潰えた望み
その夜。ゼルとカウリはネコの市民から思わぬ歓待を受けた。同席していたカリオンとジョンも驚くほどの宴席だった。フィェンゲンツェルブッハの町長は、自分の家族と娘までを同伴して出席していた。
「飯盛女と銘酒屋で有名だった街ですが、ちゃんとした酒もあります。遠慮なくやってください」
ゼルやカウリに次々と酒を勧める町長は完全に出来上がっていた。
市民たちも街のカタコンペに隠したワインの樽を開け、イヌの国軍兵士にまでワインを振舞った。
「ところで町長」
「へい。なんでしょう?」
「この街の遊女にヒトがいたというのは本当か?」
「へい、そりゃぁもう、遊び慣れた旦那衆ですとね、ヒトの女は人気なんですわ」
下世話なスケベ親父の顔になった町長は顔をほころばせ、『あんたも好きねぇ』とでも言わんばかりの顔でゼルやカウリを見ていた。
「元々この街はそれで大きくなったようなモンですよ」
「そうか。そのヒトの女達はどうしたんだ?」
「へい。まぁ、色々ありましてね、二十年近く前になりますが、ヒト専門の商人がまとめて買って行きやしてね」
「……まとめて?」
「えぇ。何でも都でヒトの置屋をやりたいとかで集めてたのが居たそうですわ」
「そうか」
盛大に溜息を一つ吐いて、そして町長はゼルを見た。まるで魂までも吐き出すかのようなその溜息に、ゼルだけでなくイヌの男たちは町長の深い苦悩と葛藤を垣間見たのだった。
「でもまぁ最後は盛大に送別会やりやしてね。ネコの国はネコもヒトも関係ありやせん。何処の店だって女たちに路銀を持たせ、檻の馬車ではなく街道馬車に乗ってヒトの女たちは出て行きやした。なかにゃ潰れかけの飯盛宿を建て直すほど稼いだ娘もいやしてね。そんな娘にゃ店の親父と言わず女将と言わず、綺麗な服やら鏡やら色々持たせやして。そりゃぁもう最後の晩は盛大なもんでした。旦那にもお見せしたかったくらいですわ」
僅かに首肯したゼル。
その姿に隠し様の無い緊張が浮かび上がるのをカウリは見ていた。
「で、まぁ、その金で街が綺麗になりやしてね。先月、国軍のおっかねぇ軍人さんがたがお見えになって全部壊せって言ったひにゃぁ、あっしらは後生ですからって散々お願いしたんですが、旦那もご存知の通りな有様でしたよ。ですが、この街をこんなに綺麗にしてもらって、あっしぁ…… あっしぁ……」
ネコの町長は長いひげを震わせてオイオイと泣き始めた。
こういう部分で喜怒哀楽をはっきりと表すネコは、ある意味で付き合いやすい部分があるとゼルも思う。イヌとは違う意味で正直な部分が強く、隠し事をするくらいなら綺麗さっぱり喋ったほうが良いと、洗いざらい喋ってしまうのだ。
「この街の為に死んだヒトの女もたくさんおりやす。そんな娘たちにどうやって詫びようかって、あっしぁ悩んでやす。でも、こんなに綺麗にしてもらったんじゃぁ、あっしぁもうイヌのほうへ向かって足を向けてぁ寝られやせん。ほんとに感謝してるんでさぁ」
町長の目がまるでカミソリの様な鋭利さでゼルを見た。
その眼差しの強さに、僅かながらも気圧されたと皆が思うほどだった。
「ヒトの女はね、本当に義理堅いんですわ。もう二十年もめぇの事ですが、ネコの騎兵さんが来て遊ぶようになった頃、トラおたふくで死に掛けたヒトの女が何人もいやしてね。その中にゃどっから来たか誰も知らなかった女もいたんですが、大概は自分から客を取る様になりやして。で、中にゃめっぽう歌のうめぇ娘もいやしてね、アッチの具合も中々ってなもんで、アッチこっちに呼ばれちゃぁ客を取ってやした。でも、しめぇにゃトラおたふくに掛かって何人も死に掛けやしてね」
非常に怪訝な顔で見ているゼル。その横顔はまるで戦の最中のようだった。ちょっと前のめり過ぎるぞとカウリは思ったのだが、それを言って止まりそうな状態じゃ無い事を、ゼルの表情から悟っていた。
いま、ゼルの興味はある一点に注がれている。それを解っているからこそ、カウリもそれを止められないのだった。
「その女たちは街から出て行って死ぬつもりだったらしいんです。ですがね、街に尽くしてくれた女を見殺しにするってぇのは、いくらなんでも殺生ってもんでさぁ。実は私の女房がね、へそくっておいた銭があるんでなんとかせぇと言い出しやして、しめぇにゃイヌの国まで行って魔法の薬を飲ませようって話になりやして。でも、旦那もご存知かと思いやすが、あの薬は飲んでみるまで効くか効かねぇか分かりやせん。それでもってあっしぁ三人ばか馬車に乗せやしてね」
ゆっくり頷いたゼル。
「さぞ難儀な旅であったろう。エリクサーと言えばわが国でも高価なものだ」
「へぇ、そりゃぁもうね。イヌの商人にぁ足元見られやして、えらい吹っかけられたもんですが」
さきほどまで泣いていた筈の町長は、何が楽しいのかいきなりクククと笑い出していた。そして、まるで自慢話でもするかの様に楽しそうに話を続けた。
「事情を説明しやしたら『そう言うことなら一本分だけ貰えば良い』って言いやして、結局十本買ってめぇりやして、で、その後にヒトの女に使ったって寸法でさぁ」
「そうだったのか。ところでそのヒトの女。名前を覚えているか?」
「忘れもしやせん。お恥ずかしながら、随分とな馴染みになった女でやした。ミーナ。あの娘は可愛い女だった」
「ミーナ?」
「えぇ。今頃どこで何をしてるんだか知りやせんが、随分と器量よしな娘でね。みんなに好かれてやした。今も生きてるなら、もう一度会いてぇもんでさぁ」
「他の女は覚えているか?」
「へぇ、ミーナに……」
町長はそこで一つ溜息をつき、不意に床へ目を落とした。
「そうだ、思い出した。道中で女が一人、死にやしてね。いや、死んだってのはおかしくて、じつぁ色々有りやして、夜盗に追っかけられてたんでさぁ」
「なぜ?」
そんな問いかけをしたゼルだが、その途中、参謀の一人がスッと歩み寄りカウリの耳元に何事かを残して消えていった。話を聞いていたカウリは握った右手を右へ二度廻し、秘密の符丁をゼルへ残して何処かへスッと消えていなくなった。
その符丁は『緊急連絡』だった。一瞬険しい表情を浮かべたカウリとゼル。町長はそれに気が付かず、ワインをグビッと飲んで、そしてまた溜息を吐き出す。カウリが居なくなり、町長の話を聞くのはゼルと側近の他にカリオンとジョニーだけだった。
「さぁ……あっしもそこまでは。ただね、途中まで一緒に来ていたネコの騎兵さんが足止めに必死で戦ってくれやして。で、随分時間を稼いだんですがね、やっぱり夜盗の連中の方が強いんでさぁ。で、いよいよ逃げ切れねぇと覚悟を決めた頃、一番具合の悪い女が…… アチェーロって女ですが、そのアチェが――
その時、ゼルはふと怪訝な表情になった。アチェーロと言う名前に聞き覚えがあったのだ。町長の話を聞きながら必死に思い出すゼルは、ハッと気が付いて思い出した。アチェーロではなくアチェイロ。カウリが保護したと言うヒトの女だ……と。
――『ここで降ろせ』って始まりやして、ここに残って囮になって時間稼ぎするから、その間に逃げろってね。気丈に言うんですわ……」
再び塞ぎこみ落ち込む姿になった町長は、ガックリと肩を落とした。
その沈痛な姿に、感情をはっきりと表すネコの真実をゼルは見た。
「あっしぁ今でも夢に見るんでさぁ。あの時のあの女の、晴れがましい笑顔をね。トラおたふくで、でぇぶひでぇ顔になってやしたが、でも、意味有る死を迎えられたってね。そうだそうだ。ちょうど今夜みてぇに乾いた風の吹く、白い月がカンと冴えた、妙に眩しい夜のこってした……」
「……そうだったのか」
アチェーロはまだ生きている。カウリに大事にされ娘をこさえて生きている。だがこの時、決定的な矛盾をゼルは見落としていた。ワインに酔っていた部分もあるだろう。しかし、見落としてはいけない矛盾だった。
「だけど、やっぱ夜盗のほうが早いんでさぁ。そしたら今度は別の女がね、私もここで飛び降りるって始まりやして。あっしぁ必死で止めたんですが、先に飛び降りた女の犠牲を無駄にしたくないって言い出しやして。いや、泣かせるじゃねぇですか! 銭金目当てでやって来た夜盗ですからね。女が捕まりゃどうなるかは考えるまでもありやせん。あっしぁ必死で止めたんですが、結局もう一人飛び降りやしてね……」
そこで町長はハッと表情を変えた。
「所で旦那さん方。ヒトの男でイワオさんってご存じネェですか?」
一瞬、ゼルとヨハンは顔を見合わせた。
とぼけろとアイコンタクトをしたゼルは町長を見た。
「北部地域でそんな名前を聞いたような気もするが、覚えが無い。そのイワオがどうした?」
「へぇ、じつぁその2番目に落っこちた女にゃ、ヒトの旦那がいたんですよ。紛れもねぇ夫ですわ。ヒトの世界で夫婦だったとかで、こっちへ落っこちる時に生き別れになったとかで。で、女の方のヒトの頃の名前ェはあっしぁ知りやせん。ですが……エ……エ……」
町長はそれからしばらく考え込んで、何度か自分の頭をぽくぽくと叩き、そしてまた考えた。
「どうもいけませんや。最近は物忘れがひどくてねぇ。エ…… そうだ、エルマーだ。エルマー。そんな名前ぇで呼ばれてた女からあっしぁ言付けを頼まれてんでさぁ。器量よしで歌が上手くて、で気の利くいい女だった。気っ風の良い、小股の切れ上がったいい女ってのぁ、ああいう女の事を言うんでしょうなぁ」
言付け……だと?
そんな表情を浮かべたゼルの顔から一切の表情が消えた。
「ほぉ。で、その言付けって言うのは?」
やや震える声で問い掛けたゼルは、少しだけ前のめりになった。その背をヨハンが窘めたのだが、ゼルの耳には他の全ての音が消えていた。
「馬車から飛び降りる時、あっしにね精一杯の笑顔で言いやした『ワタラセイワオに伝えて欲しい。愛してる。今でも。これからも。永久に。あなたと会えて良かった』ってね。いや、泣けるじゃネェですか! ウチの女房なんざ天地がひっくり返ったってそんな事は言いやしませんよ。いやぁ、そのイワオってヒトの男に嫉妬しやす。そんだけ女に惚れられてるんなら、男はもう何もいりやせんよねぇ あたしゃそのイワオって男がどんな男だか知りやせんがね。そいつに会ったら言ってやりてぇんだ。アンタの愛は本物だったってね。女の顔ぁみてりゃぁ、男の中身がてぇげぇ見当作ってモンでさぁ。そうは思いやせんか。飛び降りてすぐに夜盗の馬に踏まれやして…… 惜しい女を亡くしやした。ありゃぁ…… 本当に良い女だった……」
町長の話を聞いていたゼルから表情の全てが消えた。不意に天井を見上げ、一つ溜息をついた。ただ、その溜息は、今まで背負ってきた全ての重荷を吐き出すような、深い深い懊悩の固まりのような、そんな悲痛な色を帯びていた。
「旦那? どうしやした?」
町長の言葉で不意に意識を現実へ引き戻されたゼル。
半ば諦めていたのだが、それでも現実を突きつけられて狼狽える位の希望は持っていた。ただ、本音を言えば九割方諦めていた。これだけ探しても見つからないのだから……と。そう思っていたのは事実だ。
「我が身を振り返ってな、妻からそれだけ愛されているかどうか、ふと不安になったのだよ」
「……旦那もご苦労が多いようですなぁ」
「まぁ、俺の場合は見たとおりだからな。こんななりだ、妻も色々苦労が多い」
ゼルの瞳には、僅かに光る何かがあった。
だが、町長はそれに気が付かず話を続ける。
「で、まぁ、その甲斐あって馬車は無事にイヌの駐屯地へ着きやしてね。医者に見せたらすぐにエリクサーを飲ませやして、そのまま入院って事になりやした。快復したら責任もって送り届けるって話しになりやして、あっしはエリクサーをもってこの街へとんぼ返りしたんですが、結局、帰ってきたのはミーナだけでした」
「だけ? だけとはどういう事だ?」
「へぇ。実は先に飛び降りた女をね、ミーナが見てるんですわ。なんでもミーナが聞いた話じゃどうも薬が強すぎたのかどうかしりやせんが、頭がちょっと拙い事になったらしくて、イヌの駐屯地でなんか事件があったとかで、記憶を無くしたらしいんですわ」
ゼルの顔から一瞬表情が消えた。これがカウリの言ってたリリスの母レイラだと思ったのだ。公式には死んだ事にして、イヌの女をカウリが娶った事にする。機転を利かしたカウリの振る舞いにゼルは感心した。
だが、そんな事は気に留めず、町長は尚も話し続けた。どれ程言いたい事があったのだろうか。だいぶ強かに酔い始めた町長はより一層饒舌になって一晩中しゃべっていく勢いだった。
「ミーナの話じゃ、エルマーは色々あって表に出せなくなったんで、イヌのほうが責任もって面倒見るって事になったそうで、今じゃネコの国でも一角の男のとこで囲われているってはなしでさぁ」
少々大業に首肯したゼル。だが、その姿を見ていたカリオンはゼルの袖を引いて首を左右に振った。『違う違う』と言わんばかりなのだが、ゼルもゼルで非情にショックを受けていたのか、上手く頭が回っていなかった。
普段であれば絶対見逃さない矛盾に気が付かないゼル。町長はそんな事をお構いなしに、一方的に話しを続けるのだった。
「で、まぁ、結局帰ってきたのはミーナだけでしたが、あの娘は最終的に都へ旅立ちやしてね。そっちにヒト専門の施設があって、そこで暮らしてるって話でさぁ。色々勤めがあるってはなしですが、そこにはヒトの男も多いって話でね、国軍の参謀に収まったヒトの男もそこ出身って話ですわ」
「そうだったのか。そなたも危険を顧みず、良く走ってくれたな」
そう慰労したゼル。だが町長は首を振って否定していた。
「あっしぁね。損得でやったつもりはねぇんですよ。ネコは何でも銭金目当てだって言われる事も多いんですがね。それでも、そんな時は損得関係なく事に当たりやす。あっしぁ……」
再び深い溜息を吐いた。
「犠牲になった女にも幸せになってもらいたかった。そんだけなんですわ。他人が幸せになるのをジャマする奴なんてなぁ下衆のきわみってもんですわ。そう思いやせんか旦那」
僅かに頷いたゼルは町長の肩を叩いた。
「全くその通りだな。そのエルマーの伝言。このゼルが確かに承った。イワオという男に伝えよう」
「よろしくお願いしやす。アチェの為に」
「アチェ?」
「あぁ、アチェじゃねぇエルマーだ。すいやせん、でぇぶ酔ってきやした」
「おいおい。しっかりしろい」
少しべらんめぇな口調で町長を叱責したゼル。
町長は木っ恥ずかしそうにそのまま立ち上がって、そして――
「すまんせん。厠へ行ってきやす」
「あぁ。気を付けてな」
ゼルの見送った町長はしきりに首をかしげていた。そんな背中を見送って、ヨハンも溜息を漏らした。テーブルにはゼルの他にカリオンとジョニーと。そして、側近のヨハンだけが残っていた。ゼルは寂しそうな笑みを一つ浮かべてからカリオンを見た。その沈痛そうな表情に、カリオンは父ゼルの心の痛みを感じ取った。
だが、カリオンはゼルの目を見て緊張した面持ちで居た。
「父上。町長の話、変じゃないですか?」
「へん? だと?」
「はい。俺には馬に踏まれて女と飛び降りた女と生き残った女がごっちゃになってるように聞こえました。町長もかなり酔ってますから――
そのまま何かを言おうとしたカリオンだが、ゼルは手をかざし、その言葉を止めた。
「カリオン。そしてジョンも聞け」
「はい」
カリオンはジョンをひじで小突いて注意を向けた。
「至誠天に通ずと言う言葉がある。至誠とは極めて純粋な真心を言い、その精神を持って相手の為に振舞えば、それは必ず人の心を動かすという意味だ。その証拠に、イヌは全く利益にならない街の復興を行って、そしてネコはイヌを歓待している」
ジョンとカリオンは顔を見合わせてからゼルに笑顔を向けた。
若い二人がその通りだと言わんばかりの姿を見て、ゼルは少し安心した。
「忘れるなよ。至誠は天に通じるんだ」
まだ若いなと思いつつ、ゼルは若き二人のイヌを育てる楽しさに酔った。
ふと目を閉じて、まぶたの裏に妻琴莉の笑顔を描きながら。
――――愛してる
――――今でも
――――これからも
――――永久に
――――あなたと会えて良かった
琴莉の優しい声が耳に蘇る。
だけどその声がふとエイラの声にも聞こえて、そして五輪男は苦笑いした。
「家に帰るか…… 今の家に……
ふと独りごちて、そしてもう一度、天井を見上げるのだった。宴はまさにたけなわで、いずこへ逃げていたのか知らぬ街の住人たちは夜遅くまで飲み、歌い、そして踊った。恐怖におびえた筈の子供たちが浮かべた笑顔にゼルは癒された。そろそろお開きの空気となった頃、ふとゼルはカウリを見つけた。完全に出来上がった町長はカウリと肩を組んでワインの飲み比べをはじめていた。
妻、琴莉の暮らした街。このフィエンを大事にしようと、五輪男はそう思ったのだった。