未知の事件
「3」
「おーい! イワ!」
フェルに担がれて来てから早くも二週間。
気が付けば五輪男の名前はイワになっていた。
「もう出発?」
「そう。帰ってくるまでに陽が暮れると面倒」
もっぱらイワの面倒を見るのはマイラの仕事になっている。
小さな小さなこの村は人口僅か二百名足らず。
開拓村として入って来たらしいのだが……
「フェルは?」
「オカシラは風吹き沢の筋を登る」
「俺達は?」
「反対の滑り沢筋だ」
「わかった。じゃぁ行こうか」
村に到着してからの二週間はひたすら周辺の沢を捜索している。五輪男と同じ様にこの辺りへ落ちたヒトが居るかもしれないと言う事で探し回っているのだ。なんどかは遺体を収容したのだが、まだ生きてるヒトは一人たりとも見つける事が出来ていない。
また、屍肉蜂の繁殖が予想以上に早いので、遺体はそれなりに有ったらしいと言う事だけがわかっていた。ちなみに、屍肉蜂の幼虫は茹でるとチーズのような。焼くとエビのような食感で、概ね美味いと言う事だけは認めざるを得ない。その幼虫が何を食べて育ったのかを考えると、精神的にはかなりクルのだが。
フェルやマイラの暮らす村はシゥリトゥクと言う。五輪男の口には発音が難しいのでシレトコと呼んでいる。まるで北海道のようだと思ったが、そもそも日本に居た時ですら北方系の血が濃いと思っていた五輪男だけに、あまり気にはなってない。
「シレトコは良い所だな」
「だろ? なんせ私が生まれ育った所だからな」
胸を張って答えるマイラは、こんな時には実に可愛げのある女性だった。
ただ、屍肉蜂だけでなく大きな角を持った――ノギノと言う――シカや、ウサギにしか見えない獣――ククリゥ――を追い詰めて矢を放つときには、その表情には戦士としての殺気と集中力を見せる。そんなマイラを五輪男は何処か気になっていた。
肩掛けザックの中には焼いてからコウノハで包んだ屍肉蜂の幼虫が入っている。沢筋を登って行く先でのランチだ。弁当を使うならこれが良いとマイラが持たせてくれたのだけど、正直、こいつらが喰っていたのはヒトの死体な筈。
つまり、間接キスじゃなくて間接人肉食をしている事になると五輪男は気付いているのだが、もはやそれ自体をどうこう言うほど気にしなくなっていた。
――――慣れてきたな
そんな印象を自分に持っているのだが、もはやどうしようもない。戻る方法は知らないし、戻ったと言う話を聞いた事もない。だから諦めろとフェルに諭され、五輪男は酷く落ち込んだのだ。
ただ、落ち込んでグズグズと考える前に、シレトコは村として余りにおかしかった。
村内に子供と年寄りが居ない。畑や家畜が無い。安定水源と言うべき井戸も無い。家はすべて掘っ立て小屋に毛が生えた程度のボロ小屋だった。
村民構成は大多数が若い男で女はマイラを含めて十名少々。不自然に夫婦がいない上に家族構成も見えてこない。五輪男の持った印象は『前線基地』か『現場派出所』だ。これで地に足の付いた生活をしている村と言うのは、どう考えてもおかしかった。
だからこそ、自分の身の振り方と言うより処遇が気になる。明らかに何か目的のある集団だ。狩人と言うには獲物が少なすぎる。マタギのように冬に備えて得物を狩って歩くなら、何処かに保存食となる得物があるはずだった。
――――こいつら何者なんだ?
森を抜けた辺りで五輪男は空を見上げた。推定標高で五百か六百メートル程度の低い山だ。あの頂で泣いた事があるな……と、思い出す。今は違う。すべての沢筋を巡ってヒトの痕跡を探している。
この世界のあれこれを聞いた晩。立ち上がれない程の衝撃を受けた五輪男だったが、食料としての屍肉蜂の幼虫については『仕方がない』と受け入れていた。シレトコでは、まともな動物性タンパク質を取る方法が、これしかないと気が付いたからだ。
「このルンゼは登り難いな」
「るんぜ?」
「水の無い沢のことだ」
マイラたちシレトコのイヌが滑り沢と呼ぶ沢は典型的なルンゼだった。あちこちに崩落の痕跡が残り大小の岩がゴロゴロとしている。慎重に足場を確かめながら沢を登りつつ、五輪男はその瓦礫の下にヒトが埋まっていないかを確かめた。
「イワは山に登った事があるのか?」
「あぁ。山は遊び場だった」
「なんでだ?」
「そこに山が有るからさ」
「……へんなの」
趣味が山登りと言っても全く通用しないだろう。そんな確信が五輪男には有った。登山を趣味と捉えるか、それとも生活の場と捉えるか。その見解の差で言い争っても仕方が無い。あの日本の社会での全く利益にもならない登山活動を、身銭を切ってまで続けると言う行為は、この世界の住人にしてみればの馬鹿馬鹿しい一言なんだろう。
日々、食べる事に精一杯な社会なのだから、そこに山が有るから登ってみたなんて言うのは、全く理解できないことだと容易に想像が付くのだけど……
「だんだんガリーって来たな。リッジまで行ったら休憩しよう」
「イワの言ってる事がわからない。知らない言葉だ」
「尾根筋まで出たら休憩したいってことだよ」
「そうだな。それが良い」
それにしてもマイラの身のこなしは驚異的だと五輪男は唸る。同じ程度に荷物を持っているにも関わらず、男である五輪男を軽く追い越してマイラはすいすいと斜面を登っていった。
イヌの女はヒトの男よりもよほど筋力や体力があるのかもしれない。いやむしろ、車などに頼らず子供の頃から山で育ったのだから、基礎的な能力の次元が違う可能性がある。
どうでも良い事をツラツラと考えていた五輪男だが、気が付けばマイラと二人してルンゼを詰め切りリッジへ出ていた。強い風が吹きぬけて行く。ふと、五輪男の鼻が焼け付くような臭いを捉えた。ここ二週間ほどで何度か遭遇している強烈な臭いだ。
「近くにあるな」
「そうだな。これも多分死んでると思うが」
死体を完全にモノ扱いするマイラ。だけどそれも仕方が無い。生存環境の厳しい所では、どんな人間だって徹底的なリアリストになってしまうもんだ。例えそれが人で有ったとしても、死んでしまった以上はモノだ。それ以上でもそれ以下でも無い。
まずは生きている人間が生き延びられる事。これこそもっとも重要なテーマ・課題であり、その心配が無くなって初めて人は神の存在を真剣に考えるのだろう。
「神に祈るってさ、こんなに敬虔なことだったんだな」
「なんか言った?」
「ひとりごと」
そう。祈るしかないんだ。五輪男はその事実に愕然とした。
ああしたい。こうしたい。ああなりたい。こうなりたい。自分が得をしたい。そんな欲を神様に祈ったって。どんなに祈ったって、神様は聞いちゃくれない。
だけど。それでも人は神に祈る。毎日毎日、コツコツと筋力トレーニングするように祈る。今日も生かしてくれてありがとう。今日も食べさせてくれてありがとう。そんな感謝の言葉を添えて祈る。
そうやって、毎日毎日、来る日も来る日も、連日飽きる事無く祈り続けて。一心不乱に祈り続けてそれが日課になって、神を信じる事に自分自身で違和感を感じなくなるほどに自分の一部になって。そして初めて、神は自分のほうを向いてくれる。
深い谷を飛び越える時、あと僅かで飛びきれなくて、そして手を伸ばしたとき。あと一メートル。あと一〇センチ。あと五ミリ。ゆびが届くか届かないかのギリギリの差になった時。生きるか死ぬかの境目の、鋭利な刃の上に立ってどっちへ落ちるかわからないとき。そんな時にだけ、毎日祈り続けてきた者だけが助かる。
五輪男は経験的にそれを知っていた。過去、様々な山中で幾度も稜線から滑落して行く登山者を見た。雪崩に巻き込まれ助けを叫びながら雪に埋もれ消えていく者を見た。猛烈な吹雪に巻かれ、テントの中で朦朧としながら悪天候が収まるのを待つ間に死ぬものを見た。誰が助かって誰が死ぬのか。その境目はホンの僅かなものなんだと知っていた。
だからこそ五輪男は祈る。リッジに突き出たリップの先端に咲く名も無き花に。稜線を越えて行く雲が一瞬見せる神々しいまでの存在に。雲の隙間から零れ落ちる光りの柱に。人の手では作り出せない偶然が折り重なった先に見せる一瞬の存在に。自分を勘定に入れず、ただただ純粋に。
――――神様 どうか琴莉を生かしておいてください
自分の胸に手を当てて心の中で五輪男がそう呟いた時。遠くのほうでマイラが五輪男を呼んだ。
「あったよー! やっぱダメだ! これも女だな」
そのマイラの声に一瞬だけ視界が暗くなる錯覚を覚えた五輪男は、心の中にサンドバックを呼びだして精一杯に殴り倒した後、もう一度だけ『違う女だよ』と自分に言い聞かせて稜線を走った。
「どうだ?」
「いや。違う。妻じゃ無い」
「そうか。で、どうする?」
この女の死体をどうするか?
マイラはそう聞いてきた。
「ここでゆっくりと山の一部になってもらおう」
「そうだな。里まで下ろすには腐りすぎている」
鼻を突く死臭を放った女の死体は、半分位ミイラ化していた。ワシや鷹と言った猛禽類とかキツネのように屍肉を貪る獣も居ないらしい。五輪男は持っていたナイフで女の衣服を丁寧に切り裂く。何となく背徳感を覚えるのだけれど、これは必要な事なんだと自分に言い聞かせた。
僅かな間に衣服を全てはぎ取り、生まれたままの姿で干涸らびつつある女の身体を岩に横たえた。そのまわりに岩を積み最後に近くで咲いていた名も知らぬ花を手向けた。ごく僅かな間だったが、これでせめて人並みの最期を迎えた事になるのだろうと思った五輪男だ。
僅かな水で手を洗い、小さな墓標の風上に回って弁当を使う事にした。ここまで登ってきて腹が減っていたのもある。だが、一番の理由は時間つぶしであった。いつまで待ってもフェル達がやってこなかったのだ。
「遅いな」
「あぁ。オカシラが遅れるなんて滅多に無いんだが」
ほぼ無警戒でムシャムシャと屍肉蜂の幼虫を食べきった五輪男。その食感が何となく焼きエビに感じるのだから、慣れとは恐ろしい者だとつくづく自嘲した。革袋に入れた水を飲み、最後にもう一度手を洗ってから周囲を確認する。
おそらくこのルンゼからリッジを越えてピークへの道すがらに、五輪男と同じく落ちてしまったヒトは居ないだろう。仮に居たとしたら、もう少し痕跡が残っているはずだ。先ほど埋葬した女は、あの場所へ落下して足を折るか捻り、身動きが取れなくなって衰弱死した様に思えた。今回の探索も無駄骨だった。そんな徒労感を感じていた。
「イワ。何となく胸騒ぎがする。里へ下りよう」
「実は俺もさっきからそう思っていたんだ。フェル達に何かあったと思う」
マイラと五輪男は顔を見合わせた。こんな時に二人とも違和感を感じると言うことは何かがあると思って良い。どういう訳か山というのは人間の感性や感覚的な部分を強化してしまうことがある。
今この時、五輪男が感じている表現出来ない違和感。何となく虫の這いずる様な嫌悪感と言うのは、いわゆる第六感的な虫の知らせと言って良い。
「急ごう」
五輪男のつぶやきにマイラは黙って首肯し、黙々と沢を降り始めた。本来フェル達が登ってくるはずだった風吹き沢を辿り、黙々と高度を下げていく。途中、休憩も入れずに歩き続けられたのは奇跡だと五輪男自身も思った。だが、その途中で休憩時間が発生した。足を止めざるを得ない光景に出くわしたのだった。
「え?」
森林帯へ入って僅かな距離だった。遠くの樹からロープで何かがぶら下がっているのが見えた。ゆっくりと近づいていくと、フェルの相棒と言うべきペタだった。足首にロープを巻かれ、逆さまになって樹からぶら下げられている。
その身体は鋭利な刃物で切り刻まれたらしく、体中から出血した痕跡がある。だが、逆さづりにされたペタはそう簡単に死ねなかっただろう。逆さづりで斬られても頭に血が入る限りはそう簡単に死なないからだ。
つまり、殺した側はすぐには殺さず、なにか目的があってジワジワとなぶり殺しにした事に成る。すぐには死んで欲しくなかったのだろう……
「誰がこんな非道い事を!」
怒り狂った様なマイラはロープを矢で射貫いた。ドサリと音を立ててペタの身体が地面へと落ちた。完全に血が抜けきって冷え切った身体だった。その傷口は相当鋭利な刃物で切られたらしい。血溜まりとなっていたらしい地面はビチャリと嫌な音を立てた。水では無く血でしめった泥に五輪男の嫌悪感が限界を振り切った。
「……最低だ」
ペタの身体を引きずり草の上に横たえる。死後硬直の影響が殆ど無い事から死んだばかりと思って良い。その昔、乗鞍へ挑んだ五輪男が経験した、沢沿いに滑落する登山者を思い出す。その人間のなれの果ては死んでから数時間は、まだ身体が自由に動かせた。
「死んで間が無いな。と言うより殺されたんじゃないか?」
「間違いない。刃物で切られている」
マイラは無意識に矢を番えて辺りを警戒している。僅かな音も聞き逃すまいと、頭頂部付近についた耳がピンと立っていた。
「マイラ」
「どうしたイワ」
「他の仲間はどこに居ると思う?」
「え?」
「ペタはどうしてここで死んでるんだ?」
五輪男は無造作に辺りの藪を掻き分け、ペタ以外の死体があるかどうかを探し始めた。この数日、近隣でヒトの死体を見過ぎたと言うのもあるのだろうが、死体探しに違和感を覚えない自分を心の中で蔑む。成れたとは思いたくないが、それでもこれは余りにも無頓着でいい加減が過ぎる様に思えてならない。
しかし、それについて自己批判をするにはタイミングが早すぎることも解っている。まずは現状が安全かどうかを確かめねばならない。ペタの死が通りすがりの通り魔的な犠牲だとすれば、良くは無くとも現状余り問題ないと言って良い。遭遇しさえしなければ問題ないからだ。だがもし、これがシレトコの人間だと知った上での計画的な蛮行だとしたら、ここに居るどころかシレトコへ帰ることですらも危ない。
「イワ。お前はヒトの世界で何をしていたんだ?」
「俺か? うーん。なんて説明すれば良いかな」
警察官で刑事ってどう説明すれば良いのだろうか?と五輪男は考えた。少なくともシレトコに警察組織は無い。五輪男が知る限り、この世界のイヌ社会は原始時代の様な非常に原始的繋がりによる共同体的社会だ。犯罪捜査であるとかどうとか、そういう部分とは全く無縁なのが説明を難しくする。
「悪い奴が悪いことをした時に捕まえる仕事だ」
「悪い奴って?」
「こうやってペタを殺してしまったり、誰かのモノを盗んだりする奴だ」
「そうか。解りやすいな」
近隣の藪全てを確かめた五輪男は、他の死体どころか遺留品一つ見つけられなかった。つまり他のメンバーばここで殺されてはいない。ただ、余所で殺される可能性は高い。遠慮無くペタを殺したという…… いう…… い……
「あれ?」
五輪男はもう一度ペタの遺体を確かめる。刃物傷は頸動脈など重要血管の全てを外している。出血痕を見れば静的に失血してる様な気がする。つまり、殺されてから血抜きをされた様な状態だ。
死体から血抜きを行う理由で最初に思いついたのは腐敗防止。かつて五輪男が捜査した快楽殺人の犯人は遺体がゆっくり腐っていくのを見る為に、絞殺してから逆さづりにしてちを抜くという常軌を逸脱した犯行に及んでいた。と言う事は……
「ペタは目印にされた?」
「なんだって?」
「なぁマイラ。イヌって他人の死体を喰ったりする?」
「喰う訳無いだろ! 屍肉蜂ならともかく!」
「まぁ、そうだよな」
「イヌだけじゃ無くて、ネコだとかトラだって喰わないさ!」
「そうか。そうだよな」
――――え?
「今なんて言った」
「なにが?」
「ネコとかトラとかって」
「私たちイヌ以外にもネコとかトラとかって事だよ」
「じゃぁマイラとかペタみたいなイヌの他にネコやトラも居るの?」
「当たり前だよ! まぁ、私だって見たこと無いけど」
ポカンと口を開けた五輪男は前提条件が大きく崩れたのに気が付いた。
「あのさ。マイラ。知ってる範囲で教えて欲しいんだけど、イヌとネコって仲が良い?トラは?イヌ以外とイヌって基本的に仲が良い??信じ合える系?」
その質問にマイラは不思議そうに首を傾げた。
「イヌとそれ以外の国はずっと戦争してるよ。イヌが国を作ってからずーっと飽きずに戦争してる。ネコとかトラはイヌが国を作ってるのが怖いんだって」
「こわい?」
「そう。それまでは街とか村とか、そう言う風になってたんだけど、イヌがイヌだけの国を作ったら、他の連中が自分たちも従わされるんだって思ってるらしいよ。難しい話はフェルに聞くと良いよ。フェルは戦に行ったことがあるから」
心の中にすとんと何かが落ちた。ずっと疑問に思っていたことと言って良い。
なんでこんな場所に小さな村があるのか。なんで街道のネットワークに繋がってないのか。なんでこんな山奥に若い男ばかりの村があるのか。それが全部繋がった。
――――この村は戦闘拠点だ!
辺りを確かめ終わった五輪男は、ペタの遺体を埋葬する支度をしていたマイラの背中を見つめていた。並の女性にしては背筋が異様に発達している。定常的に弓を引いているのだろう。軍事的なトレーニングの一環として。
――――つまり、この娘は兵士だ
五輪男の目から人を信用すると言う基本的な部分がすっぽりと抜け落ちた。