦の騎兵士官は騎兵心理をよく解っていた。馬を労り英気を養わせる事が重要なのだ。
キャリはその言葉に首肯して応え、タリカは砲兵に砲の整備を命じていた。暗闇の中にランプが持ち込まれ、戦線本部に初めて明かりが灯った。その光を使い戦況台へ状況が書き込まれる最中、キャリははと気が付いた。
――――臭いが消えた……
先ほどまで感じていたあの妙な臭いの元が周囲から居なくなっていた。どこに消えたのかは解らないが、少なくとも近くには居なかった。
――――明るくなってから調べさせよう……
そんな事を思うキャリだが、その前に重要なのは忘れないと言う事だった……
同じ頃。前線本部の置かれた丘の上から2リーグ近く突出していたレオン家の陣営は前進を停止し、応急的な騎兵拠点を構築して再前進に備えた。後続の騎兵が持ってきた水を馬に飲ませ、騎兵士官たちは集合して指示を待った。
「大佐」
士官が集合する中、ポールはジョニーをどう呼ぼうか考えて、結局はそんな呼び名にした。だが、それを聞いてニヤリと笑ったジョニーは、幾度か首肯しながら馬を寄せた。
「ここは上手く振る舞っておこうぜ。明日の朝までは多分……何も無いと思うが」
何かしら根拠があってそれを言ったのだろうとポールは思うのだが、その中身が全く想像出来なかった。ただ、言われたとおりにそれをするだけだ。士官全員の耳目が集まるなか、ポールは気後れすること無く指示を飛ばした。
「全員警戒態勢で戦列を作成。突発的な攻勢は面で受けて後退しよう」
ポールの指示は単純で解りやすかった。同じ様な対応を各軍団それぞれが行い、アッバースの歩兵陣は各所で拠点を構築し、いつでも全方向へ防御射撃出来る体制を整えた。
「これで良し。本部へ連絡を」
ポールの言葉を聞きながら、ジョニーはジッと暗闇を見ながら思案していた。この暗闇の中にどんな悪意が潜んでいるのか解らないが、とにかく妙な視線を感じるのだ。
――――何かが居るな……
それが何かは理解出来ないが、先ほどから妙な臭いを放つ存在が居るのをジョニーの鼻が捉えていた。どこかで嗅いだ臭いなのだが、それが何処だかは一切思い出せなかった。
ただ、その臭いには少なくとも敵意と悪意を感じるのだ。となれば対応するべき行動は一つ。夜襲を警戒し臨戦態勢を維持する事。そして絶対に気を抜かない事。油断こそが死への最短手なのだから。
「若旦那。危険だが火をおこそう。焚き火をして辺りを照らす。全員炎に背を向けて待機するんだ。暗闇に目を慣れさせておこう」
その闇は危険だ。そう結論付けたジョニーは十分な警戒態勢を敷いて朝を待つ事にした。レオン家の面々も消耗しているとはいえ、その意を汲み取って機敏に動いていた。
何せ周辺には他の公爵家軍団が展開しているのだ。手柄争いや武勇争いをするつもりはないが、嫌でも比較されてしまうだろうし競争心が芽生えてしまう。次期王の見つめる眼差しがこちらに来るようにするには、手際よくするのが大切だ。
――――さて……
――――根気勝負だぜ……
そんな事を思ったジョニーだが、ポールは全く違う解釈をしていた。
「大佐。辺りに捜索隊を放って偵察させようと思うが……どうだろう?」
露骨に功を焦っているポールは行動し続ける事を選択した。ジョニーは一瞬考えてしまったが、ここで失敗させる事も重要なのかも知れないとも思った。何事も場数と経験だ。
手痛い失敗の中から成長し、厳しい叱責を糧にする経験もまた将来の導きとなる筈。だとすれば、ここはやはり……
「行けというなら俺が行くが、どうする?」
考えさえ、決断させ、責任を取らせる。人が成長する要素は、突き詰めればこれしか無い。決断と責任の伴わない思考では、どうやった所で成長などあり得ないのだから。
「……解った。じゃぁ行ってください。人選は任せます」
ポールの決断に短く『承った。御館様』と応え、ジョニーは動き出した。当然の様にロニーが『お供いたしやす!』とついて来て、軽装偵察騎兵が6騎ほど集まった。闇の中に何があるのかは知らないが、確実に暴いてやる……とジョニーは思うのだった。