ただの文章は身を護ってくれない
~承前
ノブレス・オブリージュ
貴族に課せられた不文律の義務と解釈するそれは、貴族に認められた特権を担保する義務と解釈される。そしてそれはいかなる場面であろうとも、たとえ自らの生死が掛かっていようとも、それを実行することを求められている。
イヌの歴史そのものであるボルボン家に生まれた時から、クリスティーネにとってそれは当然の事だった。空が青い事を、降り注ぐ日差しが眩い事を誰も不思議に思わない様に、クリス自身もそれについて疑いもしなかった。
その結果として生じる如何なる不利益や不都合の全ては、自分自身が普段から特別扱いされている事の代償でしかない。『立派な貴族』はそれを拒否することも回避することも行うべきではない。
他ならぬボルボン家の一員である以上、これは当然の事。ル・ガルの公爵家にあって家名を名乗るならば、次女や麾下にある者を守るのは当たり前の行為。ただ、それを飲み込むべきクリスの精神は完全にトンでいた……
「……ポリス・キーウィタース・マクシミリアン。そなた、自身の行いを恥ずかしいと思わないのか?」
声を震わせながらアウグストゥスは言った。これは、こんな事は認められるべきではない。栄える獅子の国にあって、法と秩序を護る為に存在している法務官は、時には執政官の権限をも制限できるほどの権力を持っている。
それが何の為にあるのかと言えば、すなわちそれは市民の為であり、市民が持つ財産を護る為であり、市民が身元引受人として預かる奴隷たちを護る為だ。そしてそれは社会の不安や軋轢を生まぬ為の知恵。
社会の安寧を乱す騒乱や暴動を起こさぬように、社会の中にある悪意や犯罪の芽を早めに摘み取り、もって社会の安寧と安定を未来永劫にわたって享受する為。その為に法務官は強い権限を与えられているのだった。
「プエラトル・アウグストゥス。アンタの便宜を幾度も図ってきた筈なのに、その言い草はねぇんじゃねぇのかい? それとも何か? 今の今までアンタがあのシンバとやらに送っていた税の全てを今ここで返してくれるっていうのか?」
マクシミリアンの言葉には、貴族の義務も気概も何もなかった。ただただ、金儲けに秀でていて、銭を集め生み出す才に恵まれただけの男。人を騙そうが謀ろうが関係なく、何よりまず自分が儲けることが大事な男。
そしてその結果、この辺境に送り込まれた中央からの執政官や法務官ですらも、銭の力で取り込んでしまってきた。厳しい環境故に国軍であるレギオーや補助軍アウクシリアの維持運営ですら出来なかったふたりを経済的にバックアップした。
その結果、ジェンガンの街を中心とする辺境地域に広大な荘園を持ち、その地域で『産み』出される様々な産品をマクシミリアンは武器とすることに成功した。辺境地域でミニ・シンバ的な振る舞いをするに至ったのだ。
「アンタの持ってる法務大全とやらには書いてあるそうじゃないか。約束は守られるべきだって。違うのかい?」
そう。全ての法務官にとって、神とは法務大全を意味する。それは、獅子の国を縦横に結びつける紐であり、数多の種族を繋ぎ止めるロープだ。どんな種族民族であろうと、等しく法による支配を受ける国。
法の前に全てが平等である国だからこそ、獅子の国はここまで繁栄してきた。そして、獅子の国の外に圧政に苦しむ民衆があれば、獅子の国はそこへ軍隊を派遣してきたのだ。
自由と平等の精神を持つ法の支配するエリアを拡大していくこと。これこそが獅子の国の存在理由。市民達がそれを熱狂的に支持している理由。ただ、その課程の中で取り込んできた様々なものが、今になって限界を迎えようとしていた。
「そなたも法務大全を知っているなら話は早い。その表紙に何と書いてあるのか。知らぬはずが無かろう」
アウグストゥスは苦虫を噛み潰したような表情で言った。だが、それを聞いていたマクシミリアンはせせら笑う様な表情になってアウグストゥスを見た。相手をなめてかかる表情には、多分に小馬鹿にするような侮蔑の意図が見えていた。
「知らないなぁ どれ、無学な俺にも分かるように説明してくれよ」
ケケケと下卑た笑いをこぼしつつ、マクシミリアンはそう言った。ただ、覚える気など無いことは今さら言うまでも無い。要するに、聞いてやるから言ってみろと嗾けているだけ。
それが嫌と言うほどに分かるだけに、アウグストゥスはプルプルと髭を震わせながら屈辱を飲み込んだ。そして、奥歯をグッと噛んで一つ息を吐いてから、極力抑えた声で言った。
「正義はなされよ、たとえ天が堕ちるとも……だ」
グッと鋭い眼差しでマクシミリアンを睨み付けたアウグストゥスは、ヒョウの一族が持つ美しい毛並みを包む法衣を整えてから、もう一つ息を吐きだした。そこに垣間見えるのは、覚悟を決めた男の悲壮な表情だった。
「万民を護り慈しむ事が法の根幹だ。そなたが行っている事は法に触れる」
その言葉と同時、アウグストゥスは身を包んでいた紫の法衣を脱ぎはじめた。そして、穏やかに振り返り、その法衣をクリスの首枷の上に掛け、裸姿を隠すように覆った。
「おいおい。誰がそんな事をしろって言ったんだ。せっかくの絶景が台無しだぜ」
ヘヘヘと下卑た笑いを漏らしたマクシミリアンだが、そこには少々不機嫌な要素が紛れ込んでいるのが垣間見えた。ただ、その言葉を聞いて再び振り返ったアウグストゥスの表情を見た時、マクシミリアンの顔から下卑た笑みが消えていた。
ヒョウ。それはライオンと並んでサバンナの支配者と言うべき獰猛な獣だ。その鋭い眼差しでグッと睨み付けられれば、サーバル族であるマクシミリアンは一瞬だけ気圧される……
「もう一度言う。正義はなされよ、たとえ天が堕ちるとも……だ。正義とは法そのものである。従って、公正な対応が出来ない状態にある者に宣誓をさせる事は出来ない」
アウグストゥスの言葉を聞いたマクシミリアンは、『ハッ!』と大袈裟に一笑した後で立ち上がり、荘園領主屋敷の中庭中央へとやって来た。そして、正体が抜けきったクリスに掛けられた法衣を剥き取ると、その豊かな胸の膨らみを鷲づかみにしながら叫んだ。
「法が法がってうるせえんだよ! 法がそんなに凄いモンか? え? 法があれば飯が食えるのか? 法があれば誰でも救われる? バカも休み休み言え!」
何がそんなに気に障ったのか。マクシミリアンはやおら右手を振りかぶると、力一杯にクリスの頬を叩いた。その一撃でクリスは横へと吹っ飛び、固い石畳の地面に倒れた。
だが、『おらっ! 今すぐ立て!』とマクシミリアンが発した怒声を聞き、クリスはヨタヨタしつつもその場に立ち上がった。殴られた頬には赤黒い痕が残り、鼻からは血を流していた。
「どうだよほら! 法が守ってくれんのかよ! どうだよ! 言ってみろ!」
今度は手をウチから外へ振り抜くように払い、裏拳側でクリスの殴られた反対側の頬を叩いた。再び吹っ飛んだクリスは、地面の上で呆然としている。そんなクリスの髪の毛を捻り掴み『とっとと立ちやがれウスノロ!』と罵声を浴びせた。
「法がそんなにえれぇならよぉ! 守ってくれんだろ? ほら! 守ってくれんだろうよ! どうなんだよ! ほらっ!」
マクシミリアンの右手が再びクリスの豊かな胸を鷲づかみにした。だが、今度はその指先を突き立て、柔らかな乳房を握り潰すように掴んでいた。当然の様に鋭い爪が尽き立ち、クリスの乳房からは鮮血が飛び散った。
「法だの決まりだのなんてただの文章だろうが! 俺は守られなかったんだよ! その法って奴によぉ! なーんも守っちゃくれなかったんだよ! え? どうなんだよ言ってみろ! 法が守ってくれんのかよ!」
激昂したマクシミリアンは唐突に腰の短剣を抜いた。ただ、ひと一人殺すには申し分ない刃渡りがある刃だ。その短剣をクルリと持ち替え、クリスの胸に向かって一気に突き立てようとした。だが……
「な……」
その刹那、アウグストゥスは思わず左手を伸ばしていた。マクシミリアンの刃はその左手を貫き、尚も押し込もうとした状態になった。ただ、そのごく僅かな合間にアウグストゥスは左手を伸ばしきった。鋭い短剣は進路を外れ、クリスの胸を貫くことは無かった。
「正義はなされよ、たとえ天が堕ちるとも。法を執行する者は、己を勘定に入れず行動すべし。我ら法務官は例えこの命果てるとも、法を守り執行する義務を負う」
マクシミリアンが怒りを露わにした表情だ。だが、それでもアウグストゥスはグッと睨み付けるようにしたまま、冷静な声でそう言った。
およそヒョウという種族の体躯は、ガッチリとした体幹としなやかな四肢から成るものだ。そしてそれは、他の大型種と比べても、決して見劣りする様な者では無く、どちらかと言えば小型種であるサーバルを圧倒する事も容易い。
「……そうかそうか。そこまで俺の邪魔をするか。やっとここまで来たのによぉ」
僅かながら気圧されたのか、マクシミリアンは呟くようにそう言った。ただ、数歩下がって法務官を睨み付けたあと、『じゃぁ、もう仕方がねぇな』と漏らした後で懐に手を突っ込み、何かを取り出した。
「野郎共! 喧嘩支度で出てこい!」
それは、非常事態を告げる笛だった。とにかく甲高く鋭く響く笛が荘園領主の屋敷全てに響き渡った。だが、一瞬の静寂を挟んだ後で聞こえてきたのは、ガチャガチャと鳴る金属同士がぶつかり合う音だった。
一瞬だけ怪訝な顔をしたマクシミリアンだが、直後にニヤリと笑ってから勝ち誇るように言った。
「俺の手下もよく鍛えてあってな。どうやら皆殺しらしいぜ! ザマー見ろ!」
アハハハハハと狂った様に笑ったマクシミリアンは、ガチャリと音を立てて開いた扉を無意識に見た。外からは見えない中庭だけに、何が起きているかは外から窺い知ることは出来ない。
だが、逆に言えば中庭に居て外で何が起きているのかを知る事も出来ないのだ。結果、マクシミリアンは予想外の事態に直面することになった。その扉が開いて出て来たのは、散々買収してきたはずの執政官セルシムだった。
そして、そのセルシムに続きそこへ入って来たのは……
「貴様……彼女に何をした?」
低く轟く様な声を発したのはウォークだった。それに続き、ゾロゾロと入って来たのはボルボン家の騎兵騎士達だった。別の扉からはアッバース銃兵が次々と突入してきて、あっという間に中庭がル・ガル兵だらけになっていた……