開かれた戦端
~承前
絶対的な距離の有るネコの国の国境地帯は、ガルディブルクからでは中々様子が伺いにくいもの。こうなると光を使った夜間の報告書を待つしか状況を確かめる手段はない。
「どうだ? 報告は来たか?」
陽もとっぷりと暮れた夜の城内でカリオンはラフな格好のままに寛いでいた。
ただ、その表情は硬く、遙か彼方の戦況に気を揉んでいるのが見て取れていた。
王の私室で茶など嗜んでいるが、その心は常に戦場を案じていた。
「いえ、まだ報告は上がってきていません」
城の通信班に確かめたウォークは、首を振ってそう応えた。どこか心ここに有らずな雰囲気だが、少なくともこれについては原因が分かっている。
「……そうか。まぁ、吉報にしろ、そうで無いにしろ、気長に待つしかないな」
薄く笑みを浮かべその場を後にしたカリオン。ウォークの気は既に自宅へと向かっているのだろう。城下の大きなアパートに移ったのは、年明け早々の事だった。今だ官房長官公邸が完成していないので、当面はそこがウォークの愛の巣だ。
「では、とりあえず明朝まで様子を見ていましょう」
「……それは余が直接見ているから構わん。早く家に帰ってやれ」
ウォークに遠慮無くそんな言葉を吐いたカリオン。今頃アパートの一室ではクリスティーネが夕餉の仕度をして待っている筈。ボルボン家当主の留守居役として公爵邸に詰めているが、夜にはアパートへと帰ってきている筈だ。
あれだけ惚れ込んでいる女なのだから、仕事で束縛し続ければ槍でも持って城に飛び込んで来かねない……
「そうですか」
困った様な顔になって笑っているが、正直に言えばウォークだって満更では無いのだ。今まではただ眠る為だけに帰る場所だった家が、今は帰って寛げる場所になっていた。
「さっさと帰ってやれ。妻は鬼にもなるものぞ」
カリオンの言葉に『では』と一礼してウォークが帰っていった。だが、その後ろ姿を見つめているカリオンは、そこに言葉にならない違和感を覚えていた。あのキツネの精神作用にやられているかも知れない。
――――どうしたものか……
思案に暮れているカリオンだが、そこにふと言葉が降り掛かりカリオンは現実へと帰る。だが、正直に言うならば帰らざるべきだと思う事態がそこにあった……
「で、誰が鬼ですって?」
ニコニコと笑いながらやって来たのだサンドラだった。その一段後ろ隣にはリリスが居て、ふたりして腕を組んでカリオンを眺めているのだ。瞬間的に『ヤバイ』と思うものの、その直後に『あっ!』と小さく漏らした。
「リース! 良い所に来た。こっちへ!」
私室の中に幾人かのメイドが居た関係の、カリオンは咄嗟にリリスでは無くリースと呼んだ。だが、その表情を見れば何かが起きたのだ……とふたりはすぐに気がつく。
その辺りは段々と阿吽の呼吸が成立しているようで『なにか暖かい飲み物を人数分』とサンドラが指示を出した。王の私室へ入っていたふたりのメイドが部屋を出ると、リリスは怪訝な顔でカリオンへと近寄った。
「どうしたの?」
良い所に来たと言った以上、何かしら能力を必用としているのは分かる。だが、能力をどう使うのかについては一切想像が付かない。余り良い事じゃないとは思うものの……
「まだあの鈴の音は聞こえるね?」
真剣な表情で確認したカリオン。
リリスは『もちろん』と返答し首肯を添えた。
「ウォークは何者かに操られている……どうだ? 鈴は聞こえるか?」
一瞬だけ黙ったリリスは怪訝な表情になって首肯を返した。
その表情を見れば鈴の音のボリュームまで想像が付いた。
「ウォークを操っているのは男だ……これは?」
真剣な表情で続くやり取りにサンドラまでもが怪訝な顔になっている。しかし、そんなモノを一切無視し、カリオンはリリスだけが持つウソ発見器の能力を使い続けた。リリスはもう一度首を縦に振った。
「これで最後だ……ウォークを操っているのは、妻のクリスティーネだ」
その最後の質問に対し、リリスは首を振らなかった。鈴の音が聞こえなかった以上はそれが真実だ。つまり、ウォークの心が乱れているのは、娶ったばかりのクリスによるもの……
それを見て撮ったとき、カリオンはひどく悪い顔になってニヤリと笑った。ウォークを操っているとはつまり、妻の尻に敷かれていると言う意味だ。そしてそれは、夫婦関係が順調である証でもある。
「どうしたの?」
怪訝な顔で真相を求めたサンドラ。リリスも不思議そうな顔になっている。そんなふたりをソファーへと座らせ、カリオンは私室の外を確かめてから切りだした。
「ネコの国と獅子の国の国境での小競り合いだが、思いの外に彼らの行軍が早い。その対処を思案していたのだが、どうもウォークの受け答えがおかしかった……と言うか、そうだな。思いの外に他人事のようなものでな。もしやあのキツネに操られているのでは?と思ったんだよ」
あのキツネ。その一言でサンドラもリリスもカリオンの危惧を読み取った。人の心に作用する能力を持つというキツネの場合、思わぬうちに悪い方へ悪い方へ誘導されている可能性があるのだ。
そして、他ならぬ太陽王の側近中の側近として存在しているウォークを狙い撃ちにした場合、予想外の結果を引き起こすかも知れないのだ。カリオンは絶対の信頼を持ってウォークをそばに置いている。そんな存在が影響を受けているとなれば、その被害は計り知れないものになる。
「なるほどね。けど……」
何かを言おうとしたリリス。だが、その前に城の通信班が機密書類の束を持って私室に飛び込んできた。彼らには入室の許可を与えていないはずだが……
「君らなぁ…… 決まりは守ってくれんと余にも『お叱りは明朝に承ります。まずはこちらをご一読下さいませ。緊急通達です!』
上ずった声で差し出されたその書類は、酷く乱れた字で書き殴られた速記状態のものだった。だが、それを清書する前に王の元に持ち込んだ理由は、読めばすぐにわかった。
サッと速読した後で天井を見上げ『バカな…… そんなバカな…… ありえん』と熱病のように漏らしたカリオン。そのまま私室の中をグルグルと歩いて思考を整理し、対処を思案している様子だった。
「拙い事態でしょうか」
サンドラが控え目に尋ねた時、カリオンは緊迫した表情になって首肯を返した。その直後、左手を腰に添え、右手で額を隠すようにしながら再び天井を見上げた。遠い日にゼルがよくやっていた難問を思案するフォームだった。
――――血は争えない……
そんな事を思ったリリスだが、その前にカリオンは一つ息を吐き通信班の士官に口頭で指示を飛ばした。
「西へ向かっているジムに不眠不休で向かえと指示を出せ。自体は緊迫している。ジャンヌとフェリペがネコの国軍に包囲された。獅子の国の指示だろう。夜を徹し西進を続けよと伝えよ。そして――
カリオンが言葉を続けようとした時、部屋の中にパッと眩い光が射した。一瞬だけ目を焼かれたカリオンは、条件反射的に近くにいた通信士官の短剣を抜き取り、腰を落として構えた。
だが、その目が視力を取り戻した時、部屋の中に居たのはキツネの忍者だった。あのキツネの国の都近くで幕屋に現れた存在。七狐機関と呼ばれる九尾のキツネたちの手足となる存在だった。
「大変なご無礼を働き申し訳ございませぬ。火急の事態に付き九尾を取り仕切る葛葉御前様の命により参りました。太陽王陛下の居城は我らにも出入りし難く、斯様な荒っぽい推参にて失礼仕りまする」
カリオンの前で土下座体制となったのは、シモツキと名乗った男だった。
「……久しいな。確か……シモツキと言ったか。いかな要件か?」
カリオンは気を抜かずに要件を問いただした。残心と言うように、気を抜いてしまえば対処が遅れるものだ。魔法防御を幾重にも巡らせてある城の中枢にやって来た以上、どんな事をしでかすか油断出来ないのだ。
「さすれば。葛葉様はネコの国における裏切り行為を事前に察知され、手前と同じ巫女連の僕を幾人も送り込んでおられます。その中でネコの国より如何なる手段を使っても公爵家の両人を守りぬくと言質を取ったとの事にございます」
……裏切り? 事態を飲み込めないカリオンは、内心で言葉を反芻していた。ただ、事前に察知して人を送り込んだと言っている。そして、ジャンヌとフェリペを護るとのことだ。つまり、その様な作戦をキツネが計画していた部分があるのだろう。
カリオンはそう理解したが、同時にネコが更に裏切る可能性も考慮した。どうもあの種族は場面場面で最適だと思う手段を遠慮無くとる傾向が強い。先々の事だとかメンツとかは一切気にしないのだ。
「なるほど。で、それに対し君らキツネの側は如何なる対処をされるのかな」
ある意味でキツネの本気度を確かめる様な物言いをしたカリオン。だが、シモツキはその言葉に表情一つ変えず、ジッとカリオンを見ながら返答した。慎重に言葉を選びながら、同時に重要な案件を余す事無く吐き出した。
「まず、先ほどからキツネの水軍がネコの国の国境に当たる河口にて上陸を支援しはじめております。現在3万ほどの武士団が上陸を果たし、獅子の国の国軍に横槍を入れておりますれば、獅子の国はネコの城に対し攻め上る事能わず、現在は後退を開始した由にございます――」
ウム……と首肯したカリオン。
シモツキはその反応を見てから言葉を続けた。
「――明朝までに残りの4万が上陸する見込みで、鎮西の防人達は獅子の国との交戦を続けているとの報告であります。現在は彼の国の軍勢を分断し、各個撃破に入ったとの事です」
その言葉が意味するもの。それは、キツネの本気度その物だった。銃が無くともル・ガル騎兵を徹底的に翻弄した最強軍団が、容赦無く大暴れしていた……