驚くべき提案
~承前
キツネの帝は自らにカリオンとオクルカを案内して歩いた。
その背を見つめつつ、なんとも複雑な気持ちをカリオンは抱えていた。
――――この旧くある国家は盲目的に伝統を墨守する進化を忘れた存在
――――帝の権威のみを根幹に据えた変化を嫌うダメな社会
そんな評価がイヌの国ではまかり通っていたし、イヌだけではなくネコやそれ以外の種族国家でもキツネを評する時にはそんな言葉が使われていた。だが、今カリオンが目にしているのは、聞いていた評価とは正反対の世界だ。
九尾と呼ばれる存在は時間と空間を飛び越えて存在するらしく、帝の近くに侍る事など無い。だが、カリオン達の後ろにいたサンドラとイローラはまるで人形のようになっていた。
ふたりの手が届かない存在となったリリスだが、そのリリスは九尾を束ねる最強の存在、葛葉御前に手を引かれて歩いているのだ。
「そなたがここへ来るのを楽しみにしていた」
気心知れた百年の友のように葛葉御前は話しかけている。だが、それを聞くリリスは正体の抜けきった夢遊病のような足取りで付いていく状態だ。己の意思ではなく、誰かの意思で動かされているような状態。
外部からうかがい知ることが出来ないだけに、誰もそれに気がつかないのだ。そして、自分自身の身体を乗っ取られているような恐怖に駆られているリリスは、全く自由が効かない状態でパニックに陥ってた。
「大丈夫じゃ。なにもそなたを手込めにしようとか、或いは文字通りに飼い犬にしようなどと不埒なことを考えている訳ではない」
じゃぁなんだよ……とリリスは内心で叫んでいた。どれほどに意識を集中し魔力を練ろうとしても出来ない状態だ。自分の意思だけがそこにある状態で、それはある意味、擬似的な死を体験している状態だった。
「これよりここではこの世界の東半分を牛耳る三巨頭会談が行われる。これからの世界を決める大切な会談じゃ。イヌが義理堅くある限り、キツネは決してイヌを裏切らぬ。その誓いの証をそなたにしんぜよう」
それがなんであるかを知る事は出来ない。だが、極めつけに悪趣味なことが起きようとしているとリリスは予感した。そして、それは自分自身の今後に大きな意味を持つことだ……とも。
「さぁ、ここじゃ。新しいそなたが迎えに来たぞえ」
葛葉御前が足を止めたのは、禁裏の中央にある御所と呼ばれた建物だ。岩を積み上げこしらえたガルディブルク城と違い、その御所は見上げるようなサイズながらも木と紙で作ってあった。
そして、そんな御所の入口には幾人もの女達が緋袴の巫女装束で待っていた。木で作られた床の上に正座し、両手を床について平伏する姿。そんな中『どうぞこちらへ』と奥へ誘う帝は、入り口で靴を脱いで見せた。
「なるほど。キツネの国では靴を脱ぐと言うが、こういうことか」
カリオンとオクルカは揃って靴を脱ぎ、帝に続いた。カリオンもオクルカも決戦前夜の騎兵のように気合いの入った表情をしている。それを見てとったリリスは、どこか絶望的な気分になっていた。
――――私に気づいてない……
この時点でリリスは悟った。全て手遅れであると。ろくな対抗措置もとらずにキツネの中枢へ足を踏み入れた自分の浅はかさを呪うしかない。だが、逆に言えば覚悟が決まった状態でもあった。
もはや為るように為るしかない。事態を受け入れて、隷属する人形にでも身を落とすしかない。どこかでチャンスが来るだろうから、そこで対抗措置をとろう。そう決めれば、心に余裕も浮かぶのだった。
「では、こちらへお掛けください」
紫音の言葉でカリオンとオクルカは椅子へと腰を下ろした。本来ならば床に小さなカーペットを敷いて座るキツネの国なのだが、イヌとオオカミの王のために椅子と机が用意されていた。
そして、そのテーブルの上にはキツネの国において最大の歓迎を示すものが並べられていた。山海の珍味や陸上にて飼育される家畜の肉。珍しいキノコや上品な味わいの果実。そして菓子の類。
だが、イヌやオオカミの鼻に最大級の甘い香りを伝えているのは、その脇にあった白い液体だった。
「これは蘇と申しまして、牛の乳を醸して拵える飲み物にございます。キツネの国では特別な許しがない限り帝へ献上されるのみ飲み物にございますれば、遠路はるばるお越しいただいた王のお二方にふさわしいものにございます」
紫音の言葉が終わると同時、カリオンは迷わずにそのグラスへ手を伸ばした。そして自らに引き寄せ、中身を確かめた。深く濃く味わい深い事が匂いで解る。まるで子供のように笑ったカリオンだが、オクルカも同じだった。
「カリオン王。オクルカ王。改めて我が国への来訪を歓迎する。我らの誼が国家の誼となり、百代の後まで続くことを朕は望む。もし同じ事を祈られるようであらばどうか、この席にて――」
帝は専用の高級なガラス器を手にし、ふたりの前に差し出した。
「――朕の酌を受け、乾杯してもらいたい。この世界を平定しようとされるのでしょう。そこにキツネも参加させてくだされ」
帝の申し出は青天の霹靂だった。あまりの事に驚いたカリオンは、返す言葉もなかった。そしてそれはオクルカも同じだ。イヌとオオカミの世界征服にキツネが参加する。
あのバキバキに強いキツネの武士が参加するなら、これ以上に心強いことはないし、むしろ歓迎するべきことだった。ただ、そこに重要な条件が挟まれることをカリオンだってよく分かっている。
俗に神ですら謀るとまで言われるキツネが信用なるのか?と言う問題だ。一般的に言えば、最も気を許してならぬ種族はネコだと言われる。利に聡く目的の為とあらば手段を択ばぬ。
だが、そんなネコですらも手玉に取る様にペテンをかけるキツネは、騙された事すら気が付かせずにネコの商人を破滅させるという。そんな種族を相手に、バカが付くほど正直な誠実一本やりのイヌが騙されずにいられるとは到底思えない……
「……なるほど」
カリオンは遠慮なくそのグラスを差し出し、笑いながら言った。
「ならばこちらからもお願いする。このガルディアラが未来永劫にわたって安定するために協力して欲しい。そしていつか、上古の時代のようにこの大陸の全てで多くの種族や民族が共存できる時代となって欲しい。余は心魂よりそう願っている」
イヌが騙されない方法を、カリオンは延々と考え続けていた。このキョウの街へと続く道すがら、様々な角度から検討を重ねてきた。そして、様々な思考実験の果てに、一つの結論に達していた。
――――無理だ
……と。故ににカリオンは別の手立てを検討し始めた。そこに出てくるのは、自尊心と言う物だった。つまり、普段のキツネを思えばひとつの対策と傾向が見えてくる。つまりそれは、彼らのプライドだ。
基本、キツネはペテンに掛けることはあっても受け身でそれを行うことはまれだった。つまり、積極的に騙しに行くことは多いが、受け身となったときキツネは恐ろしいレベルで誠実だった。
イヌの社会がそうであるように、嘘とペテンと自己中を嫌う社会。相手を騙すにしたって、騙し騙されるなかで正々堂々とソレをやりあう妙な部分での義理堅さがあるのだ。
つまり、話は単純でこちらからお願いすれば良い。それもまっすぐな言葉で率直に……ということだ。その願いが純粋であればあるほど、キツネは不思議と相手を騙す事をしなくなる。
それこそ、平気で病人の布団を剥いでいくようなネコの商人とは根本レベルでマインドが異なるのだった。
「……そうですか」
帝は柔らかに微笑んで安堵の表情を浮かべた。それがなんの意味を持つのかをカリオンは理解しそびれた。ただ、カリオンとて人と人との間を歩んできたのだ。キツネの帝の内心を思えば、何となく解ることもある。
つまり、キツネの国も限界が近づきつつあるのだろう。様々な制度や風習に無理が出ているのかもしれない。だからこそ、異なる地への進出を志しているのかもしれない。
或いは、新たな発展の基礎として、何かしらのアクションを起こしたい部分があるのかもしれない。ル・ガルがそうであるように、新たな領地を与えようにも、もはや地べたが無いのかもしれない。
どこかでそう勝手に納得していたカリオン。そんな中、帝はオクルカにも確認を求めていた。そして、やはりオクルカもまた『こちらからお願いする』と、同じようなアクションを起こしていた。
――――さすがだ……
何とも言えない満足感を覚えていたカリオンの目の前で、キツネとオオカミの歴史的な和解が成立していた。ル・ガル帝国歴よりも遥かに古くから続くキツネとオオカミの闘争の歴史が終わろうとしていた。
「朕は……この為に生かされてきたのやも知れぬ…… 今まで六度の世に生を受け、その都度にオオカミとの闘争を繰り広げてきた。此度の、七度目の生ではオオカミのなかにイヌの国が出来ていた。その変化が……この誼を実現したのやもしれぬ」
まだ幼い姿の帝だが、その中身は自分よりも遥かに年上らしい…… それに気がついたカリオンは、背筋に冷たいものが流れる錯覚を得ていた。この帝が過去幾度も辛い思いをしたのであろうが、ここで遂に宿願を果たしたと言うことなのかもしれない……
「ならば、共に未来を」
カリオンがグラスを掲げると、オクルカも同じように『未来を』とグラスを翳した。そこに帝がグラスを掲げ『万世の栄華を我らの手に』と応えた。蘇と言うものがなにかは解らなかったが、遠慮なく口を付けたカリオン。
毒なら毒で致し方ない。そう覚悟をしていたのだが、その口中に流れ込んできたのはヨーグルトのような味の液体だった。『なるほど……これは美味い』と満足そうにカリオンは笑った。同じようにオクルカも笑っていた。
新しい時代がここから始まるのだ……と、カリオンは確信していた。




