全ては狡猾な罠
~承前
――――夢を見ていた気がする……
ポカンとした表情で夜空を見上げていたクリスティーネは、いま目の前で起きている事をどうしても現実だと認識出来なかった。目の前にはどれ程に恋い焦がれたかわからない男が立っていた。
鬼神の如き表情で返り血を全身に浴びたウォーク・グリーンは、肩で息をしながらも敵を睨み続けていた。その手に握られているのは、槍でも剣でも無く短い鉄の棒だった。
「……これで勝負あったとして良いのか?」
低く轟く様な声でそう確認したウォーク。それを聞いた執政官セルシムと法務官アウグストゥスのふたりは、顔を見合わせてからウォークの方を向いて『問題ござらん』『正義は果たされた』と言った。
そして、床に蹲ってカタカタと震えているマクシミリアンは、全身に骨折箇所を作っただけで無く、完全に顎を砕かれ言葉を発せない状態だった。床には鮮血が飛び散っていて、普通では無い事態が起きたのだと雄弁に物語っていた。
「ならばこれで、彼女は自由の身だな?」
念を押すように確かめたウォーク。その言葉が意味するものはすなわち、クリスの身分上の問題だった。獅子の国の法では、奴隷の所有権を巡って争うことも想定し、決闘か金銭的な対価の支払いによる所有権の移動を認めていた。
だが、そんな事を話し合う前に、一方的にマクシミリアンは殴られていた。状態異常になっているクリスについて問いただしたウォークは、もはや誰も止められるような状態では無かったのだ……
――――――――およそ1時間ほど前
「貴様……彼女に何をした?」
まるで地獄の獄卒が誰何するよう、ウォークは敵意と殺意を剥き出しにした状態でマクシミリアンに尋ねた。完全に正体のトンでいるクリスはウォークの声にすらまったく反応していなかった。
最近では城へとやってきてウォークの声を聞いただけで尻尾をフリフリし始めるような状態だった筈なのに……だ。それを見れば、何かしら細工されたとみて間違い無いだろう。
「はぁ? オレの奴隷に何をしようがてめぇに指図される謂れはねぇ!」
小馬鹿にしたような物言いをするマクシミリアンだが、ウォークは手から地を流すもう一人の男に問うた。状況からすれば、その男こそが法務官だと確信していたからだ。
「そこな方。おそらくは法務官かと思われるが、如何に?」
今にも飛びかかってしまいそうなほどウォークは殺気だっていた。全身の毛を逆立てているその姿は、ヒョウの一族である筈のアウグストゥスですらもたじろがせていた。
「然様に。ジェンガン駐在法務官。アウグストゥスと申す」
切り裂かれていない右手を使い、アウグストゥスは礼を尽くした。
迂闊なことをすれば、全てこの場で射殺されかねないからだ。
「手前はル・ガル帝国を統べる太陽王の代理としてこの地に参ったウォーク・グリーンと申す。先の合戦で戦死した獅子の国の兵士から遺品の伝達を預かったのでそれを果たしに参ったが、同時にそこの女性を取り返しにも来ている次第」
最大限要約して事の次第を伝えたウォークは、遠慮することなくクリスへと歩み寄ると、その胸の傷を確かめた。深く抉れた傷が乳房に残っていて、鮮血を滴らせている。
ウォークだって男なのだから、それと話にこの胸の膨らみを見てほくそ笑む事も一切では無かった。だが……
「迎えに来たよ、クリス。ずいぶんと待たせたようだね」
この時ばかりは優しい笑みを浮かべたウォーク。だが、肝心なクリスはまったく反応を示さないでいる。意思や思考を全て奪ってしまう秘薬の効果は凄まじく、ぼんやりとした表情でクリスはウォークを見ていた。
「……クリス? わかるか?」
ウォークの手がクリスの頬に添えられた。
クリスは嬉しそうに微笑むが、おそらく条件反射的なものだと思えたのだ。
……ぶつっ
その場に居た者全てが同じ音を聞いたと後に証言した。
間違い無く、その中庭広場の中に何かが引き千切れる音が響いたのだ。
「もう一度尋ねる。彼女に何をした?」
ウォークの問いに対し、マクシミリアンは『うるせぇ!』と返答した。だが、その直後に彼は何か巨大な物で殴られ、後方へと吹き飛んで地面へと転げていた。激しい痛みと衝撃で驚いたマクシミリアンが顔を上げた時、目の前にはウォークが仁王立ちになっていた。
「私も官僚故に事前通告しておく癖があるので先に言っておく。いいか? 一回しか言わないから良く聞け? お前が喋って良いのは私の問いに対する答えだけだ。分かりやすく言ってやろう。ここから先は聞かれた事だけ答えろ。さもなくば、その都度に『どうするってんだ? あぁ?』
マクシミリアンはチンピラのように精一杯に凄んだのだろうが、その直後に再び強烈な一撃を浴びて右側へと吹き飛んだ。ウォークは手にしていた馬上槍の延長棒を手にしていて、それでマクシミリアンを殴ったのだ。
そもそも馬上槍は馬上にあって取り回しがしやすくなるように短く作ってある。だが、そんな槍を構えて敵陣に突撃すれば、敵側の長槍で突き刺されるのが関の山だった。
その為、多くの騎兵は馬上槍のグリップエンドにスポッと嵌める形のエクステンションキットを持っていた。逆説的に言えば、フルサイズの槍を途中で分割できる構造になっているのだ。
「こうなる。分かったな?」
血の付いたエクステンションは鉄で出来た硬い硬い凶悪な武器だ。刃物を使わずに相手を殴り殺す時には、このエクステンションが役に立つ。事実、その一撃を喰らったマクシミリアンは口中の牙を一本失っていた。
「もう一回聞いてやる。彼女に何をした?」
クリスへと歩み寄ったセリュリエは、懐からエリクサーを取り出すと、クリスの口中へと流し込み、喉をさすってそれを飲ませた。その直後、クリスはガタガタと震えだし、小水をこぼしながら石畳の上でのたうち回って暴れた。
一糸まとわぬ姿であったクリス故に、その姿は何とも奇妙な様子だったのだが、それ以上に不思議なのは、エリクサーの好転反応と呼ぶべき吐瀉物を一切吐き出さない事だ。
「おい、きさま……」
再びウォークは鋭くエクステンションを振り抜いた。鈍い音を立てて鉄の棒がマクシミリアンを打ち抜いた。ボキリと鈍い音がして、どうやら肋骨が何本かまとめて折れたらしい。
「何をしたと聞いているんだ?」
再びエクステンションを振りかぶったウォーク。それを見たマクシミリアンは両手で頭を抱えて『ヒィィィ!』と情けない声を上げていた。だが、結果的にそれは胴の防御を一切捨てる行為だった。
ウォークは遠慮する事無く強烈な一撃を脇腹へとたたき込み、マクシミリアンはブパッと鮮血を吐き出して床の上で痙攣をはじめた。腎臓か脾臓のどちらかが完全に弾けるほどの一撃なのは間違い無かった。
「法務官殿。彼女の奴隷としての立場は成立しているのか?」
ウォークは簡潔にそう問うた。
知りたい事は一つだからだ。
「……明確な拒否の意志がなかったので、こちらの女性は既にこの男の所有する奴隷と言う事になる。ただし、私がソレを確認する前に貴官がここへ来たので、奴隷では無く、その候補という段階だと思われる」
法的にいくらでも解釈の余地がある物言いは、後になっていくらでも揉める要素を孕んでいるものだ。それが分かっているだけに、ウォークは安全策を採るべきだと考えた。
「では、この場にて私が彼女を連れ帰っても問題無いか?」
細かい条件付けを一切出さずにウォークはそう確認した。
交渉の総体全てを包括的に解決する為の文言選択は官僚の本領発揮だろう。
「……まず、我々はこちらの女性に奴隷としての立場を宣言する旨を確認していない。奴隷は自分自身の身分保障を行う者を主人として選んだ事を、自らに宣言せねばならないからだ。だが、彼女は自分の意志を発揮出来る状態になかったので、私は法を預かる法務官僚として、奴隷の身分確認を行っていない……と断言する」
その言い回しがどんな問題を孕んでいるのか。ウォークは咄嗟に全体像を掴み損ねた。睡眠不足と疲労と、何より精神の激昂がそれを阻んでいた。だが、それでも積み重ねてきた経験の分だけウォークも老練だ。
「では、ここで彼女を連れ帰る為に何が必要か?」
最後の一押し。
ウォークはそう考えたのだ。
「奴隷の立場では無い……と、荘園領主に認めさせれば良いと思われる。奴隷も財産であるからして、主人に断り無くそれを持ち去るは窃盗だからだ」
それを聞いたウォークは、再びフルスイングでマクシミリアンを殴りつけた。鈍い声を漏らして痛みに耐えたのだが、その後も執拗にウォークは殴り続けた。鈍い音を発して全身の骨を砕かれ続けたマクシミリアンは『勘弁してくれ』と懇願したのだった。
「……これで勝負あったとして良いのか?」
小一時間に亘って殴り続けたウォークは、ゼェゼェと激しく息をしながらそう言った。法務官と執政官の二人はそれを了承し、ウォークはクリスの首枷を破壊して彼女を解放した。
「……ウォーク……さま」
激しく痙攣し続けたクリスは、僅かに正体を取り戻し掛けていた。そんなクリスを抱き締め、『さぁ、帰るよ』と抱きかかえた。自分自身が裸である事を理解していないクリスは、ウットリとした表情でウォークに抱きついていた。
正体を破壊してしまう秘薬により、羞恥心や自己抑制の全てが外れている状態のクリスは、今にもウォークをむき身にして房事に耽りそうですらあった。
「いずれにせよ、彼女は連れて帰る。この女性は……手前の妻にて、奴隷に非ず」
そう言い残してウォークはその場を去る事にした。ル・ガルの騎兵団や銃兵達がゾクゾクとジェンガンの街を離れていくのを見ながら、セルシムはアウグストゥスと顔を見合わせていた。
「シンバの慧眼には恐れ入るな。セルシム」
「……全くだ。全ては陛下の掌上にある」
ウォークが連れ帰った戦利品扱いとなるル・ガル市民合計25名だが、獅子の国から見ればそれは間違い無く戦利品であり、獅子の国の市民の財産なのだった。
「あんな愚か者にも使い道があるのだな」
「あぁ。ワシも勉強になった。さぁ、忙しくなるぞ……」
セルシムとアウグストゥスが再び顔を見合わせてニヤリと笑う。
全てが罠だったと言う事を、ウォークは気付く由も無かった……